朝日昇る前夜
自室のベッドの上で体育座りをし、両足を抱える。
おいしい夕食を食べて、温かいお風呂にも入ったのに、まだ震えが止まってくれない。…さっき夜食まで食べたのに。
ーーなんなのよ、あれ…。
思い出しただけで頭が痛くなる。背筋が凍り付きそうだ。
お化け?妖怪?物の怪?
いや…そんなの何だっていい。
問題は、そう。あの刀。
別に武器に詳しいわけじゃないけど、間違いなくあれは刃物、日本刀でしょ。
私を殺しにきたの?
なんで?
なんであたし?
軽く目眩までしてきた。
心当たりなんかないし、何であたしがあんな怖い目に会わなきゃいけないのよ?
……もしかして。
「晴樹の家に届く変な手紙のことと…何か関係あったりすんのかな?」
沙耶は大きな溜息をつくと、スマホの画面を開いた。
✳︎
やや大きめな呼吸音が聞こえる。主が溜息をついたのだ。
手元の資料から視線を動かし、御滝を見る。ソファに深く身を沈め、頬杖をついていた。
私は今までに、彼女が書斎のソファに背筋を伸ばして座っているのを見たことがない。
ただし、客人の前にいるときを除いては、だが。
「…本当に、思った通りだったのね」
「はい。三闇の解析により、あの場に残された妖気の残痕は、若田沙耶の作る面から感知できる妖気と一致しました。」
御滝が足を組み、右手で口元を覆う。
「これで明日、依頼人に話す内容は確定しましたね」
「そうね。ただ、この話を跡見晴樹が信じてくれるかどうか……。うまく話さないと、こちらが嘘つきだと思われかねないわね」
私は食後のミルクティーを注ぎながら、にっこりと微笑んだ。
「はい。ですが『信じたくないものは信じない』というのも、人間のもつある種の正当な防衛反応ですよ」
「依頼人によっては、私の話を信じることができずに逆上する人もいるしね。まあ……気持ちはわかるけれど」
再び御滝が溜息をつく。
「…貴女はこの仕事をするたびに、いつも似たような気持ちを味わっていらっしゃいますね。いつまでこの仕事を続けるおつもりなのですか?」
「あなたが更生するまでずっとよ」
御滝が呟いたのとぴったり同時に、頭の中で式神の声がこだました。
『逢威様。零時を過ぎましたが、跡見宅には手紙はきていません』
「ご苦労。こちらに戻ってこい、一闇」
『御意』
「御滝。今日は手紙の配達はなかったようです」
「そう……今日は大安だから、やっぱり避けてるのね」
「五十日まであと三日。この三日で、相手は力を完全に仕上げるつもりなのでしょうか」
「ええ。理論としてはお百度詣りと似たようなものね。呪詛の念を込めた手紙を出し続けることで、相手を殺す力を溜めているんでしょう。」
「其奴の力が満ちる前に仕留めるのが一番よいと思いますが、それは不可能でしょうか」
「そうね……。以前一度会っていることだし、こちらを警戒しているでしょうから、難しいでしょうね。
仕留めるなら相手の油断した瞬間。つまり、手紙を届け終わった直後ーー満ちた呪いの力を使う直前が好機ね。」
そうして彼女の目が、ふっと、窓の外に広がる街のネオンを捉えた。
瞳の中心が、一瞬きらりと光ったような気がする。
「逢威」
「はい」
「今回の件に何らかの形で若田沙耶が関わっている。それは、間違いない」
先程確認したことを、敢えてもう一度繰り返している。
何か引っかかることがあるのだろう。
「はい。そうですね。あの般若の面ーー跡見晴樹の周囲の人物の中で、面を作っているのは彼女だけですからね」
「ええ。あなたと共に跡見晴樹の周辺人物を洗ったところ、該当するのは彼女しかいなかった。
面を作ることを生業にしていた若田沙耶の親族……という線もあったけれど、ここ数年で面を製作しているのは彼女ただ一人。
あなたが遭遇した般若の面の真新しさから考えて、製作者は彼女の可能性が極めて高い…」
御滝はネオンから視線を背けると、壁際の本棚を見つめた。
「でも私には、あの若田沙耶の様子がどうも引っかかるの」
「様子?」
「ええ。跡見晴樹に危害を加えてやろう、と考えているようには見えなかった。寧ろ喫茶店で話した時なんて、幼馴染を身体を張ってでも守ろうとしているそぶりも伺えたわ」
「はい」
「あれも、跡見晴樹を信じ込ませるための演技だったのかしら?」
「……」
「それにもう一つ。
あの現場に残っていた妖力の二つの残痕……。あれらが、若田沙耶の作る他の面と同じ波長だったのは間違いないわ。
でも、三つの妖気のうち、その二つを除くもう一つの妖気の元については、まだわかっていない…。
なんだかそこに、この件の突破口がある気がするのよ」
主は口元を両手で覆ったまま、ぽつりぽつりと話し続ける。
まるで紡いでいる言葉が間違いであるかのように、自らの考えを慎重に吐き出している。御滝がこういう姿を見せるのは稀だ。ーー私の前では、彼女は常に強くあろうとしているから。
どういう言葉をかけたらよいものかと思案に暮れていると、御滝がふっと自嘲的な笑みをこぼして立ち上がった。
「なんて、あなたに問いかけてもわかるはずはないわよね。あなたは妖怪だもの。
……人間の、誰かを想う気持ちなんて、理解できないでしょうね」
「……」
「ごめんなさい、私はもう眠る。妖怪の捕食に出かけて来なさい、逢威」
「はい」
寝室に消える御滝を見送り、頭を下げて礼をする。
扉の閉まる音を聞いてから、ゆっくりと顔を上げ、見えぬ姿をじっと見つめる。
誰かを想う気持ち、か。
貴女に向けるこの気持ちは、人間のそれとは異なるものなのだろうか。
或いは同じものなのだろうか。
どちらにしろ私にはわからない。
しかし。
自身が貴女にひどく疎まれているということ。
そしてなぜ、これほどまでに疎まれているのかということ。
それらについては、私にも痛いほどわかっているつもりだ。
「おやすみなさい、御滝」
するする、と身体の形を変え、どろりとした影になる。
フローリングの床をゆっくりと滑り、私は玄関に向かった。