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2 シップとふたの効能

 あんなに何もしたくない気分だったのに、不思議なもので、掃除を始めると、なんとなく気分が上向いてきた。汚れにスプレーを吹き付ける。浮いた汚れをふき取る。何も考えずに手を動かして、ピカピカになっていく壁に、もやもやが少しだけ、軽くなった気持ちになる。


 そのうち、固くて手ごわい汚れに行き当たった。


(はる)ねえ、これ、スプレーして拭きとっても取れないよ」


 どれどれ、とあたしの手元を覗き込んだ陽ねえはうなった。


「これは難物だね。シップ案件」


「シップ?」


「そう。そこのキッチンペーパーとラップ、とって」


 陽ねえはキッチンペーパーを少しとって畳むと、汚れの上に当てて、そこにあたしの使っていたスプレーをたっぷり吹き付けた。水分のせいで、キッチンペーパーは壁にぺったり貼りついた。


「その上から、ラップで蓋して。そう。貼ったらくっつくから」


 あたしにラップを貼らせると、陽ねえは満足げにうなずいた。


「これで十分くらい置いてごらん。その間に、他のところ進める。他にもこういう汚れが出てきたら、どんどんシップしていって」


 冷蔵庫の扉をきれいにするのに十五分くらいかかった。戻ってきて、そっとシップをはがすと、シップのほうに茶色い油じみができている。


「そのシップで、固かった汚れを拭いてごらん」


「うわ、すっごい落ちる!」


 あたしはびっくりして叫んだ。さっき拭いても拭いてもがんこに居座っていたのが嘘みたいに、汚れはするりとキッチンペーパーに移った。


「そうそう。焦っちゃダメなの。そっと蓋をして、しばらく待ったら、ふっと緩むんだよ」


 陽ねえが何気なく言った言葉に、鼻の奥がツンとした。


 陽ねえは何も知らない。あたしがなんで、楽しみにしていたはずの幼稚園仲良し会をお休みしたのか。聞こうともしない。だから、陽ねえの隣は居心地がいい。


 陽ねえもシンクの上の方や食器洗い機まわりの掃除がひと段落したらしい。


「シンクの中より先に、こっちをやりたいんだよね」


 ドライバーを持ってくると、あたしに、中にスプレーが入るといけないからやらなくていい、と言っていた換気扇の蓋を外した。


「そこ、外れるんだ」


「知らなかったでしょ。あ、換気扇掃除は勝手にやっちゃだめだよ。電源切っておかないと、大事故になるからね」


 陽ねえは換気扇の中の羽も手際よく外し、シンクの中に広げた大きなごみ袋の中に、外したパーツを入れていく。見ていると、コンロの上に乗っている、お鍋を載せる台みたいになっているところと、その下の受け皿も外して一緒に入れた。そこも外れるの、知らなかった。


 陽ねえはあたしの使っていた青いシールのスプレー、セスキ炭酸ソーダの水溶液を、ごみ袋の中にたっぷり吹き付けた。


 目を細めて、コンロの汚れを観察し、陽ねえは厳かに言った。


「これじゃ足りないな。重曹ペーストだ」


 ファイルボックスの中から、また別の白い粉が出てくる。陽ねえはそれを、プラごみで出すために洗いあげてあったヨーグルトのカップにスプーン二杯分くらい取り出すと、細く出した水道の水を加えた。


「歯磨き粉くらいの濃さにして、焦げや油汚れが強いところに乗せる」


 言いながら、ぽってりとした白いペーストを、換気扇の羽やコンロの台に落としていく。


「これも、しばらく放っておいて、他の事やろう。焦げ付いちゃってるのは時間がかかるから」


 まただ。何でか分からないけど、また、胸の奥がツンとする。喉が熱い。


 それから、陽ねえとあたしは二人で協力して、冷蔵庫の中身を、去年バーベキューに行くとき買った大きなクーラーボックスに詰め込んだ。ママはあまり買いだめをしないほうなので、出す作業はそんなに大変じゃなかった。


 冷蔵庫がすっかり空っぽになると、また、陽ねえは魔法みたいに冷蔵庫の棚板を全部外して見せた。今日三度目の、そこ、外れるんだ、だ。


「うん。敦子姉、冷蔵庫の整理は完璧なんだよな。これが私と違うところ」


「陽ねえの冷蔵庫は?」


「つい、入れすぎる。あるの忘れてて、ダメになっちゃったジャムとか、時々出てくる。慌てて入れたドレッシングがちょっとこぼれちゃってたり」


 あはは、と陽ねえは笑った。


「うーわー」


「そんなもんよ。トモは、敦子姉の冷蔵庫しか知らないもんね。みんな、得意不得意があるの。……うん、これなら、さっと拭くだけで大丈夫だな」


 陽ねえはにやりとした。


「敦子姉のいい洗剤、使っちゃおう。あれ、一度拭きでいいんだよね」


 もこもこした真っ白な泡が、透明の棚板に盛り上がっていくのを見て、あたしは、のどにつかえていた小骨がポロっと取れるみたいに、その一言を口にしていた。


「この泡にそっくりな犬、知ってる。……知ってた」


 陽ねえはあたしの顔を見た。軽く片眉を上げて、話のつづきを催促する。


「公園で会ったの。コットンっていう名前のトイプードル。羊みたいにもこもこで、真っ白なの。毎週、火曜日に来てた。病院に通ってて、その帰りだったんだって。優しい子で、毎回、あたしの手に、鼻をくっつけてくれたの」


「そうか」


 陽ねえは静かに言った。


 陽ねえは何かわかったんだ、と思った。わかっているけど、先回りしないで、あたしが言うのを待ってるんだ。


「鼻はひやっとして、湿って冷たくて、最初はびっくりしたの。でも、飼い主の後藤さんは、元気な犬の証拠だよって。熱があると、カサカサに乾いちゃうんだって言ってた」


 陽ねえは手を止めなかった。一枚一枚、棚板を丁寧に拭いている。何気ない様子だけど、耳はあたしにぴたっと向けて、あたしの話を聞き逃すまいとしているのをあたしは知っていた。


「先々週会ったときも、ひやっと、だったの。でも、先週、会えなかった。雨降ったでしょ。火曜日。きっと来てないだろうと思って、公園行かなかったの。そしたら、今週、公園に来たのは後藤さんだけだった」


「コットンはこなかったのか」


「うん。先週急に、具合が悪くなったんだって。雨の日、病院の後、いつも通り公園を通って、雨だから後藤さんもそのまま帰ろうとしたんだって。でも、帰らない! ってコットンががんばって、あずまやの下で、少し休憩したんだって。後藤さんが、今思えば、自分が死ぬのが分かってて、トモちゃんに会っておわかれがしたくて待ってたんだろうって言ってたの。その三日後、眠るみたいにして、亡くなったって」


 あたしの目から涙がすうっとこぼれた。


 この話は、誰にもしていない。公園で、後藤さんたちに会うのは、あたしだけのささやかな秘密だった。塾に行く途中、少し遠回りして通っていた公園なのだ。ママにはきっと、寄り道はダメでしょって怒られるし。


「あたしが行かなくて、コットンはがっかりしたかなって思ったら、もう二度と会えない、ごめんねも言えない、と思ったら、悲しくて仕方ない。こんな気持ちで、友達と楽しくおしゃべりする気になれなかったの」


「そうか」


 陽ねえはぽつんと言った。手は休めなかった。ごしごしと、もうとっくにきれいになっていそうな棚板を拭いている。


「取り返しがつかない失敗って、どうしたらいいのかな」


「後藤さん、トモが先週来なかったの、なんて言ってたの? 残念がってた? 怒ってた?」


「ううん。ありがとうってずっと言ってた。トモちゃんと仲良くなれて良かった、コットンはトモちゃんが大好きだったって。コットンの代わりに、後藤さんがわたしにお礼とコットンのお別れを言いに来たんだって。スマホに入ってるコットンの写真も、たくさん見せてくれた」


 だからあたしはよけいに悲しかったのだ。後藤さんが、どんなにコットンのことを好きだったか、コットンの最後の願いをかなえてあげたかったか、分かったから。なのに、あたしは、雨が降っているっていうだけで、公園には行かなかった。裏切ったような気分だった。


 あたしが泣きじゃくりながらそう言うと、陽ねえはうなずいた。


「あの時、公園を通っておけばよかった、って、トモは思うんだね」


「そうなの」


「そういうことって、あるよね。もう変えられないことだけど、もしあの時違うことをしていたら、って思うことあるよ。私も」


「陽ねえも?」


 思わず涙が引っ込んで、あたしは問い返した。


「そりゃあるさ」


「それで、取り返しがつかない失敗をしちゃった、って思ったことある?」


「ある、ある。何も、お別れは、あの世とこの世だけじゃないからね。この世にいても、もう二度と取り返せないって感じるお別れもあるよ」


「……そうなんだ」


 あたしにはそれがどんなお別れなのか、想像もできなかった。


「まあ、まだ、ちょっとお話しするには早いけどね」


「それは、あたしが子どもだから?」


 陽ねえはびっくりしたように目を見開いて、首を横に振った。


「取り返せない失敗に気がついて、他の誰でもない自分を責められる人間は、立派に一人前だよ。トモは自分の悩みを悩んでる。大きくなったなって、思ってるよ」


「じゃあ、お話しするには早いって、どういう意味?」


「私のほうの問題だよ。大失敗して、傷ついたら、まず最初はシップがいるんだ。蓋をして、じっくり時間を掛けて、それからようやく言葉になる。固まっちゃった焦げ付きがほどけて、緩んで、その時に自分から誰かと話せるようになるんだ」


「さっきのお掃除みたいに?」


「うん。私の大失敗は、まだシップ中。こういう時は、他のことをするのがいいんだよ。そこにあるのはわかっていて、それでもいったん蓋をして、他のことをしていたら、だんだん緩むんだ」


「ママが電話で、陽ねえに、バイトしたいって言ってたでしょって言ってた。陽ねえ、掃除がしたかったの? おこづかいが欲しかったんじゃなくて、考える以外の、何か手を動かしてやることが欲しかったの?」


 お掃除をしていたら、少しだけもやもやが晴れてくるような気がしたのは、あたしだけじゃなかったんだろうか。


 陽ねえは、棚板を拭き上げたぼろ布をごみ袋に放り込むと、手袋を外して、あたしの頭をわしわしとかき混ぜるように撫でた。


「トモは賢いね。よく見てるね」


 頭を撫でられるなんて、子ども扱いだって最近は怒ることが多かったけど、今の、陽ねえのわしわしは、全然嫌じゃなかった。


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