Ⅰ問題編
旗桐本家と分家の間に生じている確執はどうやら林檎ちゃんの存在だけによるものではないらしい。
ぎりぎり繋ぎ止めていた歯止めが切れたのは、今にも崩れそうな天秤に追い討ちをかけたのが林檎ちゃんの才能ということだった。
実際、林檎ちゃんに関して述べると、彼女の才能が周囲を狂わせたのは今年に入ってからだと言う。
異端という異質が――天才という異質が放っていたのは狂信だ。
狂信者ばかりが集まった分家はみんな、彼女に見蕩れていた。
見惚れていた。
しかしまぁ、よくある話だ。
人は異彩に惹かれる。天才に憧憬を抱く。
才能にときめく。
それは近ければ近いほど――彼女という存在が身近なほどより強く。
そして最後に嫉妬する。
妬む、厭う。
本来の歯止めが効かなくなる。
その結果だろう。
とどのつまり、ぎりぎり表面上で保っていたラインが林檎ちゃんの才能の開花に伴って崩れた。
均衡が崩壊したのだった。
旗桐 行司が何を考えているかはわからないけれど、分家の思考はあまりにシンプルだ。
狂った信者は崇めようとするだろう、敬うだろう、そして畏怖することだろう。
最初は林檎ちゃんの才能を利用して名実共に本家を凌駕する力をつけるということに目的があったとは思っていたが、それはどうやら間違っていたらしい。
いや、強ち間違いではないのか。
少なからずそういった考えもあったはずだ。
由緒正しい家系に生まれると大変なもんだ、まったく。
本家と分家の確執、家族の執着、彼女への執着、そして因縁――十四の少女になんて黒いものを背負わせているのか、気が知れない。
正直知りたくもないが。
まぁともかく、林檎ちゃんがさらわれたということは、つまり、これは先月中旬に起こった事件の続きだろう。
解決はみたと言ったが、実質、旗桐 行司の独壇場で納得していない人がいるというのは予測していたことだ。
それはあまりに強引な手段――林檎ちゃんを金で買い戻したと言っても過言ではないような、解決策だったのだから。
確かに才能は金で買えるだろう。
天才は金で買えるだろう。
それに関して僕がとやかく言うことじゃない。
金で天才芸術家を雇う人もいるだろうし、曲を作ってもらう人もいるだろう。
当然のことだ、才能は単純にビジネスにも成り得るのだから。
自らの才能を売るということは、自分の才能を自覚し、認識しているが故に出来る立派なビジネスだと思う。
そういう生き方もありなのだろう。
人それぞれ、才能もそれぞれなのだから。
しかし、だ。
しかし、僕は気に入らない、気に食わない。
本人の意思とは別に、家族である大の大人が少女を身売りするような行為など許容できるわけがない。
そんな真似が許されるはずないだろう。
あくまで、先ほどのようなビジネスが許容され認知されるのは意思がある者だけだ。
自分を売るという意思、自分の才能を売るという意思が、少なくとも、今の林檎ちゃんにはない。
親が勝手に、祖父母が身勝手に、本家が勘違いして、分家が狂ってやってる呆れた人形劇だ。
何の面白みもない。
浮かべるのは失笑、苦笑――それだけだ。
「さぁ少年、この状況をどう思う」
林檎ちゃんの見舞いが終わって、帰宅した直後の呼び出し。
時刻は午後三時を過ぎた頃だ。
僕は八千代が愛煙する煙草を手土産に彼女の自宅にいた。
マンションの一室である。
とても広いとは言えないが、それでも一人暮らしをするには十分すぎる程だった。
一人暮らし、女性、八千代、二人きり。
同じ格好、真っ黒のスーツ。
「この状況というのは、私と君が同じ格好で男女二人きりの一室で存在しているということはないのだよ」
「…………」
僕はあえての沈黙。
八千代は僕が簡単に作ったパスタを口一杯に頬張りながら言う。
「……美味しいな、今度私に教えてくれ」
「そりゃどうも。有り合わせだけどね、冷蔵庫に入ってた腐りかけの野菜も入ってる」
「美味しければいいさ、腐ってても」
「けれど八千代、君は僕が料理をいくら教えても一向に学ばないな」
「ん、あぁ……いや、そうじゃない。ご飯を食べること自体少なくてね」
まぁ知ってはいたけれど。
そのせいか細すぎて折れそうだ。
小さな体躯は八千代と初めて出会った春から変わらない。
いや、それどころかどんどん痩せているような、細くなっているような気がする。
それにしても、食が細いにも程がある。
「しかしまぁなんだ、体はどんどん細くなるのにそれでも胸だけは大きいのだけどな」
「君の胸の話はどうでもいいな」
それより、と僕は続ける。
本当にそんなことより、だ。
「林檎ちゃんがさらわれたのは僕が帰った後すぐなのか?」
八千代は両手を合わせながら食べ終えた皿に向かって深々と頭を下げた。
なんともまぁ礼儀正しいというか。
しっかりしているというか。
「そうらしい、正確には君が病院から出て五分後だ」
「それなら今頃、病院では失踪した林檎ちゃんのことで混乱しているんじゃないか? 警察に伝わってもおかしくないだろう」
「いや、林檎ちゃんの問診は就寝前、つまり消灯時間の前だから恐らく未だ誰も気付いていないはずだな。詳しく言えば午前にも一回、計二回だ」
あぁ、と思った。
僕は毎回同じ曜日に同じ時間にお見舞いに行っている。
週一回の恒例行事みたいなものだ。
なのに、いつもと同じ時間に病室に入ったにも関わらず、林檎ちゃんの生着替えに遭遇するということは今までに無かったことだった。
林檎ちゃんだって僕が来る時間もわかっているだろう。
それはつまり、僕が来る前に触診でもされていたのだろう。
「おい、少年。それはおかしいだろう」
「……ん」
「毎度同じ曜日、時間に病室に入っていて、それを見かけるということは、どうしてか今日は問診時間がいつもと異なっていたということではないか」
「あぁ、そうか」
なるほど、そういう考えか。
衝撃的だったのかいつの間にか林檎ちゃんの生着替えを中心において思考していた。
「あと、生着替えという表現はやめておいた方がいいぞ。十四の少女になんて表現使っているんだ」
「地の文を平気で読むんじゃねぇよ、筒抜けか」
「まぁつまりだ、問診時間のずれと少女がさらわれたことは恐らく、繋がっているだろう」
「ということは予定されていたことか。林檎ちゃんが失踪したことに気付かれるのまでの時間稼ぎっていう感じかな」
けれど。
けれど、そんなことが可能なのか。
定期検診は毎日同じ時間に行われるはずだ。
何か不都合が無い限り――
「旗桐 林檎は何故入院している?」
「それは精神的に不安定だからだろう」
「じゃあ、何で君は触診されたであろう後の彼女を見かけることができたんだ?」
「…………」
そうか。
それはおかしいことだ、あり得ないことだ。
どうして病気でも怪我でもなく、至って健康な彼女に触診する必要があるというのだ。
ただ単純に精神的に不安定になりがちで、少しでも落ち着ける場所の提供として病院の一室を与えられている彼女にとって、精神状態を確認する問診はあっても触診なんてあるはずがないのだ。
そんな必要性はどこにもないのだ。
ということは、ということはつまり。
「確かに彼女の問診時間は昼前、つまり君が病室を訪れる少し前と消灯時間前の二回だ。けれど健康状態である彼女にとっての問診というのは、ただの会話でしかない。普段通りに会話が出来るかどうか、対話ができるかどうかだ」
昨日、志木式さんとの色々な噂の真意を聞かれました、という彼女の言葉を思い出す。
噂が広まっているという言葉を思い出す。
昨日。
昨日。
――昨日。
「ここからは推測だが、恐らく午前の検診を行ったやつが彼女をさらった犯人だろう。健康状態で外出自由な彼女のこととはいえ、閉鎖された病室から連れ出すということは突拍子に出来るものじゃない。少なからず彼女も抵抗を見せるだろう。言わば下調べに検診を装ったと言ったところか」
「病院内の医者に旗桐家の人間がいるってことか?」
「その可能性もあるが、別に彼女の問診なんて担当医にでも言えば免除されるだろう。家族を名乗って、二人でゆっくり話したいから午前は無しにしてくれ、とかな」
「…………」
それなら妙だ。
病室にいるのがほとんどとは言え、家族と絶縁状態にあるという話は聞いたことがない。
むしろ祖父にあたる旗桐 行司は孫を溺愛している。
もしも本家の人間による仕業なら、そこまでの嘘をつく必要がどこにあるというだろうか。
外出という口実で簡単に連れ出すことも可能じゃないのか。
いや、どうだろう。
分家の人間が彼女を狙ったとなると、それは難しいことなのかもしれない。
ましてやあんな残酷な事件の後だ、林檎ちゃんも少々ナイーブになっていただろう。
相変わらずそれは表情には出さないけれど。
もしも、そう考えるなら簡単に連れ出せない分家の人間が工作した結果ということなのか。
少なくとも、それなら頷ける。
事件の蚊帳の外にはいたものの、中心の存在であった彼女のことだ、連れ戻そうとする気持ちもわからなくもない。
それに、病院側も健康状態の彼女に対して多少の融通は利かせていたに違いない。
それもそのはず、本当に問診を免除するくらいなのだから。
当然の話だ。
形上の入院費は受け取っているらしいが、わざわざ健康な人間を細かく管理する必要なんて毛頭ないだろう。
「やっぱりこれは先月の続きなのか」
「元々解決なんかしてなかったのだよ。君は事件当初のことしか知らないだろうが、それはもう強引な解決手段だった。聞く耳無しとはあのことだったよ、じじいめ」
「頑固一徹だからな、行司は。しかしまぁ、事件のことは林檎ちゃんも知っていたとは言え、誰も直接的に彼女に手を出そうとしなかったのにな。事件の中心人物なのに蚊帳の外っていうね、自分の知らないところで大の大人が汚い金を使っていたんだから」
「十四の少女には辛い話だ、知らなくていいこともあるだろう」
「おい八千代、まさかこの事件仕方ないとか言って容認してるのか」
「まさか、ただ……」
八千代は硬い革のソファに寝転がって言う。
食後のアイスコーヒーを飲み干したストローをくわえていた。
「旗桐 林檎は、彼女自身は一体全体どう考えているんだろう」
「さぁね、僕にもあまり本音を語りたがらないから」
「それは君が信頼されていないということかい?」
「どうだろう、僕にだって人の気持ちが全部分かるわけじゃないよ。まぁでもこの事件、恐らくというか、間違いなく分家の人間の仕業だろう」
「…………」
僕はここで思い出す。
やっとのことで思い出す。
ピンと張った糸が右耳から左耳に通ったような感覚を覚えながら思い出す。
『もしも、わたしが本家に利用されて、悪いことをされそうになったらその時は、お兄ちゃん』
その言葉を。
思い出す。
『助けてくれませんか?』