Ⅲ邂逅編
九月十二日午後七時三十分。
南東に位置する僕の自宅とは真逆の方向、つまり北西に向かって真っ黒の車を走らせていた。
下道を十五分、高速道路をおよそ二十分。そして今はまた下道を走行中だ。
旗桐家に向かう途中である。
旗桐家――旗桐本家の邸宅へと続く車道。
運転席には八千代真伊。
決して運転は上手いとは言えないが、普段の性格や口調には全くそぐわない――全く似合わないような超安全運転だった。
法定速度なんて知るかとでも言いそうな彼女が、信号なんて知るかとでも言いそうな彼女が、下道では大よそ十キロから三十キロの範囲で走行し、ましてや注意を促す黄色信号では余裕をもって減速してから停車していた。
さらには前方の車との車間距離ですらしっかりと保たれており、車線もしっかりと意識した走行だった。
と言うか。
免許持ってたんだなぁ。
僕もいい加減取らないといけない、せめて大学生のうちに。
「運転免許なんか誰でも取れるんだから、さっさと取ればいいさ」
八千代が黄色信号で停車したうちに、ケースから一本の煙草を取り出した。
それを口にくわえたはいいものの、中々火のつかないライターに手間取っているようだった。
「あー、くそっ」
「青」
「へいへーい」
「と言うか、八千代が免許持ってたなんて知らなかったなぁ。予想外の安全運転だし、まだペーパードライバーなのか?」
なんでも率なくこなす八千代にとって、これは少々珍しいことだった。
林檎ちゃんにも劣らない頭脳を武器に、スーパーコンピュータを使った情報戦や心理戦、発想力に秀で、何でも知っている――どんな思考でも彼女の前では筒抜けなのだ。
世間一般の弁護士ってこんなにも凄いのか、と思わせるような。
なんて。
こんな弁護士普通じゃないだろう。
いてたまるか、である。
異質、異形、異端。
どこぞの少女と同じように、"世界"から外れた少女と同じように。
「あぁ、免許か、免許ね……」
「どうしてそこで口篭るんだよ」
「免許は買った」
「…………」
こんな弁護士いてたまるか。
誰だよ、こいつに国家資格与えたのは。
こんな一般常識の通用しない人間が国家資格を持って悠然闊歩してる世の中は一体どうなってるんだ、全く。
「免許なんて金で買えば済むのだよ。大体、運転なんて見様見真似でも出来るからな」
「弁護士が言っていい台詞じゃないな、少なくとも今の言葉は語弊があり過ぎる」
「はは、そうだな、訂正しよう。まぁ免許だって権利だって金で買えるものさ。人間だって買える――才能だって当然」
「その点については概ね同意するよ」
そう――才能は金で買える。
ビジネスであり商売だ。
車内にはいたるところに灰皿が置かれていた。
運転席の左右から助手席、後部座席まで、さすがの重喫煙者と言ったところか。
しかもどの灰皿も山のように煙草が積み重なっていて火事でも起こりそうだった。
後部座席の灰皿に関して言えば、キャンプファイヤーの如く綺麗な四方形で積まれている。
「水商売をしているとある友人の話だ」
八千代がバックミラー越しに僕を見て言う。
少しだけどきっとした。
いや、大いにどきっとした。
「何人もの男を見てきた彼女が言うには、出世する男は灰皿を見ると良いらしい」
「……ふぅん?」
「出世した男の大半は消した煙草が綺麗に並べられているという話だ。逆に言えば、煙草を消すという行為ですら乱雑にするようなやつは出世できないということだな」
「その理屈は分かるけれど、八千代は男じゃないよね」
八千代がふふっ、と可愛らしくそこで笑った。
可愛いなぁ、なんて思いながら僕はバックミラーを見る。
「もっと簡単に言えば、挨拶すらまともに出来ない人間は何時まで経っても建設的な人間関係を築くことが出来ないということさ」
「…………」
話がすり替わってる。
大いに飛躍している。
しかし、僕はここで野暮な突っ込みは入れない。
沈黙である、あえての沈黙である。
「建設的な人間関係と言えば、あの少女はどうなんだろうな」
少女――旗桐 林檎。
齢十四にして全ての学問を終えた彼女。
学問を終えた少女。
完成して、完了した異形の少女。
「少なくとも、行司には好意的だったように見えるけど、林檎ちゃんから両親のことは聞いたことないな」
そう言えば、と思った。
両親について話を聞いたことが一度もない。
先月の事件で旗桐本家を尋ねた時に、挨拶をしようと思っていたけれど結局会うことは出来なかったし。
僕が林檎ちゃんと少なからず仲良くさせてもらっているということは両親の耳にも届いていることだろう。
「林檎少女に両親はいない」
「いない?」
「正確には春に彼女の両親は同じ時間に、同じ場所で死んでいる。少年、君もすでに知っているだろう」
「……僕が?」
「あぁ、君は知らないんだったか。まぁ、知らないのも当然だな、旗桐家の問題や事故事件は決して表に出ないからね。それにしても、旗桐 晴弥と繋がっていたのに、どうしてそんなことも気付かないのか……」
八千代はハンドルを握りながら両肩を竦めた。
両親はすでに死んでいる――旗桐 晴弥……。
ってことはまさか……。
僕はたった今、およそ半年の月日を経て、春頃に起きた連続自殺事件の真相に思い至ったのだった。
「と言うことは、林檎ちゃんが旗桐家で唯一信頼できるのがじいさん――旗桐行司ということか」
「どうだかね」
「なんか含んだ物言いだね。八千代が曖昧な表現するということはまだ何かあるのか」
「……どうだかね、それより――」
と、ここで。
意味のあった会話かどうかは定かではないけれど、出発しておよそ四十分、ようやく旗桐本家邸宅に到着した。
八千代の安全運転のせいか、バスで行った先月より遥かに時間を要した。
公営バスより遅いってどういうことだよ。
しかも、高速道路まで使っておいて。
まぁそれはともかく。
旗桐本家は都心部より少し離れた住宅街の一角にある。
住宅街と一概に言っても、一般的なそれではない。
どの家を見ても、どこを見渡しても豪邸、豪邸。
家とは言えない城のような住宅、ホテルにも似たそれら、どの住宅をとっても外周の壁の長さは数十メートル或いは数百メートルはありそうだった。
こんなんじゃ、隣人交流すらままならないだろう。
回覧板を渡すだけで大変だ。
その中で――この広大な住宅街の中で、より強く存在感を放っているのが旗桐本家である。
およそ数百メートルの外郭で長方形に仕切られたのが旗桐本家、言わば総本山だ。
まるで皇居に匹敵するほどで、上位層の人間が旗桐家の外周でランニングを楽しめるような、そんな印象だ。
訪問は二度目だが、この存在感はさすがと言うべきか。
重厚な外門には警備員が配置されており、僕たちは車の窓越しで対応する。
おそらく二十四時間交代制での警備だろう。
外郭にも等間隔で防犯カメラが設置されているし。
まぁ、これだけの権力や財力を持ち合わせている旗桐家ならこの程度の警備は当然か。
警備隊を動員していないだけまし、ということなのかも知れない。
先月の訪問でも思ったが、しかし、やけに物静かな住宅街だと思う。
遠くの方で車の走行音が聞こえてくる程度で、生活音が全くしない。
ちらほらと周囲の住宅には光が点いているようだったけれど、人間の声すらしない。
それぞれの土地が広すぎるせいか。
そうこうしている内に、若い警備員が重そうな門を開ける。
少々鉄の錆びた音を立てながらゆっくりと。
ゆっくりと――
眼前に広がるのは庭園、日本庭園――いや、最早これは公園に近い。
公営の公園にも劣らないほどの広大な土地だった。
中心にはロータリーを兼ねた噴水があり、その中心部から枝分かれしたように赤茶色のタイルが道を作っている。
辺り一面真緑の芝生。
それを彩るように昼白色のライトが足元に散らばっている。
赤茶色のタイルを示すように、光の道が四方に広がっていた。
さらには、外郭をなぞるように植えられた松の木、きっと黒松や赤松といった高級植物なのだろう。
門を抜け、中心のロータリーのさらに奥――赤茶色のタイルの先には立派な日本家屋が存在している。
それはやけに横に広かった。
八千代は円を描いたロータリーにゆっくりと車を止める。
そして――
ガンっ、と。
ガンっ、と。
ベキっ、と。
「…………………………………………」
左ハンドルのせいか、八千代が運転席の扉を開けた先に石垣――芝生とタイルの境を示す石垣があった。
ガンっ、と。
ベキっ、と。
「あ、あぁ、あぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「…………」
「う、そだ……し、新車なのに――新品車両なのに…………ど、ど、どうして……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「八千代、落ち着いて」
「落ち着いてられるかっ! 新車なんだぞ! どうしてこんなとこに石垣……ああぁぁぁぁぁ!!!」
「…………」
「欠けてるじゃないか! 扉の下辺が欠けてるじゃないか! しかも擦り傷も……うわぁあぁ!」
「…………」
「くそ! 許さない、絶対許さない、あのじじい。旗桐本家がなんだって言うんだ、あのじじいだけは絶対許さない、殺す」
八千代は涙を浮かべながら扉をぶつけたであろう石垣に蹴りを何度も入れていた。
黒いハイヒールのピンが飛んでいっても気にしていない様子だった。
あぁ……。
あぁ、と僕は嘆息する。
残念だけどもう僕には止められない。
旗桐行司には気の毒だけど、きっと八つ当たりされるだろう。
それも最上級の、最高峰の八つ当たりだ。
「……あの、八千代さん」
「あぁ!? 今話しかけんなボケ、今私は石垣と喧嘩してるんだよ!」
「ひぃぃ……!」
と、振り返るとそこには。
そこには小さな――小さな体。
終わりきった少女。
完成した彼女――旗桐 林檎が小さく蹲っていた。
「はぁはぁ……あ、えっと」
「…………」
「…………」
僕と林檎ちゃんは悲しげに八千代を見て沈黙。
自分でも思うがかなり白々しい眼差しだったと思う。
「あの……八千代さん達が到着したと聞いてお迎えに来たんですが」
林檎ちゃんが少々怖気ながら言った。
そう言えば、こんな彼女を見るのも珍しいと思った。
普段はいつも不機嫌そうな顔をして、ぶっきら棒で、何かに対して常に怒っているような、そんな表情なのに。
たまに垣間見る愛くるしい不器用な笑顔と同じくらい珍しいものだった。
「と、取り乱してすまなかった……」
八千代が素直にそう謝ると、林檎ちゃんは少し嬉しそうに頷いて見せた。
ところで、と。
林檎ちゃんが静かに言う。
「八千代さんとお兄ちゃんはどうしてこんなところに?」