明けの明星
「お母さん、みてー」
車線の数も車の通りも少なく、最寄りのバス停からも徒歩八分ほどという微妙な距離。
跡見の相談を受けた翌日の朝早く、都市部の中でも比較的閑静な住宅街に、私と御滝は足を運んだ。
十一月の冷たい風が御滝の黒髪をすうっとかき分け、落ち葉を巻き込んで去っていく。
「ねえ、お母さん、みて、あの人たち。髪が真っ白なお兄さんと、真っ黒なお姉さんがいるよー」
「こら、人を指差しちゃダメよ!」
空の具合は、薄暗い紺色から、まばゆい金色へとほとんど様変わりしている。
いかにも秋冬の早朝らしいちくちくとした寒さが、私達の身体にまとわりついた。
「ほらほらおいで。風邪ひいちゃうよ」
先程からこちらをキラキラとした目で見ている年端もいかない少年の右手を、三十代後半と見える母親らしき女性がぎゅっと掴み、いそいそと去っていくのが見える。
きっと近所に住む親子に違いない。
私達の、いや……、特に私の外見が物珍しいのだろう。
子どもの好奇心というのは、実に素直で微笑ましいものだ。
「跡見晴樹の家はここです」
灯の切れかけた街灯が立つブロック塀の角を右折し、すぐ右手にある家を指した。
「特に変なところはないわね。ありふれた一軒家、という感じかしら」
御滝は赤い屋根瓦でコーティングされた二階建ての一軒家をまじまじと見つめて言った。
壁はクリーム色のペンキで塗られている。
「ちなみに、向かってさらに右隣にあるのが、昨日同行していた若田沙耶の家になります」
跡見家の隣にある、同じく二階建ての一軒家を指し示す。
こちらは茶色の屋根をしており、壁は薄いグレー。
小さな庭には梅の木が植えられている。
「外観を見ただけではよくわからないわね。ちょっと調べさせてもらおうかしら。逢威、お願い」
「承知しました」
私はスーツの内ポケットから、和紙でできた数枚の小さな札と筆ペンを取り出した。
「命はなんと?」
「"妖怪の痕跡がないか調べろ" と」
キャップを外し、さっさっと文字を書き連ねていく。
「これでよろしいですか?」
「ええ。ありがとう」
札を御滝に渡すと、彼女は目を閉じ、左手の人差し指と中指の間に札を挟んで静かに唱えた。
『我、汝らに命を授けるものなり
汝らの命を、我の授ける使命のもとに費やされ、果てゆくものと定めん
御滝の名に於いて、今こそ浮世に顕れよ』
札を地面に置いたその瞬間、瞬く間に赤い火が点き、静かに燃え上がる。
ゆらゆらと炎がひとりでに燃え、そして消え失せるとーーそこには、小さな黒い狐達がちょこんと佇んでいた。
額には白い斑点が一つあり、皆一様に緑色の目をしている。
御滝はかがんで、黒い狐たちの額を触りながら囁いた。
「こんにちは、みんな。早速なんだけど、この家の周辺に、何か妖怪の痕跡が残っていないか調べてほしいの。お願いできる?」
御滝がにっこり微笑むと、狐たちはキュウと鳴き、方々に走り去っていった。
「相変わらず、式神にはお優しいのですね」
「式神は私の力となってくれる使い魔だもの。式神なしに、私の稼業は成り立たないわ」
「そのお優しい御心、私には向けてくださらないのですか?」
微笑んで御滝の顔を見るが、主人はただ前を向いているだけで、こちらと視線を合わせようとはしない。
「あなたは別でしょう」
「なんと悲しいことを仰います。私だって貴女に使役されている妖怪の一人なのですよ。主人からの愛情は、必要だと思うのですが」
御滝はゆっくりと私に顔を向けると、無表情のまま口だけを動かした。
「あなたに向ける愛情なんて無いわ。あなたは私にとって、あくまでも仕事上のパートナーでしかないの。そこについては、契約するときに確認したわよね?」
長い長い黒髪が、風にいじられてざわめいている。
御滝の瞳は深い夜のように暗く、本当に美しい。
これほど美しいものは他には存在しないのではないかと、つい錯覚してしまうほどに。
この黒い瞳が自分に向けられた時こそ、私にとってはかけがえのない瞬間なのだ。
ーーたとえそこに、どのような恨みや怒りが込められていようとも。
「浮世には契約内容を変更して、再び主従の誓いを結び直す妖怪と妖怪退治師もいますからね。私はまだ諦めてはいないのですよ。御滝」
「あなたも本当に学習しないのね」
主人はため息をつくと、式神たちの集まっている方へ足を運んだ。
✳︎
式神の群れのうちの一匹がキュウと鳴き、地面の上を飛び跳ねている。
ちょうど跡見家のポストの真下にあたる部分だ。
「何か見つけたの?」
御滝はしゃがむと、式神の跳ねるところを凝視した。
そこには、赤いインクで円を書いたような跡が、うっすらと残っていた。
円の中には、行書体で何文字かの漢字が書いてある。
消えかけており、すぐには解析できない。
「…これは……」
「式神の召喚陣ですね」
私も歩み寄り、消えかかった陣を見つめた。
「きっと犯人も式神を使ったのね…。さしずめ、使い魔に手紙を届けさせていた、というところかしら?」
御滝はスマートフォンの内蔵カメラで数枚写真を撮ると、すっくと立ち上がった。
「間違い無いわね。妖怪が絡んでる」
「ええ」
「ただ、どういう関わり方をしているかはまだわからない」
主人の瞳が向けられる。
「ねえ。あなた達の同類の中で、式神を使役できる妖怪って、どのくらいいるのかしら?」
私は笑みを浮かべて答えた。
「そうですね。私達の種族以外となると、少し限られてきます。五十嵐の化け狸の一族、雲ノ端の妖魚の一族、揚極の烏天狗一族…。まあ、他にもいないことはないですが、主なものは大方このあたりでしょう」
記憶を遡りながら答える。
「あるいは……別の妖怪退治師が力を貸しているか、よね」
御滝は再び前を向くと、コクンとうなずいて呟くように言った。
「しかし、妖怪退治師は人に害をなす式神の使い方はできないはずではありませんか?」
「そうなのよね。そこが引っかかっているんだけど……」
しばらく悩んだあと、主は一つの提案をした。
「一度、本家に戻って当たってみようかしら」
「それは名案ですね。それではさっそく、使いを遣りましょう」
私が再び内ポケットに手を入れようとすると、御滝の白い手が伸びてきて、それを制止した。
「いいわ。私が電話で連絡をとるから」
ーーあなたは本家に嫌われているもの。という、主なりの心配りなのかも知れない。