悪魔の終わり
「しかしまぁ、随分と大きく出たものだな、少年」
午前中の林檎ちゃんとの邂逅についての話を聞いた八千代は呆れ顔で言う。
眉間に寄せた皺は金剛力士像のようだった。
正確に言えば、左の那羅延金剛そのものである。
「まさか人を殺すために殺人行為をしようなんて。はは、これは飛んだ役者様だ。道化師にもほどがある」
「林檎ちゃんは僕のことを魔王と言ったからね。飛びっきりの演技力で期待に答えてあげようと、そういうことだよ」
ふはっ、とそこで八千代はさらに笑顔を続けた。
この間数十秒、僕は羞恥心に耐えながら彼女が腹を抱えて浮かべる笑顔をじっと見つめる。
じっと。
じぃっと――
「…………」
可愛いなぁ、全く。
可愛すぎるよなぁ。
涙を浮かべる目も薄い色の唇も鼻も耳も、全部可愛い。
嘘偽り無く、素直にそう思った。
「しかしだ、少年、そんな必要はもうないぞ」
八千代は人差し指で涙を払う。
小さなポーチからポケットティッシュを取り出して、徐に鼻水をかんだ。
「ん、どういうことだ?」
「旗桐行事はすでに死んでいるからな」
「……え?」
死んだ?
死んでいる?
どうして。
どういうことだ。
すでに死んでいる――?
「…………」
僕は沈黙する。
まさに意気消沈と表現してもいいだろう。
項垂れて、沈黙する。
「死亡時刻は君が林檎少女と病室で喋っていた頃、つまり午前十時三十分くらいだそうだ。心臓を一突きされてほぼ即死、殺害現場は旗桐本家一室だ」
「待て、八千代。待ってくれ……」
心の整理が追いつかない。
脳の理解が追いつかない。
事象の把握が出来ない。
「しかし、この情報の真偽が定かでない現状、確認しないといけないな。どの道、もう一度旗桐本家に向かうつもりだったが……まぁ、もう二度と行司に会うことは出来ないけれど」
僕は停止した脳に発破をかけるようにして思考する。
まともに現状を把握できる状態には程遠かったが、それでも思考する。
まずはアリバイ――仮説。
僕と林檎ちゃんにはお互いの潔白を示すアリバイが当然あるが、八千代はどうだろうか。
この喫茶店で八千代と落ち合う約束をしたのが十一時、死亡時刻が十時三十分なら可能だろうか。
いや、無理だ。
僕が十一時前にここに到着した時にはすでに彼女は席に座ってアイスコーヒーを飲んでいたのだから。
殺害現場から戻って来るのに早くてもニ十分、しかし八千代の運転の速度なら三十分強は掛かる。
不可能だ、と僕は安堵する。
「どうだい、私にはアリバイがあるだろう?」
と、僕の表情に気づいたのか八千代が微笑みながら言った。
彼女が嘘をついているという可能性は無きにしも有らずだが、僕には彼女が情報を誤魔化しているとは思えなかった。
これでもいささか長い付き合いなのだ。
彼女の全貌は掴めないにせよ、信頼できる人物ということに間違いはない。
わざわざ僕にそんな嘘の情報を伝える必要もあるとは思えない。
しかし、どうだ。
このタイミングで旗桐行司が殺害されたという現状――あまりに謎めいていないだろうか。
一体どういう答えが隠れているのだろうか。
そもそも、行司が殺される理由は何だ。
勿論、思い当たる節が無いわけではない。
けれど、旗桐行司を殺すとするならば、それは僕たちだけが出来る行為ではないだろうか。
宣戦布告、徹底抗戦の構え――殺人予告。
旗桐行司殺人事件の件に関してのみ言えば、容疑者は間違いなく僕と八千代の二名なのだ。
とは言っても、僕と八千代にはアリバイがある。
犯行不可能のアリバイだ。
親しい仲同士のアリバイは法律的に認められないが、これについては文句なしのアリバイだろう。
僕たちがお互いの潔白を証明できないしても、物理的に犯行は不可能なのだから。
僕は場所、そして林檎ちゃんと院内で声をかけた志木式さん、そしていつもの噂を嗅ぎ付けた多くの目撃者という証明。
八千代は時間、喫茶店の店員による証明。
林檎ちゃんが陰で祖父のことを殺したいくらいに憎んでいた上での犯行という線も無い。
どちらにせよ彼女のアリバイは僕が証明できる。
それに彼女の場合もまた物理的に、時間的に実行犯ということはまず間違いなく有り得ない。
犯行不可能だ。
だとすれば、一体誰が何の為に殺害したのだろう。
分家の人間という可能性は低い、がどうだ。
僕は一度呼吸を落ち着けて、脳内をリセットして再び思考する。
分家の人間が旗桐行司を殺害する理由が数多あるのは事実だが、それについては先月の事件で終結しているはずだろう。
実際、分家は多くの利益を得たのだから。
前に八千代が言ったように、旗桐本家におんぶで抱っこ状態だった分家が独立できる程の財力を得た。
そしてこれ以上の搾取は不可能と判断したのだ。
その証拠にあるのが、林檎ちゃんを連れ出したのが旗桐 行司だったということ。
彼女は自分の意思でここにいる、と言って見せたが虚勢もいいところだ。
つまり、当初に予想していた先月の事件の続き――分家の仕業という仮説は破綻したということだ。
旗桐 行司が持ち出したであろう分家との絶縁に関してだって、分家からすれば願ってもいない提案だったのは間違いない。
わざわざ本家を潰す必要がどこにあるというのだ。
極々僅かで、あまりにも薄い可能性の一つとして挙げられるのが、分家が僕の想像以上に本家に対して深い恨み辛みを抱いていた場合、犯行理由としては成立するのかも知れない。
しかし、成立したからといって、分家に何の利益が生まれると言うのだ。
旗桐本家の権力を奪取することが目的という線もまず有り得ない。
最早、今となっては本家と分家に隔たりはないのだ。
いや、そうじゃないか――絶縁された身とは言え、それは正式な発表はされていない、つまり旗桐 行司亡き今、分家が権力を掌握したということなのか。
もしもそうだとするならば。
もしもそういうことなら――辻褄は合う。
合致して、一致する。
真相は当然今のところ不明だけれど。
「さぁ、君も色々と考えているようだし、行こうか」
「……へいへい」
全く、噛ませ犬になったような気分だ。
飛んだ当て馬だ。
旗桐行司の死亡が意味することは、もう彼を殺せないということと同義じゃないか。
せっかく林檎ちゃんに証明してあげようと思ったのに。
これじゃ、魔王もお姫様も王子も――正義や悪、善悪なんて破綻しているじゃないか。
終局、投了だ。
お姫様をさらった魔王やお姫様を連れ出す魔王、何もかもが崩壊する。
舞台が整ったとは言え、役者が居ないんじゃ演技も出来ない。
僕は八千代の運転する真っ黒の新車の助手席に深く腰を据えて、そんな風に旗桐 行司の死を惜しんだ。
柔らかい革のソファが沈む。
八千代は彼の死を特に気にすることなく、平然といつもの表情で運転していた。
どうやら今日のライターは調子が良いらしい。
どことなく彼女の上機嫌も伺える。
人が死んだというのに、相変わらずの太い神経だな、と思った。
いや、それは僕も同じか。
今年の初め、二月末に起きた集団自殺事件を細い神経では到底乗り越えることはできないだろう。
もっと言えば、六月の殺人鬼通り魔事件だって。
加えて言えば、そんな大きな事件を過去に二度経験した今では、もう慣れてしまったのかもしれない――人の死、殺人に、自殺に。
赤い血も黒い内臓も、橙色の臓器も白い神経も、細い血管も、切り傷刺し傷も肉体の切断面も、真っ白の人骨や腐った臭いも、錆びた鉄のような鋭い臭いも肉が焼けた臭いも、鼻を劈く刺激臭や嘔吐を誘う腐敗臭も、内臓を踏んだ感触――まるで柔らかいガムを踏みしめたような感触も、へばり付く肉の塊や不愉快な音もねっとりとした音から伝わる全身の寒気や悪寒も、死体現場を目撃した瞬間の体の硬直や鋭く尖った針のような耳鳴りも――全部覚えている。
覚え切って、慣れている。
慣れ親しんだ光景だ。
それこそが、いつも僕がみる"情景"で、"世界"だ。
ほんの少しだけ忘れかけていた僕の世界そのものだ。
人が死んで、人を殺す。
殺した人は死んで、死んだ人は殺されて、殺して死んで、死んで殺して、殺されて死んで――人が目の前で死ぬのを何度も見た。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、経験してきた。
嫌というほど、嫌になるほど経験してきたのに、眼前にそんな世界が広がっているのに、僕はどうしても嫌になれなかった。
何も思わない訳ではない、なのに僕は躊躇いも躊躇もなくまた同じ世界に足をこうして踏み込んでいる。
まるで麻薬中毒者のように。
こんなにも外れた世の末で、僕は生きている。
いや、死んでいるのかもしれない。
死体が放つ異臭は想像以上の刺激臭で、嗚咽や嘔吐が止まらなくなる。
体の穴という穴から液体が漏れ、汁が溢れ出す。
目から涙、鼻水、そして全身の毛穴ですら開く。
滲み出る液体は汗とは言えないもので、排泄を行う器官ですら締まらない。
失禁する者だっている。
全身の筋肉が緩和し、脱力する。
歩くことも、立つことさえ出来ない。
衝撃的な事象を捉える場合に、まるで一瞬があまりに長く――スローモーションのように見えることがあるが、それは強ち間違いではない。
人間が特急電車に轢かれた場面も見た。
衝撃的な音と共に体が散り散りに、ばらばらに、四散する。
一瞬で肉体が木っ端微塵になる。
体内で圧縮されていたような真っ赤な鮮血が大量に散る。
それも一瞬にして血の水溜りが出来上がる。
轢かれた後の肉体は、最早人とは呼ぶには程遠い形状で、表すなら赤い塊。
ただの肉の塊。
硬そうな破片と柔らかそうな欠片が集合しただけの赤黒い塊。
一秒にも満たない時間の中で人間が四散する瞬間をこんなにもはっきり思い出せる。
小爆発を起こしたように飛び散る肉の断面や体の断面も鮮明に思い出すことが出来る。
人間が目の前で首を裂かれる場面も見た。
髪根っこを鷲掴みにされて、出刃包丁で首元を裂く。
それはもう簡単に。
まるで牛肉の調理をするように、簡単に首を裂く様だ。
人の首は本当に切り易い。
唯一ある脊椎の切断は難しいにせよ、首のおよそ九十パーセントは肉と器官で形成されているのだ。
ぶちぶちぶちぶちぶちぶち、ぶちぶちぶちぶち、ぶちぶちぶちぶちぶちぶち、ぶちぶちと裂ける音。
喉の切断から来る人の反射なのか、異様な音を喉が鳴らす。
それはうがいに似た、血のうがいにも似た異音。
肉を切る異音を感じるには首が最も理想的なのかもしれない。
――そんな。
こんな浮世離れした世界を見てきた僕は、もう人の死体を見ても嗚咽一つすることもなかった。
異臭にも残念ながら慣れ、涙も鼻水も、汗すら出なくなってしまった。
全く、自分でも思うがぶっ飛んだ神経だと思う。
戦慄を覚えたり萎縮したり、青ざめたり震えたり、そんな感情表現すら出来なくなってしまったのだから。
少なくとも死体現場では、そんな感情に囚われることは無い。
愉快に雑談するほうが、感情移入出来るというものだ。
本当に可笑しな話だと思うが。
死体を見て何も感じないくせに、八千代や林檎ちゃんと話している時はすっかり普通の人間で、常人だ。
行動も、言動も常人の範囲内なのだ。
ただその一点――死体現場で抱く感情という一点だけに関しては、僕は狂っていると思う。
林檎ちゃんを完了した少女と表現するなら、僕は狂った少年、にでもなるのだろうか。
それは嫌過ぎるな……。
だから僕は――
だからこそこんな僕は――
旗桐 行司の死体を目の当たりににしても特に何も思わず、ただじっと"それ"を見つめて佇む。
「何度見ても、何度経験しても、さすがに慣れないね、これだけは」
八千代が朧げな口調で言う。
苦虫を噛み潰したような表情だった。
けれど、どこかどうでも良さそうな、そんな印象も感じられた。
「……お兄ちゃん」
林檎ちゃんが僕のジャケットの裾を強く握り締める。
僕はそれを振り解いて、小さな手を握った。
指と指を絡ませて。
「……はぁ」
はぁ、とため息を一つではなく二つ。
旗桐 行司は昨日、僕達が宣戦布告したあの一室で――もっと言えば、昨日と同じ上座で昨日と同じ座布団の上で、奥に飾られた大層な屏風にもたれ掛かったようにして死んでいた。
胸には高々と、深々と刀が突き刺さっていた。
体の中心を射るようにして刺さった刀の刃を両手で握り締めながら死んでいたのだった。
明らかな死。
紛れも無い死である。
心臓を一突きされたであろう様は、どこからどう見ても確実に死んでいた。
一目見ただけで理解できるほど、瞬間的に把握できるほど、死ぬに死んでいた。
畳には若干変色した赤黒い血が染み込んでいて、ワインレッドのカーペッドが敷いてあるようだった。
飛び出るほどに見開いた目が何かを物語るように見える。
赤茶色に染まった袴は、それでも高級感を滲み出していた。
「警察に通報はしてないね」
「えぇ、勿論でございます」
僕たちは一度、居間であろうだだっ広い空間に集まる。
昨日、旗桐 行司の後ろの座っていた使用人の方が八千代の質問に答えた。
塔野 やい子、と彼女は名乗った。
醤油に浸けたような黒い髪を後ろで結んだ姿は使用人とは思えないほどの気品を醸し出している。
おしとやかで、深窓の令嬢如き振る舞いはしっかりと板についていて、尚且つ幼げな顔にはそぐわないはっきりとした口調だった。
自分の意思をはっきりと口にできるようなタイプだと思った。
そして、ぶっちゃけて言うと、かなり好みである。
とくにかくにも、話を戻そう。
「警察への通報は私たち旗桐家の事件を公にしてしまうことと同義ですから。力で隠蔽は出来ても弱みをわざわざ見せることを良しとは致しません故」
「あなたは使用人だろう、旗桐家のメイドという身分でどうしてそこまで配慮する必要がある。普通、当主が死んだということなら真っ先に警察に連絡するのではないか?」
「私ども使用人は身も心も旗桐への忠義で出来ています。まぁしかし、これはお金で買える忠義ですけれど」
「……ふぅん。では分家の連絡は?」
「それにも至ってはいません。現状絶縁状態にある上に旗桐 行司の死は悲報――彼らからすれば吉報ですから」
思考し直そう。
喫茶店で思考したようにもう一度――反芻して再認識しよう。
旗桐分家による犯行という可能性は若干残してはいるが、一つだけ可能性が消えたことがある。
『あれ』は明らかに他殺によるものだ。
何かの理由で自殺したという極僅かな可能性も潰えたのだ。
他殺ということは、犯人はどこかにいるということである。
犯人は一体誰なのか――
「しかし第一発見者、何故私に最初に連絡をしてきたのだ」
八千代は塔野さんのことをそう呼んだ。
礼儀知らずにもほどがあったが、僕はそれを軽く受け流す。
そうか。
喫茶店で八千代が言った旗桐 行司の訃報は塔野さんによるものだったのか。
「昨日のことを私は鮮明に覚えております故、まず初めに『敵』であるお二人にお知らせを、と思った次第です」
他に連絡する相手がいないのもまた事実、とはっきりとした口調で塔野さんは言った。
閉鎖的だ、と思った。
僕が思っている以上に旗桐家の抱える『何か』は大きく暗い。
詳しく事情を知らないということもあるが、旗桐家の全貌が見えない。
大きすぎて、掴めない。
「塔野さん、他に連絡する相手がいないというのは?」
僕は思考を一度停止させて尋ねる。
事件を解決するには少しでも旗桐家の情報が必要だと思ったからだ。
深い事情に関して塔野さんが口を割るとは思えなかったが、それでも少しだけでも情報を仕入れることは必要だろう。
「ご存知かと思いますが、旗桐本家であるこの屋敷には四名住んでいました」
塔野さんが語る。
過去形で語る。
「旗桐 行司を初めに、林檎、そして使用人である私ともう一人。もう一人の使用人というのはお気づきでしょうが、先月の事件で分家三名を殺害した者です」
「その方は今どこに?」
「殺されました、分家の手によって。謂わば処刑ですね、見せしめの」
「…………」
「先ほど連絡する相手がいないと申しましたが、正確には機密を外部に漏らすことの出来る相手がこれ以上存在しないという意味です。今では分家は絶縁状態にありますしね。しかし、旗桐本家と関わりのある企業や人間は無数におります」
あぁ、そうかと思った。
旗桐家の排他的社会は本家と分家のみで機密を守ってきたところに由来しているのか。
林檎ちゃんの両親も死んでいるということもあり、本家の中身は薄い。
実質の権力を全て旗桐 行司が握っていたということも頷ける。
だからこそ本家では使用人という立場にせよ、最も身近に存在する彼女らにまで内部情報を伝える必要があったのだろう。
十四の林檎ちゃんには荷が重い。
負担が大きすぎる。
ましてや一年の半分を病室で過ごす身、容易にこなせるとは思えない。
「私が身勝手ながら何故八千代様に連絡したかと言うと、あなたになら解決できると確信しているからです」
「ははっ、解決しなければいけない、の間違いだろう」
「十全ですね。あなたになら安心して任せることが出来ます――安心して」
そう言って塔野さんは顔には似つかない歪んだ笑顔を見せたのだった。
僕は林檎ちゃんのような笑顔だ、と何故か思った