未明の空
どういうことだ。
家から出た直後、俺は自分の目に届いた視覚情報を、にわかには信じられなかった。
いや、今だって信じられない。
だって、この大きな般若に抱えられている、だらりとしな垂れた身体ーー
そいつが間違いなく、あの沙耶だったからだ。
気を失って力なくうなだれるその姿は、とても悪の親玉のようには見えない。
一体何が?
どうして沙耶が?
だって、あの二人の話じゃあーー
般若と睨み合っている二人に目を向ける。
先ほどからこの辺り一帯に横たわる、びりびりとした長い沈黙。
思わず唾をコクリと飲み込む。喉が痺れてしまいそうだ。
なんでもいい。沙耶を、沙耶を助けなきゃ。
そう思うのに、動きたいのに、沙耶を助けたいと思えば思うほど、足が地面に刺さっているかのように重く感じる。動いてくれない。
わかってる。
不気味な般若の面、白装束、そいつの持つギラギラとした日本刀。それら全てに圧倒されてしまってるんだ。
動けよ。
動けよ!俺!
なんで、動かないんだよーー!
右の拳の中が汗で滲み、じりじりした気持ちが高まったその時。
「…なるほど。そういうことなのね」
最初に沈黙を破ったのは、御滝だった。
✳︎
黙したままの般若を見据え、間合いを図る。
「逢威」
御滝の合図と共に、左の小指にはめた指輪から力を解き放つ。
「行け、二闇!」
『御意』
大きな黒い狐の姿になった二闇が、般若に飛びかかる。
すかさず般若はすり足で後ろに移動し、若田沙耶を小脇に抱えたまま、片手で刀を振り下ろしてきた。
二闇が瞬時に左に避けて躱す。
そこに、般若の横の一閃が入る。
二闇が後ろ足で地面を蹴り上げ、飛んで躱し、すばやく後ろに回り込む。
口をがばりと開き、大きな牙を剥いた。
狙うは、若田沙耶を抱える般若の腕ーー。
『ぐあっ!』
だが、それは叶わなかった。
般若の後ろから振り下ろされた何かが、二闇を直撃したのだ。
弾かれた二闇の身体が地面に叩き飛ぶ。
「二闇!」
「戻れ!」
御滝の声が聞こえたのと同時に、指輪に眷属を呼び戻す。
般若の方に視線を遣ると、そこには般若に並び立つ、棍棒を持つ巨体の姿があった。
顔には、人の良さそうな笑みを浮かべた翁の面をつけている。
二体目の刺客ーー!
「三闇!四闇!」
すかさず、右の耳についているイヤーカフから二体の眷属を呼び覚ます。
『いくぜ!』
『オオォッ!』
二体の黒い狐がさらに分裂し、四方八方から般若と翁に襲いかかる。
般若が振り回す刀と、翁が無造作に繰り出す棍棒をうまく避けながら撹乱していく。
二体の武器が空を切ったところで、三闇と四闇が足元に体当たりし、相手の体勢を崩す。
『とった!』
すぐさま三闇が飛び、般若の腕に襲いかかる。
しかしーーそこにあったはずの腕を通り抜け、攻撃はまたもや不発に終わった。
『何?!』
若田沙耶を抱えたまま、般若と翁の姿がみるみるうちに透けていく。
『待て!!』
四闇が吠えるも、二体の鬼は応じることなく、その姿を完全に消してしまった。
夜の風が、その場の残り香すらも攫うかのように、ひゅるりと通り過ぎていく。
「奴らの気配が完全に消えました。手紙の陣の痕跡も……」
「ーーまさか、もう一つの刺客を用意していたとはね」
御滝がため息を吐く。
「二闇は?」
「大事ありませんーー、!」
「あああぁあっ!!」
バシッ!
後方から主に向かって突き出された拳を、右の掌で受け止める。
歯を食いしばって震える拳を突き出したまま、跡見晴樹が叫んだ。
「どういうことだよ!!あんた達…っ、沙耶がさらわれちまったじゃねえかっ!!」
「申し訳ありません。ですが、まずは落ち着いてください」
「これが、これがっ、落ち着けるかよ!!何が『沙耶が関係している』だ!!あいつのあの様子見たか?!明らかに違うじゃんかよ!!」
「跡見様。まずは話をーー」
「あんたと、このインチキ女のせいで……ぐっ?!」
「失礼。今、何と仰いましたか?」
手に込めた力を、そのまま緩めずに問う。
「この……っ!手を、はな…っ」
「ありがとう逢威。でももう大丈夫よ」
両者の手に軽く被せるようにして、御滝が手をそっと添える。
私が手を離すと、跡見晴樹は拳を解き、力なくその場にうずくまった。
「跡見様、申し訳ありません。色々と動揺させてしまいましたね」
「……」
「ですがご安心ください。若田沙耶さんは、必ず私たちが救い出します」
さっと踵を返すと、主が札を取り出し、式神を召喚した。
「どう?うまくできた?」
『はい。先のご命令通り、戦闘中に般若に印をつけておきました。いつでも辿れます』
「ありがとう。行けるわね、逢威?」
「はい、勿論」
「待てよ!!」
歩き出した私達を、跡見晴樹が呼び止めた。
「俺も……、俺も連れていってくれよ!!」
振り返ると、跡見晴樹が私の腕を掴んできた。その腕は小刻みに震えている。
にわかに甘い梅の香りがする。
季節はまだ、春のほんの入り口に過ぎない。
肌を刺すような冷たい寒さが、時間をかけてこの男の身体を蝕んでいるのは間違いない。
だが、彼の身体を侵食しているものは、きっと寒さだけではないだろう。
この男の、恐怖に染まった目。
まるで、縋り付くかのような目ーー。
ああ、この男はきっと、恐ろしいに違いない。
般若も、翁も、不気味な手紙も。
幼馴染を失うことも。
恐ろしいが、そこに一人で止まることはもっと恐ろしいーー。
そんな悲痛な叫びが、直に聴こえてくるようだ。
だが、妖怪に対抗する力を持たない彼は、間違いなく足手まといになる。
「申し訳ありませんが……」
「頼むよ、なんでもするから!」
「それはできません」
御滝が跡見晴樹に歩み寄る。
夜の闇がほぐれ始め、かすかに空が白んできた。
「あなたは妖怪に対抗する術を持たない、一般人です。ここまで事態が急変した以上、相手は何をしてくるかわかりません。まして、あなたは相手に命を狙われていました。連れて行くことはできません。」
「そんな……、でも俺、沙耶を助け…」
「その気持ちは素敵です。ですが、助けたい、という気持ちだけでは駄目なのです」
御滝が、諭すような声音で続ける。
「気持ちがあれば何でもできると、そう言う人もいるでしょう。確かに、人の力の原動力は"心"です。
ですが、妖怪を倒そうとするならば、その"心"を形に変えうる"力"が必要なのです。
わかりますね?」
「……」
「ーー若田沙耶さんを助けたいという、あなたのその気持ちが、私たちの"力"にもなります。
どうか……もう一度、私達を信じて下さいませんか」
腕を掴む手の力が弱まり、すうっと離れていく。
御滝は微笑むと、すぐに、再び踵を返した。
「逢威」
「はい。五闇」
黒い影を足に纏い、主を抱えて走り出した。
いくつもの家屋を越え、人通りのない道を行き、式神の付けた印の気配を辿って駆ける。
走りながら、ちら、と御滝を見遣る。
先ほどまでの彼女とはまるで別人のように、腕の中の主は黙したままだ。
だがその瞳の奥で、静かな闘いの炎が揺らめいているのがわかる。
跡見晴樹が若田沙耶を思う気持ちは、私が御滝を思う気持ちと同じ類のものなのだろうか。
それとも、異なるものなのだろうか。
そんなことを考えながら、明るくなる空に向かって、ひたすら駆け続けた。