朝の目覚め
朝の白い光が、すぐ近くの公園に植えられた金木犀の葉を眩しく照らしている。
都心部のとある一角に立つ黒い高層マンションを見上げて、私は二回瞬きをした。
今日は仕事があるのだが、さて、"あの人"は起きているだろうか。
大理石のタイルが敷き詰められたエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。
十二階のフロアボタンを押すと、扉が閉まり、機械仕掛けの稼働音と共に箱が動き出した。
行き着いた先のフロアの廊下をゆっくり歩く。
はやる気持ちを抑え、一歩ずつ確実に。
大理石と自分の靴が触れ合って擦れる冷たい音が心地よい。
たどり着いた1208室のドアのインターフォンを一度鳴らすが、何の反応もなかった。
続いてもう一度試してみるが、依然として真っ黒なドアは沈黙を決め込んでいる。
胸ポケットから鍵を取り出して解錠し、静かにドアを開けた。
入って正面に向かった先、玄関には大きな鏡がある。
その鏡に映る自らの姿を一瞥すると、土足のまま廊下に上がった。
途中にある部屋には寄らず、まっすぐ進んでリビングに向かい、そのまま奥に行くとキッチンにたどり着く。
私は冷蔵庫を開けて卵やベーコンなどの食材を取り出すと、フライパンをコンロに起き、ダイヤルを回して火をつけた。
油を引いた鉄板の上にベーコンを二枚敷き、その上に卵を割って落としこむ。ジュワッと油の弾ける音が美しい。
火の通りを待っている間に、オーブントースターの中に食パンを入れ、こちらもダイヤルを回す。
レタスやミニトマトを洗ってサラダの支度まで完了したところで、ベーコンエッグを白い皿に移し、こんがり焼けた食パンをオーブントースターから出した。
リビングを出て廊下を歩き、入口までの道すがらの途中にある部屋のドアを軽くノックする。
玄関と同じく、こちらのドアも口を聞いてはくれない。
私は諦めて、静かにドアノブを回した。
中には、来客を真正面から出迎える形で、大きな黒檀のデスクと、さらにその奥に何百という本のひしめき合う巨大な本棚が設置されていた。
そして書類や書物が山積みになっているデスクの脇の、黒い革のソファの真横からは、横たえた二本の足が覗いている。
ーーさて、高く高く積み上げられた書類の山というのは、なかなか厄介な代物らしい。
それら一枚ずつなら大したことのない厚みも、積もり積もれば莫大な情報量になる。
たとえその中に読みたい資料があったとしても、それを探してピンポイントで抜き出すにはなかなかの労力を要する。
まして、その山を下から順番に見上げていく過程で、ついその瞬間まで忘れ去っていた面白い記事など見つけようものなら大変だ。
当初の目的だった書類の存在は頭からするりと出て行き、新たに興味が注がれた記事を読むのに夢中になる。
そうして全てを読み終えた後で気がついた時には、もう遅い。
すでに日がぽっくりと傾いていたという経験は、きっと、読書を愛する者ならば数えきれないほどあるのだろう。
そうして後から必ず後悔するのに、忙しさにかまけて紙を積み重ねてしまう悪い癖も、途中で作業を中断して紙面を読みふける性格も、直すとなると一筋縄ではいかないものだ。
そして今まさに、私の目前で数枚の古新聞に顔を埋もれさせて寝転がる少女も、そういった今までの反省を全く活かせない人間の一人らしい。
顔は新聞に覆われており、どんな表情をしているかはわからない。
赤い絨毯の上にさらさらと流れる長い髪は、まるで零した墨汁のように真っ黒だ。
窓から差し込んだ朝日の明るい白が髪を照らし出しており、余計に黒を浮き立たせている。
「御滝。食事の時間です」
書斎の中に私の声が響く。
反応した少女はのそりと起き上がると、こちらに視線を寄越した。
黒く染めた魚の小骨を密集させたようなまつ毛、そして奥に覗く黒い瞳には、ごくわずかに緑色の色素も混ざっているように見える。
「イントネーションが違うわ。"ミタキ"の"ミ"ではなく、"タ"の方に力を入れて発音するのよ。逢威」
そう小声で呟くと、少女は静かに首を振った。
「失礼しました。御滝」
「いいえ、変な茶々入れだったかしらね。メニューは?」
「ベーコンエッグとサラダ、それにトーストです」
「ありがとう」
ゆっくりとした動作で古新聞やメモを床に落としながら立ち上がる。
少女の全身を色で例えるならば、闇のような黒といったところだろう。
真っ黒なセーラー服と、長く整った真っ黒なストレートヘアーという出で立ち。
御滝は軽く伸びをし、書斎を出てリビングに足を向けた。
向かった部屋の高い天井には小さなシャンデリアが飾られているが、この時間帯には灯されていないため、部屋の光源のほとんどは朝日に頼っている。
壁には複数の絵が飾られているが、抽象画らしく、何を描いたものかはいまいちわからない。
リビングの壁は、それらの絵にぐるりと囲まれている。
しかしこの部屋には、特にそれ以外の調度品は見当たらない。
家主の趣味の表れだろう。
御滝は部屋の窓際にある小さなダイニングテーブルに腰かけると、静かに両の手のひらを開いて合わせた。
合掌。
目の前のワンプレートには出来立ての食事が乗せられている。
半熟の黄身は今にもトロンと溶け出しそうなほど、目に見えて柔らかだ。
フォークを口に運びながら、どこを見るともなく御滝が呟く。
「昨日の昼食はカボチャのパンケーキだったし、夕食はグラタンだったね。あなた、西洋の生まれなの?」
「まさか。私の好みではありません。ただ、貴女のお口に合うものを模索しようと思い、色々と勉強しているのです」
淹れたてのコーヒーをカップに注いで置き、御滝を見やる。
「そもそも私の出自については、貴女自身がよくご存知でしょう」
「それはもちろんね。でも、わたしだって、あなたの全てを知っているわけではないもの。あなたの心に隠していることがあれば、そこまではわからないわ」
「何を仰いますか。逢威という名前だって、貴女が付けてくださったのではありませんか。名付け親である貴女に、隠していることなんてありませんよ」
そう言って目の端を少し下げ、口角を上げて御滝の顔を見る。
御滝は俯いてコーヒーを飲んでおり、私と目は合わなかった。
「それはそうと、今日は十六時から依頼のご相談が入っています。」
御滝が目だけこちらに向け、軽く頷く。
「そうだったわね。依頼の内容はどっちだったかしら」
私は再びにこりと笑った。
「妖怪討伐の方ですよ。御滝」