あとがき
異才と天才にさほどの違いはなく、そもそも同義の言葉であると思いますが、あえて区別するならば、その二つには順番があるのだと思います。
一種の突出した才能を持つ人はみな等しく迫害を受けたり、批判を浴びたり、或いは嫉妬されたりと、まったく不思議なほどにそんな経験をしている天才が数多くいます。
天才は須らく同じような境遇である、と言えるのも、幼少期にそういった傾向が多く見られるようです。
その理由の一つに、幼少期は特に迫害を受けやすく、特に異質な存在はより一層そういった扱いにあります。
まぁこれは、才能とは関係なく、他とは何かが違う、ただそれだけの可能性もあるんですけれど。
そういった境遇に位置しやすいこともあり、天才とは異端で、異質で、そして何より、孤高であると言われます。
なので、そこには天才があってこその、異才がある、と言えるかもしれません。
しかしそれは言葉の響きが格好よくとも、実際悲しいことでもありますね。
そんな異才である二人を中心とした一連の事件、ではありましたが、語り部である南名 衛理くんに活躍してもらい、名推理の描写を書くことができたら、さぞかし気持ちがいいだろうなと思いましたが。
が、しかし。
彼にそんな活躍の場は期待できません。
八千代や、他の才能を持った彼女らとは違い、彼のみが常人であり、一般人です。
感性や思考もそれと同等です。
いや、もしかすれば、彼も突出した『何か』を有しているのかもしれませんが、大半の人々は皆、彼同様、自分の才能に気づかないままに過ごしているのでしょう。
それを言えば、むしろ自分の才能を自覚している人間の方が少ないと言えます。
きっとそれは、圧倒的多数の人が努力しているせいなのかもしれませんね。
後天的な才能を天才と呼ぶにはいささか難しいように思えますが、しかしそれもまた、天才の一人と呼ばれ、才能の一つに数えることができましょう。
けれど、才能や素質というものは、実際に『それ』をやってみないことにわかりません。
何より、努力の甲斐あって大成するならともかく、それが無駄になることだって多々あります。
個人的な思いを述べれば、人は誰もが等しく才能を持っていると信じたいです。
それに気づかぬ間に人生を終えることが大半以上を占めているだけであって、実は誰しもが突出した得意分野があるのだと、そう信じて止まないのは、前述の通り『やってみないとわからない』という理由に起因するのかもしれません。
幅広く多種多様な分野から、自分の才能を探し出すことがどれほど難しく、困難なことなのかはさて置き、自分の顔を見るだけで一体どんな才能を持っているのかがわかってしまったとしても、それはそれで酷くつまらないでしょう。
天才が憧憬の対象になるのと同じように、嫉妬の対象でもあることから、もしかすれば、それは一生気づかないままの方が、人生を謳歌できそうな気がしないでもないですね。
というわけで、長々とあとがきで語りましたが、本編『外れた世界で少女は。』最後まで目を通して頂きありがとうございました。
才能豊かな彼ら(彼女ら)が関わった一連の事件は、作者の趣味趣向成分が酷く含まれていたものでありましたが、そんな作品でも、少しでも楽しんでもらえたのなら幸いです。
作品を通して、コメントをして頂いた方々、お気に入り、又、評価を下さった方々にこの場ではありますが御礼申し上げます。
それでは、次回作――本編中に少しだけ語られた、少し以前のお話である、連続殺人事件――連続通り魔事件を描いた『外れた世界で少年は。』でお会いできることを楽しみにしております。
読者の皆様に、友愛の証を――