世界の終わり
「ったく、それにしてもお前らの関わる事件は相変わらず面倒だよな」
雪間さんは心底うんざりしたように、呆れたように、そう言った。
彼女の様子を見る限り、それは間違いなく本音だろう。
「……ですね」
「自覚あるのかよ!」
雪間さんの愛車に乗り、一般道を走行していたが、気づけばいつの間にか、そこは高速道路である。
本当、いつの間に。
雪間さんに見蕩れていたからであろうか、全然気づかなかった。
「それにしても、まさか林檎がねぇ――こりゃ仕事を手伝う約束は無かったことにした方がいいかな。いくらあたしでも殺人の片棒担ぐ人間と協力できっこねぇ。ましてや、あたしは公安刑事だ。それを取り締まる立場だっていうのに、ったく」
「…………」
ん?
あれ、どうしてだろう、雪間さんの言葉が理解できない。
殺人の片棒を担ぐ人間――林檎ちゃんが?
えっと……。
と、僕は雪間さんの言葉を反芻して、何度も彼女の声を脳内でリピートする。
それでも、理解することはできなかった。
まぁ確かに、今回の事件、最終的に鶴賀さんの手によって行司は殺害されたけれど、そのきっかけを作った張本人である林檎ちゃんをそう捉えることは強ち間違ってはいないのだが――それにしても、故意ではないし。
勿論、悪意も微塵もなかったのだ、それなのに殺人犯扱いをするのもどうかと思う。
いや、悪を裁く身である雪間さんからしてみれば、どう線引きしたって悪は悪であり、どんな理由があれ殺人は悪なのだろう。
その点においては、少なくともウマが合わない八千代と同様の思考だ。
守るための殺人行為が綺麗だなんて、それこそ綺麗事なのだろう。
しかし。
次の思っても見ない雪間さんの一言は、僕を震えさせたのであった。
「あぁ?なんだよ、その面。もしかして聞かされてなかったのか?」
あの林檎が行司を殺害したんだぜ――
と、雪間さんは肩を竦めた。
「何だ何だ、八千代が事件を見事解決――真相も解明!無事、先月から続いた一連の事件は終結!ってことじゃなかったのかよ?」
「あぁ、いえ、そうなんですけど……」
「ははぁん、さてはお前、本当の事実を何も知らないんじゃないのか?」
本当の事実。
本当の真実――
雪間さんは果たして一体何を言いたいのだろう。
「じゃぁ一先ず、お前の依頼の結果報告を先に済ませておこうぜ。後回しにしたら忘れるかもしれねぇし。忘れるって言っても、お前が、だけどな」
くつくつと雪間さんは笑う。
妙に鼻につく笑い方だった。
そして何より、何やら含んだそれでもあった。
「行司の死体は無事こっちで回収したから。勿論、公にはなっていないけどな。あいつの訃報は国のお偉いさん方のみ伝えられたよ。そして、旗桐家の権力は完全に消失――次第に世間にも少なからず影響が出ると思うぞ」
淡々と。
飄々と、雪間さんが事後報告をする。
ここではいつもの調子ついたことを言わず、あくまで仕事。
あくまで依頼人と請負人の関係。
そう暗に示しているかのような、物言いだった。
仕事とプライベートをしっかり線で区別するタイプなのだろう。
それには素直に尊敬の眼差しを送ることができよう。
けれど、今の僕にとって、正直そんなことより彼女の言葉が気がかりで仕方がなかった。
そのせいで、雪間さんの報告は右から左へ、脳を経由せず右耳から左耳へ、彼女の言葉が入っては出、それを単純に繰り返すだけのように感じられた。
僕は曖昧に、相槌を打つ。
「旗桐家の分裂に伴い、分家の方は旗桐を名乗ることはもうしないそうだ。と言うことはつまり、代々続いた旗桐の終焉とも言えるな。まぁ、こんな情報、どうだっていいか」
それより――と。
それより犯人についてだが――と。
雪間さんは少し間を空ける。
「林檎は逮捕しないし、鶴賀も逮捕しない。メディアにでもそれが流出してしまえば、行司の殺害事件が露見してしまうからな。財政界を担ってきた大物中の大物なんだ。そんな彼の訃報ですら公にすることができないっていうのに、殺害犯である林檎を簡単に警察へ突き出すわけにもいくまい。まぁ上には鶴賀の犯行ってことで報告してあるし、林檎が真犯人だってのはあたしたちしか知らないんだけどな。まぁそれは捉え方によっては、林檎と鶴賀の持つ才能を生かした、とも言えるな」
文字通りな、と雪間さんは言った。
やはり。
やはりそうだ。
雪間さんは林檎ちゃんを犯人と断言している。
殺人犯は鶴賀さんであって、林檎ちゃんはその原因を作ってしまっただけに過ぎないのだ。
一体どう間違って、そんなことを言っているのか。
「いや、えっと……雪間さん、林檎ちゃんではなく、鶴賀さんが犯人なんじゃ――」
「あぁ!?このボケ、今更何言ってんだよ!」
雪間さんは僕の言葉を強引に制するように怒鳴った。
突然の怒声に、僕は一瞬身構えてしまう。
反射的に硬直してしまう。
雪間さんの威圧感に気落ちしそうになる。
表情を伺えば、やはり眉間に皺を寄せて、酷く激昂しているようだった。
しかし、それも一瞬、今度は一周回って、呆れた顔をする。
「そっか、本当にお前は何も聞いてないのか」
「だから、何をですか」
「真伊のやつ、お前には何でそこまで優しいんだろうな。あたしにはわかんねぇよ、真相をお前に隠してまで、事件を解決しようとする心境がね。お前にも優しいし、林檎にも情が移ったんだろうぜ。鶴賀ってやつの望み通りの結果も出しやがったし」
「…………」
「全部、真伊のせいだ。事件が捩れているのも、お前が混乱しているのも、悪人を裁くことができないのも、全部――あいつのせい。まぁいいさ、別にあたしが気にすることじゃねぇし。事件の中心にいたお前たちが一番辛かったのも理解できるしな。真伊の優しさを酌んでやらんこともねぇ」
「……雪間、さん?」
「いいぜ、全部話してやるよ。真伊が隠した真相ってのをな。まぁこれを知らないのは、お前だけだし、それはそれで可哀想だもんな。まずそれを聞く前に約束しろ、今からあたしが語る真相を知ったからと言って、真伊を責めてやるなよ。あいつは情に脆いんだ、気持ちもわかってやれよ」
事件の真相――
旗桐行司殺人事件の、真実――
八千代が隠し、僕だけ知らされていない事実――
「司法解剖の結果を先に言えば、行司の死因は心臓を貫通した刀ではなく――多剤の精神安定剤ないし抗うつ剤の過量服薬、及び、その副作用による統合失調性からくる自我崩壊。簡単に言えば、行司が薬を飲みすぎて、致死量に及び死亡したということだ」
おいおい……。
その時点ではまだ息があって、止めを刺したのが鶴賀さんが使用した刀、ということじゃなかったのか。
なんて冗談だ。
冗談も過ぎている。
しかしこれは、紛れもない真実なのであろう。
そう確信させられる空気を雪間さんから感じ取れた。
「それに、その結果判明したことは、鶴賀が投与した精神安定剤はともかく、林檎の使用した薬が明らかに致死量だった。そして何より、一番やっちゃいけない併用だった。多剤を多量に服薬し、相乗効果を伴い、副作用をより強力にした」
つまり、と雪間さんが続ける。
「何が言いたいって、林檎は明らかに行司を殺害しようと目論んでいたということだ」
「最初から行司を殺すために、ですか。けれど故意ではなく、本当に計算違いでやってしまったという可能性だって――」
「あの、林檎が、か?」
行司の手から自分の身を守るため。
自己防衛の手段。
そういうことだったはずだ。
『全てを終えた』林檎ちゃんが致死量を誤って服用させたと考えること難しいだろう。
あの林檎ちゃんが、そんな誤算をするはずがない。
致死量も、薬の効果も、副作用も、全て知った上での行為だったということか。
なぜならそれは、行司を殺害しようと思っている限り、殺害を企んでた限り、計画していた限り、致死量を投与した理由が他にないのだから。
「お前の希望を壊すようで悪いが、生憎、鶴賀が最初に行司に服用させるよう仕込んだ安定剤を除いたとしても、林檎が投与した量はそれだけで致死量に近いものだったよ」
「一体どうして、そんな――」
「お前はもう忘れたのかよ。どうして林檎が、分家と分裂したタイミングで旗桐家に連れ戻されたのかを。聞かされたんだろう?行司の狙いをよ――」
異才の遺伝子。
異質の遺伝子。
それを利用し、財力を得、そして新しい異端児を作る、か。
実際、林檎ちゃんがその例なのだ。
異才を持つ鶴賀さんの遺伝子によって誕生した――旗桐 林檎。
旗桐 鶴賀、もとい苆野 鶴賀の実の娘。
産みの母親。
「八千代はそれも全部知っていたんですか……」
「真伊だけじゃないぜ。林檎も、そして鶴賀だってそうさ」
「それら全て承知の上で、鶴賀さんは自ら犯人になったってことですね」
「まぁ、そういうこった。実際、鶴賀は死体に刃を刺しただけであって、殺人は犯していないんだけどな。それでも自分がやったように見せかければ、林檎を守れると考えたんだろうよ。真伊はそれもお見通しだったから、わざわざ鶴賀の望んだ展開にしたってことだ」
結局、八千代までもが林檎ちゃんを守るために、鶴賀さんに濡れ衣を着せてまで真相を隠したということなのだろう。
彼女がどう考え、どんな結論に至って、そんな行動を取ったのかを理解することは難しかった。
短くない期間を共にしながらも、 僕は八千代のことをあまり知らないようだ。
信頼は置けても、彼女の思考を細部まで理解するには及ばない。
それはただ単に僕が優秀でない故なのか、八千代のそれが難解なのか、どっちにしたって僕が及ばないのは確かなのだろう。
「林檎のことを想ってのことなのか、それとも都合の良い鶴賀を利用しただけなのか――まぁ察するに前者だとは思うし、そう思いたいが、あたしはあまり感心しない結果だな。どんな理由があれ、殺人行為を正当化できる身じゃねぇし」
「八千代は同情したんでしょうね、きっと」
「――だな。行司の懐に入っていた写真があったろう?恐らく、それで気づいたんだろう。行司の息子と、若かりし頃の鶴賀だったな、確か」
「えぇ、林檎ちゃんの両親の写真はともかく、鶴賀さんのそれを行司が持ち歩いていたことに疑問を抱きましたよ」
「別に疑問に持つほど間違っちゃいねぇだろうよ。嫁の写真を持つくらい普通だろ」
「……はぁい?」
突拍子のない雪間さんの言葉に思わず声をあげてしまった。
自分でも驚くことに、初めて聞く自分の声だった。
上ずり、裏返り、妙に甲高い声だった。
「あぁ?何だお前、きもい声上げんなボケ」
「あぁ、はい――え?」
「お前ってさ、この事件に本当に関係してたんだよな?蚊帳の外だったってわけじゃないよな?何でなにも知らないんだよ、このボケ」
むしろ事件の中心で巻き込まれた側で、密接な関係性があるのだが。
それなのに、何も知らないんだが。
「行司の嫁が鶴賀だろうが。でもその間に子供はいないけどな。林檎は、林檎の父親である行司の息子と鶴賀の子供だ。行司の息子を産んだ母親、つまり行司の元妻はすでに死んでるよ」
「おいおい……」
えっと、つまり整理すると。
林檎ちゃんの育ての親だと思っていた両親の父親は、実は産みの親でもあったってことか。
この場合、母親だけが『育ての親』ということになるのだろう。
そして、林檎ちゃんは行司の息子と鶴賀さんとの間に生まれた子供で――けれど、鶴賀さんは行司の再婚相手でもあり――情報が右往左往し過ぎて、理解ができない。
複雑というより、最早これは怪奇である。
合縁奇縁と言うには逆の意味で程遠いように感じる。
「今までの話は一体何だったんですかね……鶴賀さんが林檎ちゃんの母親だってことは合ってますけど、こうまで奇妙な家計図だとは思ってませんでしたよ……」
「かははっ、お前は最初から騙されたってわけだ。まぁ、それにしても残酷だよな。孫娘に薬を飲まされ、嫁には刀を突き刺されたんだぜ。そしてずっと娘に嘘を吐いてきた母親と、孫娘に手を出そうとした祖父。ったく、どんな家庭だよ。そりゃ平気で家族を殺せもするわ」
まったく、その通りだと思った。
当然これは、八千代も既知の事実なのだろう。
鶴賀さんは林檎ちゃんに自分が産みの母親であることを明かしはしたけれど、行司と夫婦関係にあることは伝えているのだろうか。
どうだろう。
いや、さすがにそれまでありのまま林檎ちゃんに伝えているとは思えない。
達観しているとは言え、まだあどけなさの残る十四の少女なのだ。
真実を受け入れるには、まだ幼い。
異才と言えど。
天才と言えど。
少女ということに変わりない。
変わりがあるとするならば、林檎ちゃん本人だろうし、彼女を取り巻く家庭環境と言えよう。
思い返せば、林檎ちゃんがどうして旗桐家から逃げるように病院の一室に引き篭もっていたのか、その理由は行司にあった。
行司が林檎ちゃんを財産と考え、そして彼女の遺伝子で新たな『異才』を作るという目的があった。
子供は財産と言うけれど、この場合のそれは、物理的な財力そのものと言える。
此度の分家との絶縁――分裂を機に行司が林檎ちゃんを呼び戻した理由の一つがそれだったのだ。
それを知ってか知らずか。
いや、林檎ちゃんのことだ、行司の狙いにはおよそ見当がついていたのだろう。
過去に行司が彼女に手を出そうとしたこともあった――そして、林檎ちゃんは殺害を計画した。
自分を防衛するために。
自己防衛を図るために、殺害を謀った。
それだけの理由で殺人を犯したとか、そんな理由で殺害したとか、言い方によってはそう捉えられなくもないけれど、少なくとも林檎ちゃんにとって、行司の行動全てが恐怖だったのだろうと思う。
震える林檎ちゃんを思い出して、行司に戦慄する林檎ちゃんを想起して、僕はそう感じたのだ。
だけどその反面、林檎ちゃんは行司のことを慕っているようにも見えたし、彼も彼で孫娘のことを心底可愛がっているように捉えられたのだから不思議である。
忌み嫌っているのなら、酷くギスギスして、目も合わせない、口も利かない、聞く耳無し、といった関係になろうものなのに。
まぁしかし、それは何とでも言えよう。
どんな後付けだって、こじつけだってできよう。
行司の圧力もあったかもしれない。
或いは、本当は行司のことを好いていたのかもしれない。
溺愛していたのは、むしろ林檎ちゃんの方だったのかもしれない。
そこで僕が気になるのは、あの時の――行司が殺害された直後の林檎ちゃんの態度だ。
彼が死亡し――殺害した林檎ちゃんが彼の死を悼み、泣いて悲しみ、事実を受け入れられないと呆然としていたあの時。
結局、あの林檎ちゃんの姿は全てが演技であって、嘘だったのだろうか。
自分が殺したのにも関わらず、泣き悔やむというのはいささか不自然だろう。
それ故に、その可能性もある。
あれが嘘偽りの姿なのだとしたら、素直に悲しいしショックだ。
けれど、僕はあの時の林檎ちゃんは本当の彼女だと信じたい。
信じたいし、信じてあげたい。
本当は殺したくなくて、それでも行司から身を守るにはその選択肢しかなく、辛い決断をして――後悔の念と悲愴感に苛まれ、悲壮な決意をせざるを得なかったんだと。
そんな悲傷で、悲痛な姿を見せた林檎ちゃんが、本来の彼女なのだと。
「ほら、そう言えばお前、あの変な看護士に教えて貰っただろ。午後と翌日午前の問診をしなくていいって伝えた家族がそれぞれ違う人だったって。それに、触診されたであろう林檎ちゃんの姿を見てしまったんだろう?その真相も八千代から聞かされてないのか?」
「…………」
「やっぱりか。まぁそんなことだろうと思ったけどな。あれな、実は触診してたのは鶴賀。午後の問診を拒否したのも鶴賀が伝えたんだよ」
「なら、翌日の午前の件を伝えたのは一体誰なんです?行司ですか?」
「あれは真伊だぜ、笑えるだろ」
ぎゃはは、っと雪間さんは笑った。
それはそれは、豪快な笑いっぷりだった。
僕の間抜けな面に対して笑ったのかもしれなかった。
「林檎が連れ出されたのを知って、飛んで行ったんだろうな。そう思うと笑えてくる。先を見越しての行為だったんだろうがな。つまり、タイムリミットの延長ってわけだ。実際、入院患者でもねぇのに、問診なんかいくらでもすっぽかして構わないだろうに。律儀なやつだよ」
「それってつまり、僕の行動が飛んだ徒労だったってわけですか……」
「徒労じゃねぇだろ。お前だってそれで情報を得たんだから」
「そのせいで余計に混乱しましたけどね」
「嘘吐け、疑問に思ったのは最初だけで、後の方はほとんど忘れ去ってたじゃねぇかよ。何がタイムリミットだよ、んなもん最初からねぇーっての」
八千代のやつ、余計な真似を――と思ったが、雪間さんの言うとおり、図星だった。
この人、何でそんなことまで知っているんだろうか。
「八千代もそうですけど、雪間さんもそんな情報どこで入手しているんですか?」
「事件ってのはな、閃きもそうだが、ほとんどが情報戦なんだよ。情報命、とはまさしくこのことだ。あたしはそんなにそれが得意ってわけじゃないが――真伊の才能の真骨頂は主に情報だ。数多の入手源、それに幅広く顔も利かせてやがる。ネットにたまに流出する秘蔵の情報は真伊の気まぐれによるものだと言っても過言じゃないぜ」
「……そうなんですか」
聞かなきゃよかった、と心の底からそう思った。
高速道路を数十分に渡り走行し、それから一般道に戻り、今も尚、車は止まらない。
止まるどころか、時たま急激に加速するせいで、僕は話の途中でも事故の心配で気が気でなかった。
その度に僕は、おおうっ、と変な声をあげてしまっていた。
もうかれこれ、三十分以上もの間車に乗っている。
八千代の運転ならば、それは丁度、旗桐本家邸宅に到着する走行時間だけれど、雪間さんの場合、それだけの時間があれば県外へでも行けそうだった。
そう考えれば、八千代の運転は安全だと言っても、それにしても、遅い。
時速二十キロでの走行は少し本気で自転車を漕いだら抜かされかねない。
彼女は車体間隔を気にしていたけれど、前方のそれはどうやったって無視していい心配だ。
むしろ、八千代のせいで後方が危険に晒されている。
まぁ、事故をしないだけ、マシとでもしておこう。
「雪間さん、そう言えば、どこに向かっているんですか?約束の喫茶店からはかなり離れてますけど」
「だから、急な仕事が入ったって言っただろがボケ。耳の穴かっぽじって聞いてなかったのかよ」
「ええと、それは聞きましたけど――」
「あたしが今回の事件の尻ぬぐいする代わりに、お前は仕事を手伝うんだろうがよ」
「あぁ――」
「こら、忘れてんじゃねぇよ!ついさっき、その話から事件の真相を教えてやったんだろうが、ボケボケボケ」
ボケ、とここまで複数回に渡って言われるようになったのは、この間経験したとある事件――まぁ、これもまた殺人事件なのだが、その頃からだったように思う。
何を契機に、何を皮切りに、そう詰られるようになったのか、実は理解していない。
「でもそれは林檎ちゃんがいて、初めて雪間さんの力になれるかも、っていうことだったんですけど。まぁ雪間さんが林檎ちゃんのことを良い風に思ってなくて、その約束も反故になってしまったって自分で言ったじゃないですか」
「あぁ、それについては心配すんな。林檎は今、あたしんちにいるから」
「なっ……」
この時、僕が発した「なっ」は、「何だって」と驚愕する言葉の略でもあり、「なるほど」と納得する言葉の略でもあった。
つまり、雪間さんの尽力のおかげで事件が無事に収束した後、林檎ちゃんは行方をくらましていたのだった。
病院には一度戻ったものの、すぐにいなくなったそうだった。
勿論、志木式さんに色々と伺ったけれど、詳しいことは知らないようだった。
「さっきは、あー言ったけどな。ほら、あたしってツンデレだし」
「…………」
この人はツンデレの意味を少しばかり勘違いしているようだった。
履き違えていると言っても過言でない。
「約束した分、しっかりお前らには働いて貰うから。覚悟しとけ、このボケ」
一体どんな経緯があって、林檎ちゃんが雪間さんの家にお邪魔しているのか、僕はあえて訊かなかった。
雪間さんにも、林檎ちゃんにも、色々と思うことはあるだろう。
抱えているものもあるだろう。
全ての真実に対して、むやみにやたらと詮索するほど、僕も子供ではない。
知らないことがあって当然だし、知らない方がいいこともあろう。
知っていて損はないことは、知らなくてもいいことなのだから。
それに、別に皆目見当つかず、ではない。
旗桐家が消滅したのなら、病院にいることもできないということだ。
いや、辛うじてそれが可能だとしても、旗桐家の権力が消失した以上、林檎ちゃんの存在など病院側からすれば単なる邪魔者でしかない。
扱いも酷くなるかもしれない。
今更、鶴賀さんと共に生きようなど露ほど思わないだろう。
まぁ当の本人もまた、行方知れずなのだから、それは望んでも叶わないものなのだが。
その後は、意味のない世間話や、雪間さんの仕事から得る教訓を聞かされ、僕は聞く一方で気持ちが良いとは言えない相槌を打つばかりだった。
そうこうしている間に。
他愛のない世間話に花を咲かせている間に、無事に――僕としては命辛々、やっとの思いで雪間さんの住む一軒家に到着したのであった。
本当に、事故がなくてよかった。
ともかく。
それを一軒家と表現していいのかどうか僕にはわからなかったが、まぁしかし、一軒家である以上その表現で間違っていないのだが――雪間さんの家は、旗桐本家邸宅と何ら遜色ないほどの豪邸だったのだ。
それが過言であったとしても、少なくとも、あの周辺の住宅街で豪勢な門扉を構えていたそれらと同等の大きさだった。
旗桐家ほどの大袈裟な外郭はなく、だだっ広い土地の真ん中に、白を基調とした城のような豪邸が建っている。
周囲には緑の芝生と、高々と上に伸びる木々で覆われていて、そこだけ見れば、さながら外国に来たように思えた。
「これが雪間さんの家――」
思わず、疑問と確認が混ざった口調で呟いてしまう。
「だよ、何か文句でもあんのかよ。ホワイトハウスをモチーフにしてんだぞ」
「…………」
ホワイトハウスをモチーフに家を建設する人を初めて見た……。
聳え立つ豪邸を近くで目の当たりにし、それが想像以上だったことを知り、さらに感嘆とした。
うわぁ、とか。
おぉ、とか。
まともな感想も言えず、そんな声を漏らすばかりで、その反応はどうやら雪間さんとしてはつまらなかったらしく、ため息を吐いていた。
もう見納めになるかもしれないし、しっかりと拝んでおこうと、家の外壁を凝視している最中、一人の少女が玄関扉を開けて出てくる。
一人の少女。
少女が一人。
それは、旗桐 林檎だった。
ゆっくりと、僕の方に足を運び、挨拶もなしに、はにかんだ様子で言う。
「こんな話があります。一国の宝である姫をさらった魔王は、彼女が死んでしまっては人質としての意味が無くなってしまうので、汗水流して、勇者が来るまで養ったそうですよ?」
「そんな話聞いたことねぇ!」
思わず、大きな声が辺りに響いた。
しかし声を上げたのは、僕ではなく、雪間さんだった。
「果たしてこの場合、魔王は誰で姫は誰なのでしょう?」
「僕が魔王だって言いたいんだろう、わかってるよ」
「では、魔王様――わたしの魔王様、友愛の証を」
と、林檎ちゃんが言ったと同時に。
僕の頬に彼女は唇を添えたのであった。
柔らかく、そして、大胆に。
「友愛を誓った魔王と姫、意外とロマンチックですね」
「そんな話こそ、聞いたことがないけどね」
「けれどお兄ちゃん、欧米では一般的な行為ですよ?」
「欧米の話はしていないだろ」
ふふっ、と消え入りそうな声で林檎ちゃんは笑う。
僕もそれに釣られて、自然と笑みがこぼれた。
まぁ、これはこれでこんな結末もありなのだろう。
雪間さんから真相を聞いた今、本当は林檎ちゃんに聞きたいことが山ほどあるし、募り積もった話もあるけれど、今は静かに、素直に彼女との再会を喜ぼう。
殺害犯だったとしても。
そうでなかったとしても。
いずれにせよ、僕から林檎ちゃんを裏切るということはない。
僕が魔王であるならば、なおさら、そうもいくまい。
次に林檎ちゃんを連れ戻しに来る『勇者』が来るまで――その時まで、彼女と共に生きていくのもありなのだろう。
だから。
だから、まぁ。
こんな結末があってもいいと、それこそ素直に喜ぶべきことなのかもしれない。
この事件が終結を迎えた意味は。
つまり、旗桐家が終焉を迎えた意味は。
林檎ちゃんにとって、終わりでもあり、新しい『世界』の始まりでもあるのだ。
今まで散々傷ついてきただろう。
十分後悔しただろう。
世の中の理から外れ、僕のような一般人とは考えられないほど異常な『世界』で、嫌気が差すほど辛い目に遭ってきただろう。
こんな外れた『世界』で、少女は地獄を見てきたのだろう。
「十四の少女とキス、か。お前ら逮捕すんぞ」
だからまぁ。
そんな雪間さんの冗談とは聞こえない言葉も、今は笑い話にしておくことにしよう。
この事件で林檎ちゃんが抱いた感情は、また後日改めて訊こう。
「林檎をずっとあたしんちで養うわけにはいかねぇから、お前、ちゃんと面倒みてやれよ」
「えっ!?」
「……えっ」
そんな約束も、そう言えばしたっけ。
やはり、林檎ちゃんとはまだ語らうべき運命なのかもしれない。
それもまた、一つの結末であり。
一つの物語の始まりでもあるのだと思う。
だから僕は、雪間さんが子供嫌いなのをあえて公言せず、黙っておくことにした。




