白昼の陰り
はるか遠くから、犬の吠え声が聞こえる。
私のにおいを早くも嗅ぎつけたらしい。
懐中時計を開いて見ると、短針と長針はほとんど重なり合っていた。
時刻は早くも正午に近づいている。
「風が気持ちいいわね」
「そうですね」
私達は跡見家付近から電車とバスを乗り継いで少し遠くへと移動し、昔ながらの日本家屋が立ち並ぶ通りを闊歩していた。
目の前を歩く御滝は、時々振り返って私の方をちらりと見ている。
「無理してついてこなくてもいいのよ。あなたに本家の妖気はキツいでしょう」
「ご心配なく。私は私の意志で、貴女について行っているだけですから」
「そう」
どうやら私がついてきているかを確認しているらしい。
これもまた、主なりの親切心なのだろうか。
真偽はどうあれ、そう思いたい自分がいる。
両脇に立ち並ぶ家々が徐々に減ってきた頃、人気のない左の小道へ曲がる。
そうして灰色の石畳の上を歩いていき、ひらけた場所に出るとーー
目の前には、真っ黒で立派な造りの日本家屋が待ち構えている。
広い庭には四季折々の木々が植えられており、大変美しい。
玄関には、流木で作られた巨大な表札が備え付けてある。
視界の右側でワンワンとわめき散らす黒柴を気にしつつ、石門のところでぴたりと立ち止まる。
「申し訳ありません。ここまでです」
背中に這う尖った悪寒を感じて、私は無表情で言った。
「そうね。ここで待っていてちょうだいね」
御滝は一言残し、石門を抜けて玄関の引き戸を開けて入って行った。
至近距離で吠える黒柴の声が頭の中にこだまする。
嗚呼、耳がおかしくなりそうだ。
ぎろりと冷たい目を向けて、低い声で呟く。
「煩いぞ。ヒトに飼われた獣めが」
犬は一声高く吠えたのを最後に、そのまま静かになった。
ぎしりと軋む廊下を通り、迷路のような実家をずんずん進んでいく。
廊下には赤い襖や緑の襖、紫の襖など、さまざまな色の部屋が密集している。
一人の妖怪退治師として認められるまで、この家で何年も暮らしてはいたが、きっと未だに入室したことのない部屋も数多くあるのだろう。
三分ほど歩いただろうか。
紺色の襖の前で立ち止まり、膝をついて静かに開ける。
「失礼します。"狐"の御滝、ただ今戻りました」
頭を下げて挨拶をすると、年季の入った声が返ってきた。
「お帰り。こちらに入っておいで」
「はい。失礼します」
立ち上がり、襖を閉めて座敷に足を踏み入れる。
八畳ほどの広さの座敷。
その奥で、座布団を敷いて座している着物姿の老いた女性が、右手にキセルを持ち、ニコニコと笑っている。
温和な表情を浮かべたその顔には、深いしわが刻み込まれている。
「久しぶりねえ。狐ちゃん、息災だったかえ?」
「はい。鯰様も、お元気なようで何よりです」
「まだまだあの世に行けるほどの徳を積んではおらんよ」
「なんとお戯れを。"鯰"の御滝といえば、本家でも指折りの実力者ではありませんか。」
「ふふ、相変わらずお世辞が上手いのう。
……さて、前置きはこのくらいにして。今日ここに来たのは、何か欲しい情報があったからやろう?」
「はい。実は、今請け負っている依頼に、他の妖怪退治師が絡んでいる可能性がありまして」
「ほう?それはそれは」
"鯰"が身を乗り出す。
「いいねえ、若いというのは。色々と楽しそうなことに巡り会えるねえ」
「そんな、鯰様に比べれば、私なんてまだまだです」
「なに、謙遜せんでもええよ。ーーそれで、その心当たりを探りに来たってわけだね」
「はい。お力をお貸し願えませんでしょうか」
"鯰"は煙管の吸い口を口につけ、スパリと一服した。
「ええよ。でもその代わり、期鞠堂のようかん、またお土産で買ってきておくれねえ」
「勿論です。調べてほしい近辺の住所はこちらになります」
老婆はメモを受け取り、ニコニコと笑いながらキセルの先端で畳を軽く三度叩いた。
こっ、こっ、こっ。
『出でませ、水辺の住人。我の鯰よ』
ぷくぷくと音がしたかと思うと、キセルで叩いた部分が金色に光った。
黄色の鯰のヒゲが二本、にゅるん、と飛び出す。
『お呼びか』
「ここ最近、このメモの住所の辺りでおかしな動きをした妖怪退治屋や死霊使いなんかがいないかを、調べてみておくれね」
『御意に』
泡立ち、鯰のヒゲが見えなくなると、何事もなかったのように畳が元どおりになった。
再び、スパリ、と一服。
「探す範囲が広いから、少し時間がかかるようだね」
「どのくらいでしょう」
「そうさね。半日といったところかな」
「十分でございます。さすがは響水鯰。この力を使いこなせる者はきっと、あなた様以外いないでしょうね」
「この子はもとは大陸の妖怪の縁者だからね。奇遇にも私の中に大陸の血が流れていたから、波長が合っただけさ。
……ところでーー」
"鯰"の目つきが変わる。
「"あの男"は、その後どうしているね?」
御滝ーーいや、"狐"の御滝は、普段の声音となんら変わりない声で答えた。
「元気ですよ」
「そうかい」
「ただし、この家には嫌われているので、なかなか入ることは難しいようです」
「それはそうだろうねえ……」
そう言って唇を「オ」の形に開き、輪の形をした煙を吐き出した。
いびつな形をした円が、淡く空中に消え失せる。
「なんて言ったって、千年の歴史をもつ妖怪退治師・御滝家の、"至宝"の命を奪った張本人だからねえ」
「………」
セーラー服の少女は、黙って俯いただけだった。
「あんな類まれな才能の持ち主は、もう数百年と現れないだろうからね。そりゃあお館様も怒って当然さね……」
ーーこの世界には、魔力・妖力・霊力という三つの力が存在している。
魔力は超常現象を生み出す魔法を。
妖力は冥界にも通じる妖術を。
そして霊力は、自然界のあらゆるものを構築する核になっている。
これらの力が世界を生かす原動力を生み出しているとさえ言われているが、いまだに謎も多い。
御滝家は、数多くの妖怪退治のエキスパートを輩出してきた名家だ。
千年の歴史をもつとされており、古くは陰陽師と呼ばれていた時代もあったいう。
御滝の家に生まれた者は、そのほとんどが妖怪退治の素質ーーすなわち、妖力を有している。
同じく妖力をもつ妖怪を従え、古来より人々の役に立つことを矜持としてきたのだ。
当然、魔力や妖力、霊力にも個性は存在し、力の宿る人や物によってその性質は様々である。
そして、「御滝家の至宝」と呼ばれたその人物はーー
"命"を蘇らせることができる力を有していたのだ。
「完全に復活させてしまうわけだからね。一時的に使役するネクロマンサーや死霊使いとは、力の格が違うのよねえ…」
「……そうですね」
「お前は…あいつを兄のように慕っていただろう。それでいいのかい」
少女は真っ直ぐな目をして老婆を見つめた。しかしその瞳には、どことなく哀しげな色がたたずんでいる。
「私のことなら、どうかご心配なく。そしてあの妖怪のことも。逢威はこれからも、私が責任をもって監視いたしますから」
部屋に灰色の煙が充満し始める。
"狐"の御滝は、深々と頭を下げた。
「ーーでは申し訳ありませんが、依頼の期限まであまり時間もございませんので、そろそろ失礼致します」
「そうかい。結果はまた式神でも飛ばして伝えるよ」
「ありがとうございます」
落ち着いた動作で襖を閉めて去っていった少女を見て、"鯰"はぽつりと呟いた。
「…すまんね。悪いことをしたね」
✳︎
元来た道を二人で歩きながら、私は空を仰ぎ見た。
空はまだ薄い青のままだ。日の暮れまではしばらく時間があるだろう。
隣を歩く主が、本家から出てきて以降ずっと黙ったままだ。
本家で何を話したのかはわからない。
有益な情報は得られたのだろうか。
「御滝。これからどうなさいますか」
物思いに沈んでいた黒い瞳が私を見上げる。
「ねえ、逢威。これからしばらく、跡見家の周りを張っていてもらってもいいかしら」
「それは構いませんが、貴女はどうするのですか」
「私はちょっと調べてみたいことがあるから、別行動するわ。何かあったら闇狐たちを飛ばすから」
「承知しました。ではまた後ほど」
きっと何か考えがあるのだろう。
私は口の端をわずかに上げて応じた。