世界の始まり
「なぁ、八千代、結局――林檎ちゃんが行司を殺害したと言っても間違いじゃないんだよね」
「まぁ穿った目で見れば、そうとも言えるね。林檎少女に殺人罪を着せるくらいなら、自らがその責任を負おうということさ。自己満足も甚だしいけれど」
自己犠牲も過ぎているけれど――
八月中旬から、およそ一ヶ月に渡る旗桐家殺人事件の終局を迎え、二日が経過した。
それは静かな終局だった。
静かな幕引きだった。
事件に関わった僕たちに濡れ衣を着せようとしている、そう八千代は予見していたけれど、それを今となって考えてみれば、実際、鶴賀さんはそれに固執しているようではなかった。
罪を擦り付けることに執着していたわけでもなく、躍起になってそんな行動を取ろうともしていなかった。
後になってわかったことだけれど、彼女は自分が犯人だと暴かれることに何ら不安もなかったようだった。
覚悟はある、と。
腹は括っている、と。
それはつまり、僕たち(主に八千代)が真相を解明してしまうことを予め予知していたということだろう。
と言うことは、最初から僕たちに事件の責任を被せるつもりはなかったのかもしれない。
仮にあったとしても、それは望みの薄い希望だったのだろう。
それは、儚い、可能性だ。
強行手段を用いて、無理矢理にでも僕たちに罪を着せることもなく――八千代が明かした事件の真相を聞いて、鶴賀さんは反論せず、反抗せず、抵抗せず、素直に八千代の言葉を受け止めていたように思う。
むしろ、よく解決してくれたと、『よく私を犯人にしてくれた』と、そう言わんばかりの笑顔だったのだ。
彼女にとっては、林檎ちゃんが投与した薬によって殺害されるのか、自らの手によって殺害するのか、それは人生を左右する瀬戸際だったのだろう。
結果、鶴賀さんにとっては良い方向に転がったし、林檎ちゃんにとっても同じことが言えるのだと思う。
いや、林檎ちゃんにとっては、もしかすれば最悪の展開だったのかもしれない。
鶴賀さんが、自分の実の母親だということを知らされ、自分を守るために母親が家族を殺したということを聞かされたのだから。
守るための殺人行為――行司は旗桐分家の手から林檎ちゃんを守るために彼らを殺した。
鶴賀さんは林檎ちゃんの罪を代わりに被るために彼を殺した。
どんな理由があれど、悪事には変わりないけれど。
それでも。
それはきっと、やはり彼女らの言うように、綺麗な行為なのかもしれない。
今となっては素直に、純粋にそう思う。
「そう言えば、林檎ちゃんの両親はすでに亡くなったって言ってなかった?同じ時間に、同じ場所で――とか何とか」
「あぁ、それは本当だよ。産みの親が旗桐 鶴賀、育ての親が『彼ら』ということだよ。どちらにしても、親であることは変わらないだろう」
ふむ。
複雑な家庭環境だという情報は前もって把握していたが、思っていた以上に捩れているのだろうか。
産みの親、か。
つまり、異才の遺伝子――
「そう、君の予想通り、林檎少女は愛を育んだ結果、誕生した子とは言えないね」
そんな遠まわしな表現をあえて使用したのだろうが、それはそれでどうかと思った。
「遺伝子、ね。林檎ちゃんにしたように、鶴賀さんにも同じような真似をしたわけか。それなら最初の被害者は鶴賀さんとも言えるかもしれないな」
「実際、その辺りは本人に直接訊くしかないけれど、まぁそれでも、少女が望まれて生まれてきたわけではないということは確かだろう」
異才の遺伝子から生まれた、『終わった』少女――
全ての学問を終え、全ての知識を得た少女――
『作られた』少女――旗桐 林檎。
「でもどうして、鶴賀さんは林檎ちゃんを育てなかったんだろう」
「林檎少女もそうだが、彼女もまた表立って行動することができない立場だったんだよ。木を隠すなら森に隠せ、と言うように旗桐家で使用人として身を費やしていたのもそれが理由だろう。そんな彼女が、母親なんてできるはずもない」
「鶴賀さんの異才――」
「常軌を逸した才能を持てば持つほど、自由も失う。色々な意味で、ね」
「なら――林檎ちゃんを育てた《彼ら》は一体どこの人間なんだ?それに、どうして《彼ら》が死んだのかも気になるし」
「少女の『育て』の両親は、実の行司の子息だよ。息子だね。母親の方はごく普通の一般人、彼の結婚相手さ」
「なるほどね。それなら、林檎ちゃんの父親――この場合、『育ての親』はその父親ってことか。行司の息子である《彼》だ。そして、『産みの親』は鶴賀さんと行司だったってことか。行司は二人の女性から子供を作ったわけだ」
「……その通り」
嫌な話だけどね、と八千代は言う。
僕も同じような感想を抱いた。
それはつまり、結婚相手がいるのにも関わらず、違う人との間に子供が生まれた、ということを意味するのだろう。
まぁしかし、結婚が先なのか、林檎ちゃんが生まれたのが先なのか、それが定かでない以上明確に彼を否定することはできない。
浮気だとすれば素直に彼に幻滅するが。
いずれにせよ、育ての親である母親からすれば、良い風に思わないだろう。
自分の子供でない林檎ちゃんを育てなければいけないのだ。
いや――そうでもない、か。
子供を連れて再婚する人なんて、この世に五万といる。
それを言ってしまえば、そんな彼ら(彼女ら)も否定してしまうことになる。
血縁関係の有無、そんなものは彼らにとって何ら障害にもならないのだろう。
相手が好き、ただそれだけで上手く収まることなのだ。
そして、もう一つ。
どうしても鶴賀さんが林檎ちゃんを育てることができないのなら、それも一つの可能性として挙げられよう。
まぁしかし。
その辺は、僕が考えるべきことではないだろう。
とやかく彼らの家庭環境や家庭事情を考察したところで、憶測で語る以上、様々な語弊が生じるし、どうとでもこじつけることだってできてしまう。
「育ての親である彼らが死んだのは、別に林檎少女の存在が原因ということではないだろう。概ね、行司の圧力から逃れるためと推測できる――心中なのだろうさ」
「……そっか」
八千代の静かな物言いが余計にしんみりと感じさせた。
いつものカフェ。
行きつけの喫茶店。
落ち着いた雰囲気を醸し出すそれもまた、それを助長しているのかもしれなかった。
「ところで、どうして私が行司を殺害するのに薬が使用されたとわかったのだと思う?」
「…………」
わからない。
わかるはずがなかった。
それを知ってて、あえて僕に質問したのだろう、全く、嫌な性格をしている。
「少年、君は行司の姿を見て何も感じなかったかい?」
「んー、まぁ即死だったんじゃないか、ってことくらいかな」
「死体じゃなくて、生存していた時の姿だよ」
行司の生存していた時の姿――ふむ……。
何か不審な点でもあっただろうか。
その場で怪しいと感じなかったのに、後になって思い出しても、気づけるはずがなかった。
「私は対面したあの客間で、彼の様子がおかしいと思ったよ。確かに他から見れば私の挑発に激昂していたように見えたし、昂揚している風に捉えれたし、昂奮しているようにも感じられたけれど、あれはそうじゃない」
確かに、あの場面の行司はらしくなかったというか。
大物の風格である余裕が感じられなかった。
僕たちが放つ言葉など、下人の戯言だと、そう言わんばかりに聞き流すこともせず、素直に八千代の安い挑発に乗っていた。
行司が昂奮していたと言うのなら、それは八千代の方も同じではないだろうか。
そう思ったが口にはしない。
安い挑発。
子供の喧嘩のようだと、そう思った。
僕の思考を察したように、八千代は言う。
「痴話喧嘩のようだったろう、子供の喧嘩のようだったろう?そこに違和感を覚えた。そして現場検証の時――彼の懐に入っていた写真を発見した後、再度の調べで見つけたのが、ピルケース。それが決め手だったね」
「そんなものいつの間に……」
「君が年端もいかない少女をたぶらかしていた時にだよ」
たぶらかしてねぇよ。
泣かせたかもしれないけど。
たぶらかしたせいで泣かせた、みたいな言い方だ。
「けれど、錠剤を持ち歩いてるなんて普通のことじゃないか?」
「全くその通りだよ。本来、気にも留めるべきことじゃないかもしれない。けれど、これは殺人事件だよ。どんな些細なことでも徹底的に調べ上げるのが鉄則だろう」
「……調べる?」
まさか。
まさか――
「そう、実際、その薬を飲んでみた」
「おいおい……」
捜査に対する熱意はわかるが、あまりにも危険だ。
精神安定剤だったからよかったものの、本当に毒薬だったならどうする気だったんだろうか。
「行司の様子がおかしいっていうのと、精神安定剤がどう繋がっているのか、僕はまだ理解していないんだけれど」
「はぁ……、君は本当に脳みそが入っているのかい?そんなでも大学生を名乗れるのだから、甘い世の中になってしまったよね、全く」
「脳みその有無と、大学生かどうかっていうことに因果関係はないから……」
それを言うなら、人間かどうか、である。
それにしても酷い言われようだった。
「精神安定剤の効能、副作用を考えれば、結論を出すのは簡単だよ――」
不安や焦燥感を取り除き、脳を安定させる効果。
そして反面、副作用は逆の効果が有している。
統合失調症。
目眩、吐き気、注意力の散漫化、うつ病。
精神状態を安定させるための薬だと言うのに、副作用は真逆の効果がある。
そう八千代は説明した。
「まぁ勿論、それらが顕著に表れるには相応の量が必要だろう。あの時の行司は恐らく、統合失調症の疑いがあった。少しだけだけどね。その結果があの態度だったということだよ」
「ふぅん――けれど、鶴賀さんがそれを危惧せず、行司のピルケースに錠剤を仕込んだとするなら、やりすぎだと思うんだ。彼女は本来、行司の身を心配しての行為だったんだろう?副作用が表れるほどの量を摩り替えたってことなのかい?」
「単剤だったのならよかったんだけどね。鶴賀さんは重大なミスを犯していたよ。血圧低下剤の中に複数種の安定剤を仕込んでいた。きっと行司はいくつかまとめて飲んだんだろう、そりゃ過量服薬になって小さな副作用くらい表れるだろうさ。それに例え少量だったとしても、互いの効果を増幅させてしまう場合もある。勿論、副作用も同様に」
「……鶴賀さんがそんな危険性を考慮せず?」
「それは行司の性格を考えて、ということだったのだろう。彼はきっと服用法なんか適当だったんだよ。それに薬の知識があったとしても、それが適応するのかどうか、効果が期待できるのかどうか、人によって様々だろう。だからこそ、単剤ではなく、多剤を入れる必要があった」
八千代は続ける。
事件の背景を語る。
「旗桐 鶴賀は見事、行司に薬を服用させることができた――けれど、それは予想を遥かに超えるものだったんだよ。天才だろうと、異才だろうと、どれだけ豊富な知識を持ち合わせていようと、未来を完全に予知することなんて不可能さ。予測不可能なのが未来なのだから」
行司の杜撰な服用法が生んでしまった副作用ということか。
八千代の言う通り、どれほどの才能を持っていたとしても、未来を言い当てることは誰にもできないのだ。
現に、先に鶴賀さんが行司に薬を投与していたことを知らなかった林檎ちゃん。
この二人がわからない未来のことなのだから、それは当然、そういうことなのだろう。
「全てが都合悪くっていうか、不運の連続というか、行司も含め全員が被害者みたいな事件だったな」
「そうとも言えるね。言うなれば、家族間の意思疎通が図れなかった『旗桐家』が真犯人だと言っても間違いないかもしれないよ」
「守るための殺人行為は綺麗――か。八千代はこれについてどう思う?」
「どう思うも何も、それこそ綺麗事だろう。殺人を正当化するための口実さ。正当防衛でも行き過ぎれば過剰と扱われ、罪に問われる。それが法律だよ」
「僕は法律の話はしてないけどね」
「ははっ、それもそうだ」
八千代は快活に笑って、目の前に運ばれたアイスコーヒーにミルクを注いだ。
本当に不運の連続だと思った。
鶴賀さんは行司を想い、そして林檎ちゃんを守り。
林檎ちゃんは自己防衛のために。
先月の事件を振り返れば、行司は林檎ちゃんを想い。
結果、先月から合わせて四人もの死者が出てしまったのだから、人を想うことも簡単にはいかないものだと思う。
まぁ、その中でも一番の不運はやはり行司なのだろうが。
それでも、穿った目で見れば、やはり全員が被害者とも言えよう。
逆に言えば、全員が加害者に成ることも可能だ。
被害者と加害者が紙一重だという言葉を表現するに最もな事件だったのかもしれない。
八千代はそれを言うと、全員が後者だと断言するだろうが、僕みたいな人間から見れば前者の色合いは濃いように思える。
これはやはり、悲劇だと思うのだから。
シェークスピアの作品に、この事件に似たものがあるのかどうか、知識が皆無に等しい僕にわかるはずがないけれど、それでもこれが悲劇だという確信はあるのだ。
八千代の言うように、殺人事件に悲劇も喜劇もない、という理屈も当然理解できる。
「おっと、そうだ。僕はこれから雪間さんと会う約束してるんだったよ」
「……なんだって」
八千代は彼女の名前に対してあからさまに怪訝な顔で反応した。
眉間に皺を寄せて、ストローを銜える。
どうやら、八千代と雪間さんはウマが合わないらしい。
雪間さんの方は特別そんな感情を抱いてはいないようなので、これは八千代の一方的なものだった。
一方的に毛嫌いしているのである。
「雪間さんに依頼した今回の事件の収束についての報告結果、だよ」
「あぁ、そう言えば、麻由紀のやつに頼んだんだっけ――」
「…………」
あからさまにシラを切る八千代であった。
ふてくされて、ふてぶてしい。
これもまたこれで可愛いんだが。
ともかく。
兎も角、である。
「じゃ、ちょっと行ってくるよ」
「あまり長話はしない方がいいぞ。あいつと長くいるとこっちまで馬鹿になるからな。それにこっちが付き合いで話を聞いていると、何を勘違いしてか思い上がったように畳み掛けてくるからな。それに――」
その後、それに、と十回ほど八千代は続けた。
何について心配しているのか理解し難いものだったけれど、八千代の言葉を全て受け止めて、僕は喫茶店を出た。
日差しが強い。
喫茶店を出た直後、雪間さんと待ち合わせをしている場所(これもまた喫茶店)に向けて足を運ぼうと、一歩踏み出したところで目の前に耳を突く甲高い音を立てて車が止まった。
赤いオープンカーのそれは以前にどこかで見たことのあるもので、運転席に座る彼女を見て、僕は思い出す。
金色の頭髪。
地毛らしいそれは、どうやら本当に毛根から生えているようだった。
茶色のサングラスを頭にかけ、そのせいで小さな額が露になっている。
容姿端麗。
眉目秀麗。
八千代が清楚で純粋な美貌だとするならば、彼女は正反対の美貌を持つ。
快活な印象を一目で与える容姿だ。
職務中でも私服であり、むしろ私服が制服であり、戦闘服である彼女は体のラインを強調させたシャツに細身のジーンズを穿いていた。
へそがちらりと見えるその服装に、僕は生唾を飲み込んでしまう。
「よぉ、久しぶり。ちょいと仕事が入って時間がなくなったから迎えに来たぜ」
そう。
彼女こそが、雪間 麻由紀である。
公安刑事にして、日夜、日本をテロ組織から守っているのである。
時にはスパイ活動、時には独断専行。
時には制圧戦に参加し、テロ行為を未然に防ぐ。
特殊部隊に所属しているとも言える彼女の立場は非常に稀有らしい。
「あぁ?なんだよ、早く乗れよ」
「……はい」
「なんだ、元気ないな。どうした、あたしの美貌に見蕩れちゃって興奮絶頂真っ只中ってか!」
ぎゃははは、と雪間さんは笑った。
容姿端麗、しかし性格に難あり、と言ったところだった。
いや、こんなこと言えるはずがないんだけれども。
雪間さんは僕が乗り込んだとほぼ同時にアクセルを踏み込み、シートベルトをするのもままならないほどの速度で一般道を走行する。
シートベルトなんて知ったことか、と。
法定速度なんざ知ったことか、と。
黄色なら進め、と。
車体間隔は感覚だ、と。
性格が運転にまで顕著に表れていた。
雪間さんらしい、と言えばそうなのだけれど。
あぁ。
あぁ……。
八千代の運転が恋しい、素直にそう思ってみたり。
と言うか、仮にも国家機関に仕える公務員だろう。
完全に道路交通法を無視しているように思えるが――いや、気にしないでおこう。
きっと、大丈夫。
急な発進で少し混乱しているだけだ。
「…………」
だけであって欲しい……。
一般道を走行して、暫く。
僕は雪間さんが言い放った言葉に驚愕したのであった。




