ゆらぐ星々
「うーーっ、さーぶいっ」
月が薄まり、星の消えた早朝。
透明感のある朝日が、辺りを柔らかく照らしている。
どこからか、元気で可愛らしい鳥のさえずりも聞こえてきた。
沙耶は体をぶるっと震わせ、思わず肩をいからせる。
いやはや、動物とはこの冷える早朝からすごいものだ。
…私なんて、かじかんだ手を擦り合わせながら震えるだけだというのに。
この時期のバス待ち時間というものは、理不尽な気温の変化に耐え忍ばなければならない、まさに苦行の時間だ。
寒さのせいで英単語帳を見る気にもならないので、コンクリートで神経質に舗装された道路や、その道路を隔てた向こう側にある歩道をぼんやりと眺めてみる。
白い軽自動車。
赤い自転車を走らせる、紺のブレザー。
葉の抜けた隙間が目立つ街路樹。
イヤフォンをしながら歩く学ラン。
目に鮮やかな赤色とピンク色のランドセル。
黒いワゴン車。
目的地へ向かうため忙しなく動く、それらの人々の流れ。
私達の世界はカラフルで、様々な色に満ち溢れている。
今日もきっとまた、いつもと変わらない一日が始まるのだ。
そんなことを考えていたとき、ふと、向かい側の歩道を見覚えのある横顔が歩いているのが見えた。
眼鏡をかけた、ちょっぴりか弱そうな雰囲気の男子。
不定期に美術室を覗きに来ては、興味深そうに面を見てくれる、一つ下の学年の狩川君だ。
しかし彼はなぜか、沙耶たちの通う高校とは正反対の方角へと進んでいた。
加えて、制服も着ていないし、高校指定の通学鞄も持っていない。背中に黒いリュックサックを背負って、どんどんと歩いていく。
…ありゃ。
もしかして、今日は学校休むのかな?
ーーまあ、人生それぞれ、いろんな事情があるもんよね、きっと。
ちょっと気にはなったものの、自分が問い詰めるのも何か変な気がして、沙耶は開きかけた口をきゅっと結んだ。
その時だった。
「…?」
背中に何とも形容しがたい震えが走った。
咄嗟にちらっと振り返ってみるが、特に変なものはいない。
自分が乗るのと同じバスを待っている、OL風の女性が立っているだけだ。
背中に当たる風の冷たさに身体が反応しただけなのだろうか。
「お、沙耶。おはよう」
「あ。おはよー」
しかし、頭に残ったその僅かな違和感も、近づいてきた晴樹の声を聞いてすぐに忘れ去ってしまった。
✳︎
同時刻。
御滝は仕事場の書斎に設置した黒革のソファーに深く腰掛け、腕組みしながら眉間にしわを寄せていた。
その目の前では、小さな魚の姿をした式神が、ひらひらと尾を振っている。
「それは本当なの?」
『はい。力を辿ったところ、そのように確認できました』
「……あの付近では、今日の朝までに、少なくとも三種類の妖術の痕跡が認められた、と?」
卓上に置かれたコーヒーカップから、香ばしいコーヒーの匂いが漂う。
今しがた式神が告げた言葉を、噛みしめるように復唱した。
『はい』
「つまり三人の術者が関わっている、ということかしら?」
『 "一見そう思えるが、ただし、内容は少々複雑だ" と主人は申しておりました』
「複雑?」
『はい。
その三つの妖気を、仮に、あ・い・う、としましょう。
そのうちの【あ】の妖気においてだけは、【い】の妖気と【う】の妖気の両方に似た気配を放っていたのです』
「……一人の術者が何度妖術を行使しようと、妖気の気配の痕跡は全く同じはずよね。
例えばそれが火に属する種類だろうが、水に属する種類だろうが、使用元の術者が同一であれば気配は一つであるはず。
でもあの近辺では、異なる三種類の妖気が感知できた。そして、そのうちの一つは、なぜか他の二つと似通った妖気だった……
…と、いうことね?」
『はい』
「なるほど。わかったわ、ありがとう。お遣いご苦労様。鯰様によろしくね」
一礼して、式神が床に飛び込む。
絨毯の表面が水面に小石を落とした時のように、ちゃぽん、と波打ったかと思うと、再び元通りになった。
御滝が右手で自身の髪を撫でている。
細い人差し指でくるくるといじられる、真っ黒な髪。
指を軸として巻かれたストレートヘアーがさらさらと揺れ動き、こぼれ落ちてはまた巻かれていく。
考えごとをしているときの主の癖だ。
「三種類、ねぇ」
「一体どういうことでしょうか」
私はお代わりのコーヒーを注ぎ、御滝に尋ねる。
「まず、あの般若の正体が重要ね。
闇狐越しに伝わってきた感触としては、妖怪だと思って間違いなさそうだったけれど、直接対峙したあなたとしてはどう思う?」
「はい。妖怪でした。例え妖怪に深く関わる人間であっても、妖怪と人間とでは発する気配は異なりますからね。まず間違いないかと」
「そうよね……。となると、少なくとも二つの説が立てられるわ。
まず一つ目。昨日の般若が完全に独立した妖怪であり、なおかつ白い手紙の送り主と同一人物ではないという説。
二つ目。般若が使役される妖怪、例えば式神の類などであったとしても、それを使役する術者は白い手紙の送り主とは異なる、という説」
「つまり、手紙の送り主は般若の主人ではない、と?」
「ええ。あの狭い範囲内で、三つの妖術の気配があるということは、普通ではまずあり得ないようなことだもの。
つまり、三つの気配のうち、一つは手紙の召還陣に関係するもの、もう一つは、般若に関係するものだと考えるのが妥当でしょうね。
けれど、同時期に同じ場所で妖術絡みの事件が二つも起こるなんて出来すぎているし…、予測でしかないけれど、この二つの件には、何らかの関連性はあるんじゃないかしら。
問題は、私達のまだ感知していない三つ目の妖術の気配とは一体何なのかということと、それから、なぜ三種類のうちの一つの気配が、他とは似て非なる気配なのか、ということなんだけど……」
御滝がコーヒーにミルクを注ぎ入れると、黒と白の液体が複雑な模様を描いて混ざり合った。
基本的に妖怪と人は相容れない存在だ。
古くから妖怪は人に害をなし、そして人もまた妖怪を討伐してきた。
妖怪が生存するには、自前の妖力を以って力を保つことが必要となる。
しかし、妖怪は人と縁を紡ぎ、主従関係を結ぶことで、安定して妖力の提供を受けることができるのである。
勿論妖怪を使役できる人間は限られるし、それだけの益があるのだからいくつかのリスクや制約も伴うが、それらを差し引いて考えても、人と妖怪が手を結ぶメリットは大きいとされている。
「……考えられることとしては、般若が『手紙の件に関わっている人間からの妖力の提供を受けているが、主従関係を結んでいない妖怪』である、ということでしょうか」
「そうね。その考えが、一番有力な気がするわ。
主従関係を結んでいれば、妖気が同調して、同じ気配になるはずよね。
でももし妖力の提供のみを行っているのであれば、気配は似通っても同調はしない。
つまり同一の気配にはならないということだから、そう考えると、この件に関しては合点がいくわ」
でも、と主が続ける。
「妖怪と正式に主従関係を結ばずに妖力の提供だけを行うなんて、そんなのあり得るのかしら。
それって、金銭も材料も貰わずに、食事を作って提供し続けるようなものよ。
そんなことをする人間なんて、余程の物好きか……」
「……或いは、そうまでしてでも達成したい目的があるか、でしょうね」
私は空になったコーヒーカップを盆に乗せた。
「それから、般若が戦わずして退散したことも気になりますね」
「そう。それなんだけれど、奴の消え方がなんだか引っかかるのよね」
「と、仰いますと?」
御滝は髪を整えて顔を上げると、盆の上のコーヒーカップを見ながら呟いた。
「果たして奴は、消えたのかしら?
それともーー」
主の黒い瞳が、私を捉える。
「消えざるを得なかったのかしら?」