箱の中の反射
午後ーー待ちに待った放課後になった。
終礼のチャイムと共に通学カバンをひっ掴み、急いで教室から駆け出す。デジタル式の腕時計を見ると、すでに15時半になっていた。
待ち合わせの喫茶店まで、急いでちょうど三十分ほど。今ならぎりぎり間に合うくらいだ。
下駄箱で上靴からスニーカーに履き替えていると、後ろから名前を呼ばれた。
「晴樹」
見なくても声でわかる。沙耶だ。
しゃがみ、解けかけた靴紐をモタモタと結び直しながら応える。
「なんだよ、沙耶」
「あのさ。今日…この後って暇?」
「あー。えーっと今日はだめだ、予定がある」
「そっか」
やっと結べた。よいせ、と振り返ってみる。
……なんか目の前の沙耶の様子が、いつもと違うような。そんな感じがするのは気のせいだろうか?
「どうしたの?」
「いや、ちょっと、愚痴?相談…?したいことがあったんだけどさ。また時間あるときでいいから」
「ふーんそうか。またお面のこと?」
沙耶の制作活動の進捗が芳しくないときは、相談という名のもとに、しばしば愚痴を聞かされるのだ。
今回の展示に向けて作っているというお面のことで、またスランプにでもなったのだろうか。
沙耶は図星だったのかどうなのか、曖昧な笑いを返してきた。
「そんな感じかな〜。また頼むわあ」
「おう。そんじゃあな」
くるりと向き直り、その場から駆け出す。
見上げると、夕方に差し掛かった空は、まだ青色のままだった。
ーー後ろで沙耶が何か呟いたかと思ったが、きっと俺の気のせいだろう。
ダッシュでバスに乗り、行き先のバス停に着くや否や大急ぎでバスから降り、そして大急ぎで自転車をこぐ。
やべ、あと数分!
息を切らして俺が喫茶店のドアを開けたのと、喫茶店のフクロウの掛け時計のチャイムが鳴いたのは、ほぼ同時だった。
店内をサッと見渡し、あの二人組が前に会った時と同じテーブルに座っているのを、すぐに発見できた。(だってあの二人、かなり目立つから。)
「こ、こんにちはぁ」
「こんにちは。先日お会いした際には"一週間後"と申しましたのに、早くにお時間をとっていただいてすみません」
御滝が立ち上がり、深々と礼をしてきた。それに逢威も続いた。
「いやいや、そんな!そんなことないです。こちらこそ、調査ありがとうございます。
あ、俺、クリームソーダで」
店員に注文し、向かい側の椅子に腰掛ける。
御滝がテーブルの下から、スッと黒革のバインダーを取り出す。
「それでは早速ですが、本題に移らせていただきます。
この数日、調査を進めていくなかで、どうしても跡見様のお耳に入れておきたい事実がわかってきました。」
「は、はい」
「驚くかも知れませんが、どうか取り乱さずに聞いていただけると幸いです」
不吉な前置きに、思わず唾を飲み込む。
え、なに、そんなにヤバ気なのこれ。
…とにかく聞いてみるだけ聞いてみよう。
俺が頷いたのを確認すると、御滝が"調査結果の報告"を始めた。
✳︎
気の毒だなと、純粋にそう感じた。
この男の動揺、恐怖、焦燥、それらすべてが透けて見えるようだ。
それはそうだろう。およそ普通の人間ならば、妖怪沙汰なんてものはまず信じたくはない。そんなものはせいぜい物語かお伽話の中でのみ楽しむべきものだ。ましてそれに幼馴染が関わっているなど、ますます信じ難いはずだ。
氷が溶けて薄まったソーダを吸う跡見晴樹の顔が、メロンよろしくどんどんと青ざめていく。
「え、え、え?妖怪?まじで、まじでいるんですか?そういう系のやつって」
「います。そして、今回の件には、何らかの形で若田さんも関わっています。集まった証拠の数々からみて、それはもうまず間違いありません。」
「う、嘘だ!こんなのっ」
「嘘をつくつもりなら、この件にわざわざこれだけ時間を割いていませんよ」
それそれ、やはり結局はこうなるのだ。参ったものだ。主はそれでも説得を試みており、健気にも穏やかな表情を崩すまいとしている。ああ、このお方のこういう姿、なんと愛おしいことよ。
愛おしいので、少々私も力添えをすることにした。
「インチキだっ!これで僕からきっとお金を巻き上げようとしてるんだろ!先輩に何か言われたのかよ!?」
「先輩…?いや、そもそもインチキなどではーー」
「そうですよ。この世に妖怪は存在します。なにせ、この私も妖怪ですからね」
「ヘェッ?」
「!逢威っ」
御滝が声を張ってたしなめてくるが、わざとらしくツンとそっぽを向いてみせる。
「こら!逢威!」
「御滝。今更隠すこともないでしょう。遅かれ早かれ、般若を退治するときには、私の力をお見せすることになるのですから」
「だからって、何も今こんなタイミングで……!」
「はあ?逢威さんが妖怪?何言ってるんですか」
「申し遅れました、跡見様。実は私、とある妖怪一族の大将をしている身なのですよ。」
「妖怪一族?大将?」
「逢威!!」
「御滝、ここは私にお任せください」
「いや、任せるって一体何を……!」
「一闇。お客様にご挨拶を」
『御意』
「うわっ何?!声?!どこから?!」
『こちらです、お客人』
声が私の右手中指にはめた指輪から返ってきていることに気づき、跡見晴樹が身をかがめる。
「ええ?何ですか?すごいな、おもちゃか何かですか?」
『この私を玩具と申されますか。お客人』
「え、ああ、違う?んですか?」
『私は、逢威様を大将とする闇狐一族が一員、一闇と申します』
「イチアン?ヤミギツネ?」
「こら!一闇までそんなっ」
「…といった具合です、跡見様。私達のお話、少しばかりは信じていただけたでしょうか?
もしもまだ信じられないということであれば、また別のものを……」
「うーんと……もう大丈夫です、なんかもう、本物っぽいんで」
「ありがとうございます。信じていただけたようで嬉しいです」
「いや、だってーー」
跡見晴樹が主の方をちらりと見遣る。
「もし本物じゃなかったら、御滝さん、きっとここまで取り乱してないでしょ?」
おお、この男、思っていたよりも頭の回転がいい。私はにっこりと微笑んだ。
隣に座る御滝の顔がぽぽぽっと赤く染まったのを、しかと横目で見ながら。
✳︎
「それでは、改めて私の方からお話しさせていただきますね」
こほん、と主が一つ咳払いをする。
「先程の話の通り、この男は妖怪です。私の、まあ……部下のようなものだと思ってください。」
「ええっと……、その例の般若野郎も妖怪なんですよね?そいつを逢威さんが倒してくれるってことですか?」
「ええ、そうですね」
「あの……、一つ聞いてもいいですか?」
「なんでしょうか?」
「その、さっきの説明の中で、教えてくれましたよね。般若の面を被った妖怪が、俺の命を狙ってるって。その、妖怪は、無条件に人間を襲うとか、そういうことはないんですか?」
「いいえ。仰る通り、妖怪の習性としては、そういうことは多々あります。ただ今回の場合は、執念深く呪詛を送り続けているのですから、標的はまず間違いなく貴方だと思いますが」
きっぱりと言い切ってみせると、跡見晴樹が少し首を傾げた。
「じゃあ例えば、その……えっと」
「『私が貴方たち人間を襲う心配はないのか?』……と?」
気まずそうに頷く男に対し、ゆっくりと首を振る。
「あり得ませんね。少なくとも、今の私に限っては」
「どういうことですか?」
御滝をちらりと見る。渋々といった様子ながらも頷いたのを確認し、再び口を開いた。
「それは、私がこのお方と主従関係を結んでいるからです」
「主従……関係?」
「はい。私たち妖怪は、お互いの利害関係が一致すれば、人間と契約を結びます。契約を結んでいる間は、その妖怪は主の命令を聞かなければなりません。
そして私は主から、『主が許可した場合を除き、人間を攻撃するな』と命令されています。この枷がある限り、私が独断で人間を攻撃することはできません。」
「な、なるほど……」
跡見晴樹が呟く。
「それで逢威さんは、人間の味方をしているわけですね」
「…そうですね」
ーー味方。味方か。
確かに、この世界のことを何も知らぬ人間からすれば、そうも取れるのだろう。だが、実際のところはそんな生温いものではない。
妖怪の世界は、上下関係がとても厳しい。配下や手下を従えている上位の妖怪が人間と契約した場合、その配下達もまた、その術者を主とし、仕え、従うという掟がある。
一族の長たる私が御滝と契約したことで、私の手下の妖怪達もまた、御滝を主として迎えることになった。それによって手下たちにかけた迷惑の大きさは計り知れない。中には私が人間の軍門に下ったのだと見なし、ひどく落胆する者もいた。
それでも私が決めたことならと、溜飲を下げ、全ての者が従ってくれたが。
「確認ですが、あなたは、若田さんが般若の面を作っているのを見たことは?」
御滝が跡見晴樹に質問していく。
「あります。完成品を見たことが…」
「それはいつですか?」
「確か、一年くらい前だったかな。沙耶が、作品展に出す新作が出来たって言って、俺に般若の面を見せてきたんです。素人目だけど、結構いい出来でした。たぶん」
「できればその時のことを、もう少し詳しく教えてください。若田さんの様子や、その面を見たときのあなたの反応など」
「えっと……、沙耶が学校の美術室で得意げに見せてきて…。確か、初めて納得のいく出来のものができた、って言ってました。で、俺は般若の面なんて間近で見たのは初めてだったんで、『怖っ!』って言って笑ったんだったかな…」
「なるほど。それで若田さんの恨みを買ったとか、そういう可能性は?」
「まさか!…そりゃ、そのときは『ひどーい!』とか言ってましたけど……でも、あいつも笑ってましたし、その後も何もその件については…」
主が腕組みをする。
「しかし、可能性としてはあり得ますね。若田さんがそれによって傷ついたのであれば……」
「……そんな」
跡見晴樹が俯き、両手でぎゅっとズボンの布地を掴む。
「言葉というのは、言われた者にしかその重みのわからないものです。何にせよ……この件に若田さんが関わっているのは間違いないこと。そして少なからず、過去に跡見様が般若の面と接点があったこともわかりました」
フクロウの掛け時計が鳴く。五時だ。
「今日は大安なので、手紙の配達はなかった……。相手があなたのところに再び来るとすれば、早くて今日と明日の境目です。今はまだ、私たちにも推理を断定できるだけの情報は揃っていない。今日の夜、あなたの家の前で一応張らせていただきます。ただ、相手を刺激して暴走させてもいけないので、先程の打ち合わせ通り、五十通目が届くまでは大きくは動きません。」
「…わかりました。よろしく、お願いします」
跡見晴樹が私たちを見る。その目は、何かを決めたような目だった。
彼の眼差しを受け止めた後、御滝が椅子から立ち上がった。スカートのプリーツを整え終わると、薄っすらと微笑んで再び依頼人を見る。
まるで、跡見晴樹を安心させるかのように。
「今日の張り込みは無駄足になるかも知れませんが、何か新しく有益な情報が得られないとも限りませんから。
この件がどんな真相に辿り着いたとしても、依頼を受けた以上、私達は、あなたを守ります。」