第八話 『考える』
「いいか、遥、幸太郎。二人に最初に教えることは『考える』ということだ」
記憶を辿ると、そう言って私たちの頭を撫でる祖父の顔が浮かぶ。祖父の膝の上に二人で座り、縁側から庭を眺めている。庭にある桜の木はほとんど花びらを散らしていて、今は緑の葉を繁らせている。家の塀は低くて、辺り一面の田んぼと、その奥にはいつも遊んでいる森が見えた。
幼かった私は顔を上げ「かんがえる?」と言葉を繰り返す。
「そうだ」
頷いて、優しそうに笑う。祖父は私と幸太郎を膝から下ろし、下駄を履いて庭に出た。祖父は若々しくて、背筋が伸びてしっかりとした足取りだった。
「いくら腕っぷしが強くとも、神や仏に愛され運が良くとも、自分の頭で考え、仮説を立て、時に実践し『どうするべきか』を常に考えなければならない。一度出した結論は常に疑い、絶えず改善していく。これは、生きる上でとても重要なことなんだ」
祖父は桜の木の幹を触る。私たちではなく、木に話しかけているようにも見えた。
「人間は、自分が正しいと思い込みたい生き物だ。たとえ充分に情報があったとしても、過去の経験に頼ろうとしてしまう。過去と同じ状況なんぞ、ありはしないのに」
私と幸太郎は顔を見合わせて、首を捻る。
「お姉ちゃんわかる?」
「わかんない」
「ああ、そうだな。まだ、二人には難しいよな」
祖父は困ったように微笑み、私たちを見る。私と幸太郎は足元にあるサンダルを履き、木の傍にいる祖父に駆け寄った。
「だっこ」
「だっこー」
あいあい、わかったと祖父は私たちを抱き上げる。視線が高くなり、少しだけ楽しくなる。
私は祖父の耳元で話しかける。
「ねーじぃちゃん」
「何だ、遥」
「かんがえるのはいいことなの?」
「ああ、とても良いことだ。二人がもう少し大きくなったら、またこの話をしよう」
「ふーん。じゃあさ、」
―――お父さんとお母さんは、何で死んじゃったの?
そう言うと、祖父は私の顔を見て目を丸くした。しばらくして、ゆっくりと瞼を閉じる。祖父は何も言わなかった。
―――死んだら会えるのかな。
幸太郎が呟くと、私たちを抱く腕の力が強くなった。祖父の両肩に、私と幸太郎の顔がそれぞれ乗る。
「そうだな。じいちゃんも考えるよ。遥と幸太郎と、一緒に」
祖父の声は本当に優しくて、少しだけ震えていた。
――――考えろ。
考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。
一瞬でも気を抜くと、パニックになりそうになる。視界を覆う化け物の山は、私の心臓を狂うほどに暴れさせる。嫌な汗が額を流れた。
ジリジリと、私たちとの距離をゆっくりと摘めている化け物たち。その数、およそ三百。獣にも、人間にも似たおぞましい眼球が、射抜くように自分を見ている。すぐに襲ってこないのは警戒なのか、それとも確実に獲物を仕留めるためなのか。
落ち着け、頭を働かせろ。
さっき倒した、白いガリガリのゴリラみたいな奴は、まだいい。あれは弱い。体力は、この世界に迷い混んで随分と消費してしまったが、まだ私は動ける。問題は数だ。多すぎる。それに敵はコイツらだけじゃない。あの、筋肉が異様に発達した、巨大な原始人みたいな魔物。あれは無理だ。あんなにも異常な獣の膂力に、人が勝てるわけがない。こちらを見ながら、木の幹や岩を掌で握り、容易くいくつも潰している。あんなのに掴まれたら終わりだ。あれとは戦闘を避け、逃げるしかない。
そして、どうにかこのピンチを切り抜けた後、ティオナと人質の女の子を助ける。その時は、エマヌエルとリニアの二人との戦闘は避けられないだろう。
それが、私たちにできるだろうか?
ここを無事に切り抜け、二人を助けられるだろうか?
……ダメだ。悪い想像しか浮かばない。
私は唾を飲み込む。確か、あのゴリラの魔物は女の肉を好むと言っていた。
…………。
「幸太郎。……私がこのゴリラと原始人を引き付けるから、その隙にここを抜けてティオナを助け」
「竹刀はどこだ」
「え?」
「もう一本持ってたろ、竹刀。姉ちゃんあれどこやった?」
幸太郎は早口で言う。私は自分が持っている竹刀で真横を指し「あそこら辺に投げた」と端的に答えた。だが、そこにも魔物たちは当たり前のように居座っている。
「よし」
「い、今それどころじゃ――」
と、私が言い終えた瞬間、幸太郎は茂みの方へと走り出した。
は!?
私は驚きすぎて声もでなかった。あの冷静な幸太郎が、そんな無謀な、突拍子のないことをするなんて、まるで思っていなかったからだ。
動き出した幸太郎に集中し、周囲の魔物は一斉に跳びかかる。私の前にいる魔物も、幸太郎と襲いかかる魔物に気を取られているようで『ウォッ!ウォッ!』と興奮するように雄叫びを上げた。
茂みの方へと進む幸太郎に、一匹また一匹と魔物が集まっていく。その中には原始人のような魔物も含まれていて、学ランの後ろ姿は魔物の山に埋もれてすぐに見えなくなった。
「こ、幸太郎!!」
私は弾かれるように幸太郎の元へと駆け出した。飛びかかっている魔物を竹刀で全力で叩く。魔物の山を削るように、竹刀をがむしゃらに振る。
怖くなった。もし、幸太郎が死んでしまっていたらと思うと、怖くて、まるで足の感覚が無くなったように感じて―――
「返事しろ!幸太郎!!」
「はいよ」
気の抜けた声と共に、魔物の山が弾け跳ぶ。右手に竹刀を左手には竹刀を入れる布袋を持った幸太郎がいた。
「ういっす」
「いや、何コンビニから帰って来たみたいな感じで普通に返事してんだ」
シリアスを返せ。
「やっとわかったんだよ。スッキリした。気分も軽い。そりゃ返事も軽くなる」
そう言って、竹刀を原始人の魔物の顔面に叩き込む。メキャッ、と音を立てて鼻筋を折り、魔物は痛みに悶えながら仰け反った。……あの魔物にも、一応攻撃は効くのか。
「いいか、姉ちゃん。結論から言うと、俺たちの体――いや、俺たちが元いた世界の物は全部硬くなってる」
「は?何言って――」
聞き返そうとしたが、『ガァァァァァー!!!』周囲の魔物が一斉に叫びだした。全員がこちらに向かってきて、戦闘が始まる引き金となった。
「こ、幸太郎、来るぞ!」
焦って身構える私と対照的に、幸太郎はどこかゆったりとした口調で言う。
「めんどくさいなー。……とりあえず、戦いながら話そう。大丈夫、死にはしない」
「っ、そんな器用なことできる余裕ないと思うんだけど!」
寄ってきた魔物を、近い奴から竹刀を打ち込んでいく。伸ばしてきた魔物の手を避け、跳ねるような蹴りを竹刀で反らし、何とか切り抜ける。
「こいつらとさっき初めて戦った時さ、手応えがなさすぎたんだよ」
「いやっ、確かにっ、弱かったけどさっ!」
「そーじゃなくて。姉ちゃん、一回素手で殴ってみてくれ」
くそ、いつにも増して幸太郎が何を考えているかわからない……。
半ばヤケクソ気味に、私は襲ってきたガリガリゴリラの魔物に裏拳を繰り出す。
手の甲は、魔物の顎の芯をとらえた。
……あれ?
……ん?
「何これ……」
手が全く痛くない。
「後ろからも来てるぞ」
殴った拳を呆然と見る私に、隙を突くかのように何体もの魔物が押し寄せる。私は確かめるように、攻撃を避けながら何度も拳を振るった。
けれど、痛くない。触れる感触はあれど、骨に響く痛みはない。
――――おかしい。
普通、殴った拳は痛むはずだ。強く殴れば殴るほど、同じ衝撃が自分へと返ってくる。中学生でも知っている『作用・反作用の法則』だ。衝撃を生むには、同じ分の衝撃を受けるだけの土台がいる。だからこそ、武術を学ぶには骨や皮膚を強靭に鍛える必要がある。
それが、全くない。
手応えが、まるでない。
風船を弾くような感触に似てる。
――そうか、私はずっと竹刀を使って戦っていたから、その違和感に気づけなかったんだ。
「なぁ、おかしいよな。だから、最初は俺たちの体に変化が起きたのかと思った」
幸太郎は、淡々とした口調で言いながら、魔物を確実に対処する。幸太郎の声は、魔物の雄叫びの中でも不思議と明瞭に聞こえた。
「このガリガリのゴリラの魔物さ、地面が陥没するほどの着地して現れたんだよ。つまり、それだけ上に跳ぶ脚力があるはずなんだよ」
そうだ。確かにティオナから魔術について教えてもらってる最中に、こいつらは空から落ちるように現れていた。砂ぼこりを上げ、慌てて距離をとったんだ。
「でも」と幸太郎は私を見る。
「姉ちゃんはこいつらからの蹴りを、竹刀で受け止めた」
それが、あり得ないことだということは、混乱している私でもすぐにわかった。
竹刀は脆い。剣道を経験したことがない人にはあまり知られていないが、竹刀はすぐに壊れる。試合中に竹刀が割れてしまうことなんて珍しくないし、折れることでさえ剣道では起き得ることだ。大抵は、月に一度は竹刀を買い換えるか、自分で竹を組み合わせなければならない。竹刀は消耗品だ。
だから、上空に跳躍するほどの脚力を持った魔物からの蹴りなんて、受け止められるはずがないんだ。
私は噛みつこうと牙を向いてきた原始人の魔物を、竹刀で受け止める。生暖かい獣の吐息が顔にかかる。驚いたことに、荒れ狂う獣の牙は、竹刀の硬さに耐えられずヒビが入り始めていた。
まじかよ。
私は魔物の腹に蹴りを入れ、追い払うように竹刀を振る。
気づけば、私と幸太郎を囲む魔物は、一定の距離を取り始めていた。魔物たちは、明らかな困惑している様子だった。容易く狩ることができる、格好の獲物だと思っていた人間から、脅威を感じ始めている。
私と幸太郎は背中を合わせた。
……言われてみれば、思い当たる違和感はあった。
「……一番最初に川で流された時、水中の岩にぶつかっても痣一つできなかったのも、そのせいなのかな」
「かもな。けど、まだ正確なことはわからない。強度が上がっているのか、物理的な干渉を受けなくなっているのか、どの程度なら耐えられるのか。無敵だと思わない方がいいだろうな」
後ろから聞こえる幸太郎の声は、息が少し上がっていた。私より体力のある幸太郎でも、疲れが見え始めている。スタミナそのものは変わってないようだ。時間を無駄に消費するわけにはいかない。魔物の数は相変わらず多い。私は呼吸を意識して、息を整える。
「なぁ、姉ちゃん。何でこんな風になったかわかるか?」
「よくある異世界でのチート……いや、違うな」
神様に能力もらうとか、急に魔法の力に目覚めるとか、ありがちな理由では、絶対にないはずだ。
なら、現状で導き出せる最も論理的な仮説は――?
私は少し考えて、幸太郎に言う。
「……ここが魔術がある世界であるみたいに、私たちの世界は『物理的な強度が高い』世界なんじゃないかな。私たちからしたら、普通に暮らしていたら気づかない当たり前だけど、別の世界からチートみたいに思われる、世界そのものの違いがあるんだと思う」
私たちには、多分魔術が使えない。ティオナが体内の魔力を消費して魔道具を使うと言っていたけれど、魔力なんて微塵も感じないし、秘めたる力に目覚めることなんてない。私たちからすると、魔術なんて夢物語の反則的な能力だが、ティオナたちにとっては、この世界の技術であり、日常にある当たり前なんだ。
だから逆に、私たちの当たり前が、この世界での異常になり得るのでないだろうか。それが、『物の強度が高い』という可能性は、充分にあると思う。
異世界チートなんて、そんな都合の良い存在なんて実際にあるはずがない。
自分たちの世界が、基準であるはずがないんだ。世界にはそれぞれ違いがあり、だからこそ私たちは異常な強度を持ち始めたんだ。
後ろから感心したような声で幸太郎が言う。
「つまり、俺たちが硬いんじゃなくて、『俺たちの世界からしたら、この世界の物は異常に弱い』ってことか。おお、納得のいく考察だ、さすが姉ちゃん」
いや、最初に気づいたのはお前だろ。こんな状況で冷静に分析して、それに気づくなんて、弟ながら尊敬するよ。双子で本当に良かった。
本当に、良かった。
私はため息をついた。
「……まったく、異世界転移ってのはチート能力で無双するもんじゃないのかよ。何だよ体がめっちゃ頑丈になるって、地味だなおい」
「チートってよりかバグって感じだな。異世界バグだ。現実はそんなに甘くないんだよ。諦めろ姉ちゃん。結局は、自力で何とかするしかない」
「……ですよねー」
交わす言葉は、心なしか軽く感じた。気持ちに僅かな余裕ができている。
けど、緊迫した状況は変わらない。一刻も早くティオナたちを助けなければならない。
私は少しだけ目を閉じ、これからどうするべきかを考えた。
「――じゃあ、幸太郎。あのクソ野郎とティオナを追うことを優先だ。攻撃は基本的に無視して、邪魔なやつだけを撃退。スピード重視で行くぞ。大丈夫か?」
後ろを向き、幸太郎と肩を並べる。私はエマヌエルが進んだ道を竹刀を向けた。
幸太郎は首を回しながら答える。
「おうよ。姉ちゃんがヤクザの事務所に殴り込みした時に比べれば、全然余裕だ。あの時はさすがにもうダメかと思った」
「そんなことした覚えないわ。あれはヤクザの若頭の事務所。チンピラみたいなものだよ。一緒にしないで」
「変わらねぇよ」
軽口を交えて、私たちは走り出す。脳裏に、ティオナをいたぶるエマヌエルの顔が横切った。
「――あのクソ野郎をぶっ倒すぞ、幸太郎」