Ⅴ答弁編
人間は余りにも呆気なく死ぬ。
簡単に死ぬ。
臓器が破壊されるだけで死ぬ。
血を大量に流しても死ぬ。
痛みからくる多大なショックでも死ぬ。
精神的に病めば死ぬ。
体の一部が欠損すれば死ぬ。
いくら生前、どれ程強大な権力や財力、名声を持っていたとしても、それらとは関係なく簡単に死に至ることができる。
寿命という最終点から逃れることはできないし、事故や事件といった運命にも抗うことはできない。
此度の事件でもそう――旗桐 番、久木、紗枝、使用人、そして行司。
彼ら、彼女らもまた死という一点に置いては、皆と平等なのだ。
それは僕も、八千代も、十四にして全ての学問を終えた林檎ちゃんにも同じことが言える。
凡人は死ぬ、天才もまた死ぬ。
しかし、誰も死ぬことを恐れてはいない。
いや、死ぬことは嫌で怖くて、出来るなら死にたくないだろう。
きっと誰もがそう思っているに違いない。
けれど、いつ訪れるか分からない死という現実に怯えている人は極少数だと思う。
明日交通事故に遭って死ぬかも知れない、なんて億劫になりながら日常を送っている人がどれだけいるだろうか。
テレビのニュースで見る殺人事件や訃報も、もっと言えば強盗事件や傷害事件も――明日は我が身ということを失念して生きている。
それは当然のことだろう。
そんなことを考えて生きていくのは困難だろう。
人は死に際になって、やっと初めて理解するのだ。
あぁ自分は死ぬんだ、とそこでようやくそれを認識するのだ。
最後の最後で気付くものだ。
そう考えれば、人は生きるために生きているのではなく、死ぬために生きているのかも知れない。
いつ終わるか分からない人生の中で何かをしようということは、死ぬためにある思考なのかも知れない。
死ぬまで努力したり、継続したり、死ぬまで人を愛したり、それはきっとどこかで逃れられない現実を受け入れていて、認識して、理解しているからなのだろう。
だけどそれは、諦め、ではない。
どうせいずれ死ぬのだから、という諦めた心情ではなく――希望に満ちたものなのだと思う。
残酷な現実を生きるための、希望なのだと思う。
「旗桐 行司は何を思って死んだのかな」
僕と八千代は殺害現場である客室――昨日、僕たちが宣戦布告し旗桐家を敵と見做したあの一室で現場検証を行っていた。
昨日と同じ座椅子、袴、屏風。
まるで昨日から彼が死ぬまでの間、一歩も動いていないかのような、そんな姿だった。
「死人に口なしとはこのことだよ。今となっては旗桐 行司が何を考え、どう思っていたかなんて誰もわからないさ」
八千代が複雑そうな表情で言う。
「しかし少年、本望という言葉を知っているか」
「…………」
「老害とは言え、国家勢力をも取り込むことができる程の権力の持ち主だ。分家や家族間の確執に頭悩ませていたかどうかはわからないが、きっと旗桐行司は本望だったのだろう。死んでも――殺されても――」
「どうしてそう思うんだ?」
八千代がすでに死後硬直したであろう彼の袴の帯から何かを取り出した。
写真である。
それは少し色褪せてセピアになった二枚の写真だった。
写真――林檎ちゃんのそれ、だ。
「少女の両隣、彼女の両親だ」
「――!」
「そしてもう一枚、彼女は誰だと思う?」
林檎ちゃんと両親――僕はこの二人のことを知っている。
間違いなく知っていて、間違いなく関与していた――半年前の春に。
やはり、そういうことだったのだ。
林檎ちゃんの両親である二人が快活な笑顔を見せた一枚目の写真を八千代に渡して、僕は目を見開いた。
今にも目が飛び出るほど。
「……塔野やい子」
かなり前の写真だけど、間違いなく塔野やい子さん本人だ。
微かな面影、何よりそれは、さっき見せてくれた笑顔と同じように思えた。
今と殆ど変わりない、醤油に漬けたような黒髪を後ろで結っている姿はまさしく彼女本人だ。
「この写真から察するにおよそ十六、くらいか」
八千代は僕が震えた手で持つ写真を覗き込みながら言った。
「十六歳の塔野さん……」
「私の目は信用して良いだろう、間違いない」
「けれど、一体どうしてこの写真を持ち歩いているんだろうな」
この写真の存在は行司本人しか知らなかったのだろうか。
旗桐家が抱える家族間の確執をひも解く手がかりになりそうなものを犯行現場に残すことは考え難い。
間違いなく、今回の殺人事件は旗桐家に関連しない外部犯という可能性はない。
そんな可能性は零で皆無だ。
理に適った犯行動機があるとするなら、恐らく犯人は本家或いは分家の誰か。
大よそそうだろう。
これはきっと八千代もすでに推測しているはずだ。
旗桐本家の邸宅の外郭には等間隔に配置された数十台の防犯カメラ、これらに死角はないだろう。
そして唯一の入り口には二十四時間体制の警備員と重厚な大門。
交代したばかりであろう警備員の話によると、不審者が居たという引継ぎは聞いてないようだった。
それどころか、昨晩から今朝にかけて、邸宅の出入りをした人間がいないようだった。
それはつまり――犯人は林檎ちゃんか塔野さん、ということを意味している。
いや、林檎ちゃんには今朝僕と病院で会ったというアリバイがあるが、塔野さんにはない。
待てよ、違う。
そうじゃないだろう。そういう話じゃなくて……。
「八千代、確か死亡推定時刻は十時半だったよな。八千代が塔野さんから旗桐 行司の死亡を聞いたということは、つまり塔野さんがそう言ったってことか?」
「そうだな、実際、私もこうして死体を目の当たりにして言えるが、恐らく死亡時刻は合っている」
「八千代が言うなら間違いないんだろうけど、どうして塔野さんにもそれがわかったんだろう」
「少年、死亡時刻の推測は少しの知識があれば可能だ。それにこうして心臓を一突きされ、ほぼ即死。即死である以上、推測も簡単になる」
「……つまり?」
「死後硬直の進行具合で大体わかるということだ。それに、第一発見者である塔野やい子からすれば、少し触れるだけでわかるだろう」
八千代が続ける。
「もし私たちが昨日岐路に着いた後すぐの犯行なら、今朝発見されるまでおよそ十時間――それくらい経過していたなら死後硬直も進行している。いや、ほとんど完成形に近い状態だ」
「要するに塔野さんが死体を発見した時にはまだ死後硬直は無かったということか」
死亡時刻十時三十分。
それなら間違いなく塔野さんが犯人である可能性は高い。
それも非常に。
間違いないと言っても過言ではないほどだ。
林檎ちゃんにもアリバイがある。
加え、警備員の話によると僕たち以外の出入りはなかったということだ。
それなら――
「塔野さんが犯人なのかな」
僕は胸の中心に真剣を突きつけられて死んだ旗桐 行司を見ながら嘆息する。
はぁ、と。
はぁ、と溜息を二つ。
「そうとも限らないな」
「……?」
「警備員の情報を操作している可能性もある。つまり本家以外の人間による犯行もあり得るだろう。無関係の外部犯という可能性については、無意味な推測になるからしないけれど、少年――君はもっと自覚した方がいい」
八千代は僕を睨んだ。
可愛らしいおっとりした目が、急に鋭く僕の目を捉えた。
「ここは旗桐本家だ。私たちは今まさに敵中にいる、宣戦布告した敵陣の中心だ。それに考えても見ろ、私の殺害犯行予告――私たちにどれだけのアリバイがあろうと旗桐家からすれば私たちが犯人なんだぞ」
「いやでもアリバイがある以上それはないだろ。それに犯行そのものが僕たちには不可能なんだから」
「私たちのアリバイなんか旗桐家からすればあってないようなもの、そんなことどうだっていいんだよ」
どういう意味で八千代がそう言っているのか理解が出来ない。
僕が考えていることと全く違う方向に思考しているような、そんな感じがした。
推理のベクトルが違うような、事件解決への姿勢そのものが異なっているような、そんな気がした。
「塔野やい子が私たちに解決できると信じている、と言った。それがどういう意味なのかよく考えた方がいい」
「…………」
宣戦布告、殺害予告、敵、事件、殺害事件、解決――
敵陣の中心で敵の殺人事件の解決――
殺人事件が敵陣――
「……つまり」
僕はここでようやく理解する。
今、僕たちが身を置いている現状を。
ここはどこだ。
ここは、僕たちが敵と見做した――旗桐家が僕たちを敵と見做した本家邸宅だ。
旗桐家の権力の全てを掌握していた旗桐 行司。
そんな彼が死んだ。
殺されて殺されたのだ。
無残にも胸を刀身の長い刀で突き刺されて死んだのだ。
間違いなく他殺で、紛れも無い殺人事件なのだ。
僕たちの敵――敵である僕たちの殺人予告と共に死んだのだ。
そうだ。
つまりこれは――
「アリバイがどうとかいう話ではない。私たちはこの事件なんとしても解決しなければいけない」
「…………」
理解が追いついた。
八千代が思考してることをようやく身に染みて実感した。
「旗桐家は敵である私たちに殺人事件の犯人を擦りつけようとしている」
そうだ。
そうなのだ。
僕はただ単純に、他人事のように事件解決に乗り出していた。
けれど、そうじゃない。
僕たちが敵と見做した今、いや、旗桐家が僕たちを敵と見做した今、僕たちが置かれている状況はそういうことなのだ。
アリバイの有無なんて無意味――この事件の真相が国家勢力である警察機関に情報が漏洩しない故に無意味なのだ。
警察機関が介入しないのなら、アリバイなんて意味を成さない。
証言も、法律も憲法もあって無いようなもの――それが冤罪だとしてもだ。
前に一度閉鎖的だと思ったことがある。
全貌を捉えるには余りにも巨大過ぎる旗桐家の実態の一部を垣間見ただけでそう思った。
旗桐家の情報が外部に漏洩しないことから、えらく閉鎖的だと思った。
さらには国家の一部にまで浸透する権力を所持しているにも関わらず、旗桐家が抱えてる何かの全貌すら掴めない。
旗桐家の情報や実態を多少捉えることが出来ても、雲散霧消しないのはそういうことなのだろう。
林檎ちゃんの両親が生存していない中、本家の情報を保有しているのは少数だ。
いくら機密の漏洩を恐れているからといって、それでも少なすぎる。
死んだ行司、使用人、そして林檎ちゃんの両親を含めても六人だ。
今となっては二人。たった二人――である。
閉鎖的な空間が意味すること。
世の中とは異質で異形な閉鎖的社会が形成されている本家が意味すること。
「まぁ少年、気にすることじゃない。この事件私が解決するのだから」
「はは、自信満々だな」
「私は弁護士だよ、被疑者の少年」
八千代は笑う。
僕も同じように笑う。
そうだ、僕たちは悪じゃないか、魔王じゃないか。
さながらお姫様を連れさらう魔王なのだ。
初めから僕たちは旗桐家の敵で、そっちが正義だと言うならば、僕たちは悪なのだ。
どの道、こうして旗桐 行司が死んでしまった以上、僕たちにも火の粉が降りかかってくるということは予測済みだった。
今更、何を思うことがあるのだと言うのか。
僕はいつだって被疑者だったじゃないか――六月の通り魔事件だってそうだったじゃないか。
「では、早速だが状況を開始しようか――少年。いや、早速だが終わらせるとしよう」
僕は八千代を死体現場に残して、塔野さんと林檎ちゃんが待つ居間に向かった。
現場検証となると、八千代の方が圧倒的に優秀で、僕がいると逆に効率が悪くなってしまうことの方が多い。
以前の通り魔事件の時や、集団自殺事件の時もそうだった。
僕は正直、事件解決には向かない。
閃きや頭脳戦だって八千代の足元には及ばないし、現に中学二年相当――十四の少女にさえ言い負かされるのだから。
まぁ、それに関しては当然か。
しかし、林檎ちゃんは今何をどう考えているのだろうか。
旗桐行 司が死んだこと。
殺されたこと。
僕たちと一緒に眼前に彼の死を見据えた時はひどく怯えていたようだった。
居間で塔野さんと話した時にはすでに困憊してるようだった。
弱弱しくて、辛うじて意識を保っているような、そんな感じに見えた。
それもそうだろう。
いくら天才とは言え、鬼才とは言え、まだ彼女は幼い。
先月からすでに旗桐家から五名も死者を出しているのだ、気が滅入って当然だろう。
それも、事件の中心に位置するのは彼女なのだから。
悪く言ってしまえば、彼女のせいで先月に分家三名は死に、犯人だった本家使用人も死んだ。
そして今回も恐らく、彼女がいたから行司は死んだ。
いや、そう断定するには早計かも知れない。
旗桐 行司の死と林檎ちゃんの関係性は未だに謎なのだから。
それにしても気になることが多い。
八千代に考えさせられた結果、塔野さんが僕たちを敵と認識していることは揺るぎ無い事実だが、果たして林檎ちゃんはどうなのだろうか。
僕たちをどう見ている。
全ての学問を終えた少女は僕たちに一体何を見ている。
「何かわかりましたか?」
「今八千代が現場検証していますよ」
塔野さんが戻ってきた僕にお茶を入れながら言う。
慣れた手つきで湯のみを差し出す。
僕はそれを軽く会釈しつつ受け取って。
「塔野さん、そう言えば旗桐本家の機密や情報が外部に漏れ出さないように分家と閉鎖的な社会を形成していることは先の話でわかりましたけれど、そのメリットは一体何ですか?」
「……メリットと言いますと?」
「極小人数での情報の共有は概ね理解できます。情報が漏れ出すリスクも下がりますし。けれど、余りにも幅が狭すぎる。国の一部の勢力でさえ取り込むことのできる旗桐家――例えば、警察機関や省庁の一部とも同じように共有する方が正しいと僕は考えます」
林檎ちゃんはどうやら僕が思っていたほど疲労困憊してるようではなかった。
力の抜けた子供のように、ぼぉっとただ一点を見つめて正座していた。
どうやら塔野さんが出したであろうお茶も口にしていないようだった。
「少々勘違いしているように見受けられます」
塔野さんが林檎ちゃんの前に出された湯のみを取り、残っていたお茶を流しに捨ててから再度お茶を注いだ。
曖昧な白い湯気が立つ。
「旗桐家の力、つまり権力や財力を一体何だとお考えですか?」
「…………」
「旗桐の権力の要となるものは財力です。それも圧倒的な財力、それ故に当然、圧倒的な権力が付いてきます」
「……財力、ですか」
「はい、具体的に言えば、旗桐の生業としていることは不動産業が主です。膨大な土地の所有、巨大な財産。例えば、この財力が失われた場合、旗桐家の権力も同時に消失します」
「では先月の事件の解決策、分家との財力格差が平等になった現状――さらには分家との絶縁関係が意味することって」
「お考えの通り、旗桐本家の権力は今となって殆ど機能しておりません」
塔野さんは少し眉をひそめつつも、どこかもの悲しい表情をした。
変わらず同じ姿勢で同じ一点を見つめたままの林檎ちゃんの前にお茶を出す。
それでも林檎ちゃんは何一つ反応しなかった。
塔野さんは林檎ちゃんの顔色を窺ってから、しかし、と続ける。
「今言ったことは旗桐 行司の死が外部に漏れた場合のことを指します。それに、万が一漏洩したところで機能しないとは言っても、全くということではありません」
「当然ですね」
僕は相槌を打った。
それもそうだ。
現状、未だ行司の死はここにいる四人しか知らない。
けれど、塔野さんの言う通り万が一外部に漏れ出たとしても、巨大な権力を行使してきた影響は大きい。
大きすぎるだろう。
行司が死んだからと言っても、簡単に権力を消失するとは思えない。
今までどれほど世の中に影響を及ぼしてきたか。
勿論、これは直接的に一般とは無縁な話、しかし国や公営機関となれば別だ。
「分家の犯行なんでしょうか。財力の格差が無くなった今、全てを掌握する旗桐 行司が死ねば自動的に権力は分家に移行するはずです」
「―――!?」
この人今何を言っている……?
何を思ってそんなことを言った……?
何をどう考えたらそんなことが言える……?
どういう意図で、どういう思考をしているんだ。
その言葉にはどんな意図が隠されているというのだ。
どんな意思があるというのだ。
分からない。
分からない分からない分からない。
あなたは僕たちに犯人を押し付けようとしているんじゃないのか。
真犯人を見つけて解決しないと、僕たちを犯人として話をでっち上げるつもりじゃないのか。
その台詞は――その言葉は――決して言い放ってはいけない言葉じゃないのか。
僕たちは旗桐家に宣戦布告した。
塔野さんもまた僕たちに宣戦布告した。
この関係性が崩れる一言だ。
確かに彼女の言う通り、行司の訃報が分家に知られれば、失いつつあるとは言え、分家に権力が集中することだろう。
しかし、塔野さんは僕たちを犯人にするために事件解決を依頼したのだ。
いや、解決できなければ僕たちが犯人になるという、謂わば挑戦状だ。
僕たちの宣戦布告――殺害犯行予告という言質を利用した挑戦状だ。
けれど。
けれどそれは――今まで推測して、練りに練った思考を全て壊されたような、積み上げてきたものが一気に崩れ落ちたような、慎重に積んだ積み木が崩壊したような、頭の中で試行錯誤して組み合わせてきたパズルをひっくり返されたような、砂場で作った大きな城を蹴り崩されたような、そんな――言葉だった。
僕の心を折るのには十分だった――かもしれない。
「塔野さん、あなたから見れば、僕たちはどう見えますか?」
僕は慎重に、彼女の表情を読み取りながら、ゆっくりと訊く。
「魔王様には見えません」
と笑った。
僕は笑わなかった。