破滅のことば
人ならざる者は言った。「破滅の詞は唱えられた。滅亡の時は今ここに訪れたり」
悠久の眠りから目覚めたこの洞窟の奥深くで、私と妻は顔を見合わせ立ちすくんでいた。
私は妻の久美子と南米のとある山岳地帯を旅行していた。旅は新婚旅行を兼ねていて、この場所を希望したのは考古学の助教授である彼女の希望によるものだった。長年の研究のテーマである遺跡を見て回りたいの、と彼女は言い、私は快くそれに応じた。
地肌がむき出しになった山々を我々はふたりだけで巡った。空気が薄いので常に頭痛と息切れに悩まされたが、活き活きと楽しそうにしている彼女の姿を見ていると幸せな気分になれた。
この地で一番高い山の頂上付近にある遺跡を見に行ったその帰り道でのことだった。両側を絶壁に挟まれた谷間の一本道を歩いていると、とつぜん大きな地響きが起こり轟音が峡谷を埋め尽くした。地震だ。地面は大きく揺れ、頭上ではがらがらと岩が砕け転げ落ちる音がしていた。私たちは逃げるどころか一歩も動くこともかなわず、互いを抱きかかえるようにしてその場にしゃがみ込んでしまった。
揺れが収まると私たちはお互いに身の無事を確認した。幸いにふたりとも傷ひとつなかった。立ち上がり辺りを見回すといたる所に大きな岩が転がっていて、背筋が凍る思いが沸き上がってくるのを感じた。
「あれ何かしら?」
久美子が指差した先を見ると壁面にぽっかりと開いた穴があった。それは路面から3メートルほどの高さにあり、ちょうど人ひとりが立って通れるほどの大きさをしていた。穴の下にはそれを塞いでいたと思われる大岩があった。先ほどの地震で落ちてしまったのだろう。
「洞窟の入り口かな? なんだか人の手で加工されたようにも見えるけど」
蓋をしていた大きな岩がぴったりとはまりそうな窪みの奥にあるその穴は四辺が直線で構成されているように見えた。
「ねえ、入ってみましょうよ」彼女は目を輝かせていた。考古学者としては当然の反応だろう。
「また揺れがきたら閉じ込められてしまうかもしれないよ」私はその穴から禍々しく不吉な気配が漏れ出しているように感じていた。
「大丈夫よ。あれだけ揺れても平気だったんだから」
彼女は私の手を引いた。私はしぶしぶと後をついて行った。
大岩を足場にして穴によじ登ると、そこはまるで回廊のようであった。人の手で造られた構造物に間違いない。フラッシュライトで奥を照らしてみると、光が届いているその先までも回廊はまっすぐに続いていた。しばらく進むと回廊は広くなった。ひんやりと冷たく湿った空気が淀み、壁面や床や天井はすべて平らに加工され、そこは深夜の病院の廊下を連想させた。私たち以外には動くものや音をたてるものは存在せず、闇と静寂だけがそこにあった。
「見てこれ。なんて素晴らしいの」久美子が照らした壁面には刻み込まれた紋様が光に浮かび上がっていた。絵のようにも文字のようにも見える。
「象形文字のようだけど、こんなの初めて見たわ。もしかしたら私たち歴史的な大発見をしたのかも」
我々は壁面に描かれた紋様を眺めながらさらに奥へと進んでいった。すると部屋のような場所に出た。そこは縦横それぞれ10メートルほどの立方体をしていて出入口は我々が歩んできた回廊のみの行き止まりとなっていた。部屋の中には何もなく、ただがらんとした空間だけがそこにあった。ふたりで部屋の壁や天井や床を照らしてみたが、そこには何も描かれてはおらず、ただ磨き上げられてつるんとした岩肌だけが光を受けて輝いていた。
そのとき私は通路の真正面にあたる壁面に何かが刻まれているのを見つけた。回廊にあったものと比べるとはるかに小さく、片手で隠せてしまうほどの大きさで、ちょうど目の高さくらいの位置にそれはあった。「あそこに何か描いてあるぞ」私は興奮して言った。
久美子は小走りにフラッシュライトの丸い光に近づくと、そこに照らし出された紋様を見つめた。
「ちょっとまって……不思議、わたしこれ読めるわ。初めて見たのに」彼女はゆっくりと一文字ずつそれを読み始めた。「ポ……テ……チ……ン……」
つぎの瞬間、突風が部屋から回廊へと走り抜けた。風は私たちの身体を巻き込みながら吹き続け、通路の遥か彼方で女性の叫び声のような音を鳴らしていた。
『そんな馬鹿な。ここは行き止まりのはずだ。この風はいったい何処から来たというんだ』
とっさに帽子を押さえながら私が考えていると、ひいっと久美子が短く悲鳴をあげた。見ると彼女の視線の先にそれがいた。ストレートの黒髪を肩まで伸ばし褐色の肌に深紅の瞳をした少女。黄金色に輝く布を巻くように身に纏い装飾品は身につけていない。歳は10歳ほどにみえる。室温が急激に下がり、空気が重くのしかかり、胃のあたりがぎゅっと絞られる感覚に襲われる。くらくらとめまいが起こり吐き気がこみ上げてくる。
「君はいったい……」
私が呟くように問うと、それは答えた。外見からは想像できない、太く、暗く、重々しい声が響き渡った。
「我は古より伝わりき終焉を司る者なり。破滅の詞は唱えられた。滅亡の時は今ここに訪れたり」
私たち夫婦は顔を見合わせた。
「ねえ、冗談でしょ? あ、わかったドッキリだ。テレビ? それとも動画投稿?」
久美子はあちこちを照らしながらきょろきょろと見回した。少女(に見えるそれ)は私のフラッシュライトの光の中で立ったままじっと久美子のようすを見ていたが、ふいに右手を掲げた。その瞬間足元から振動が沸き起こり、大きな揺れとなった。先ほどよりもかなり大きな地震だった。私と妻とは床に叩きつけられ、そのまま壁までごろごろと転がっていった。
すぐに揺れは収まった。少女は何事もなかったかのように平然と立っていた。
私たちは四つん這いのまま彼女の元まで行き、茫然と見上げた。ふたりともがくがくと全身を震わせている。下からの光を受けて、彼女の影は壁面に巨大に映し出されている。
「そんな……それじゃわたしは破滅の言葉を唱えてしまったの?」
「滅亡って、人類すべてが死んじゃうってことか?」
少女は道に落ちている空き缶を見るような目で私たちを見つめていたが、ぽつりと呟くように言った。
「この星の生きとし生けるもの。すべての生命に終わりを告げん」
久美子は震える声を喉の奥から絞り出し、すがるように言った。
「お願いだからやめてちょうだい。知らなかったの。キャンセルすることは出来ないの?」
「……取り止めることは出来ないこともない」
「どうすればいいの? 教えて」
「汝の宝を、汝が一番に大事に思うものを捧げればよい」
「一番大事なもの……」
久美子は涙を滲ませた瞳で私を見つめた。私は無言でゆっくりと頷いた。そうして私たちはひしと抱き合った。
「ごめんなさい、あなた……」
耳元で久美子が囁いた。私は全身で彼女の温もりを感じながらそっと目を閉じた。
「贄は捧げられた。滅亡の時は先へと延ばされた。詞を唱えし者現れるまで我は再び眠りにつかん」
私は薄れいく意識の中でその声を聞いていた。
気がつくと私たちは谷間の一本道で抱き合っていた。体を離し辺りを見回すと大きな岩はまだそこら中に転がっていて、その見覚えのある配置から地震に遭った場所に間違いなかった。洞窟の入り口は、と見るとそんなものは初めから無かったかのように岩肌だけがそこにあり、その下にあったはずの蓋の役割をしていた大岩も消え失せていた。
『それにしても……』私は首をひねった『どうして私は無事だったのだろう。てっきり命を取られるものと覚悟を決めていたのだが』
すると久美子が再び謝りの言葉を口にした。「ごめんなさい、あなた」だが今度は口調も表情もずいぶんと明るい。彼女は左手を差し出して言った。「あなたから貰った指輪を取られちゃった」
私はその手をじっと見つめながら言った。「指輪……だったのか……」
私はほっと安堵の気持ちと、どこか割り切れない思いとを胸に抱きながら考えていた。とりあえずは家に帰ろう。帰ったら久美子にまた指輪を買ってやらなくては。だが今は酒が飲みたい。テキーラを浴びるほど欲しい。