転生令嬢、マフィアのボスとして最愛の義父を口説き落とす~「わたしと、結婚してくださいね? パパ」~
銀のフォークが皿を鳴らす音は、貴族の食卓では非難の合図になる。
その夜、ヴァレンティ公爵家の長い食卓のいちばん上座で、第一夫人アドリアーヌがわざとらしくフォークを置いた。磨き上げた大理石のような頬に、うっすらと嘲りをのせて、彼女は末席のほうへ視線を投げる。
「行き倒れ上がりの子が、公爵家の食卓に着けるなんて。世の中、優しくなったものねえ」
周りの侍女がくすくすと笑う。それが正しい反応だと知っているからだ。この屋敷では、アドリアーヌが笑えば笑い、眉をひそめれば青くなる。それが十何年も続いてきた作法で、誰も疑ったことがない。
言葉を向けられた娘――ヴィオレッタは、膝の上で手を重ねたまま、静かに睫毛を伏せた。反論はしない。悔しそうな顔も、しない。ただ、その伏せた目が驚くほど凪いでいることに気づいた者は、この場に一人もいなかった。
上座のもう一方で、公爵ロレンツォが、ほんの少しだけ疲れた息を吐いた。
「アドリアーヌ。ヴィオレッタは私の娘だ。行き倒れなどと呼ぶのはやめてくれ」
「あら、わたくしは事実を申しただけよ。拾われでもなければ、あの子がこの家にいる理由なんて、ほかにないでしょう?」
ロレンツォの眉が寄る。けれど、それ以上は続かない。彼はいつも、ここで言葉を呑む。妻の背後には王家がある。公爵という立場は、傍から見えるよりずっと不自由なのだ。
ヴィオレッタは、その不自由を誰より理解している。だから顔を上げ、いちばん無害な微笑みを作ってみせた。
「いいのです、お父様。アドリアーヌ様のおっしゃる通りですもの。拾っていただいたご恩は、忘れておりません」
しおらしく、健気に。牙のない娘の顔で。
アドリアーヌは満足そうに鼻を鳴らし、食事に戻った。ロレンツォだけが、痛ましそうな目でヴィオレッタを見ている。庇いきれない自分を責めている、優しい人の目だ。その視線を、彼女はやんわりと微笑みで受け流した。
――さて。
この俯いた養い子が、なぜ公爵家の食卓にいるのか。そして、なぜ夜になると別の顔を持つのか。それを語るには、三年前の、ある雨の日まで遡らなければならない。
◇◇◇
ヴィオレッタは、もともとレイフェルト男爵家の一人娘だった。
母は、彼女が幼い頃に病で亡くなっている。だから家には、父ジェラルドと娘の二人きり。使用人はいたけれど、心を許せるのはお互いしかいなかった。父は、貴族には珍しいほど誠実な人だった。領民ひとりひとりの名を覚え、税を軽くし、飢えた年には自分の蔵を開けた。小さな男爵領は、貧しくとも穏やかで、娘はそんな父を、心から誇りに思っていた。
「ヴィオレッタ。人の上に立つ者はな、いちばん弱い者の顔を見て決めるものだ」
幼い彼女の頭を撫でながら、父はよくそう言った。その言葉を、彼女は宝物のように胸にしまっていた。まさかその誠実さが、家を滅ぼす隙になるとは、当時は思いもせずに。
忘れられない冬がある。ヴィオレッタが十になった年、レイフェルト領は、記録に残るほどの凶作に見舞われた。畑は凍りつき、蔵の底が見えはじめ、村では餓えて動けなくなる者も出た。そんなある朝、父は使用人を集めて、屋敷の蔵をすべて開けるよう命じたのだ。
「男爵様。それでは、我らの冬の蓄えが」
「私たちは、屋根の下で震えていればいい。だが村の者は、屋根さえないところで震えている。順序が逆だろう」
父はそう言って、自ら荷車を引いて村へ向かった。幼いヴィオレッタも、小さな手で袋を抱えてついていった。凍えた村人たちが、痩せた頬に涙を伝わせながら、何度も何度も頭を下げる。その光景を、彼女は今でも、まぶたの裏に焼きつけている。
帰り道、空になった荷車の上で、父はぽつりと言った。
「ヴィオレッタ。私は、貴族が偉いとは思っていない。ただ、多くを持たされた者には、多くを配る役目がある。それだけのことだ。……お前も、いつか誰かを守れる人におなり」
誰かを守れる人に。その言葉を、彼女は何度も胸のなかで反芻した。まさかそれを果たす場所が、生まれ育った家ではなく、まったく別の――昼と夜の、ふたつの顔の上になるとは、そのときは、思いもよらなかったけれど。
破滅は、ある冬、前触れもなくやってきた。
王弟レオポルド――王家の政を陰から握る、あの男の派閥が、レイフェルト男爵家に目をつけたのだ。理由は単純だった。小さなレイフェルト領を貫く街道が、隣国との交易の要になる。しかも相手は、後ろ盾を持たない弱小男爵。そこを欲した派閥は、いちばん潰しやすい邪魔者として、この誠実な男を選んだ。
やり口は、汚いほど鮮やかだった。ありもしない横領の帳簿がでっち上げられ、隣国と内通したという偽の書簡が「発見」され、父はある朝、反逆の疑いで捕らえられた。誠実さは、こういうとき何の盾にもならない。潔白を訴える声は、握りつぶされた。父・ジェラルドは、無実のまま牢の中で病を得て、春を待たずに息を引き取った。
最後に面会を許された日のことを、ヴィオレッタは覚えている。鉄格子の向こうで、父はもう、立ち上がる力もなかった。それでも彼は、痩せた手を格子の隙間から伸ばし、娘の指先に触れて、こう言ったのだ。
「泣くな、ヴィオレッタ。私は、恥じることは何ひとつしていない。……ただ、ひとつだけ悔いがある。お前を、守ってやれなかったことだ」
守れなかったのは、あなたではない。守れなかったのは、わたしのほうだ。そう言い返したくても、喉が凍りついて声にならなかった。その数日後、父の訃報が届いた。遺体さえ、まともに引き取らせてはもらえなかった。
そして追い打ちのように、その報せの翌週、婚約者だった子爵家の子息が、社交界のただ中でヴィオレッタに歩み寄り、衆目の前で、はっきりとこう告げた。
「罪人の娘と婚約を続けるわけにはいかない。分かるだろう? ……悪く思わないでくれ。これは、家のためなんだ」
「ええ」
ヴィオレッタは、ただ静かに頭を下げた。
「どうぞ、お家のために」
彼を責める気にはなれなかった。この婚約破棄もまた、派閥の描いた筋書きの一枚だと、彼女はもう気づいていたからだ。レイフェルト家を、名実ともに社会から消し去る。そのための、ダメ押しの一手。だから彼女は、取り乱すことも、すがることもしなかった。ただ、背筋だけはまっすぐに伸ばして、その場を去った。それが、罪人と呼ばれた父の娘にできる、最後の意地だった。
こうして父を失い、婚約を失い、ヴィオレッタは天涯孤独になった。家は取り潰され、財産は没収された。使用人たちは散り散りになり、屋敷には王家の封蝋が貼られた。男爵令嬢だった娘は、ひと晩のうちに、名も家も婚約者も失って、ただの行き倒れになった。
――皮肉なことに、前世の記憶が戻ったのは、ちょうどその、いちばん底の瞬間だった。
遠い異国で、三十年ぶん大人をやった記憶。それが濁流のように流れ込んできて、ヴィオレッタは石畳の上にへたり込んだ。けれど、泣かなかった。二つぶんの人生の記憶を抱えた頭は、悲しみよりも先に、ひとつの結論を弾き出していた。
――この世界には、誠実なだけでは守れないものがある。父は、それで死んだ。
冷たい雨が、ドレスの裾を重くしていく。行くあてはない。頼る家もない。それでも彼女は、震える膝に力を込めて、もう一度、立ち上がった。
◇◇◇
その雨の中に、一台の馬車が停まったのは、日が暮れかけた頃だった。
降りてきたのは、身なりのいい壮年の男だった。従者が慌てて傘を差し出すのを、彼は手で制して、まっすぐにヴィオレッタのほうへ歩いてきた。そして、濡れるのも構わず、彼女の前に片膝をついたのだ。
「……こんなところで、何をしている」
「見ての通りです」
ヴィオレッタは、掠れた声で答えた。
「行くあてを、なくしたところで」
男は、しばらく黙って彼女を見ていた。その目には、憐れみはなかった。もっと静かな、何かを見定めるような色があった。
「レイフェルトの娘だな。……ジェラルドの、忘れ形見か」
父の名まで言い当てられて、彼女は思わず顔を上げた。男は、ゆっくりと続けた。
「私はヴァレンティ公爵、ロレンツォ・ヴァレンティ。――お前を、探していた」
「わたしを、ですか……?」
「ジェラルドが牢で亡くなったと聞いた。娘が屋敷を追われた、とも。だから来た。……こんな雨の日に、こんな裏路地を、公爵家の馬車がわざわざ通りかかると思うか」
ヴィオレッタは、言葉を失った。偶然では、なかったのだ。この人は、彼女を見つけるために、ここへ来た。
「昔、まだ戦のあった頃だ。名も知らぬ若造だった私は、戦場で死にかけた」
男は、雨に濡れるのも構わず、静かに続けた。
「そのとき、自分の身を盾にして私を庇い、命を拾ってくれたのが、お前の父上だった。『人の上に立つ者は、いちばん弱い者の顔を見て決めるものだ』――あの人は、そう言って笑っていた。私は、その借りを、まだ何ひとつ返せていない」
その声には、二十年ぶんの重みがあった。
「あの男が、横領や内通などするものか。訃報を聞いても、私は、どうしても信じられなかった」
男は、悔いるように目を伏せた。
「……だが、しょせん私も、遠い地の一貴族にすぎん。何が起きたのか、真相までは掴めなかった。あの人を助けることも、汚名を晴らすことも、とうとうできずじまいだ。……情けない話だ」
この人は、父の死の裏に何があったのかを、知らない。ヴィオレッタは、そう悟った。ただ、恩人の人柄だけを信じて、その娘を助けにきた。それだけの人なのだ。真相を暴くのは――いつか、わたしの役目になるのかもしれない。凍えた頭の隅で、彼女は、ぼんやりと、そんなことを思った。
雨の音の中で、その名前だけが、やけにはっきりと響いた。
ロレンツォ・ヴァレンティ。元王族の血を引く、名門ヴァレンティ公爵家の当主。王家の傍系として、代々その爵位を継いできた高貴な家柄。本来なら、道端の行き倒れなど、馬車の窓から一瞥もくれずに通り過ぎるはずの人だ。
その人が、雨に濡れながら、彼女の目の高さに膝をついている。
「行くあてがないなら、うちに来い」
ロレンツォは言った。
「娘として迎えよう」
「……よろしいのですか」
ヴィオレッタは、掠れた声で問い返した。
「わたしは、反逆罪で処刑された者の娘です。そんな者を屋敷に入れれば、公爵様のお立場が――」
「正気か、と言いたいのだろう。ああ、正気だ」
男は、迷いなく頷いた。
「罪人の娘を公爵家に入れるなど、周りは正気の沙汰ではないと言うだろう。妻の実家は、いい顔をすまい。それでも構わん。恩を受けた相手の娘を、雨の中に見捨てて、それで守った立場に、いったい何の値打ちがある」
それは、彼女の父が生涯かけて貫いた生き方と、そっくり同じ理屈だった。
「それに」
ロレンツォは、ふっと目元をやわらげた。
「借りだの恩だの、そんな理屈を抜きにしても――こんな雨の中に、お前ひとりを置いていける人間が、どこにいる」
のちに、ヴィオレッタは知ることになる。この人が、いかに孤独な男であったかを。政略で娶った妻とは心が通わず、広い屋敷の中で、血筋と義務にがんじがらめにされて生きてきた人だと。だからこそ彼は、すべてを失ってなお凛と前を見るこの少女に、自分にはないものを見て、放っておけなかったのだろう。
けれど、その日の彼女に分かったのは、もっと単純なことだった。
差し出された手が、あたたかかった。それだけだ。
名も家も奪われた自分を、「娘」と呼んでくれる人がいる。その一言が、凍えた身体のいちばん奥に、じん、と染みた。
ヴィオレッタがこの人を好きになったのは、たぶん、この瞬間だった。娘としてではなく――ひとりの、女として。自分でも呆れるほど、あっけなく。そして彼女は、その気持ちを、これから三年間、誰にも悟らせずに抱えていくことになる。
馬車に乗せられ、公爵家へ向かう道中、ロレンツォは多くを語らなかった。ただ、濡れた彼女の肩に、自分の上着をそっと掛けてくれた。ほのかに、乾いた紙とインクの匂いがした。書斎で長い時間を過ごす人の匂いだ。
「怖がらなくていい」
窓の外の雨を眺めながら、彼はぽつりと言った。
「屋敷には、お前に優しくない者もいるだろう。私も、いつも傍にいてやれるわけではない。だが――少なくとも、雨の中に放り出すような真似は、金輪際させない。それだけは、約束しよう」
その言葉に、どれだけ救われたか。ヴィオレッタは、上着の襟を握りしめて、こくりと頷いた。誰かに「約束する」と言ってもらえたのは、父を失って以来、初めてだった。この人の言葉は、軽くない。きっと、守れないことは口にしない人だ。だからこそ――彼女は、心のどこかで静かに誓った。ならば、この人が守りきれないものは、わたしが守ろう、と。その誓いが、のちに彼女を夜の世界へ導くことになるとは、まだ、知る由もなく。
◇◇◇
ヴァレンティ公爵家に迎えられた初日のことを、ヴィオレッタはよく覚えている。
湯浴みをさせられ、乾いた服を着せられ、あたたかい寝台を与えられた。冷えきっていた身体に血が戻るにつれ、彼女は妙に冷静な頭で、この家の空気を測っていた。使用人たちの、どこかよそよそしい視線。廊下の奥から漂う、緊張の匂い。この屋敷には、あたたかさと同じだけ、張りつめたものがある――そう感じた矢先だった。
部屋の扉が、ノックもなく開いた。
現れたのは、息を呑むほど美しい女だった。豪奢なドレスに、耳と首を宝石で飾りたてた、王家の血を引く貴婦人。第一夫人アドリアーヌ。彼女は、寝台に腰かけた痩せた娘を、爪先から頭まで、値踏みするように眺めまわして、鼻で笑った。
「まあ。これが、あの人が拾ってきた野良猫? ……ずいぶんと、みすぼらしいこと」
「はじめまして、奥様」
ヴィオレッタは、寝台を降りて、丁寧に礼をした。
「ご厄介になります」
「勘違いしないことね」
アドリアーヌの声が、すっと冷える。
「あなたは、あの人の気まぐれで置いてもらっているだけ。この家の娘でも、ましてや客人でもない。身の程を、わきまえておくことよ。……せいぜい、追い出されないように、おとなしくしていることね」
言い捨てて、彼女は去っていった。残された部屋に、きつい香水の匂いだけが漂う。
ヴィオレッタは、閉じた扉を、しばらくじっと見つめていた。怒りは、なかった。ただ、静かに、記憶していた。この女の声を、目を、匂いを。――いつか、必要になるかもしれないから。そのときの自分が、どんな手札を持っているかは、まだ分からなかったけれど。
◇◇◇
それからの暮らしは、あたたかくもあり、そして、冷たくもあった。
あたたかいのは、ロレンツォがいるときだけ。彼はヴィオレッタを本当の娘のように扱い、書物を与え、街の菓子を土産に買い、領地の話を対等に聞かせてくれた。
冷たいのは、それ以外のすべて。とりわけ、第一夫人アドリアーヌの存在が。
アドリアーヌは、王弟レオポルドの妹だった。つまり、ヴィオレッタの父を殺した派閥の、中枢の女。元王族としての誇りだけは人一倍高く、公爵家に嫁いでからも、この家を自分の実家の持ち物のように扱った。宝飾を買い漁り、夜会を開き、公爵家の財を湯水のように使う。そして、拾われてきた「格下の娘」を、目の敵にした。
「あなた、自分がどういう立場か分かっているの? 罪人の娘が、王家に連なるこのわたくしと同じ屋根の下にいられるだけで、ありがたく思うことね」
いびりは、日常だった。ヴィオレッタは、そのすべてを、俯いて受け流した。言い返す言葉なら、いくらでもあった。けれど、言わなかった。
一度など、こんなことがあった。夕餉の席で、アドリアーヌが「使用人と同じものを食べさせておけばいいのよ、拾われた子には」と言い放ち、ヴィオレッタの皿を給仕に下げさせようとしたのだ。広間が、しんと静まりかえった。
そのとき、静かに、けれどはっきりと、ロレンツォの声が響いた。
「その皿を下げるなら、私の皿も一緒に下げてくれ。娘と同じものを食べられないなら、私も食べる気にはならん」
場が凍りついた。アドリアーヌの頬が、屈辱に赤く染まる。結局、皿は下げられなかった。その夜、ヴィオレッタの部屋を、ロレンツォがこっそり訪ねてきた。手には、街で買ってきたという焼き菓子の包み。
「……すまないな。あの人の言うことは、気にするな。お前は、この家の立派な娘だ」
ばつが悪そうに、彼はそう言って、菓子を置いて去っていった。ヴィオレッタは、包みを胸に抱いて、しばらく動けなかった。守ってくれようとする、その不器用な優しさが、痛いほど嬉しくて。同時に、思うのだ。――こんなにいい人が、どうして、あの女のいる家で、あんなに疲れた顔をしていなければならないのだろう、と。
その理由を、彼女はやがて、夜の世界で突き止めることになる。
なぜなら――彼女は、気づいてしまったからだ。
アドリアーヌの浪費が、ただの浪費ではないことに。彼女が実家とやり取りする書簡の、不自然な多さに。そして、この穏やかな公爵家に、かつて自分の実家を呑み込んだのと、まったく同じ影が、静かに忍び寄っていることに。
きっかけは、些細なことだった。ある晩、ヴィオレッタは、廊下の奥でアドリアーヌが誰かと交わす声を、偶然、耳にした。
「ええ、ええ。お兄様にお伝えして。あの街道の権利さえ手に入れば、この家はもう用済みですわ。あの朴念仁の公爵ごと、綺麗に片づけてしまいましょう」
息が、止まった。
街道の権利。邪魔な当主。綺麗に片づける。――その単語のひとつひとつが、三年前、父を呑み込んだ言葉と、寸分たがわず重なった。彼女は物陰で、拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込むのも構わず、じっと、その声を聞いていた。
やがて話し終えたアドリアーヌが、機嫌よさげに立ち去る。その足音が消えてから、ヴィオレッタは、ようやく詰めていた息を吐き出した。
――王弟派閥は、ヴァレンティ公爵家をも、狙っている。
背筋が、冷たくなった。父のときと、同じだ。誠実な当主。狙われた家。内側に送り込まれた駒。このままでは、ロレンツォも、父と同じ道をたどる。でっち上げの罪を着せられ、すべてを奪われて。
一度目は、何もできなかった。父を守れなかった。無力な令嬢のまま、ただ雨に打たれることしかできなかった。
――でも、二度目は違う。
その夜、ヴィオレッタは決めた。この家を、この人を、絶対に守る。誠実さだけでは守れないなら、別の力を手に入れる。たとえその手を、どれだけ汚すことになっても。
◇◇◇
力の入り口は、思いがけないところで開いた。
街の裏通りに、オルソという老人がいた。表向きはしがない質屋の主人。その実、この街の裏の金と情報を、長らく束ねてきた元締めだった。そしてこの老人こそ、かつて若き日のジェラルド・レイフェルトに、ある恩を受けた男だったのだ。
「あんたの父上には、昔、命を助けてもらったことがあってねえ」
皺だらけの顔で、オルソは目を細めた。
「その借りを、あの世に持っていくのは寝覚めが悪い。……お嬢さん。あんた、いい目をしているよ。憐れみを乞う目じゃない。獲物を見定める目だ。裏の世界は、そういう目をした人間を、待っているものでね」
こうして、ヴィオレッタは裏社会に足を踏み入れた。
最初は、オルソの下働きから。だが、彼女の飲み込みは、老人の予想をはるかに超えていた。前世で培った理と、二つぶんの人生の胆力。そして何より、「もう二度と、大切なものを奪われたくない」という、燃えるような一念。彼女は金の流れを読み、人の弱みを握り、情報を武器に変えていった。恩を売り、貸しを作り、逆らう者には容赦をしなかった。
断っておくが、ヴィオレッタが束ねたのは、正義の組織などではない。
夜の街を回す金は、きれいな金ではなかった。禁制品の密輸、賭場の寺銭、法外な利息の金貸し、店から巻き上げる用心棒代、そして売り買いされる無数の秘密。彼女は、その汚れた流れの頂点に座り、たっぷりと甘い汁を吸っていた。逆らった者には容赦がない。彼女に盾突いて街に居られなくなった者も、ある夜を境に二度と姿を見なくなった者も、一人や二人ではなかった。人が彼女の名を口にするとき、そこにあるのは敬意ではない。恐怖だ。彼女は、正義の味方などではなかった。ただの、手の汚れた夜の支配者だった。
自分がまっとうな人間だなどとは、露ほども思っていない。父のように誠実に生きて、それで守れたものが何ひとつなかったと、あの雨の日に思い知った。ならば、汚れてやろう。そう決めたのだ。守りたいもののためなら、いくらでも。
ただ、ひとつだけ。どうしても、越えられない一線があった。
弱い者からは、奪わない。飢えた者、逃げ場のない者、明日の見えない者。そういう相手からだけは、決して取り立てない。むしろ、そっと回してやる。理由は単純だった。それが、父の口癖だったからだ。『いちばん弱い者の顔を見て決めろ』。罪に手を染めきった娘に残された、たった一枚の、父の忘れ形見。それだけは、どうしても、捨てられなかった。
だから――この一線を踏み越える者にだけ、彼女は、本気で牙を剥く。
彼女の名が裏の世界に轟いた事件が、ひとつある。
当時、街の港を仕切っていたのは、ドナートという名の粗暴な男だった。腕っぷしと恐怖で人を従わせるやり方で、逆らった者は海に沈むと噂されていた。オルソの組織にも、たびたび難癖をつけては、みかじめを吊り上げてくる。誰もが、いずれは正面から潰し合いになると思っていた。
ところが、ヴィオレッタは一滴の血も流さずに、ドナートを失脚させてみせた。
彼女がやったのは、ただ「待つ」ことだった。ドナートが裏で隣国の商人と結んでいた抜け荷の証文を、半年かけて静かに集め、そのうえで、ドナートがもっとも信頼していた右腕の男に、たったひとつの情報を流したのだ。「頭領は、お前を切って隣国に鞍替えするつもりらしい」と。真偽は問題ではない。疑いの種を、いちばん効く場所に一粒落とす。それだけでよかった。
ひと月後、ドナートは身内の裏切りで失脚し、港は空白になった。ヴィオレッタは、その空いた椅子に、静かに座り直しただけだった。
「……おそろしい子だねえ」
オルソは、心底感心したように唸った。
「拳で殴るより、疑いをひとつ置くほうが、よほど深く効く。あんたは、人が何を怖がるかを、よく知っている」
「怖いものを、たくさん失いましたから」
ヴィオレッタは短く答えた。
「失う怖さを知っている人間の急所は、同じ場所にあるんです」
それは、父を奪われて学んだことだった。人は、いちばん大切なものを人質に取られると、驚くほど脆く崩れる。誠実な人間ほど、そうなのだ。ならば――その理を、今度は守る側で使えばいい。彼女は、そう決めていた。
右腕となる男、ノクスと出会ったのも、この頃だ。もとは、ドナートに使い捨てられかけていた情報屋の下働き。始末されそうになっていたところを、ヴィオレッタが拾った。理由を尋ねられて、彼女はこう答えたという。
「あなたの目、あの雨の日のわたしと同じ色をしていたから。行き場をなくした人間の目は、いちばん忠実な牙になるの」
ノクスは、それきり、彼女に生涯の忠誠を誓った。以来、昼は公爵家の令嬢として、夜はこの街のボスとして生きる彼女の、二つの世界をつなぐ唯一の糸として、影のように付き従うことになる。拾われた者が、また拾う。ヴィオレッタの周りには、そうやって、行き場をなくした者たちの、静かな結束が育っていった。それは、恐怖で人を従えたドナートには、決して手に入らなかったものだった。
二年が過ぎる頃、オルソは静かに一線を退き、自分の築いてきた組織のすべてを、彼女に託した。
「もう、あんたのほうが上だ。……いい名前を持ちな。裏の世界じゃ、名前が刃になる」
こうして、行き倒れの令嬢は、この街の夜をまるごと束ねる者になった。港も、両替商も、街道の関所も、情報屋も。表の街が眠ったあと、その裏側を動かす糸は、すべて彼女の指先に集まった。どの貴族がどこに借金を抱えているか。どの商人がどんな抜け荷をしているか。どの役人が、誰から袖の下を受け取っているか。この街で交わされる秘密という秘密は、遅かれ早かれ、彼女の耳へと流れ込んでくる。表の世界が「昼の顔」で取り澄ましているあいだ、その足元の「夜の顔」を、彼女は静かに握り続けていた。
貴族たちは知らない。夜会で優雅にワインを傾けながら交わす密談の、その半分が、翌朝には末席の養い子の耳に届いていることを。ヴィオレッタは、それを決して顔には出さなかった。ただ、俯いて、微笑んで、いちばん無害な娘のふりをして――そのすべてを、記憶の帳簿に書きつけていく。いつか、大切なものを守るために使う日のために。
人は、彼女をこう呼ぶようになった。
――ボス、と。
◇◇◇
そして、話は冒頭に戻る。
昼の顔は、公爵家の健気な養い子。夜の顔は、街の夜を束ねるボス。ふたつの顔を器用に使い分けながら、ヴィオレッタは三年を生きてきた。目的はただひとつ。この家と、ロレンツォを守るため。
だからその日、彼が街の菓子を土産に持って書斎へ戻ってきたとき、彼女は昼の顔で、心から頬をゆるめた。
「ヴィオラ。ほら、これ。……甘いものが好きだろう。冷めないうちに」
「お父様。わたし、もう子どもではないのですよ」
「知っている。二十歳を過ぎた立派な淑女だ。だが私にとっては、いつまでも、雨の中で拾った娘だからな」
そう言って、ロレンツォは笑う。血の繋がらない養父の、ただ穏やかなだけの笑顔。それを見るたびに、ヴィオレッタの胸の奥は、きゅうっと縮む。この笑顔を、自分はひとりの女として好きなのだと、何度でも思い知らされるからだ。
焼き菓子をひとつ口に運ぶ。素朴な甘さが舌にひろがって、思わず頬がほころんだ。それを見て、ロレンツォはますます嬉しそうにする。
その日は天気がよかったので、二人は庭に出て、東屋でお茶を飲んだ。こういう時間が、ヴィオレッタは何より好きだった。ロレンツォは、彼女の淹れたお茶を飲みながら、領地のこと、昔読んだ書物のこと、とりとめのない話を聞かせてくれる。そして時折、ふと、心の内をこぼすのだ。
「……なあ、ヴィオラ。私は、いい当主だろうか」
その日、彼はそんなことを言った。庭の薔薇に目をやったまま、独り言のように。
「時々、分からなくなる。父から継いだものを、ただ守っているだけで、精一杯でな。誰かの役に立てているのか、それとも、ただ椅子に座っているだけなのか」
ヴィオレッタは、少し驚いた。この人が、こんな弱音を人に聞かせるのは、めずらしい。きっと、屋敷の中で、こんなことを言える相手が、彼にはひとりもいなかったのだろう。妻にも、家臣にも。ただ、拾ってきた養い子の前でだけ、彼は素の顔をのぞかせる。それが、嬉しくもあり、少しだけ、切なくもあった。
「いい当主です」
ヴィオレッタは、迷いなく答えた。
「わたしが、保証します。あなたは、雨の中の行き倒れに、傘も差さずに膝をついてくれる人です。そういう人が上に立つ家は、きっと、いい家ですよ」
ロレンツォは、きょとんとして、それから、照れくさそうに笑った。
「お前は、時々、私よりずっと大人みたいなことを言うな」
――ええ。中身は、あなたよりずっと年上かもしれませんよ。
そんな軽口を、彼女は微笑みの奥に隠す。この人の隣にいると、二つぶんの人生を生きた冷えた心さえ、少しずつ、ほどけていく気がした。だからこそ、この時間を、この人を、絶対に手放したくない。誰にも、奪わせない。その想いだけは、昼の顔でも夜の顔でも、変わらなかった。
こういう時間を、あの女は――アドリアーヌは、一秒も持っていない。彼女は宝石を欲しがり、夜会を欲しがり、王家の血を引く自分にふさわしい暮らしを欲しがるけれど、こういう焼き菓子ひとつぶんの時間だけは、なぜか一度も欲しがらなかった。だから公爵の心は、とうの昔に妻から離れている。本人が、認めていないだけで。
その日の夕餉の席でも、それははっきりと見てとれた。
「ロレンツォ。来月、南方から宝石商を呼びましたの。ついでに、離宮の広間を建て替えさせますわ。今の内装、もう三年も同じで、みっともなくて」
アドリアーヌは、給仕に注がせた葡萄酒を揺らしながら、当然のことのように言い放つ。三年で建て替え。その費用があれば、去年の疫病で親を亡くした子どもたちが、何人、冬を越せただろう。ヴィオレッタは末席で、静かに数字を弾いた。
「……アドリアーヌ。今は、控えてくれないか。領地の実入りが、思わしくない年でな」
「あら、公爵家ともあろうお家が、みみっちいことをおっしゃるのね。わたくしは王家の血を引く身ですのよ。それにふさわしい暮らしをして、何が悪いの?」
ロレンツォは、それ以上は言わなかった。ただ、手にしたグラスに視線を落として、ゆっくりと葡萄酒を口に含む。その横顔に浮かんでいたのは、怒りでも、悲しみでもなかった。もっと乾いた、諦めきった疲れだった。何を言っても届かない相手と、十何年、同じ食卓についてきた男の顔。
ヴィオレッタは、その横顔から、そっと目を逸らした。胸の奥が、鈍く痛む。恋心のせいだけではない。あの疲れた顔を、彼女は知っている。晩年の、父の顔に、よく似ているのだ。守るべきものに囲まれながら、たったひとりで、すり減っていく人の顔に。
――このひとは、まだ気づいていない。自分がもう、あの女を愛していないことに。そして、すぐそこまで刃が迫っていることに。
◇◇◇
その夜、ヴィオレッタは、いつものように屋敷を抜け出した。
地味な外套に頭巾を目深に。使用人用の裏口から庭へ出て、抜け道を通り、街の裏側へと滑り込む。表通りを避け、酔漢の眠る路地を抜け、両替商の並ぶ通りの、さらに奥へ。川べりの、看板もない古い倉庫の前で、彼女は低く、短い口笛を吹いた。
重い扉が、内側から音もなく開く。
中は、外から想像もつかないほど広かった。天井から吊るされたランプの下に、大きな円卓が据えられている。それを囲むのは、港の顔役、両替商の元締め、街道を仕切る者、情報を売り買いする者。表の街では決して同じ卓に着かない顔ぶれが、そこには揃っていた。そして彼女が一歩を踏み入れた瞬間、その全員が、示し合わせたように深く頭を垂れた。
「お待ちしておりました――ボス」
円卓のかたわらに控えた黒衣の男、ノクスが、恭しく口を開く。
ヴィオレッタは頭巾を外した。夜会の末席で震える養い子の顔は、もうどこにもない。ランプの明かりに浮かんだのは、この街の夜を束ねる者の、冷え冷えとした横顔だった。
「報告を」
喉の底を落とした、低く短い声。彼女が円卓の上座に着くと、顔役たちもそれぞれの席についた。
「例の件、裏が取れました」
ノクスが一枚の書付を円卓に滑らせる。
「第一夫人が動かしている金の流れ――やはり、公爵家の帳簿に、深い穴が開いています」
ヴィオレッタは書付を手に取り、数字を追った。宝飾、夜会、私的な浪費。そのあたりは、正直どうでもいい。退屈な貴婦人の、退屈な散財だ。問題は、その先にある。
「救済金の欄を」
「はい。昨年、北の三村を襲った疫病。あのとき公爵家が積んだ救済金――その半分以上が、村へ届く前に消えています。消えた先は……第一夫人の実家。王弟レオポルド殿下の派閥の、金庫です」
書付を追う指が、ふと止まった。
王弟レオポルド。その名前を聞くだけで、胸の奥で古い火種がちりちりと熱を持つ。父を、レイフェルト家を、誠実さごと踏み潰した男。その同じ手が、いま、病で親を亡くした子どもたちの口に入るはずだった金を、あの女の首飾りに変えている。
弱い者から、奪う。――それは、ヴィオレッタが、この世でただひとつ、許せないと決めていることだった。裏の稼業では、脅しも、抜け荷も、汚い金も、いくらでもやってきた女だ。手の汚れなら、今さら数えきれない。けれど、その一線だけは、父の忘れ形見として、頑なに守り抜いてきた。よりにもよって、あの女は、それを知らずに踏み抜いたのだ。
「続けて」
「それだけではありません」
ノクスの声が、わずかに硬くなる。
「王弟派閥は、公爵領の交易権と、南の鉱山の採掘権を狙っています。第一夫人を通じて内側から公爵家を切り崩し、ロレンツォ公を廃したうえで、王家の息のかかった者に爵位をすげ替える――そういう筋書きです。近いうちに、動きます」
「……手口まで、そっくりね」
思わず、そう零れた。街道の要を欲して、誠実な当主を潰す。内側に女を送り込み、でっち上げの罪で失脚させる。三年前、レイフェルト家を呑み込んだのと、寸分たがわぬ筋書きだ。あの男は、同じ罠で二度、獲物を狩ろうとしている。
円卓に落ちた沈黙が、重い。顔役たちは、主の横顔から、いつもとは違う何かを感じ取っていた。彼女が、これほど個人的な熱を声に滲ませるのは、めずらしいことだったからだ。
ヴィオレッタは、指先で円卓の縁をなぞりながら、静かに思考を巡らせた。相手は、王弟レオポルド。この国の政の裏を握り、逆らう者を証拠のでっち上げで葬ってきた男。表の権力では、公爵といえど、まともにやり合えば潰される。父が、そうだったように。
――けれど、表で戦うなんて、誰が言った?
彼女が三年かけて築いたのは、まさにその「表では戦えない相手」を、裏から崩すための仕組みだった。金の流れを止め、密輸の証拠を握り、後ろ盾の足場を抜く。正面から殴り合うのではなく、相手が寄りかかっている土台そのものを、静かに外してしまう。王家の権威も、しょせんは金と情報で回っている。ならば、その金と情報を、まるごと掌に握ってしまえばいい。
「――ちょうどいいわ」
ヴィオレッタは、ふっと目を細めた。
「父の仇と、お父様を狙う相手が、同じ顔をしている。一度で、二度ぶんの借りを返せる。こんな効率のいい話は、ないでしょう?」
その声は、静かで、そして、氷のように冷たかった。
「根拠は」
「密書を三通、写しではなく現物から書き起こしました。筆跡も封蝋も、本物です」
ヴィオレッタは、しばらく円卓の一点を見つめていた。
――ロレンツォは、まだ何も知らない。妻を愛していると思い込んだまま、じわじわと足元を掘り崩されている。父が、そうだったように。
だが、今度は違う。今度は、無力な令嬢ではない。この街の夜が、まるごと彼女の味方だ。
「ボス。いかがなさいますか」
問われて、彼女は静かに顔を上げた。
「泳がせる。あちらが最後の一手を打つまで、指一本触れさせないで。ただし――逃げ道だけは、今のうちに全部塞いでおいて」
「証拠は」
「集められるだけ、集めて。金の流れ、密書、着服の帳簿、全部。あの女が『王家がついている』と笑った、その瞬間に――その王家ごと、引き剥がせるように」
ノクスの口の端が、わずかに上がる。
「かしこまりました。……ずいぶん、お怒りのようだ」
「ええ。今度こそ、間に合わせるの」
――父のときは、間に合わなかった。だから今度は、絶対に。
◇◇◇
事態は、思ったより早く動いた。
数日後、ヴィオレッタは、ロレンツォの様子がおかしいことに気づいた。書斎にこもる時間が増え、食事も進まない。あの穏やかな笑みが、目に見えて薄くなっていく。
彼女は昼の顔で書斎の扉を叩き、いつものように焼き菓子とお茶を運んだ。ロレンツォは書類の山に埋もれるようにして、疲れた顔を上げる。
「……ヴィオラ。すまないな、こんな時に」
「お父様。何か、困ったことがおありなのでしょう」
彼は少し迷って、それから、ぽつりと零した。
「監査が入ることになった。王家の名で、公爵家の会計にな。救済金の使途に、不明な点があると。……身に覚えのない話だが、帳簿には確かに穴がある。誰かが、私の名を使って金を動かしている」
その「誰か」が誰なのか、ヴィオレッタは知っている。この監査の裏で糸を引いているのが誰なのかも。アドリアーヌは、自分の罪を公爵になすりつけ、この機に彼を廃するつもりなのだ。着服の責任を取らせる、という形で。父を陥れたのと、同じやり方で。
「妻には……アドリアーヌには、相談したのだが」
ロレンツォは、力なく笑った。
「『あなたがだらしないからよ』と、そう言われてしまってな。まあ、その通りかもしれん」
その瞬間の彼の横顔を、ヴィオレッタは、たぶん一生忘れないだろうと思った。十何年、愛していると信じてきた相手に、いちばん弱っているときに背を向けられた男の顔。庇っても庇っても報われず、それでもまだ、自分が悪いのだと思おうとする、優しすぎる人の顔。
その顔は、牢の中で潔白を訴えつづけた、父の最期の顔に、どこか似ていた。
彼女の胸の奥で、静かに、何かの栓が抜けた。
――ああ、もう、決めた。
諦めではない。その逆だ。生まれて初めて、彼女ははっきりと、この手を汚しきると決めた。娘としてではなく、この人を失いたくない、ひとりの女として。
「大丈夫ですよ、お父様」
ヴィオレッタはお茶を注ぎ足し、いつもの甘えた声で微笑む。娘の仮面のまま。けれど、その仮面の下の目だけが、円卓で見せたあの温度に、静かに戻っていた。
――あなたを泣かせる女は、わたしが消す。父のときのようには、もう、させない。
その夜、ヴィオレッタは、自室の小箱を開けた。中にあるのは、父の形見の、古い銀の懐中時計。取り潰しの混乱の中から、たったひとつ、持ち出せたものだ。蓋を開けても、針はもう動かない。父の時が止まった、あの日のまま。
彼女は、冷たい銀の表面を、指の腹でそっと撫でた。
「お父様。今度は、間に合わせます」
三年前、無力な令嬢は、この時計の主を守れなかった。牢の鉄格子越しに触れた指先の冷たさを、彼女は忘れたことがない。だが今の自分には、力がある。あの日は持っていなかった、たくさんの手札が。父の教えを胸に、今度こそ、大切な人を守り抜く。それは、父への手向けでもあった。
時計をそっと箱に戻し、ヴィオレッタは立ち上がる。窓の外は、もう夜だった。彼女の時間だ。
◇◇◇
その夜、円卓には、ふたたび顔役たちが集まっていた。
「監査は、四日後の公開査問会だそうです」
ノクスの報告に、ヴィオレッタは頷いた。
「王弟派閥は、その場でロレンツォ様に着服の罪を着せ、公爵位の返上を迫るつもりでしょう。第一夫人が『被害者の妻』として涙のひとつも流せば、絵として完璧ね」
「ええ、そういう筋書きです。よくできている。三流の芝居にしては」
円卓の上には、この街の地図が広げられていた。港、市場、両替商、街道の関所。金と物の流れが線で描かれ、そのほとんどに、彼女の印がついている。三年かけて、そう作った。
「王弟派閥のお金、どこから来ているか調べた?」
「はい。表向きは領地収入。ですが実態は――北の密輸ルートです。禁制の魔石を隣国に横流しして、その上前で派閥を回している」
「そのルート、誰が握ってる?」
ノクスは、恭しく頭を下げた。
「三年前から、あなたが」
ヴィオレッタは、ふっと笑った。
「じゃあ、簡単ね」
彼女は地図の上に指を滑らせ、北の街道を、港を、両替商を、順に押さえていく。
「査問会の前夜に、そのルートを全部止めて。密輸の帳簿と、救済金が流れた先の証文、王弟の密書。全部、束にして用意しておいて。――あの女が、いちばん高いところで笑った、その瞬間に、足場を全部抜くの」
「泳がせは、いつまで」
「ぎりぎりまで。あの女が『王家がついている』と、もう一度その言葉を口にするまで」
円卓のランプが、彼女の横顔を静かに照らしている。顔役たちは誰も口を開かない。ただ、この街の夜を束ねる者が次に何をするのか、固唾を呑んで見守っていた。
ちなみに、その翌日のことだ。
アドリアーヌは、わざわざヴィオレッタの部屋まで来て、勝ち誇った顔でこう告げた。公爵家の宝物庫から装飾品が紛失した、盗んだのはお前だろう、と。ご丁寧に、ヴィオレッタの部屋からは「盗品」まで見つかった。でっち上げにしても、ずいぶん雑な仕事だ。査問会でヴィオレッタを窃盗犯として追放し、ついでに公爵の監督不行き届きも咎める。そういう筋書きらしい。
ヴィオレッタは怯えた娘の顔で震えてみせながら、内心では小さくため息をついていた。
――濡れ衣で人を陥れる。それも、父を殺したのと同じやり口。ほんとうに、あなたたちは、それしか知らないのね。
◇◇◇
査問会の、前夜。
街が寝静まったその晩、この都市の裏側では、誰にも気づかれぬまま、ひとつの大きな歯車が、静かに逆回転を始めていた。
港では、隣国へ発つはずだった一隻の貨物船が、出航直前で足止めを食っていた。積荷を検めた港湾の顔役が、王弟派閥の魔石を、そっくり別の倉へ移し替える。「税の手続きに不備がありましてね」――そう告げられた船主は、青ざめたまま、ひとことも反論できなかった。反論できる相手ではないと、その筋の者なら誰もが知っていたからだ。
両替商の通りでは、王弟派閥の隠し口座が、次々と凍りついていた。金を動かそうとするたび、「本日は都合により」と、どの店も同じ台詞で首を横に振る。街道の関所では、派閥の密使が運ぶ書簡が、関を越える前に、そっくり写しを取られていた。
深夜、王弟派閥の資金を預かる商会の一室では、番頭がひとり、青ざめて金庫の前に立ち尽くしていた。明日の査問会に備え、まとまった金を動かそうとしたのだ。だが、どの取引先も、判で押したように同じ返答を寄越す。「本日は、都合により」。裏で頼りにしていた両替商とも、いつのまにか連絡が取れない。番頭は、背筋を這い上がる冷たい予感に、震える手で額の汗を拭った。何かが、おかしい。何か、とてつもなく大きなものが、自分たちの足元で動いている。けれど、その正体を掴むことは、彼には最後までできなかった。
それもそのはずだ。彼らが相手にしているのは、もはや商売敵でも、対立する貴族でもない。この街の夜そのものが、静かに牙を剥いていることに、彼らはまだ、誰ひとり気づいていなかった。
ひと晩のうちに、王弟レオポルドの派閥は、その財源を、逃げ道を、連絡の糸を、根こそぎ断たれた。しかも当人たちは、明日の朝、それに気づくことすらできない。表向きは、何も起きていないのだから。ただ、水面下で、足場だけが、音もなく抜き去られていた。
その采配のすべてを、ヴィオレッタは、あの円卓で受けていた。
ランプの灯る円卓に、次々と報告が滑り込んでくる。港、押さえました。両替商、凍結完了。街道の写し、届いています。ノクスが淡々とそれを読み上げるたび、彼女は静かに頷き、地図の上の印を、ひとつ、またひとつと、黒く塗り潰していった。
「――これで、あの女の後ろ盾は、ただの飾りになったわ」
塗り終えた地図を見下ろして、ヴィオレッタは、ひとりごとのように呟いた。
「明日、あの女は、いちばん高いところで笑うでしょう。王家がついている、と。……その言葉が、どれだけ空っぽになったか。教えてあげるのが、楽しみね」
円卓の顔役たちは、誰も口を開かなかった。ただ、彼らの主が、明日、表の世界のど真ん中で何をするのか――その一部始終を想像して、静かに、背筋を震わせていた。
◇◇◇
査問会の日が来た。
その朝、鏡の前で、アドリアーヌは上機嫌だった。侍女に髪を結わせ、いちばん豪奢なドレスを選び、あの首飾りを、これ見よがしに首にかける。今日で、この家の目障りな連中は、ひとり残らず片づく。朴念仁の公爵も、生意気な養い子も。そのあとは、実家の兄が送り込む新しい当主のもとで、この家は王家のものになる。何もかも、筋書き通り。彼女は、自分の背後にそびえる王家の権威を、微塵も疑っていなかった。
――その権威が、昨夜のうちに、根こそぎ抜き去られていたことを、彼女はまだ知らない。
公爵家の大広間には、王弟レオポルドの名代を筆頭に、貴族の監査官がずらりと並んでいた。上座にはロレンツォ。その隣に、勝利を確信した第一夫人アドリアーヌが、純白のドレスに、あの救済金でできた首飾りをこれ見よがしに下げて座っている。
ヴィオレッタは末席で、俯いて、震える令嬢を演じていた。誰の目にも、追い詰められた哀れな養い子。いまから窃盗と、義父の破滅の巻き添えで、この家を追われる娘。
俯いた視界の端で、彼女は上座のロレンツォを見ていた。彼は、蒼白な顔で、それでも背筋だけはまっすぐに伸ばして座っている。抗弁しても無駄だと悟りながら、なお、当主としての矜持を捨てまいとする姿。その横顔を見ていると、胸の奥がきりきりと痛んだ。あと少し。あと少しの辛抱ですよ、お父様。心の中でそう語りかけながら、彼女は膝の上で、静かに拳を握る。震えているふりをした指先は、実のところ、氷のように落ち着いていた。狩りの合図を待つ、猟犬のように。
監査官が、朗々と読み上げる。救済金の使途不明。公爵の管理責任。そして、養女ヴィオレッタによる、宝物庫からの窃盗。
「――以上のことから、当家当主ロレンツォ・ヴァレンティ公爵には、公爵位の返上を。養女ヴィオレッタには、当家からの追放を勧告する」
アドリアーヌが、そっと目元をハンカチで押さえた。悲劇の妻の顔で。それから、勝ちを噛みしめるように、こう言ったのだ。
「かわいそうなロレンツォ。でも、仕方のないことね。わたくしには王家がついておりますもの。あなたがたのような者では、どうにもできないことだって、あるのよ」
――出た。
末席で、俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。
もう、震えてはいなかった。
◇◇◇
「王家が、ついている」
ヴィオレッタは、末席から一歩、前へ出た。その声のかたちが、変わっていた。甘えた娘の声ではなく、喉の底から出る、低く、静かな声。広間の空気が、ぴくりと張りつめる。
「ええ。ついていましたね――ついさっきまで」
「……なに?」
アドリアーヌが、初めてヴィオレッタをまともに見た。虫けらでも見るような目のまま。だからこそ、ヴィオレッタは笑ってしまう。
「ノクス」
名を呼ぶと、広間の扉が開いて、黒衣の男が束の書類を運んでくる。ヴィオレッタはそれを、監査官の卓に無造作に広げた。
「北の三村の救済金が消えた先の証文。王弟殿下の派閥の金庫への振替記録。そして――王弟派閥を裏で回している、魔石の密輸帳簿。ついでに、この査問会を仕組んだ密書が三通。全部、写しではなく、裏書きの取れた本物です」
監査官の顔から、血の気が引いていく。彼らが「王家の権威」だと思って寄りかかっていたものの正体が、禁制の密輸と、子どもの救済金の着服だと、いまこの瞬間に、全員の前で暴かれたからだ。
「そんな……ばかな。その密輸ルートは、我々の……」
「ええ。あなた方の、生命線でした。昨夜、全部止めました。港も、両替商も、街道も。今ごろ王弟殿下の金庫は、すっからかんのはずですよ。後ろ盾というのは、お金が回っているうちだけのものですから」
ヴィオレッタは、呆然と立ち尽くすアドリアーヌに向き直った。
「あなたが今夜、その首に下げている首飾り。それ、疫病で親を亡くした子どもたちのぶんの、パンとお薬のお金です。よく、恥ずかしげもなく着けられましたね」
「な……何なの、お前。ただの、拾われた養い子のくせに……!」
「ええ。表向きは、ただの養い子です」
彼女は、微笑んだ。今度は、娘の仮面ではなく。
「けれど裏では――この街の夜を、まるごと束ねている者です。"ボス"と、そう呼ぶ人もいますね。あなたの実家が密輸で得ていた金も、その密書を運んだ足も、みんな、わたしの掌の上を通っていました。あなたは最初から、料理される側のお皿の上で、勝ったつもりで笑っていたんです」
アドリアーヌの顔から、化粧の下の血の気まで、すうっと引いていく。
その青ざめた顔を見下ろしながら、ヴィオレッタは、胸の奥で、そっと父に語りかけた。
――お父様。あなたを罪人に仕立てて踏み潰した連中を、いま、同じ地面に引きずり下ろしています。これは、あなたのぶんの意趣返しでもあるんですよ。
けれど、それを声に出すつもりは、なかった。父の無念を、この女に向かって並べ立てるのは、もったいない。三年前、この一族が小さな男爵家に何をしたか――その本当の証しは、もっとふさわしい相手に、あとで、名前も告げずに、そっと届けるつもりだった。
やがて、アドリアーヌの喉が、ひゅっと鳴った。
「う……嘘よ。でたらめだわ! こんな……こんな書類、養い子ふぜいがでっち上げたに決まっている! 誰か、この娘を捕らえなさい! わたくしは王家の――」
その声に応じて、広間の隅から、衛兵隊長がひとり、剣の柄に手をかけて進み出た。
「――無礼な! どこの賊か知らんが、奥方様に向かって。おい、その女を拘束しろ!」
「おや。動いてくれる方も、いるのね」
ヴィオレッタが応じるより早く、ノクスが、するりと隊長の前へ回り込んだ。そして、まるで天気の話でもするような口ぶりで、そっと囁く。
「ゴードン隊長。……先々月、北の賭場でこしらえた借金、まだ耳を揃えて返せていませんね。あのとき用立てたのが、どこの誰の金か――もう、お忘れですか。ついでに、返済のかわりに何をどこへ横流ししたか、書付にして全部、うちで預かっています。監査官殿の前で、読み上げてさしあげましょうか」
隊長の顔から、血の気が引いた。剣の柄にかけた手が、目に見えて震えはじめる。
そこへ、ヴィオレッタが、ほんの少しだけ首をかたむけ、微笑んだ。いっそ、優しいくらいの声で。
「ねえ、隊長さん。……お子さん、お元気ですか。上の坊やは、たしか今年で七つ。城下の、北通りのつきあたりの家に、奥様と三人でお住まいでしたよね」
脅し文句は、ひとつもなかった。ただの、世間話だった。
けれど――この女が、彼の借金も、裏切りも、妻の顔も、子の歳も、家の場所まで、そのすべてを掌の内に握っているという事実だけが、音もなく、突きつけられていた。
からん、と、剣が床に落ちた。隊長は、一歩、二歩と後ずさり、そのまま壁際まで下がって、二度と、動かなくなった。
広間が、水を打ったように静まりかえる。
「……ご覧の通りです」
ヴィオレッタは、静かにアドリアーヌへ向き直った。
「この場に、あなたのために剣を抜ける者は、もういません。後ろ盾を失った権力に、殉じてくれる人なんて、どこにもいないんですよ。あなたが、いちばんよくご存じでしょう? あなた自身が、そうやって、人を使い捨ててきたのだから」
アドリアーヌは、助けを求めるように王弟の名代を振り返った。だが、その名代の男もまた、脂汗を浮かべて、目を逸らすばかりだった。自分の身を守るだけで、精一杯だったのだ。誰も、彼女の側にはいなかった。純白のドレスの女は、広間のただ中で、たったひとり、取り残されていた。
「無能な養い子を追い出す。いい計画でしたよ。ひとつだけ、致命的な間違いがあった。――わたしを、二度も、無能だと思ったことです」
そして、ヴィオレッタは、いちばん言いたかった言葉を口にした。
「無能で結構。おかげでわたしは、誰に遠慮もなく――あなた方を、地に堕とせる」
監査官たちが、慌ててアドリアーヌと王弟の名代を取り囲む。悲鳴と、怒号。けれど、それはもう、彼女の興味の外にあった。証拠は本物で、後ろ盾は消えた。あとは勝手に、転がり落ちていくだけだ。父を呑み込んだあの派閥は、いま、自分たちの積み上げた罪の重さで、自壊していく。
ヴィオレッタは、その喧噪に背を向け、たったひとりの人のほうを、振り返った。
◇◇◇
ロレンツォ・ヴァレンティは、生まれてこのかた、これほど呆然としたことはなかった。
査問会が始まってからずっと、彼の胸を占めていたのは、絶望だった。身に覚えのない罪。握り込まれた証拠。妻の冷たい横顔。そして何より――巻き添えで追放されようとしている、あの娘のこと。ヴィオレッタを守れない。また、守れない。彼は自分の無力さに、奥歯を噛みしめていた。あの雨の日、大見得を切って拾った娘ひとり、この期に及んで守ってやれないのか、と。
ところが、どうだ。
俯いて震えていたはずのその娘が、すっと立ち上がった瞬間、部屋の空気そのものが、塗り替わった。声の質が変わり、背筋が伸び、目の光が変わる。彼が「守るべき小さなもの」だと思い込んでいた存在は、そこにいなかった。代わりにいたのは、この街の夜を統べる、冷徹な女王のような何かだった。
証拠が卓に広げられ、王家の権威が音を立てて崩れていく。妻の顔から血の気が引いていく。そのすべてを、ロレンツォは、まるで夢の中の出来事のように眺めていた。
――守っていたのは、私ではなかった。
その事実が、ゆっくりと、しかし容赦なく、腹の底に落ちてくる。この三年、自分は何も知らずに、ただ守られていたのだ。目の前のこの娘に。夜ごと、誰にも言わず、その手を汚しながら。彼が安穏と焼き菓子を買って帰っていたその裏で、この子は、彼の家と命を、たったひとりで支えていた。
この街の夜を統べる女。その正体を知ってなお、ロレンツォの胸を突いたのは、まるで見当違いの痛みだった。あのジェラルドの娘が。雨の中で拾った、あの小さな娘が。いつのまに、こんな途方もない場所まで、たったひとりで歩いていったのか。友の忘れ形見に、自分はいったい、何をしてやれていたのだろう。誇らしさと、不甲斐なさと、名づけようのない何かが、いちどきに込み上げた。
打ちのめされながら、けれど、彼はどうしても、その姿から目を離せなかった。恐ろしいはずだった。得体が知れないはずだった。なのに――胸を満たしていたのは、恐れではなかった。もっと熱く、まぶしく、名前のつかない何か。長いあいだ、自分の内側で凍りついていたはずの、何かだった。
◇◇◇
ロレンツォは、上座で、ただ、彼女を見つめていた。
驚きでも、恐れでもない。もっと複雑な、名前のつかない目で。
やがて喧噪が引き、広間から人が消え、気づけば、大きな部屋に、ヴィオレッタとロレンツォの二人だけが残されていた。
「……ヴィオラ」
彼の声は、少しかすれていた。
「お前が、私を守っていたのか。……ずっと?」
「はい」
隠す理由は、もう、なかった。
「拾っていただいた日から、ずっとです。あなたが、父と同じ道をたどらないように。この家が、誰にも奪われないように。裏で、わたしにできることを、全部」
ロレンツォは、片手で顔を覆った。その手が、わずかに震えている。
「私は……お前を守っているつもりだった。雨の中から拾った、小さな娘を。それが逆だったなんて。……いや、それどころか、私はずっと、守られていたことにすら、気づいていなかった」
彼は、ゆっくりと手を下ろし、ヴィオレッタを見た。
その目が、これまでと、違っていた。
これまでのロレンツォは、彼女を見るとき、必ずどこかに「娘」という枠を置いていた。庇うべき、守るべき、小さなもの。けれど今、その枠が、音を立てて壊れていくのが、傍から見ていても分かった。彼は初めて、ヴィオレッタを――ひとりの、対等な女として見ている。
「……どうして、黙っていた」
ロレンツォは、絞り出すように言った。
「これだけの力があったのなら、なぜ、私に一言も言わなかった。頼ってくれれば、私も……」
「言えるわけが、ないでしょう」
ヴィオレッタは、少しだけ困ったように笑った。
「あなたに知られたら、絶対に止められました。『そんな危ないことはするな』『お前を巻き込むわけにはいかない』って。……あなたは、そういう人ですもの。だから、黙っていたんです。あなたが安心して焼き菓子を買いに行ける、その裏側は、ぜんぶわたしが引き受けると決めていました」
「そんな重いものを、たった一人で……三年も」
「重くなんて、ありませんでしたよ」
彼女は、首を振る。
「守るものがあると、こんなに力が湧くんだって、あなたが教えてくれたんです。何も持たない行き倒れだったわたしに、守りたいものをくれた。だから――ぜんぶ、あなたのおかげなんです」
ロレンツォは、しばらく、何も言えずにいた。
「……怖く、ありませんか」
ヴィオレッタは、静かに訊いた。
「わたしはもう、あなたが雨の中で拾った、小さな娘ではありません。人を脅し、罪で飯を食い、逆らう者を街から消してきた女です。この手は、とっくに汚れきっています。……正義の味方なんかじゃ、ないんですよ。それでも――そばに、置いてくださいますか」
問われて、ロレンツォは、ゆっくりと首を横に振った。恐れてなど、いないというように。
「怖くないと言えば、嘘になる。今日見たお前は、私の知らない顔をしていた。……だがな、ヴィオラ。お前がどれだけ手を汚したのだとしても、その汚れた手で守ろうとしたものだけは、ずっと、きれいなままだった。飢えた子どもの金を、お前は取り返しにきた。それがすべてだ。私は――そういうお前を、恐れたりはしない」
ヴィオレッタの喉の奥が、詰まった。裁かれると思っていた。軽蔑されるかもしれないと。なのにこの人は、汚れごと、まるごと、受け止めようとしている。
「アドリアーヌを、愛していると思っていた」
やがて、ぽつりと、彼は言った。
「妻だから、そうあるべきだと思っていた。だが、違ったんだな。私が本当に心を休められたのは、いつも――お前が焼き菓子を食べて、頬をゆるめる、あの時間だった。私はずいぶん長いこと、自分の心に、嘘をついていたらしい」
その言葉を聞いて、ヴィオレッタの胸が、痛いくらいに鳴った。
言うなら、今しかない。三年間、娘の仮面の下に隠してきた、ふたつめの秘密を。
◇◇◇
「お父様」
ヴィオレッタは、居住まいを正した。
窃盗の濡れ衣も、公爵家の危機も、父の仇も、もう終わった。第一夫人は失脚し、王弟派閥は自らの罪の下敷きになった。この家を脅かすものは、何もない。だからここから先は、ボスの仕事ではない。ただのヴィオレッタの、いちばん個人的な話だ。
「わたし、決めていたことがあるのです。この件が片づいたら、言おうと」
「……なんだ」
「守られるだけのお人形は、卒業します」
彼女は、まっすぐに、ロレンツォの目を見た。
「あなたに拾われた娘であることを、わたしは誇りに思っています。あの雨の日、あなたが差し出してくれた手のあたたかさを、一日だって忘れたことはありません。でも――それだけでいるのは、もう、やめます。わたしは、あなたを守れる女です。この家も、あなたのことも。これからは、隣で守ります。娘としてではなく」
「ヴィオラ、それは……」
「ついでに――」
彼女は、笑った。三年ぶんの、いちばん素直な顔で。
「わたしと、結婚してくれませんか。お父様」
ロレンツォの目が、まんまるに見開かれた。あの、いつも落ち着き払った公爵が。口を開けたまま、耳の先まで赤くして、完全に固まっている。
「……っ、ヴィオラ。私は、お前の、養父で……歳も、ずいぶん離れているし……」
「血は繋がっていません。わたしはもう、いい大人です。歳の差は、あなたがわたしより長く生きたぶん、たくさん焼き菓子を買ってくれる理由になります」
「そういう問題では……」
ロレンツォは、視線を落とした。その顔に浮かんでいたのは、拒絶ではなく、もっと苦いものだった。
「……ヴィオラ。お前は今夜、この街のすべてを動かせる女だと、私に見せた。もう、雨の中の行き倒れではない。私などより、ずっと高いところにいる。私が今さら手を伸ばすのは、ただ――お前の重荷になるだけだ。守られていたくせに、その上、お前の隣に立とうなどと。虫がよすぎるだろう」
ヴィオレッタは、ふっと、泣きたくなった。この期に及んで、この人はまだ、そんなことを気に病んでいる。守れなかった自分を責めた、あの雨の日の父と、同じ顔で。
「お父様」
彼女は、静かに言った。
「わたしがどれだけ高いところへ登ったって、いちばん帰りたい場所は、ずっと変わらないんです。あなたが焼き菓子を差し出してくれる、あの東屋の椅子ですよ。……重荷だなんて、言わないでください。あなたは、わたしが世界でいちばん、守りたいと思ったものなんですから」
ロレンツォが、息を呑んだ。
「では、こう申し上げます」
ヴィオレッタは、一歩、彼に近づいた。
「あなたを泣かせる女は、わたしが全部、消しました。この世界であなたを泣かせられるのは、もう、わたしだけです。責任は――取っていただかないと」
ロレンツォは、しばらく言葉を探すように口を開けたり閉じたりして――それから、観念したように、深く、長い息を吐いた。
そして、笑った。困ったような、けれど、これまでのどの笑顔よりもずっと、やわらかい笑みで。
「……敵わないな。昔から、お前には」
彼の大きな手が、そっと彼女の頬に触れた。雨の日に、名前を尋ねてくれたときと同じ、あたたかい手だった。
「よろしく頼む。私の――ボスどの」
その瞬間、三年間、氷の下に押し込めてきたものが、ヴィオレッタの目の奥から、じわりと溢れた。夜の街ではどんな相手にも涙を見せたことのない女が、この人の前でだけ、あっけなく泣いてしまう。雨の日に差し出された、あのあたたかい手。名前を呼んでくれた、あの声。ずっと、ずっと、そばにいたかった。娘としてではなく。
「……ずるいです、お父様。わたしのほうが、先に好きだったのに」
「それは、すまなかったな」
ロレンツォは、困ったように、けれど心底幸せそうに笑って、彼女の涙を指で拭った。
「これから、たっぷり時間をかけて、追いつくとしよう」
広間の外では、まだ捕り物の喧噪が続いている。けれど、この一角だけは、世界のどこよりも、静かで、あたたかかった。
◇◇◇
それから、いくつか季節がめぐった。
公爵家から追い出された元第一夫人と、王弟レオポルドの派閥がどうなったかは、ここに書くほどのことでもない。ずいぶん高いところから、ずいぶん下まで落ちた、とだけ。後ろ盾の消えた権力ほど、脆いものはない。それを、彼らはいま、いちばんよく噛みしめているはずだ。父が牢の中で味わった無念が、少しでも晴れたなら、それでいい。
いま、ヴィオレッタは、ヴァレンティ公爵家の正妻の座に着いている。
昼間は、夫の隣で領地の書類に目を通し、救済金がきちんと村の子どもたちへ届いているか、この目で確かめる。父が遺した「いちばん弱い者の顔を見て決める」という言葉を、今度は、この手で守れる場所から。
あの疫病で親を亡くした子どもたちには、公爵家の名で、あらためて手が差し伸べられた。着服された救済金は、アドリアーヌの実家から根こそぎ取り立てて、ぜんぶ村へ返した。この冬、凍える子どもは、ひとりも出さない。それが、正妻ヴィオレッタの、最初の仕事になった。
先日、ロレンツォと二人で、その村を見て回った。頬を赤くした子どもたちが、あたたかいパンを頬張って、駆け回っている。その光景を眺めながら、ロレンツォが、ぽつりと言った。
「……お前と結婚して、よかった」
「あら。今ごろ気づいたのですか」
「いや。毎日、気づいている。気づくたびに、言いたくなるんだ」
こういうことを、この人は、真顔でさらりと言う。ヴィオレッタは、耳の先が熱くなるのを感じて、思わず前を向いた。夜の街ではどんな相手にも動じない〈ボス〉が、昼の光の下では、たったひとりの夫の言葉に、こうもあっさり崩される。我ながら、締まらない話だ。
◇◇◇
あの騒動から少しして、ロレンツォのもとに、一通の手紙が届いたことがあった。差出人の名は、どこにもなかった。
中に入っていたのは、三年前に取り潰された、とある小さな男爵家についての、詳細な告発文だった。横領も、内通も、すべては王弟レオポルドの派閥がでっち上げた罪であったこと。街道の権利を奪うために、誠実なだけの当主が、どのように嵌められ、葬られたか。裏づけとなる書付の写しまで、几帳面に添えられていた。ジェラルド・レイフェルト男爵は、無実だった――その事実が、そこには、もう動かしようのない形で、記されていた。
ロレンツォは、その手紙を、長いあいだ、黙って見つめていた。差出人の見当は、とうについている。この街で、闇の底からこれだけのものを掘り起こせる者を、彼はもう、ひとりしか知らない。
その夜、彼はヴィオレッタに、手紙のことを何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、彼女の淹れたお茶に付き合って、ぽつりと、こう零しただけだ。
「……お前の父上は、立派な人だった。それだけは、私が保証する」
ヴィオレッタは、一瞬、茶を注ぐ手を止めた。それから、何も知らないふりをして、微笑んだ。
「ええ。世界でいちばん、立派な人でした」
互いに、それ以上は言わなかった。言葉にしなくても、伝わるものは、ちゃんと伝わっている。父の汚名は、こうして、たったふたりのあいだだけで、静かに雪がれた。大仰に表沙汰にする必要など、もう、どこにもなかった。
◇◇◇
夜はときどき、あの円卓へ足を運ぶ。表と裏、ふたつの顔を、両方とも、隠さずに持ったまま。
「ヴィオラ。また街の菓子を買ってきたぞ」
書斎に入ってきた夫が、いつものように紙袋を差し出す。ヴィオレッタはそれを受け取って、頬をゆるめる。彼はそれを見て、幸せそうに笑う。この時間だけは、三年前から、何ひとつ変わっていない。
あの、止まっていた父の懐中時計は、腕のいい職人に頼んで、直してもらった。今は、彼女の胸元で、ちゃんと時を刻んでいる。あの日、父とともに止まった時間が、また動きはじめたように。針の音を聞くたび、ヴィオレッタは思う。守れなかった過去は、もう変えられない。けれど、守れる未来なら、この手のなかに、ちゃんとある、と。
焼き菓子をひとつ齧りながら、彼女は思う。
――娘で、妻で、そしてあなたを守るボス。ずいぶん欲張りな肩書きになったものだ。
けれど、悪くない。あの雨の日に差し出された手を、今度はわたしが握り返す番だ。どうぞ末永く、この手のなかで、幸せに泣かされてくださいね――と。




