風の運ぶ匂い
まだらに灯るわずかな家のあかりを背に、私は黙って腕時計を見た。
主の命令に従って張り込みをしていたが、夜も更け、もうすぐ日付は変わろうとしている。
薄い雲の向こう側から伝わる月のほのかな明かりが、閑静な住宅街を照らしている。
闇の中、かさかさと乾いた枯葉が音をたてて動いていく音が聞こえた。
『逢威』
小さな黒い狐の姿をした式神が、静かに足元まで近づいてくる。
『遅くまでご苦労様。何か変わったことは?』
「いえ、特には。強いて申し上げるならば、跡見晴樹と若田沙耶が、だいぶ前にそれぞれ帰宅したことぐらいです」
『そう』
「ああ…それから、この件には直接関係ないことかも知れませんが……今日の午後、この近所の邸宅から日本刀が盗まれたそうです」
『日本刀?』
「はい。戦国時代の名刀と謳われた刀だそうです。調べましたところ、俗に"鬼引丸"と呼ばれていたとか」
『"鬼を引き寄せる刀"……ね』
「はい」
そこまで話したとき、自分の脳内で、何かがざわめいた。
自分の頬を撫で行く、冷たい風。
先程まで枯葉達を動かしていた空気の震えとは、どこかが違う。
風のやってくる、前方の暗闇にじっと目を凝らす。
ーー間違いない。
何かが、こちらに近づいている。
風のうなり声に混じってわずかに聞こえる、物を擦るような音。
足音だ。
『逢威?』
主の声を届ける狐の式神を掴み、右肩に乗せる。
「何かが来ます」
『視認は?』
「音の出所とまだ距離があります。こちらの出方を伺っているようです」
『そう。何らかの輩であることは間違いなさそうなのね』
革靴を履いた左足を、じりっと一歩前に出した。
まさにその瞬間。
ちょうど上空を行く雲が絶え、その切れ間から、月の光の筋が差し込んだ。
地上を照らす線が、行く手に立つ影を照らし出す。
ーー真っ白い和装束に身を包んだ何者かが、数メートル先に立っていた。
どうやら背丈は自分と同じか、あるいはそれ以上ありそうだ。
視線を下に移す。
その黒い右手には、月光を受けて不気味に光る日本刀が握られている。
続いてゆっくりと、目線の照準を相手の顔に合わせた。
瞬きをしないその目は、カッと真ん丸に見開かれ、眼前一点を見つめている。
歪みのない、筋の通った鼻。
そして両の口角は釣り上がり、中からは揃った歯が覗く。
肌は不気味なほどに白く、わずかな光沢が見受けられた。
「般若の面か」
目の前の白装束は何も言わぬまま、刀を身体の前で構えた。
無言で殺気を飛ばす般若から目を逸らさずに、わずかに距離を縮める。
「二闇」
先手必勝。
私の呼び声に応じ、左の小指につけた指輪から勢いよく影が飛び出す。
影は大きく膨れ上がると巨大な黒い狐の姿になり、間合いを詰めてあっという間に白装束の身体に巻きついた。
二股に別れた尻尾を使い、足や腕までもギリギリと締め上げる。
わずかに身じろいで抵抗している様子だが、刀を持つ両腕ごと縛っているため、振り解くことは難しい。
「貴様、何者だ」
問いかけるも、動きを封じられた白装束は、依然として黙したままこちらを見ている。
「白い手紙に関わりがあるのか?」
「……」
「まあ、最初から素直には答えぬか。それでも構わんが、しかし、さらに辛い思いをすることになるぞ」
私の声に同調し、二闇がさらに力を入れてぎりりと締め上げた。
しかしーーその次の瞬間。
すうっ、と白装束の身体が脱力した。
その姿は真っ白から半透明になり、徐々に消え失せていく。
ついには巻きついた二闇の身体をその場に残したまま、日本刀もろとも完全に姿を消してしまった。
『申し訳ありません、逢威様』
「構わん。御苦労だった、二闇」
式神が実体を黒い影に変え、するりと指輪に戻っていく。
「申し訳ありません、御滝。見失いました」
『そのようね』
肩の上の狐から主の声が返る。
『消失したのでないとすれば、自ら逃げたのかしら』
「そうだとは思いますが……わかりません」
『いいわ。こちらに戻ってきて』
「承知しました」
月が厚い雲に覆われ、辺りは再び黒に包まれる。
私は闇に乗じ、次々と屋根を飛び越えながら、御滝のマンションへと向かった。