月と魔女とヒナと
きれいな満月の夜に出歩いてはいけないよ。
魔女が悪い子を連れ去ってしまうのだから……。
それは実にくだらないことが原因だった。大事にとっておいたヒナのプリンを、妹が食べた。それだけのことだ。でも我慢できなかったのは、そういうことが今までも度々あったことと、プリンはヒナの好物だったせいだ。
「あ、それアヤが食べちゃった」
悪びれなく告げられ、ヒナの手は妹のアヤノの頭に吸い込まれた。気がつけば「お姉ちゃんが叩いたぁ」と大泣きするアヤノがいた。泣きたいのはヒナのほうだった。この間だってヒナの分までチョコチップクッキーを食べたくせに。
騒ぎを聞きつけたお母さんが、たちまち眉を吊り上げた。
「プリンぐらいアヤノにあげなさい、お姉ちゃんでしょう! どうして妹を叩くの」
お母さんの影からアヤノが顔を出し、ザマーミロ、とヒナを笑う。だって、と反論しようとしたヒナは、お母さんに睨まれて怯む。アヤノは自分の分を食べ、さらにヒナの分まで手を出したのに。
そう訴えたら「我儘を言わないの、お姉ちゃんでしょう」と再び叱られ、ヒナは絶句した。これは我儘なの? 妹は姉のプリンを食べても許されるのに、姉が怒ったら我儘? アヤノの分をヒナが盗ったら怒られるのはヒナなのに。
「ヒナ、お母さんお仕事してきたの。お願いだから騒がないでちょうだい。ほら、ごはんの準備をするから手伝って」
くすくす笑う妹は、母をすり抜けてソファに寝転がり、TVのチャンネルをニュースからアニメへと切り替えた。アヤノは普段から家事を手伝うことがない。手伝いなさいと命じられてもアヤノは無視ばかりだ。
だから、お母さんはもう何も言わなくなってしまった。
ヒナはいつだって『お姉ちゃんらしく』我慢し、懸命に家のことも手伝ってきた。毎日、犬の散歩に出たり、餌をあげるのもヒナの役割だ。今も好物を奪われたのに、理不尽さを堪えている。でも、もう限界だった。
気がついたらお母さんは、ヒナのものではなかった。そんなことわかっていたはずだった。だけど――
ヒナは家出をした。一人じゃ怖かったので、犬の佐助も一緒に。
もう帰らない。そう決意して。
「お母さんはいっつもアヤばっかり。前だって家の鍵を失くしたのはアヤなのに」
なぜかヒナが叱られた。どうしてちゃんと面倒見てあげないの、と監督不行届を責められたのだ。友人と遊びに行った妹へ、なぜ付き添わなかったのか、と。
そのせいでお母さんがいない間、ヒナは妹の居場所を常に把握し、アヤノが不自由しないよう家にいなければならなくなった。遊びに出かける時は、アヤノと常に一緒でなければならないのだ。
他にもあった。ヒナの宝物は飾りゴムだった。ピンクの大きな花がついた可愛いゴムだ。髪を一つにまとめるときはいつもそれでくくって、とお母さんにお願いしていた。だけど、それも「欲しい、欲しい! お姉ちゃんだけずるい! 私もあれでくくってよ!」と喚いたアヤノに奪われた。
アヤノはヒナのものばかり欲しがるのだ。
アヤノは毎朝お母さんに髪を編んでもらい、ゴムもヘアピンもヒナの倍以上持っている。ヒナがお母さんに髪をまとめてもらえることは、ほとんどないのに。
お気に入りだったワンピースも鞄も靴も、いつの間にかアヤノのものになっていた。身体が成長したため着られなくなった訳でもないのに。
どうしてアヤノばかりが許されるの?
しかし、決まって二言目には「お姉ちゃんでしょう」とお母さんは言う。姉妹の間で問題が起こると、お母さんは決まってアヤノを庇った。たった二つの年の差が、はっきりと姉妹を隔てている。
「大きな声を出さないでっ!」
一度だけ、お母さんが大声を出したことがあった。アヤノとヒナ、二人に怒鳴ったのだ。いつものケンカだったが、いつもならお母さんは何も言わなかった。しかしその日は違った。二人はびくんと体を強張らせた。お母さんは「お願いだから、静かにしてちょうだい。ヒナ、お姉ちゃんなのだからケンカはしないで」と、感情を押し殺すように背中を向けた。
本当は、ヒナだってわかっていた。
お母さんは仕事や家事で忙しいのだ。毎朝ヒナとアヤノより早く出て、二人より遅く帰ってくるのだから。くたくたなのに、お母さんはお父さんのように家に帰って寝るだけではない。家族のご飯を作って、洗濯物をしまい、お風呂の用意だってしてくれる。散らかった部屋を片付けて掃除をし、居心地が良いようにしてくれる。
この家で、誰よりも大変なのはお母さんだ。
ヒナはお母さんを困らせたくなかった。だから洗濯物も取り込んでたたんだり、炊飯器をセットしたり、犬の散歩に行ったりと手伝っている。
でも――アヤノのように甘え上手じゃないし、要領だってよくない。あのときも怒ったお母さんに、「ごめんなさい、ごめんなさい。お母さん怒らないで」と泣いてすがったのはアヤノだった。本当はヒナだってお母さんのそばに行きたかった――
「ヒナは、悪くない……」
いつの間にか、我慢することが当たり前になっていた。
ヒナはお姉ちゃんである限り、アヤノに全部吸い取られるんじゃないかと怖かった。気がつけばヒナのものはどんどん減っていく。服もペンも、メモ帳もノートも鞄もコップやスプーン、お母さんと過ごす時間まで、お気に入りから消えていく。お母さんにどうして、と聞いたこともあった。だけど返事は「お姉ちゃんでしょう」だ。
そんなときのお母さんは、いつも気だるげで疲れて見えた。困らせないで。問題を持ち込まないで。煩わせないで。そう言われている気がした。そのたび心がズキンと痛かった。
「アヤがいなかったら……」
奔放なアヤの居場所は、ヒナのものになっていたのだろうか。
お母さんは、ヒナだけを見てくれただろうか。
お母さんは、ヒナの話も聞いてくれただろうか。
ぽつ、と何かが触れてヒナは足を止めた。見上げれば重い雲が駆け足でよぎっていく。
「傘なんか持ってないのに」
発作的に飛び出してしまったことを後悔した。しかし、このまますごすご帰ることもできない。お姉ちゃんが家出なんてできっこないじゃん。そう妹に蔑みの目で見られるのも我慢ならないのだ。
犬の佐助を連れてこなければ、どこかのお店に入り時間を潰すこともできただろうが、それはできなかった。もくもくとした雲がたそがれ色した空を覆っていった。
どれぐらい歩いたのか、どこをどう歩いたのかわからない。見たことのない空家をヒナは見つけていた。別荘地にあるような洒落た洋館だったが、色褪せて塗装がところどころ剥がれていた。空家だとすぐにわかったのはそのせいだ。クモの巣で飾られた門から敷地内へヒナはそっと忍び込んだ。ギイと錆びた音がして、誰かに見とがめられないかと、周囲を確認した。空き屋へ侵入して補導され、自宅へ通報だなんて結末は避けたい。
――だけど雨に打たれるのは嫌だ。木陰に入っても雨は当たる。
最初は公民館の軒下にしゃがんでいたが、知り合いに見つかってしまったのだ。あそこを追われなければ、こんなに濡れることはなかったのに。
木を削られてできた玄関ドアは、鍵がかかっていた。一階のくもった窓もロックされている。ヒナは仕方なしに佐助を抱いて、軒下で小さくなった。ここならば、ぐるりと囲った塀と植木の影なので、さほど目立たないはずだ。
せめて、雨がやむまでここにいよう。びしょ濡れの身体を小さくして、ヒナは両腕の間に顔をうずめた。
重たい帳のむこうで太陽はすっかり沈んでしまっただろう。あたりはどんどん暗くなる。雨脚も酷くなって、遠くで雷が暴れ始めた。斜めに風が吹けば、たちまちヒナは居場所を失っていく。
死んじゃうのかな。
ヒナはぼんやりと思った。勢いをつけて跳ねた水は、泥混じりにヒナを叩く。服はぐっしょり濡れて徐々に体温を奪っていった。寒くなって佐助をぎゅうっと抱きしめる。
ヒナが死んだら、お母さんもアヤも喜ぶかな。ヒナの分は全部アヤのものになっちゃうのかな。ヒナは、いらない子なのかな。だからお母さんは、アヤノばかり優しくするのかな。
……ヒナを、探しに来て、くれないのかな。
お母さん……。
「あらあら、こんなところにいちゃダメよ。ずぶ濡れじゃないの」
ヒナは暗い顔をあげた。いつからいたのだろう、目の前に白い髪を後ろでまとめたおばあさんがいる。真黒なワンピースが丸い体を包んでいて、その上のやさしい笑顔がヒナを覗くのだ。ヒナはびくりと上体をのけぞらせた。反射的に怒られる、と思ったのだ。
するとおばあさんは困ったように苦笑した。驚かせてしまったかしら、と。
「ごめんなさいね。あなたが暗がりに一人ぼっちでいたから、つい放っておけなかったの。濡れたままでいたら風邪をひくわよ」
濡れて張り付くヒナの前髪を、おばあさんが節くれだった両手でかきわけた。触れた指があたたかかった。こんな小さな優しさだけで、ヒナの胸がいっぱいになる。
だが犬の佐助が突然顔をのぞかせ、ぐうううと唸り声をあげた。それまでヒナに大人しく抱かれていたのに、毛を逆立てて警戒するのだ。吠えちゃダメ、とヒナはぎゅっと犬を抱きしめた。だけど佐助は歯茎を見せて、威嚇をやめない。それどころかおばあさんに飛びかかっていきそうだ。
――ダメだよ、佐助どうしたの。吠えないで!
「ふふふ、こちらの犬にはいつも嫌われてしまうわねぇ。仕方がないけれど」
自嘲とともに、おばあさんは佐助に向かってくるんと指を動かす。するとどうしたことだろう。佐助は口にチャックをしたように、吠えるのを止めたのだ。え、とヒナは息を呑んだ。佐助は怯えたように暴れ、ヒナの腕から飛び出していく。
「佐助!」
ヒナが呼んだにも関わらず、柴犬は暗がりへと消えた。やだ、一人にしないでよ、佐助!
待って、と立ち上がったヒナは、走りかけた足を止めた。おばあさんの背後で、大きな大きな満月が青々と夜空を照らしていたのだ。おばあさんは逆光を背負い、静かに微笑んでいる。一瞬、ヒナの背筋に悪寒が走った。――あの分厚い雲がいつの間にか途切れている。
「雨が……」
そう、先ほどまでたしかに土砂降りの雨が視界を遮っていたのだ。雷鳴まで轟いていた。しかし、今は夜空のあるじが浩々と輝きを放っている。おばあさんの大きな影にすっぽりと覆われてヒナが身を硬くした。おばあさんは笑みを深くする。こうなることを予想していたように。
「お呪いをしたのよ、ちょっとだけ雲が遠くへ行くように」
ヒナは胸のざわめきの赴くまま、口を開いた。
「おばあちゃんは、だぁれ……」
たずねた声は掠れていたかもしれなかった。
「私は、魔女よ」
くしゃみが出て、ヒナは体がずいぶん冷えていることを知った。さわさわと梢を揺らす風が寒くて、自身の肩を抱く。傍らの魔女と自己申告したおばあさんは、節の目立つ人差し指をくるんと回した。ぽっ、と空家だった屋敷の玄関に明かりがともった。おばあさんはよいしょ、とヒナでは開けられなかった玄関扉を引く。鍵はどこかにいってしまったのか。
「お入りなさいな。ここは私の家よ」
息をつめて見ていたヒナは、そっと扉をくぐった。予想通り、そこは真っ白な埃だらけである。窓から覗いたときも人が住んでいるようには思えなかったのだ。しかし、おばあさんが再び指をくるんと回すと、ふわりと浮きあがった埃がどこかへ運ばれていく。まるで掃き清められたようだった。
「何年ぶりなのかしらねぇ、ここへ来るのは。埃っぽいったら。それはともかく、まずあなたの体を温めましょう。――いらっしゃい、こっちよ」
通されたのは暖炉のある部屋だった。外側から煙突が見えていたけれど、本物の暖炉をヒナが見たのは初めてだ。その暖炉といくつかの明かりがともり、絨毯の埃もはらえば、精彩を取り戻した暖かな部屋になった。
くるんとおばあさんが指を振るたび、何かが起こった。ヒナのぬれていた体は乾き、服からも汚れが消えた。大判のストールと暖かな飲み物までふわふわ運ばれてくる。驚きにただ目を丸くする少女は、「ねぇ、どうやったの」と何度もたずねた。
「ふふふ、だって私は魔女だもの。ここは私の家でもあるし、これぐらいどうってことないのよ。だけど……そうね、あなたも魔女の才能がありそうよ」
ふかふかの絨毯にぺたんと座ったヒナは、「本当」と顔を輝かせた。ええ、とうなずくおばあさんは、意味ありげな目をした。
「ねぇ、ヒナ。私のところへこない?」
ヒナの名前を、どうしておばあさんが知っていたのかはわからない。安楽椅子に体を沈めたおばあさんは、ぱちぱちと爆ぜる炎へと視線を注いでいた。ささやかな明かりだが、闇を切り取ってくれる確かなしるべにヒナは見入った。
「お母さんやアヤノのいないところで、魔法の勉強をしてみない? 私の弟子になるの。今夜は魔女が生まれるにはとても良い日だわ。あの月があなたを祝福してくれるから」
魔女になった自分をヒナは想像してみた。おばあさんのように指をくるんと回しただけで、色んなことができるようになれるだろうか。魔女になってお呪いを教わり、ここではない別の場所で暮らすのだ。夢みたい、と思った。そこでなら、理不尽に傷つくことも、悲しくて膝を抱えることもないだろう。
だっておばあさんは、一人ぼっちで死ぬかもしれなかったヒナに、こんなにもやさしい。
こんなにもあたたかく、ヒナだけを見てくれている。
楽しい空想にふけっていたヒナは、おばあさんの「だけどね」という声に不安を感じ取った。
「だけどね、魔女になってしまったら、ヒナはいろんなものを失くしてしまうの」
「いろんなもの?」
「そう。魔女はね、人間じゃないの。魔女になったら、人間としてのヒナを捨てなければならないのよ」
ヒナは瞬いた。おばあさんは人間ではなく、魔女という別の何かだと言われてもよくわからなかったのだ。
「そう。私は人間じゃないの。ヒナとは違うのよ。だから、佐助は私を見て怯えたのよ」
「……人間じゃなくなったら、どうなるの?」
「洗礼を受けて『契約』を交わせば魔女になるわ。ご両親やアヤノ、お友達ともお別れをしなきゃならないの。今まで持っていたもの全部手放さなきゃならなくなる。こことは、離れなければならなくなるわ」
キィ、キィと椅子の揺れる音と焚き木の爆ぜる音が響いた。視線を巡らせると、レースのカーテン越しに大きな月が見える。まるで二人のようすを窺うようで、ヒナは慌てて目を逸らした。
ヒナは一生懸命、言葉の意味を考えた。ヒナが持っているものは、何があるだろう。学校へ行くための勉強道具と、服、鞄、本、勉強机……。思い描いてみたら、なんだ、と少々がっかりした。ヒナの持っているものは、本当に僅かしかなかった。きっとアヤノのほうが、もっと持っているものが多いだろう。
だけど、それだけじゃないのだ。お父さんとも、お母さんとも、友だちとも別れなければならない。通っている学校とも、嫌いなアヤノとも。
――いいじゃない。だって帰らないって決めて、家出したんだもの。
「魔女になろうと思うなら、この実を食べなさい」
おばあさんの差し出した手には、赤い実が乗っていた。巨峰の一粒ほどの大きさで、ほのかにキラキラと輝いている。まるで呼吸をするように、実はほんのりと明暗を繰り返す。
「だけど、一度食べたらあと戻りもできないから、よぉく考えて選びなさい。例えばヒナの好きな食べ物も、食べられなくなるかもしれない。魔法を扱える代わりに、いろんな便利さも失うわ」
いろんな便利さとは何だろう。オムライスや海老フライが食べられなくなるのだろうか。そんなことがあるだろうか? どこにでもありそうなのに。
おばあさんは、ヒナを愛しむように微笑する。月が隠れるまで私はここにいるからね、とヒナの頬をなでた。
「月が?」
「そう。あの満月が私をここへ導いてくれたのよ。こんな月は滅多にないから、今夜を逃せば次がいつになるかわからないの」
ビー玉ほどの果実がヒナの掌にぽとんと落ちる。その実は小さくて軽いのに、何故かとても重く感じられた。赤い輝きが、ひどく毒々しい。
「おばあちゃんはヒナが……悪い子だから連れて行っちゃうの?」
満月の夜に現れた魔女は、苦笑して首を振った。
「私があなたを気に入ったからよ。この満月の夜にヒナと出会えたから。……ヒナが苦しそうに見えたから」
そう、苦しかった。つらかった。魔女にならないか、と誘われてときめきを隠せなかった。だが、ヒナはなかなかそれを口に運べない。急に恐ろしくなったのだ。この実を食べたら、大切なものをヒナは失ってしまう。そう本能が警告している。
じゃあ、その大切なものってなに?
懸命に頭を絞ったが明確な答えは見つからない。しかし、ヒナの中の何かがダメだと訴えている。
「もし、嫌って言ったらどうなるの?」
「嫌だってヒナが思うなら、それでいいのよ。無理をして魔女になってはいけないわ。あなたはここでも生きられる。ただ……今夜起こったことを忘れてしまうだけ」
「そんなのヤダよ。だっておばあちゃんとせっかく出会えたのに」
せっかく魔法があることを知ったのに。
「――ご家族が気になる?」
図星を当てられ、おばあさんをヒナは仰いだ。お母さんやアヤノと会えなくなるのは怖かった。ヒナ、お姉ちゃん、と呼ぶ二人の笑顔が脳裏に浮かぶ。
そんな少女の戸惑いへ同意するように、魔女は微笑んで提案した。
「会いに行ってみる? それで心が決まるなら連れて行ってあげるわ」
躊躇いがちにヒナはあごを引いたのだ。
庭へ出ると、魔女は姿の見えなくなるお呪いをヒナにかけてくれた。そして言うのだ、決してしゃべってはいけない、と。しゃべったら魔女の掟に違反するため、ヒナを迎えることもできなくなるから、と。ヒナは神妙に約束した。たしかに、透明な状態のヒナが勝手にしゃべれば大問題だ。
おばあさんが何かを呟く。魔女の言葉は人間にはうまく聞き取れない。最後におばあさんが何かを言うと、目の前に深い霧が立ち込めた。そこから翼の生えた馬のような生き物が姿を現す。馬のような、と思ったのは額に角が二本、大小と縦に並び、牙の生えた口も大きいためだ。がぶりとヒナの頭などかじってしまえそうだが、その目は穏やかでやさしい。
その生き物は魔女に向かって頭を下げた。
「ごめんなさいね、遠い所に呼び出してしまって。イー・ライー、お前の翼を貸してちょうだい」
魔女はイー・ライーと呼んだ不思議な生き物の首をなでた。賢い生き物なんだ、と思った。ヒナを見る大きな瞳は落ち着いていて、知性の輝きがある。
魔女に促されて、ヒナはイー・ライーへ恐る恐るまたがった。ヒナの後ろにおばあさんが横向きに座ると、イー・ライーの身体がふわりと宙に浮く。
「魔女は箒でお空を飛ばないの?」
「私は箒が苦手なの。考えてみて? あの棒で身体を支えるのってしんどいわよ? 二人乗りはヒナだって辛いわよ?」
おばあさんがおどけた調子で肩をすくめる。ヒナの顔に笑みがこぼれた。
『透明の魔法』は効果的で、だれも二人を見とがめない。イー・ライーの姿に騒然とするものは、夜空を舞う蝙蝠たちが少しだけである。雨雲は消えて、大きな満月が二人を照らし出す。風が心地よく、声をあげてヒナは笑った。
だが、ヒナの家が見えたころ、その顔は緊張で彩られていた。身体をねじっておばあさんにつかまりながら、明々とライトが灯る家を、少女は見つめた。お母さんとアヤノがいる。イー・ライーはリビングのよく見える位置で止まったのだ。魔女が指を回すと、室内の音が聞こえてくる。
「お姉ちゃん帰ってこないね。ご飯も食べちゃったのに……お母さん、お姉ちゃんどこ行っちゃったんだろう。佐助まで一緒に連れてっちゃってさ」
アヤノがテーブルに肘をつき足をぶらぶらさせて、アイスクリームを食べていた。あれはヒナも楽しみにしていたアイスだ。
「お腹がすいたら戻ってくるわ、あの子もバカじゃないんだから。お金も持たせていないし、そう遠くへ行けないのだし」
お母さんはテレビを見て笑った。ヒナがいないことなど、どうでもいいと言うようにソファに寝そべっている。時折、ちらりと時計を見ているようだが、何も言わない。そのうちアヤノが冷凍庫からもう一つアイスを取り出した。あれは、ヒナの分だ。アヤノは何の罪悪も感じないのか、ぱくぱく食べていく。
「お姉ちゃんのプリンも食べたんでしょう、やめなさい」
だけどお姉ちゃんはいないもーん。そう言ってアヤノはスプーンを口に運ぶ。「ここにいるよ!」とヒナは言いたかった。しゃべってはいけない約束を破りたくて、ヒナは魔女へと身をよじる。おばあさんは表情を曇らせて、じっとリビングを見つめていた。
「ヒナの海老フライまで食べたのに」
「いないお姉ちゃんが悪いんでしょー?」
お母さんはアヤノへ呆れた眼差しを向けている。だが、その目は許容する目であり、愛情がこもっていた。ああ、いつもこの調子でヒナのものは妹に奪われていったのだ。
もしヒナが家にいても、海老フライやアイスは取られたに違いない。アヤノが駄々をこね、お母さんに「お姉ちゃんなのだから分けてあげなさい」と叱られるのだ。
「お姉ちゃんがいなかったら、全部アヤノのものになるのにな。部屋だって一人部屋になるんだよ? お姉ちゃんなんか帰ってこなくていいのに」
ヒナが強ばった顔のまま助けを求めるように視線を向けた先で、お母さんは軽口に眉をひそた。
「アヤノ、お風呂入りなさい。まだでしょ」
アイスをぺろりと平らげたアヤノが「はーい」とリビングを出ていく。お母さんは、ため息をついて再びソファについた。時計を見つめた後、テレビのチャンネルを切り替えている。
窓からようすを見ていたヒナは、何も言ってくれないんだ、と悲しくなった。お腹を押さえたのは、海老フライを食べたかったからだ。お腹がすいた。だけど、ヒナのご飯はテーブルになかった。
最初からなかったのかもしれなかった。
――姉と妹でどうしてこんなに違うの。ヒナはアヤノと比べて、何がダメなの?
何かがヒナのなかで崩れていく。アヤノを叩いた時も、家を飛び出したときもまだ信じていた「何か」が。
思えば、その心当たりはいくつもあった。お母さんはヒナとアヤノが重なったときは、必ずアヤノを優先してきたのだ。学校の参観日や、運動会、習い事の時間。風邪を引いたときも……お母さんはアヤノが泣けばそちらに向かい、ヒナは一人残された。
アヤノが一番、仕事が二番、家のことが三番。
じゃあ、ヒナは何番目?
ぎゅ、と知らないうちにヒナは魔女の腕をつかんでいた。誰かにすがらないと、大声で喚いてしまいそうだったのだ。今見たことが信じられなかった。信じたくなかった。嘘だと、だれか、言って。
二人を乗せたイーライーがふわりと空へ昇った。高く高く舞い上がると足元で夜景が宝石のように輝いていたが、青い顔をしたヒナには映らない。
おばあさんの手がそっとヒナの背中に触れ、やさしくさすってくれる。こんな時まで我慢しなくていいんだよ、と。
強張った顔のヒナが仰ぐと、おばあさんは寂しそうに微笑んだ。
「ねえ、ホントにヒナは……一人ぼっちだったんだ」
言葉にしたとたん、ヒナは肩を震わせた。ぽたぽたと大粒の涙が溢れるのを止められず、顔がぐしゃりと歪む。おばあさんは、ヒナの背中をなでてくれた。泣きやむまで、ずっと。
家出をしたけど、心配して探しにきて欲しかったの、オカアサン……。
赤い実が、イルミネーションのようにヒナの手の中で光っていた。
その翌日、女の子の死体がぷかりと水路に浮かんだ。ゴミや油と一緒に浮かんだそれのせいで、朝から町は騒然としている。新聞によれば、女の子は昨夜の豪雨で水かさを増した水路に誤って転落したらしい。
「あの雨だったもんなぁ。あそこは電灯が少ないし、柵がないから。足下が見えにくくなるんだ」
「水路が溢れていたから、足を取られたのかもなぁ」
「かわいそうに。あの雨で……」
「本当? 昨日の雷雨に子どもを置き去りに?」
「家の人は何をしていたのかしら。子どもが帰ってこなかったら探すでしょうに」
町はどこへ行ってもこの話題で持ちきりになっている。死亡した女の子の家ではすすり泣く声が外まで聞こえていた。まさかこんなことになるなんて、と母親が嘆き、妹はごめんなさい、と泣きじゃくった。
「嘘よ、信じられない。戻ってきて、ヒナ。戻ってきて、嘘よ……! 待っていたのに!」
母親は取り乱していた。一度しか怒鳴ったところを見せなかったあの人が。
「待っていたのに――、ずっとあの子が帰ってくるのを待っていたのに! こんなことなら探しに行けばよかった! お腹がすいたら帰ってくるだろうなんて……! ヒナ、嘘よ……、戻ってきてヒナ!」
ヒナは、そんな家族をぬくもりのない眼差しで見ていた。『ヒナ』の『遺体』は、警察が持って行ってしまったせいで、お葬式は三日以降になるようだ。
「ヒナを連れて行かないで! ヒナを返してえ!」
警察に詰め寄っている母の姿を見たときだって、ヒナは口元だけに少し笑みを浮かべただけだった。子どもがするには、悲しい笑みだ。家の片隅に立って、取り乱している家族を眺めているのだ。
ただ、テーブルに昨晩のものかもしれない、エビフライの乗った皿が置いてあったことが、印象的だった。
いなくなってから、そんなこと言うなんてずるいよ。
ずっとずっと、待っていたのはヒナのほうだったのに。
ヒナは、傍らの魔女を振り返る。今はもうおばあさんの姿ではない、若々しい女性の姿をした魔女を。癖のついた髪を背中に流し、すらりとした長身の彼女。おばあさんのときだって感じた品の良さは、若くなっても変わらない。
「もう、いいの?」
冷たく見える美貌が、寂しげに微笑みを浮かべている。そういう表情も、おばあさんのときに感じたような優しさがあふれていた。ヒナは口元だけの笑みを少しだけ固まらせ、ギクシャクとうなずいた。
「はい。我儘を言ってごめんなさい。――先生」
魔女が、そっとヒナを抱きしめた。その力は徐々に強くなっていく。我儘なんかじゃない、と彼女が思ってくれているのが痛いほど伝わってきた。お母さんがもう少しだけでも、こんな風にヒナを見てくれていたらよかったのに。ヒナを探し出してくれたなら、普段から少しでも話を聞いてくれたなら。
でも、もう遅い。
ヒナはあの実を食べてしまったのだ。
見習いだが魔女になれば、人間とは住む世界が違ってしまう。昨晩、ヒナは満月に祝福され、契約を交わしたのだ。魔女になれば特殊な条件を組み合さない限り、人間と会話はできないし姿も見えない。それも、代償のひとつだ。
魔女になったら、人間としてのヒナを捨てなければならないのよ。
本当にその通りだった。存在そのものが、もうない。ヒナという影法師は、こうしてすぐ目の前に立っても認識してもらえない。触れることもできない。家族と会話をしたくても、未熟なヒナにはまだ先の話だ。
「どうして、先生はおばあさんになっていたの?」
「それは、私もわからないの。あなたがそうであって欲しい、と無意識に描いた姿になったのだと考えているわ」
先生自身は姿を変化させた覚えはないのだ、という。ヒナが魔女になって見たこの姿が、真実の姿なのだ。
ならば次にヒナがここへ訪れたとき、誰もヒナだと気づいたりしないのだろう。
――悲しくなんか、ない。
笑みを作る顔とは違って、腕はすこし震えていた。呼吸が乱れないように、大きく深呼吸した。お母さんやアヤノの泣き声を聞くたび、胸がぎちぎち悲鳴を上げる。だけど、涙はぜったいに流さないと決めた。後悔なんかしていない。
これは、スタートなのだから。
痛ましげに見つめてくる魔女へ、ヒナは今度こそにこ、と笑ってみせた。無邪気なものとは言えない、少し大人びた笑顔だ。これは希望の一歩。ヒナは、新しく生まれ変わったのだから。
「さあ、行きましょう。ここはもう、あなたの世界じゃないのだから」
家に戻っていた犬の佐助だけが、なんとなくヒナの存在を感じ取ったのか、二人の消える方向をいつまでも見ていた。
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