Ⅸ糾弾編
一人娘が生まれたのは、今からおよそ三十年前になります。
それが正確な数値なのか、そうではないのか――そんなことはもうすでに忘れてしまいました。
思い出というのは色褪せて、薄れていくものですから。
記憶というのは風化していきます。
思い出すことがないほどに。
想起することができないほどに。
それが思い出したくもない記憶ならなおさら――
彼女は、平凡な両親から誕生した、異質の少女でした。
一般的な家庭で、平均的な生活を過ごす、三人の家族です。
おしどり夫婦。
周囲からはそう呼ばれ、まさにおしどりを擬人化したような夫婦でした。
しかし、それは表向きの面であって、家庭内ではそうではありませんでした。
でした、と過去形で言う意味をあえて言いましょう。
彼女の両親はこの世にはもういません。
もっと端的に言いましょう。
彼らは死にました。
それはもう無様に死にましたよ。
少女の目の前で。
少女の手が届く距離で。
なぜなら、彼女が殺したのですから――
『異質』は淘汰され、除外される。
それは当時、幼少期を過ごす少女の場合にも同じことが言えました。
小学生の頃の彼女は、迫害を受け、除外され、担任の教師も助けてくれず、唯一の心の支えであった両親でさえ、彼女の『異端』さに気づき手を伸ばしませんでした。
それもまた当然のことでしょう。
小学低学年で、少女はすでに一般大学生と同じ勉強をしていたのですから。
クラスメートは、そんな『異才』を偶然にも持ち合わせてしまった彼女を化け物と呼びました。
教員も皆等しく、彼女を恐れました。
そして、両親ですら、こう言いました。
『あなたなんか、生むんじゃなかった』と――
『あなたはおかしい』と――
『死ねばいいのに』と――
これだけならまだ少女の心は耐えることができました。
ただそれも、ぎりぎりの崖際でしたけれど。
しかし、『異質』に対する扱いを受けたのは、この後です。
ただ少し様子が常人と違う、程度ならば多少の迫害のみで済むでしょうが、彼女はその域を遥かに超えていたみたいです。
あぁ、別に自慢ではないですよ。
むしろ、こんなことを今になって語る時が来るなんて想像もしていませんでした。
墓場まで持って行こう、そう決めていたことでしたから。
まぁここを墓場と表現してもいいかもしれませんが。
ただの異端児ではありません。
異彩を放つ、異才。
異質の中の異質。
異端児。
日常の中の異常。
そんな少女は、最初からまるでそこにいないかのように扱われるようになりました。
周囲の環境下に、彼女は含まれていなかったのです。
誰もが彼女との無関係を装おり、口を閉ざしました。
それは皆が恐れ、恐怖した結果です。
関わることすら、億劫になったのでしょう。
彼女が何かを発言する度に、クラスが静まり、震えだす者や逃げ出す者さえ現れました。
その頃にようやく、少女は他人と何かが違うということを悟ります。
周囲と自分は違うと、自分はおかしい存在なのだと、間違った存在なのだと。
そうなれば、この少女の物語が加速するのも容易でした。
彼女は自分の存在が酷く恨めしくなって、両親を殺しました。
自分がこうなったのも、両親のせいだと言わんばかりに。
こんな体に生んだせいで、と言わんばかりに。
体格負けはしても、知識がある以上、大の大人を二人殺害することは彼女にとってそう難しいことではなかったようです。
それは助けを求めても手を差し伸べてくれなかった両親に対する報復という意味も含んでの行為でした。
簡単に言えば、八つ当たりです。
年端もいかない少女とはいえ、やったことは立派な殺人行為です。
問題にならないわけがありません。
けれど。
けれどそれも、彼女の『異才』によって事なきを得ることになります。
具体的に言えば、とある裕福な家庭に引き取られました。
そこは彼女にとってまるで天国のようなところでした。
自分の異質を受け入れ、異才を認めてくれる人がいる。
幼少期の彼女にとって、誰かと会話できることにすら感動を覚えます。
自分がどういった『異才』を持っているのか、それに気づいたのはもう少し後になってからですけれど、少なくとも当時、少女はそれだけで満足で、幸福感に満ちていました。
それだけの理由で、と言われれば返す言葉もありませんが、少女にとってはそれだけで十分だったのです。
だからこそ――
『家族になろう』
その言葉に頷くことができました。
簡単に首を縦に振ることができたのです。
むしろ、彼女にとって願ってもいない話でした。
その頃には、彼女が過去に両親を自らの手で殺めてたことなんて、すっかり忘れていました。
もしかしたら、両親に対して、大した思い入れがなかったのかもしれません。
それか、心のどこかで軽視していたのでしょう。
生みの親。
その言葉がどれほどの重みを持つか――彼女は知りません。
それに限らず、言葉の重み、というものを彼女は一切知りませんでした。
知識を持ち合わせるだけで。
ただそれだけ、だったのです。
正式に家族になるに当たって、少女は名字を変えました。
旗桐 鶴賀――
いや――
「その一人娘――苆野 鶴賀というのが私でございます」
と、塔野さんが言った。
相変わらずの無表情だった。
塔野やい子、改め、旗桐 鶴賀、改め、苆野 鶴賀。
それが彼女の本来の名前ということか。
本来の名前……。
本当の名前……。
あれ、ちょっと待てよ。
今彼女、何て言った。
家族になろう――
家族になる――
使用人じゃないのか?
メイドと言ってたのは、嘘だったのか?
塔野 やい子というのは偽名だったのか?
「塔野 やい子、これは偽名ではなく、むしろこちらが今の私にとって本来の名前になりつつあります。鶴賀――それはもう捨てたものです」
「塔野さん――いや、鶴賀さん、ならどうして、わざわざそう名乗っているんですか?」
「私はすでに旗桐家の人間ではありません。まさか使用人の分際でゆめゆめ旗桐を名乗ることもできないでしょう」
それより、と鶴賀さんは続ける。
自分の素性を明かしても尚、冷静だった。
それを契機に、何やら少しだけ雰囲気が変わったような気がしなくもなかった。
「どこでそんな情報を得たのか、その質問には答えてくれるのでしょうか。まぁ、知られたからには生かしてはおけぬ――なんてことは言いませんので」
「…………」
違う!
雰囲気が変わったと言っても、間違えた方向に変わってる!
慎ましかった彼女は一体どこにいったのか。
なんて。
そんなことは言えるはずもなく、僕はただただ沈黙するだけだった。
八千代の切ったカードは効果覿面、と言えるかどうかは怪しいけれど、そこそこの効力はあったようだ。
少なくとも、元旗桐家の人間ということならば、この殺人事件に関与する意味を十二分に持つということだ。
まさか、とは思ったけれど。
驚きもしたけれど。
しかし、それを聞かされて、むしろ納得した。
彼女の態度は、使用人としてはあまりに違和感を覚えるものだった。
その理由が『そういうこと』に起因するものならば、違和感は解消され、合致する。
「情報なんて、この世界には溢れているじゃないか。ネット検索でもすれば一発さ」
ははっ、と八千代は笑ったが、それは笑える冗談ではなかった。
「そうですか、お答えになられないと――」
「まぁまぁ、まだ一枚目のカードなんだ。ここでその質問に答えると、後に控えるカードにも私はまた繰り返し君の質問に解答しないといけなくなるだろう。それに、別に答える義理なんてないしね」
「……カード?」
「言い換えれば、手段、だよ」
「手段……」
「何のカードかをあえて言おか?」
「旗桐 鶴賀を犯人にするためのカードさ」
八千代は不適に笑う。
悪魔じみた笑顔だった。
いや、この場合、悪魔が笑顔なのか、笑顔が悪魔なのか、どっちとも言えるのかもしれなかった。
大胆にも。
まるで旗桐 行司に対して宣戦布告した、あの時のように、鋭い目つきで鶴賀さんを睨む。
「そうですか。なら、私はそれを否定し続ければいいのですね」
「否定しても意味があるとは思えないけどね」
「だって――私、犯人じゃないですから」
「はっは、そうだとしても、私は君を犯人にしてみせるさ」
「濡れ衣ですよ、冤罪です」
「――知ったことか」
「もしもそうなるのなら、それもまた一つの結果、なのでしょう。証拠がどうあれ、動機がどうあれ、です。それを受け入れることだって、今の私にはできます。この後に待っているのは、旗桐家の分裂、そして権力の消失。私が雇われているのも、金という理由に過ぎませんから、ここにいても意味がありませんからね。かと言って、私も元は旗桐の人間、易々と縁を切ろうとも思っていません」
そうなれば、最後まで旗桐家の一員として。
家族ではなくなったとして、旗桐家に関与した一人として。
鶴賀さんが一体全体どうして、旗桐家の秘密を握っていたか、その理由もこれで明らかになった。
彼女の言うように、元は旗桐家に迎え入れられた家族ということなら頷ける。
しかし、と思った。
それならどうして、彼女は使用人という立場に成り下がっているのだろうか。
何か問題でも犯したのだろうか。
それとも、彼女が過去に両親を殺害したことが露見してしまったのだろうか。
いや、それはないか。
そもそも、彼女が旗桐家に拾われた理由の主が、彼女の『異才』を買われたことにあるのだ。
それも、前科を背負った彼女を、だ。
それは鶴賀さんの才能を大いに認めていたからなのだろう。
ならば余計にわからなくなってくる。
そんな鶴賀さんが偽名を名乗り、使用人として旗桐家に仕える身に位置していることが理解できない。
重大な理由がある気がする。
彼女には、まだ語っていない『何か』があるのだろう。
それにしても、八千代のやつ。
豪く積極的に言う。
まぁ確かに、僕たちに濡れ衣を着せようとしていることは事実なのだろうが、それをわざわざ言うことに一体何の意味があるというのだろうか。
あくまで『敵』、か。
そうだ。
そうなのだ。
僕たちは旗桐 行司に宣戦布告をした。
してしまった。
それも殺害予告付きの、紛れもない犯行声明だ。
旗桐家を『敵』と見做したのだ。
それなら、いくら使用人という立場とは言え、元旗桐家の人間として黙ってはいないだろう。
彼女の忠誠は、篤い。
いくら金で買える忠義とは言っても、行司が死んでも尚、使用人をまっとうしているということは、つまり、そういうことなのだろう。
雇用体系なんか、唯の口実に過ぎない。
いくら偽名を名乗ろうが、彼女の忠誠は旗桐家にあり、そして旗桐家の人間なのだから。
どういった経緯で、鶴賀さんが使用人に身をやつしてるのかという疑問は一先ず置いておくとして、彼女の『異才』なるものの正体が少しばかり――いや、大いに気になる。
「小学低学年で大学の勉強をしてました」か。
考え過ぎだろうか、それを聞かされて連想するのは、林檎ちゃんだった。
林檎ちゃんは十四歳にしてすでに、全ての学問を終えた異質な頭脳を持つ。
その異質さは、鶴賀さんも似たようなものな気がする。
林檎ちゃんの才能と、鶴賀さんの異才は、酷似している。
全く。
こんな才能の持ち主が一室に集中するなんて。
八千代もああ見えて、実は常軌を逸した才能を持っているし。
僕の存在価値がどんどん薄れていっているような――いや、元からそんなものあったかどうか疑わしいことではあるけれど、それにしたって場違いな感じが否めない。
実際、事件解決に躍起になっているのは八千代であって、僕は何をしているかと言うと、ほとんどそれを傍観しているだけである。
勿論、真摯に向き合ってはいるが、貢献しているかと言われれば、返答に困る。
自覚がないより、ある方がまし。
だからと言って、何ができるというわけはないだろう。
僕にできることはせいぜい、事件の関係者になることくらいで、解決するに当たって重要な役割を担ってはいないのだ。
言い方によっては、事件に巻き込まれた唯の被害者とも表すことができる。
しかしこの場合、自ら足を突っ込んでいる僕は被害者ではなく、むしろ加害者に近い存在なのかもしれない。
それも言うなれば、いつになっても八千代から『被疑者』扱いされる要因になっているのかもしれなかった。
まぁ、元々それは少し前に起きた連続殺人事件――無差別通り魔事件のせいで、そう扱われるようになったと思う。
テレビのニュースでは新しい情報が入ると、逐一放送され、それだけの特番も幾つも組まれ、ネットではその話題で持ちきりになり、一時日本全土に渡って騒然とさせた事件である。
およそ半月少しという長い期間に渡り、ようやくの解決を見はしたものの、それは犠牲者の数が止まったというだけであって、犯人は未だに捕まっていない。
少々の落ち着きを取り戻した今でも、たまにテレビではその事件関連の番組が放送されている。
それに比べれば。
いや、殺人事件を犠牲者の数や犯行動機、証拠の有無や犯人像で比較することは間違った手ではあるが、あえて比較対照とするならば、此度の旗桐家殺人事件の一連を解決することは容易にも思えたのだった。
解決に動くのは主に八千代だけれど。
しかし、だからこそ、でもある。
だからこそ、僕も八千代に任せよう。
なんて、僕に殺人事件を解決する自信なんてあるはずがないが。
「旗桐――鶴賀さん……?」
沈黙していた林檎ちゃんがそう反復するように言った。
「わたし、そんな名前の人、聞いたことないんですが……」
「それもそうです。私が使用人になったのも、塔野 やい子を名乗ったも、全部あなたが生まれる前ですから」
「……そうでしたか」
「旗桐 鶴賀という名前を知っているのは、本家分家合わせた中でも極少数でしたね――今となっては、この場にいる方以外に、もういません」
鶴賀さんの雰囲気が変わったのもそうだが、口調もどこか柔らかくなった印象を受けた。
それも過去を語ったことが契機になっているのだろう。
それもそうだ。
彼女も旗桐家の人間なのだから。
唯の使用人ではないのだから。
「あ、あの、なら、わたしの両親について何か知っていますか?」
「と、言いますと?」
林檎ちゃんは訊く。
固執したように、鶴賀さんに問う。
「どうして死んでしまったのか、ということです」
「…………」
鶴賀さんは表情を変えずに沈黙した。
少し瞼を落としたかに見えたが、それも一瞬だった。
確か、林檎ちゃんの両親はすでに死んでしまったと、八千代から聞いた覚えがある。
それも同時期に、同じ場所で、だったか。
どうして死んだ、か。
それは率直な質問なのだろう。
素直な質問なのだろう。
人の死亡に理由がないはずがない。
死ぬための理由はなくとも、死ぬべき理由があるのと同じように。
「……残念ながら、それは存じません」
ゆっくりと、鶴賀さんは言う。
それを聞いて、林檎ちゃんは肩を落とした。
ため息混じりの嘆息を一つ吐いて、この話はもう終わり、と言わんばかりにまた沈黙の体制に入る。
しかし、今まで仕えてきた使用人が実は元旗桐家の人間でしたという告白に、驚かないのか。
さすが、と言うべきか。
幼くも達観し過ぎているせいか、一週半して同情にも似た感情が芽生えてしまう。
憐れんでしまう。
もっと子供らしくしろよ、と思ってしまう。
まぁ、泣き顔は、それはそれは可愛げのあるものだったけれど。
「ははっ、おいおい、旗桐 鶴賀の過去がどうあれ、この事件を解決するには関係のないことなのだから、それについては後々ゆっくりと二人で語ってくれ。旗桐家の人間同士仲良く、ね。――家族同然なんだから。まぁ事件の背景について明らかにするに当たっては必要な情報だし、犯人の動機を探るのにも有益だから、無関係とは言えないけれどね」
八千代の一声を機に、僕たちは犯行現場である客間に向かった。
時間の経過した血の臭いは酷く、錆びた金属そのものの臭いだった。
血には鉄分が含まれているが、人の血液中にこうまで臭う金属分が含まれているのかと思うと、何だか自分の体を形成する成分が人間のそれとは思えなくなってくる。
血は黒く変色し、固まり、染み付き。
旗桐 行司の中心を深々と抉る日本刀の刃は今も天井を向いている状態だ。
異様な光景ではあったけれど、死亡した行司の顔はどこか安らかで、静かなものだった。
苦痛も感じさせない。
まさに眠っているかのような、そんな表情。
しかし、それらを払拭するのは眼球が飛び出んばかりに開かれた目である。
事件を解決するに当たっての動かぬ証拠、というやつが犯行共用物である日本刀だけだ。
証拠品があるとするなら、それだけ。
警察機関でも導入して、徹底的に調べればもっと細かい証拠が発見されるだろうが、それは難しいことだ。
だから、そんなことが必要ないくらいの、確固たる証拠をこの現場から見つけ出す必要があるのだけれど――果たして八千代はそれを発見することができたのだろうか。
できたからこそ、彼女は「目星がついた」と言ったのだろうが。
大言壮語ではなかったらいいけれど。
と、不安に駆られて、心配することはどうやら無駄に終わりそうだった。
八千代は死亡した行司の姿を少しの間見つめて、言う。
「死亡原因はこの日本刀じゃないんだよ。けれど、これがある種のカモフラージュってわけでもなさそうだ」
「…………」
「あぁ、本当の死亡原因は――」
八千代の声が静かに響いた。




