悪魔の始まり
日付は変わり九月十三日。
僕はとある病院の一室――綺麗にメイキングされたベッドに腰を掛けていた。
昨晩の八千代の暴走にも似た言動によって旗桐本家を敵に回してしまった訳だが、それは林檎ちゃんまでも混乱させたであろうものだった。
旗桐のじいさん――旗桐 行司が死ねば関係ないじゃないか。
それも孫娘の眼前で、である。
全く、どんな神経して言えたのかわかったものじゃない。
旗桐本家に宣戦布告した以上、僕たちには此度の問題を完全に解決する必要があった。
いや、勿論、最初からそのつもりではいたけれど。
元より承知だったけれど。
そもそも、強引な手段を選択しなければならい状態だったのかもしれない。
旗桐 行司は相変わらず聞く耳なし、と言ったところで取りつく島もなかったのだから。
林檎ちゃんの言葉の真意がどうあれ、彼女の思考がどうあれ、旗桐 行司には関係無いのだから。
知ったことではない、そういう様なのだから。
僕達が彼女の意思を無視しようとしているのも同様だ。
林檎ちゃんがもしも、本当に自らの意思で本家にいるとしても――すでに手遅れなのかもしれない。
すでに、旗桐本家は敵となってしまったわけだし、簡単に手を引けるような状況でもないだろう。
八千代の作り出した状況、旗桐家の頂点――全ての権利を掌握する男を脅迫したということなのだから。
さらには殺害予告付きである。
八千代のとった言動の真意は未だ明確に見出せないけれど、紛れも無くそういうことなのだから。
いや、彼女は初めからそのつもりだったのかもしれない。
旗桐行司を敵に回して、旗桐本家を敵と見做すしかないと、林檎ちゃんを取り戻すにはそれしかないと、そう考えているのかもしれない。
その為には宣戦布告だろうが、殺人予告と解釈されようが、示威行為が必要だったのだろう。
敵は、旗桐 行司である。
悪は、旗桐本家である。
この場合、正義は僕たちだ。
さながら、魔王に連れ去られたお姫様を助けるような、そんな感覚だ。
例え悪と言われても、僕達は正義なのだ。
正義は主観でしか語れないのだから。
それなら、彼の立場になって僕達を見ると、お姫様を連れ去りに来た魔王なのか。
そうだとしたら面白い。
全く、笑えて来る。
正義と悪、悪と正義、悪魔染みた正義、悪魔のような正義。
正義は悪、悪が正義、魔王とお姫様――さて、どっちが魔王なのか。
なんて。
正直どっちが正義だとか、そんなこと知ったことではない。
僕は、僕たちは、彼女を連れ戻すだけなのだから。
いや、連れ去ると表現した方がいいか。
「正義は――どっちにあるのだろう」
僕は皺一つなく整えられたベッドに寝転ぶ。
まさに、微に入り細を穿ち。
一流のホテルでもこんなに綺麗に広げられたシーツは見れないだろう。
前に僕が入院した時とは違う。
旗桐家の強力な財力は病院にまで及んでいるのだろうか。
まぁ、警察の一部まで取り込める程なのだから不思議ではないか。
「…………」
そにしても、それにしても、だ。
林檎ちゃんの良い匂いがする。
枕に顔を深々と埋めて僕は思う。
さすがに彼女の温か味は無かったけれど、まるで石鹸のシャボン玉のような匂いだ。
これはきっとあの艶々な短めの黒髪の匂いだろう。
艶やかで、艶かしい――黒髪。
アロマセラピーでもしてる気分で気を緩めるとすぐに眠ってしまいそうだった。
しかし、そんな癒しの時間はすぐに終わりを迎える。
「……わたしのベッドで何をなさっているのですか、お兄ちゃん」
はっ、とした。
驚き、驚愕、驚嘆。
突然の声で体が反射のように固まった。そして、はっと我に返った僕であった。
「こ、これは君のベッドじゃなくて病院のベッドだ」
その返答に林檎ちゃんは呆れた様子で、それでも相変わらずの一定の声量で言う。
「では、質問を変えましょう。どうしてお兄ちゃんはわたしの匂いが染み付いているであろう枕に顔を押し付けて、荒い鼻息を立てながら涎を垂らしているのですか」
「――――っ!」
「はぁ……わざわざお兄ちゃんがここにいると聞いて来たと言うのに」
「…………」
僕は名残惜しく枕から顔を上げ、体を起こす。
林檎ちゃんが目の前にいる。
昨日僕たちが宣戦布告した旗桐行司の孫娘、旗桐林檎が目の前にいる。
しかしまぁ、うん、アレだ。
本当に――本当に良い匂いだった……。
八千代はたまにお風呂に入るのをサボるせいか、ここまで良い匂いはしない。
「お兄ちゃんがわたしの病室に侵入したという通報を受けましたので、駆けつけさせて頂きました」
志木式さんか、僕の癒しの時間を邪魔したのは。
後で説教しないと。
いや、予想通りの仕事をしたと褒めてあげなくては。
生憎、褒めるのは得意ではないんだけども。
「と言うのは表向きの理由です。きっとお兄ちゃんがわたしに色々訊きたいことがあるんじゃないかと思いまして。唯一と言ってもいい、この閉鎖的な空間なら誰にも盗み聞きされないでしょうから」
僕の行動は的を射ていたという訳か。
彼女ならこの病室に来てくれるということは予想していたけれど、思っていた以上に早かった。
あえて志木式さんに病室に入ります、と報告した甲斐があった。
「さらに言えば、お兄ちゃんからのせっかくのお誘いを断るほど野暮でも無粋でもありません」
「……へぇ」
なんだ、分かっていたのか。
僕の思惑通りに行動してくれた、ということか。
適わない、全く。
「じゃ、林檎ちゃん、タイムリミットもあることだし単刀直入に訊こう」
「はい、手っ取り早く済ませましょう」
僕は問う。
彼女の真意を。
本来の意思を。
そして彼女の心理と思考を。
嘘偽りない彼女の気持ちを確認するために。
惑うことの無い真相を理解するために。
微かに揺らぐ僕の不安を払拭するために。
否が応にも答えてもらおう。
君は――
君は――
「君には、僕が魔王に見えるかい?」
と、僕は林檎ちゃんを見つめる。
彼女は笑った。
かつて一度も見たことが無い笑顔だった。
少しのぎこちなさを残しつつも、それでも優しく大胆に笑った。
ふふっ、と消え入りそうな声で笑った。
まるで天使のような、そんな天真爛漫な笑顔だった。
口元に当てた指はさながら――『お姫様』のようだった。
「勿論です。従前通り現在も、そして未来永劫お兄ちゃんはわたしの魔王ですよ」
僕は林檎ちゃんに別れを告げ病室を出る。
悠然と足を踏み出す。
病院内を闊歩する。
これで僕の不安は消失した。
完膚無きまでに払拭され、叩き消された。
淀みも無い確固たる意思を見出すことができた。
今まで迷っていたこと、惑っていたことがあったがそんな不安は微塵も無い。
まさに塵一つ無い。
『守るための殺人行為は綺麗です』と言って見せた彼女に証明してみせよう。
そんなもの偽善でしかないと。
殺人行為を肯定するための綺麗事で絵空事だと。
そして、まだまだ学習するべきことがたくさんあるのだと再認識してもらおう。
旗桐分家の三名が殺害された事件を、君を守るための殺人行為だと言うのなら、僕は人を殺すために殺人行為をしよう。
都合良く、犯行予告までしてきているのだから。
ステージは八千代が用意してくれた。
舞台は林檎ちゃんが用意してくれた。
あとは、目一杯の観客を動員して、僕が演じようではないか。
道化師のピエロの物真似でもしようか。
それともクールに気取った手品師にでもしようか。
「再会のための別れを、お兄ちゃんに」
僕は思い出す――別れ際の彼女を。
僕は想起する――友愛を誓った彼女の震えた手を。
僕は忘却する――再会を祈った彼女の満面の笑みを。
そして、僕は振り返る――黒い影が『魔王』に見えた。