成田離婚
「やっぱりハネムーンはハワイよね」
なんて、行きの飛行機ではしゃいでいたあのころの自分を思い出し、私は総ちゃんの肩から下がるクーラーボックスの中で、ため息をつく。
そもそも息を吐き出すための肺は既に溶けて水になってしまっていたが、他に今の自分の動きを形容する言葉が見あたらないのでそう言う事にしておく。
「座席代もったいないからスーツケースと一緒に預けるぞ。たのむから、日本に着くまで静かにしてろよ」
総ちゃんは昨日の晩から続く乱暴な口調でそう言うと、私の入ったクーラーボックスをこれまた乱暴な手つきでチェックインカウンターに預けた。
出会ってから5年、彼の私に対するぞんざいな扱いには慣れたと思っていたけれど、さすがに今回はきつかった。
「成田離婚って、本当にあるんだね」
最後のあがきとばかりに私は言ったが、総ちゃんはクーラーボックスを外からしっかりと閉める。
「最終的な到着地は信州まつもと空港だから、信州離婚だな。乗り継ぎは札幌だから、新千歳離婚でもいいが」
総ちゃんは躊躇いもなく言ったあと、「それとも、お前だけ成田経由で空輸してもらうか?」と続けた。
◆◆◆
私は普通の女の子だ。
人として譲ってはならない部分を百歩ほど譲ればだけど。
少女漫画とミニーマウスが好きで、甘い物には目がなく、三度の飯よりアイスクリームが好き。
着物よりフリルの付いたワンピースが好きで、最近の一押しはフェミニン。ファッション雑誌も毎月買っているし、肌のお手入れだって自分なりにがんばっている。
そんな自分の趣味と生活スタイルを思い返すたび、私はなんて今風で可愛らしくて普通な女の子なんだろうと思っていた。
その一方で、もちろん自分が普通じゃないことは百も承知だったが、少なくとも心だけは普通の女の子だと常に思って生きてきたし、普通の女の子になろうと努力もしてきた。
だからこそ、私は総ちゃんに恋をした。
総ちゃん。本名南方総司。長野のスキー場で、スノーボードのインストラクターを営む25歳。私の初恋の人にして、旦那様。…だった人。
彼と出会ったのは5年前の真冬の夜、私が住んできた山で彼が遭難していた時だった。父親と二人、スキー場のコースから外れて死にかけていた総ちゃんは当時20で、わたしは200歳。でも愛に年の差なんか関係ないと思っていたし、ましてや自分が人間でない事なんて関係ない! …そう思える勢いで、私は雪の中で意識を失っている総ちゃんに一目惚れした。何しろ総ちゃんはめちゃくちゃ格好良かった。がたいは熊さんみたいに良くて、顔立ちはカラス天狗より凛々しくて、でも眠った顔は雪男より可愛い彼に、私はすぐに夢中になった。
一目惚れした勢いで、私は総ちゃんと総ちゃんパパを山小屋まで運ぶと、腕を溶かしながら火をおこし、氷の目玉を鍋に落っことしながら二人のために暖かい山菜蕎麦を作ってあげた。
なのに総ちゃんと来たら、意識を取り戻した後の第一声が「うげぇ、雪女かよ、マジ勘弁」という超がつくほど失礼な言葉だった。
そんなファーストインプレッションから5年、様々な紆余曲折を経て私たちは無事ゴールイン。それを話し始めると12時間は止まらなくなるのでやめるけれど、一言で言わせれば愛の力のおかげ。総ちゃんは私の勢いが大部分って言うけど、その勢いを生み出す原動力は愛だったわけだから、つまりは同じ事。
それに「やだよ」「めんどいよ」「結婚とかありえねぇ」と言いつつも、村役場に勤めている総ちゃんパパの力で住民票と婚姻届を偽造してくれたり、「駄菓子屋で買った」と言いつつ婚約指輪をくれたのだから、私と同等かそれ以上の愛はあったはずだ。
そう、愛はあったはずだったのだ。だから5年も付き合って、結婚もして、ハネムーンにもやってきたのだ。
なのに、1週間のはずのハネムーンはわずか1日で幕を閉じ、予想外の繰り上げ帰国とあいなった。その上行きは二人並んで人間用の座席に座ったのに、帰りはクーラーボックスの中で約8時間も過ごす羽目にまでなった。
どうしてこうなったのか? どうしてこうも簡単に愛は失われたのか?
溶けた体に浮かぶ結婚指輪を見つめつつ悩んでいた私に、「新婚旅行はハワイが良い」と始めて総ちゃんに話した時のやり取りが蘇る。
「ハワイの平均気温知ってるか?」
「20度超えるんでしょ? 海とか入ったらきっと気持ちいいよね」
「泳げるのか?」
「どっちかっていったら、溶けて漂う感じ?」
「そのまま海水と混ざって消えてくれたらいいのに…」
「海に消えるなんて人魚姫じゃないんだから~! って、もしかして総ちゃん、今私のこと人魚姫みたいな可憐で綺麗な若奥さんだなぁっておもった?」
「俺の言葉を、どうねじ曲げて脚色して過大解釈したらそうなる」
「照れなくて良いよ~。それにね、ハワイと言っても冬だから、私ほどの雪女はそう簡単に溶けないって」
「日本の東北の夏でも五体満足で過ごせないお前がよく言う」
「溶けても腕か脚だけだよ」
「俺は嫌だぞそんなハネムーン」
今思えば、その言葉が総ちゃんの本心だったんだよね…。
でもあのときの私は、そんなことにこれっぽっちも気づけなかった。
◆◆◆
ハワイに着いたとたん、入国審査すら通る前に私はあっけなく暑さにやられた。
とにかく暑かった。
ちょっとハワイをなめていた。
青い空と白いビーチは伊達じゃなかった。
今は反省出来るけれど、私はあっという間に液体化。総ちゃんは慌てて溶けた私をペットボトルに入れて、それを所持していたが為に手荷物検査で外人さんにめちゃくちゃ怒られて、入国したのは良いけど観光もろくに出来ずにホテルに向かって、休む間もなく私のために部屋と廊下の製氷器の間を50往復もさせられて、私がホテルのバスタブで元の形に戻った時には、機嫌の悪さは最高潮だった。
「だから嫌だったんだよ、お前みたいな女とハワイなんて」
水と氷をためたバスタブで体を再構築させていた私に向かって、総ちゃんは乱暴に氷を投げ込んでいく。その冷気を取り込みつつ、右腕をニョキッと生やした私。それを、総ちゃんは複雑そうな表情でも見ていた。
「ごめんなさい、でもさっきのはちょっと油断しただけ。ここまで暑いと思ってなかったから、ついつい」
「ついつい、で溶けるな馬鹿たれ!」
「でも本当にもう大丈夫だよ」
「お前の言葉はもう信じない。帰国まではホテルの部屋から一歩も外に出さないからな」
「えぇ、せっかく水着買ったのに!」
「雪女が常夏の楽園で海水浴なんか出来るかボケ! つーか、溶けるのに意味があるのかその無駄なハイレグは!」
ハイレグは死語だよ、と思いつつも総ちゃんの言葉は全体的に正しい。
私だって南国の太陽の下、水着一枚で海水浴が出来る体ではないことくらい分かっている。
雪女。人は私をそう呼ぶし、総ちゃんもその呼称を使う。本当は「お雪」というのに、デートの時も、私の服を脱がせる時も、体を重ねる時でさえその名前は呼ばない。
「とにかく外出禁止だからな!」
「でも夕食は? ホテルのハワイアンディナー予約しちゃったよ」
私の言葉に、総ちゃんは心底嫌そうな顔をした。そう言えば、驚かそうと思ってディナーのことは秘密にしておいたんだった。
「ディナーは良いでしょ? ホテルのレストランだし、外には出ないからさ」
私の言葉に総ちゃんは10秒ほど頭を悩ませ、それから渋々といった感じでうなずく。
「ディナーだけだぞ」
「やった、じゃあそのとき水着着ていこうかな」
「露出狂の雪女とディナーなんて、俺は絶対嫌だからな」
「冗談だよ」
「お前の冗談は冗談に聞こえん」
ふてくされた表情で、総ちゃんはシャワーカーテンで私の視界を遮った。その時私は、カーテンを引く総ちゃんの指先が、いつもより赤くなっているのに気がついた。
こんな冷え切ったバスルームに、あの手が何度も氷を運んでくれたことを思うと、少しだけ胸が痛くなった。
「ごめんね」
私の言葉に、総ちゃんは何も言わずにシャワールームを出て行く。
それから少しして、ベッドルームで総ちゃんがテレビをつける音がした。
テレビから流れる英語の意味は私にはさっぱりだったが、総ちゃんがそれを割と真剣に見ているらしいことは、飽き性の彼が部屋を出て行く気配がないことから察した。
「私よりテレビか…」
そんなことをつぶやきつつも、これ以上彼の邪魔にならないように、私は冷水の満ちたバスタブの中に深く深く身を沈めた。
◆◆◆
「いいか、お前はこの席から一歩も動くな」
待ちに待ったディナーでの、総ちゃんの第一声はそれだった。
レストランはホテルの最上階にあり、ハワイ料理と洋食が並ぶブッフェスタイルの物だった。
私は早速料理を取りに行こうとしたのだが、総ちゃんはそれを断固として許さなかった。
「でも、総ちゃん私の食べたいものわかんないでしょ?」
「食べたいも何も、雪女のお前が食える物っていったら、フルーツくらいしかねーだろ」
「えぇ、ロコモコとか食べたーい」
「熱さで顔がただれるぞ」
「総ちゃんがふーふーしてくれればいいじゃん」
「却下だ」
返答は迅速且つ鋭く、私はそれ以上何もいえなかった。
総ちゃんが料理を取りに行っている間、私は頭上のクーラーから流れてくる冷気に目を細めた。室内と言っても、食べ物が並ぶレストランは部屋よりも暑い。一応服の下には冷却シートを張りまくってはいるが、クーラーの冷気がなければ嫌な汗をかいていたかも知れない。
良い席を取れて良かったと、一人胸をなで下ろしつつ、私は他の客に紛れてしまった総ちゃんを捜す。
だがその時、突然レストランの照明が暗くなる。一瞬停電かと思ったが、冷気は相変わらず流れてきているのでそれはない。
「ミナサマオマタセスマシター、ハワイアンデナーニヨウコーソ」
その声に後ろを振り返ると、すぐ側にあったステージで、黒人の男性がたどたどしい日本語をマイクにぶつけていた。日本人の多い客層に合わせてだろうが、正直発音はお世辞にも良いとはいえなかった。
聞きにくいその日本語に耳を傾けたところ、どうやら何かショーをこれから行うらしい。今更のように、私はホテルのパンフレットにフラを踊る女性の写真が載っていた事を思い出した。
「デハ、タノシンデクダサーイマーセー」
男が微妙なイントネーションでそう締めくくると、場内に激しい太鼓のリズムが響く。
さすがハワイアン! なんて思っていたのもつかの間、側のステージに現れたのは腰蓑一枚でたいまつを振り回す、たくましいファイアーダンサー4人衆だった。
一瞬その筋肉質な肉体に見とれてしまったが、そこでふと、私は今更のように4人が振り回しているたいまつに気がついた。
気がつくのとほぼ同時に、ステージの方を向いていた顔の右半分が溶けかけの雪だるまのごとく、ずるりと滑り落ちるのを感じた。
「うぉっと!」
と、ギリギリのところで元の位置に戻したのは良かったが、今の声で客も筋肉マン達も私の方へ注目したのが分かる。
やばいと感じた時には既に遅く、最初に叫び声を上げたのは迎えのテーブルに座る関西人らしきパンチパーマのおばちゃんだった。
「化け物!」
その言葉に反射的に身がこわばる。そしてこわばった拍子に、支えていた顔ごと右腕がテーブルの上に落ちた。
みるみる溶けていく腕と自分の横顔は、正直自分でも不気味だと思う。しかしそう思っても止められる物ではなく、むしろおそるおそる近づいてきた筋肉マン達が持つたいまつのおかげで、残りの体からも激しい水滴が流れ始める。
自分の醜態に自分で困惑していた私と、それを見て叫んでいる人々の間に入ってきたのは、総ちゃんだった。
彼は私の知らない言葉、たぶん英語で何か怒鳴ると、私へと近づいてきたダンサーを突き飛ばし、それから私と私の溶けた腕と顔を掴んで一目散にレストランから飛び出す。
半ば放り込むようにしてレストランの側にあるエレベーターに私を押し込み、自分も中へと滑り込む総ちゃん。
彼が部屋のある階のボタンを乱暴に押して、そこで始めて、私は言葉を思い出した。
「総ちゃん、英語喋れたんだね」
少々場違いなその言葉が口から滑り落ちた時、私は自分が柄にもなく動揺していることに気がついた。そしてその動揺は総ちゃんにも伝染してしまったらしく、私の言葉に答える変わりに、彼は肩を奮わせると、握っていた私の腕と顔をエレベーターの床に乱暴に叩き付けた。
私が入った容器を乱暴に扱うことはあっても、私の体を直接乱暴に扱う事なんて今までなかった。
口は悪くても自分のことは大切にしてくれている。そう信じていた私を真っ向から否定するようなその行為には、思わず涙がこぼれる。既に顔はぐちょぐちょで、頬を伝うそれが涙かどうかは分からなかったが、その時私は確かに泣いていた。
「だから嫌だったんだよ、お前みたいな化け物とハワイなんて…」
名前を呼ばれないことには慣れていた。でも、化け物と呼ばれたのははじめてだった。
「なんで、そんなこと言うの?総ちゃんは、私の旦那さんなのに」
「なりたくてなったわけねぇーだろ、そんなもん」
いい加減気づけよ。と、総ちゃんは吐き捨てるようにつぶやいた。
「じゃあ、何で指輪とか、婚姻届とか、色々くれたりしたのよ!」
私の言葉に、総ちゃんは心底ウンザリした顔で私を見た。
「下手に断って、殺されでもしたら嫌だからな。俺はともかく、昔話みたいに親父まで凍り付けにされたらたまんないだろ」
「そんなことしないよ!」
「お前の言葉なんて信用出来るかよ」
「そ、んな…」
「でももう良いよ。なんかもう、こんなママゴト続けるくらいなら、殺された方がマシだ」
「殺さないってば! だって、私総ちゃんのこと好きだもん!」
「俺は好きじゃない。始めから、今まで」
その言葉を聞いた瞬間、私は私を保つ事が出来なくなった。
いっそ死んでしまえれば楽だけれど、いくら溶けて形をなくしても、雪女にとってそれは苦痛でもなければ死でもない。
形がなくなって、上手く動けなくなって、それでも消えない魂を、溶けて水になった体に預けることしかできないのだ。そして水になってしまったからには、流れに身を任せることしか私にはできないのだ。
「ごめんなさい」
肩を奮わせることも涙を流すことも出来ない私は、その言葉を口にするしかなかった。
本物の雪のように、溶けて消えてしまうことが出来ない自分の体を、このときほど恨めしく思った事はなかった。
◆◆◆
クーラーボックスの中にいても、日本に着いた事はすぐに分かった。
総ちゃんに負けず劣らない乱暴な手つきで飛行機から降ろされた時、雪の匂いを感じたからだ。
雪の匂いを感じてから1時間ほどして、突然クーラーボックスの向こうから総ちゃんの声が降ってきた。てっきり長野に着くまでずっとボックスの中だと思っていたので、これには少し驚いた。
「ついたぞ、そろそろ出てこい」
勝手に押し込めたくせに出てこいはないだろうと思ったが、蓋の開いたクーラーボックスの中で、水のふりを続けるのも気が引けた。
雪の匂いで力も戻りつつあった事もあり、私は周りに人がいないのを確認すると、液体から固体へと姿を変える。
「日本に着いちゃったんだね」
さり気なく名残惜しさを臭わせてみたが、総ちゃんは素っ気ない態度でクーラーボックスを閉めるだけだった。無言の彼をじっと見ているとまだ泣いてしまいそうだったので、私は彼の後ろに広がる景色を見る。私たちの姿を隠すように並ぶベンチの向こうには、沢山の人が行き交う大きな通路があり、そのさらに向こうにはシャトルバスの受付所や売店が見えた。
「ここ、新千歳空港?」
「成田」
私が訪ねると、総ちゃんはクーラーボックスを肩にかけながら言った。
「離婚ならここなんだろ」
離婚の二文字をありありと見せつけられ、私は思わず総ちゃんの顔を見た。カラス天狗より凛々しいその顔に、笑みはない。いつもの厳しい表情が、私を見返しているだけだ。
「ごめんなさいなんて言葉、今更意味ないよね」
「ああ」
総ちゃんは、躊躇いもなく言った。夢も、希望も、もしかしたらと妄想していたドラマチックな仲直りのシーンも、その一言で見事に崩れ去った。
多くは望まない。しかしもう少し優しい言葉でもいいじゃないか、と思ってしまう自分に心の中でドロップキックをかましながら、私はもう一度、覚悟を決めて総ちゃんを見上げる。
「もう、行くぞ」
だが、私が口を開くより早く、総ちゃんは言った。相変わらず躊躇いがない。どうやらこのまま私を斬って捨てる気のようだ。
「あ、うん」
歩き出す総ちゃん。それを、見送る以外に私に道はなかった。どんなにすがっても、あの大きな背中には追いつけない。それを、成田離婚という形で私はようやく理解した。
「ばいばい」
絞り出すようにして、私は最後に言った。だがそれを、総ちゃんはまたもや心ない一言でかるくうけ流した。
「は?」
涙をこらえて、腹をくくって、そうしてやっていえた「ばいばい」に、総ちゃんの答えは「は?」である。それも振り返りざまに「何言ってんのお前、馬鹿じゃないの?」という表情までつけて。
「何言ってんのお前?」
まるでエスパーか!と怒鳴りたくなるタイミングで、総ちゃんは私を見た。
「何って、お別れ…」
「お前、本気でここに別れる気なのか?」
「だって、成田で別れなきゃ成田離婚にならないじゃない!」
総ちゃん、しばし硬直。
それから3秒ほどたった後、彼は吹き出すように笑い声を上げた。
「お前、予想以上にナイーブなんだな」
その上、笑い声の合間にこぼれた言葉はそれである。さすがにこれにはむっとして、私は総ちゃんにくってかかった。
「当たり前でしょ、あんな酷いコトされて、その後8時間もこんな狭いところに押し込められて、挙げ句の果てに大笑いまでされて、傷つかない女の子がいると思うの!」
「ごめん、正直お前は平気だと思った」
真顔で言われ、私は更に凹む。だが、そんな私の左手を、不意に総ちゃんが掴んだ。
「でも、こうでもしないと日本に帰らなかっただろ? さすがに今回は少しやりすぎたかもしれないが」
その時、本当に久しぶりに、総ちゃんの優しい笑顔を見た気がした。元々笑顔なんてそうそう見せてくれる人じゃないけど、旅行中はまったく笑わなかった総ちゃんが、離婚するはずの成田で、始めて笑ってくれたのだ。
「ハワイで、お前がああなることは予想してたよ。俺はお前ほど馬鹿じゃない」
「でも…」
「お前は馬鹿だから、痛い目を見ないと理解しないと思った。俺、お前の意地っ張りで強引なところをどう扱えばいいかわかんないから、あんま手加減出来なかった」
言いながら、私がクーラーボックスの中に置き忘れた結婚指輪を、総ちゃんは私の左手の薬指にはめてくれる。
それは結婚式の指輪の交換の時以上に、丁寧で優しい仕草だった。
「じゃあ、化け物って言ったのは嘘?」
「怒ったのは演技だよ。本気で海水浴にでも行かれたら困るし。あれくらいすれば帰るって言い出すか、もしくは部屋に引きこもると思って」
「もしかして、私の身を案じてあんな嘘を?」
「あ、それはない。だってお前死なないじゃん、化け物だし」
総ちゃんの言葉は、金のタライが脳天に激突したくらいの衝撃だった。
「え、本当のことだろ?」
「いくら事実でも、面と向かって言うことないでしょ! それも2回も!」
「たまに言わないとお前が忘れるだろ。雪女なのにハワイに行きたがったり、水着買ったりするしな」
「だって、私は人間の女の子になりたいんだもん。可愛い若奥さんとして、新婚旅行でステキな想い出作りたかったんだもん」
「気持ちは分かる。でもお前が人間になるのは不可能だ。そもそもその単純極まりない性格と楽観的過ぎる思考回路は普通とは言えないし、溶けかけたお前はお世辞にも美人とは言えない。それどころか見るにたえない」
総ちゃんのさらなる追撃に、私は返す言葉もない。しかし意気消沈している私に少しは同情を覚えたのか、総ちゃんは「だがまあ…」とフォローの言葉を口にしてくれた。
「そんなお前がいなけりゃ、俺は5年前に死んでたんだ。この5年間は、お前の存在を抜きにすれば、それなりに楽しい5年間だったと思うし、その点は感謝している」
「嘘くさい…」
「嘘だったら、お前と結婚なんてしなかったさ」
「じゃあ、結婚してくれたのはお礼のつもり? 私を好きだからじゃなく?」
「俺の中に、お前への愛があると思ったのか?」
てっきりフォローの後には愛の言葉があると思っていたが、それはやっぱり離婚宣言だったらしく、総ちゃんは真顔で私を見下ろした。
「だが少なくとも、お前に殺されるとは思っていないな。化け物と思いつつも恐怖は抱いていない。愛情もないが、そんなモンは人間と雪女の間では成立するわけないし、これからも期待するな」
「でも、結婚したし…」
「だからそれは感謝の気持ちだ。どうせ偽装結婚だし、俺の経歴に傷は付かないから『まあ、いいか』位の気持ちでしたまでだ」
「それ、全然感謝の意がこもってない!」
「込めたぞ、少なくともその指輪は高かった」
そこかよ! と突っ込みたいのをぐっとこらえ、私は左指にはめた結婚指輪に目を落とした。
「いくら、したの?」
「50万」
「たかっ!」
「だから、簡単に捨てるなよ」
「でも、離婚するんでしょ? 私たち?」
「元々本当に結婚したワケじゃない。離婚も何もないだろ」
「でも、一応そう言うことにしないと、総ちゃんだって次の人見つけられないでしょ?」
「そんなことはない。好きな女が出来たら、俺は勝手に結婚する」
言うと思った。
「だからお前も好きな時に離婚しろ。だが、新しい相手を見つけようとは思うな。少なくとも、お前を好きになる人間はこの世には存在しない」
総ちゃんは断言した。それはもう見事に、きっぱりすっきりはっきりと断言した。
「それを分からせるためにも、俺は嫌々ながらお前をハワイに連れてったんだ。さすがに新婚旅行中に化け物呼ばわりされたら、お前も懲りると思ってな」
「うん、さすがに懲りました。総ちゃんだけじゃなく、知らないおばちゃんにまで指さされたし…」
「だからこれ以降、無駄な高望みをしたり、出来もしない無茶はやめろ」
「はい…」
「理解したならもう行くぞ、そろそろバスが出るからな」
バス? と首をかしげる私に、総ちゃんは冷却シートを差し出しながら言った。
「ここまで来てそのまま帰るのももったいないだろう。東京観光して、長野に帰るのはそれからだ」
「もしかして、ハネムーンの続き?」
「…もう一回、俺の心にお前への愛が露程もないことを始めから説明しようか?」
慌て手首を横に振ると、総ちゃんは「もう二度と言うな」と確認してから私に背を向け歩き出す。
「私、総ちゃんのそう言う『黙って俺についてこい!』みたいなところ、大好き」
心の中でつぶやいたはずのその言葉は、気がつくと声になっていた。
たぶん、その時私は舞い上がっていたのだ。
総ちゃんの「好きじゃない」の向こう側に、まだ希望がある気がして。
たとえ「もったいない」が理由であっても、指輪を私にくれたことに意味がある気がして。
「俺は、お前のそう言う恥ずかしいことを惜しげもなく口にするところが大嫌いだ」
だけどそれでも、たとえ感謝でも、総ちゃんは結婚してくれたじゃない。
今度はギリギリ、心で言葉を食い止めて、私は総ちゃんの横に並ぶ。
二人、ターミナルの出口から外に出ると、始めて見る東京の空からはか細い雪が降っていた。
しかしこんなか細い雪でも、この雪は私の強い味方。帰郷するまでに総ちゃんの気を引くには、十分すぎる援軍だ。