表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

1 行きたくない

本作品には、ペットロスの描写が含まれます。

今読めない、とお思いのコンディションの方はご無理をなさらないようにお願いいたします。

「だって、あんなに楽しみにしてたじゃない」


 困り果てたように言うママに、あたしはいつも掛けている赤いプラスチックの縁のメガネがずれそうなくらい激しく、首を横に振った。


「どうしても行きたくないの」


「当日にキャンセルじゃ、お店にも、予約してくれた紀雄(のりお)くんママにも迷惑かかるわ」


「だから、ママだけでも行ってって言ってるじゃん。あたしのことは心配しなくていいから。ママが他のママたちとおしゃべりするの楽しみにしてたのは知ってるし」


 他の人に迷惑がかかる。それを言われると、あたしのお腹の奥の方はきゅんと痛くなるような気がする。それでも、あたしは頑張った。


「テンション低いあたしが行っても、盛り下げるだけだし。病気じゃないから心配しないでって、ママが言っておいてよ」


「いっそ、風邪引いちゃって、とかの方がまだ心配しないと思うけど」


 ママは首をかしげたけれど、根負けしたように肩をすくめた。


 ソファの隅っこに膝を抱えてうずくまったままのあたしを置いて、キッチンの方にいくと、カウンターの向こうで何やら電話を掛けている。


 顔もあげないでそ知らぬふりをしながら、耳だけをうさぎのようにぴんとそちらに向けていると、会話の端っこが聞こえてくる。


「うん、そう。そうなんだけど、バイトしたいって言ってたじゃん」


「今日。そう。今から。……あー、いい。朝未(ともみ)がいるから、集合インタホン鳴らして」


「それは本人に聞いてよ。……コンロと、換気扇と、冷蔵庫。……うん。……マジか。足元見て。……ま、当日だし、いいよ。それで手を打つ」


 バイトだの、コンロだの、予想外の単語が飛び出してきて、あたしは首をひねった。てっきり、紀雄くんママに二人とも行けないって言うつもりなのかと思ったのだ。


 電話を切ると、ママはあたしの前まで来て言った。


「トモ、家に残るなら頼まれてよ。今日、キッチンの掃除バイト、陽世(はるよ)にやってもらうことにした。トモがいるなら、鍵の受け渡しの心配しなくていいからちょうどいいわ。インタホン、ちゃんと確認して、(はる)ねえだったら入れてあげて」


 ママはバッグを手に取った。


「ママはトモのお言葉に甘えて、ママ友とおしゃべりしてくるよ。あ、昼ごはんは陽ねえが買ってきてくれるから」


 じゃあね、とにっこり笑ってママは出ていった。


 あたしは何だか拍子抜けしたような気分で、しばらく閉まったドアをぽかんと見つめていた。


 ◇


「で、トモは行かなかったんだ、幼稚園のときのお友だち会だっけ?」


 お昼ごはんの助六寿司をあたしより一足早く食べ終えた陽ねえは、手首にはめていたゴムで、髪の毛をポニーテールにくくりながら言った。先月は全体がブルーグレーだったはずのセミロングは、今日は耳から下辺りの内側の部分だけ、ネオンピンクになっている。そのまま下ろしていると落ち着いた色合いなのに、くくるとブルーグレーのベースに差し色の明るいピンクが目立って、かわいい髪型だ。色白の陽ねえによく似合う。


 陽ねえはママの年の離れた妹だ。ママより十歳くらい若い、二十六歳。独身で、何駅か先のアパートで一人暮らしをしている。叔母だけどオバさんと呼ぶと怒るので、あたしはもっぱら陽ねえと呼んでいる。


「うん。年長さんの時に仲良かった子たちとそのママ」


 もう四年生だけど、年に二回くらい、ご飯を食べてママたちがおしゃべりをし、子どもたちが一緒に遊ぶ会を続けている。違う小学校に行った子もいるから、会えば楽しい。


「何で行かなかったの?」


 あたしは首を横に振った。


「そんな気分じゃなかったから」


「おお、一人前なこと言うじゃん」


 陽ねえは笑って、持ってきたバッグの中からくたびれたジャージの上下を出して着替え始めた。


「何でもいいや。いるなら、トモも手伝ってよ」


 あたしは口を尖らせた。


「えー、陽ねえのバイトでしょ? 何であたしが」


「これを断る手はないよ。すごく手際よく上手にキッチンを磨きあげるコツ、伝授してやろうって言ってんの。これをトモに教えちゃったら、敦子姉は私にバイト回してくれなくなっちゃうかもなあ」


 ちらり、と横目であたしの顔を見てくる。敦子はママの名前だ。


「敦子姉は、キッチン掃除苦手なんだよ。トモがやるからおこづかい弾んで、なんて、ここぞと言うときに使える手だよ」


「あたしは陽ねえと違って、おこづかいは計画的に使うタイプだから。足りなくなったりしないもん」


 あたしはつんとそっぽを向いて見せたけれど、やっぱり、特別なコツと言われると気になる。ママが苦手だと言われるとなおさら。


 ほんの少しだけ、陽ねえの方を見ながら言ってみた。


「陽ねえが、どうしてもって言うなら手伝ってあげないこともないけど」


「どうしても! 頼む! トモちゃんカッコいい!」


 調子よく拝んでくる陽ねえに、笑ってしまった。


「しょうがないなあ」


 いつでも明るい陽ねえのことが、あたしは結局大好きなのだ。


 ◇


 陽ねえは、シンクの下の収納スペースから、ファイルボックスを取り出した。そこからさらに、白い粉末が入った袋を二つと、スプレーボトルを二個、取り出して調理台に並べる。目印のように、違う色のシールが貼ってある。スプレーボトルの中に残っていた透明な水のようなものをシンクに空けながら陽ねえはぶつぶつ言った。


「敦子姉、結局自分では使ってないんじゃないの。全然減ってない。この前、使い方説明して置いて行ったのに」


「洗剤? ママがいつも使ってるのはこっちだよ」


 あたしはシンクの蛇口の横に出してある、グリーンのスプレーボトルを指さした。テレビショッピングで紹介されていて、ママがしばらく悩んでいたけれど一念発起して買ったものだ。


 『これ一本で、キッチン、リビング、トイレ、風呂場どこでも掃除できて、二度拭き不要!』 という(うた)い文句を連呼しながら、調子のいい実演販売員が手際よく汚れを落としてみせていた画面に、ママの目が釘付けになっていたのをあたしも覚えている。取っ手付きの小型のタンクみたいなのに濃い原液がとろっと入っていて、小分けにして薄めて使うのだ。これを買ってから、ママは家中に淡い緑の溶液が入ったスプレーボトルを置くようになった。


「あーこれね。いいやつ買ったって言ってたの、これか。まあ、敦子姉は自分でもガッチリ稼いでてお金かけられる立場だし、いいんだけど」


 陽ねえは緑のスプレーボトルを手にして、コンロの周りの油汚れに一吹きした。もこもこした泡が、ステンレス面に盛り上がる。もう片手に持っていたぼろ布でさっとぬぐうと、布にべっとり油汚れがついた。相変わらず、よく落ちる。


 そう思ったあたしとは裏腹に、陽ねえは肩をすくめてため息をついた。


「まあ、こんなもんでしょ。予想通り」


「どういうこと?」


「トモには教えてあげる。いや、敦子姉にも教えたんだけどさ。この、一瓶十円以下のスプレーの威力」


 陽ねえは、中を軽くゆすいだスプレーボトルに、袋に入っていた白い粉を計量スプーンですくって慎重に落とし込んだ。もう一方のボトルには、もう一つの袋に入っていた、こちらも白い粉を入れる。


 水を少し入れて、蓋をきっちり閉めたボトルの一つを、陽ねえはあたしに渡した。青いシールの方だ。


「しっかり振って、粉を溶かして。完全に溶けたら、ここの目印の線まで水を足す」


 そういって、自分ももう一本のボトルの中身を振って溶かし始める。陽ねえのボトルには赤いシールが貼ってある。


「できたよ」


 あたしがなみなみと水を足したボトルを陽ねえに見せると、陽ねえは受け取って、粉が完全に溶けているか、二、三度シンクの上でボトルをさかさまにして振って確認した。


「オッケ。これ、コンロの汚れに吹き付けてごらん」


 半信半疑で、あたしはスプレーボトルを構えた。よく見たらこれ、商店街の百円均一の店で売ってるボトルだ。泡になって出るタイプですらない。園芸用の、しゅっと水が出る普通のやつのはず。


 しゅっと吹き付けた瞬間、あたしは思わず叫んでしまった。


「何これ! すごい!」


 スプレーで吹き付けた溶液の圧力だけで、油汚れがぶわっと浮いて、横に流れていったのだ。茶色の水分が垂れそうになって、あたしは慌てて、調理台の上に陽ねえがどさっと積み上げていたぼろ布を一枚とって拭いた。


「陽ねえ、これ何?」


「セスキ炭酸ソーダ。油汚れにめっぽう強いんだ。そこの百円均一でも売ってるよ。この前、敦子姉に掃除バイト依頼されたとき、買ってきたんだ。うちでも使ってるけど便利だから」


「陽ねえが持ってる方は?」


「こっちは、また別」


 陽ねえは、同じように目印まで満タンに水を注いで薄めた赤いシールのボトルの水溶液を、シンクの壁にこびりついた、白っぽい水滴模様の汚れに吹き付けた。水を掛けてもびくともしない、固い汚れだ。


 一呼吸置いて、陽ねえは手品師か実演販売員みたいに、うやうやしくぼろ布をとって、自分がスプレーを吹きかけたところを拭って見せた。


「取れてる……」


 固いはずの汚れが、目に見えて薄くなっている。


「こっちはクエン酸。水回りの白い汚れに効く。使い分けたら、ほとんどの汚れは落ちるよ。拭き取ったら水拭きする必要はあるけど、敦子姉の洗剤でゆっくり汚れをこすっていくのと、時間的には大差ないはず」


 たしかに、陽ねえのスプレーの水と比べてしまうと、あんなによく落ちると思っていた緑色の洗剤の汚れ落ちは、なんだか頼りなく見えた。


「手が荒れるといけないから手袋しな。それで、トモは油汚れ担当ね。コンロまわりと、壁と、冷蔵庫の扉。踏み台使って、上の方から拭いてくんだよ。汚れ水は下に垂れるんだからね。よろしく」


 そういうと、陽ねえはシンクの周りの掃除を始めた。あたしも、使い捨てのポリ手袋をつけて、スプレーボトルを右手、ぼろ布を左手に構え、茶色の油汚れと格闘し始めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひだまり童話館参加作品
《開館6周年記念祭》

色々なジャンルの作品を書いています。
よろしかったら、他の作品もお手に取ってみてください!
ヘッダ
新着順 総合評価順 レビュー順 ブクマ順 異世界 現実 長編 短編
フッタ

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ