カフネは唇を贈らない
左肩にぬるくて柔い染みが広がってゆくのを感じながら、そういえばこの家にマキ以外の女を入れたことがないと、今初めて気がついた。
特にそういったルールを設けていたわけではないし、意識して避けていたわけでもない。決まり事なんて所詮は足枷のレプリカでしかなく、その気になればいつだって、誰にだって壊すことができる。壊してしまう、とも言えるだろう。
妄想という部品だけで組み立てられた模造品は脆い。人が思っている何倍も。だからこそ大切にしましょう、守りましょうなんて耳にタコができるほど言い聞かせられるのだろうが。
だから俺は目の前の事象に対する本心にのみ忠実だった。好いたものにはキスをして、気に入らないものは跳ね除ける。
要は庭いじりと同じ作業だ。不要な枝を切って落とすように、己の世界を剪定すればいい。
世界は俺のために存在していないが、俺のために世界を整えることは存外簡単だ。どうせあと何十年も生きることになるのだから、人生の最期まで俺好みに仕上げたほうが生き甲斐があるし、人間として生まれたメリットを得られるだろう。楽しんだもの勝ちというやつだ。
他人を家に上げたことはある。友人や部下、家族は何度か来たことがあるし、出迎えることに不快感はない。それなりにもてなして、具合のいい頃合いに解散し、玄関で見送る。
そのあとは自分だけの城へ戻すために片付けをして、一通り終えれば秘蔵の一本と深いグラスをこさえてソファーへ腰を沈める。そうして褒美とばかりに、自分以外の気配がなくなった部屋で極上のワインを飲むとやけに美味くて、そればかりは俺の性格の悪さが滲み出ているせいかもしれない。
だが女を抱くとなると話が変わってくる。端的に言えば、運動後はさっさとシャワーを浴びて飯を食いたい。男としてのエスコートを省くようなクズではないが、アフターケアは専門外だ。
女に限った話ではないが、他人の世話を焼くのは性に合わないからピロートークなんてものは御免だし、必要だとも思わない。
重要なのは最中の満足度であって、俺はロマンス映画の俳優になったつもりは一切ない。一人寝に不満をぶつけられても、最初からロマンティックな一夜を約束してくれるような男を選ばなかったのが悪いと言い切っている。
だから大抵はホテルで済ませるし、そこで構わないという女としか寝なかったから、今まで自宅へ女を連れ込んだことがなかった。いい女は好きだしセックスは最高の娯楽だが、面倒事に発展する要因になりかねないことも同時に理解していたからだ。
常に俺が主導権を握っている恋が成立するのであれば歓迎するが、そうはいかないのが恋愛という関係性であるらしい。であれば性欲を発散したい時にだけ女に触れて、それを了承する女とだけ繋がればいいのだという結論に至るまでにはそう時間はかからなかった。
「案外泣き虫だよなあ」
部屋を照らす光は窓の外から差し込んでくる拙い月明かりだけで、中を暴こうとするものは何もない。ぼんやりとした四角い空間にはつっかえてばかりの吐息だけが存在していて、零すたびに真夜中へと沈んでゆく。
煙草に火を付けながら、少し前から思っていたことを放ってみる。どうせ返事はないだろうと踏んだうえで、殆どひとりごとのつもりだったのだが、聞くに堪えないようなボロボロの低い声で短く「ちがう」と返事が打ち返ってきて、思わず目を見張った。
僅かに開けてある窓の隙間のほうへ流れていくように煙をうすく吐き出し、視線だけ左肩へ落とす。仕立てたばかりのスーツを容赦なく濡らしているこの女は小さな頭だけを俺の肩に押し付けるばかりで、顔を上げることはおろか、相変わらず首や背中が痛くなりそうな体勢のままである。
泣いている最中は何も反応しないし、放っておけと言ってたくせにな。
右口角がゆるやかに上がっていくのを自覚しながら、煙草を持っていない手で深いブラウンに染めてある髪の一束を掬う。コイツが俺に向かってよく言ってくる、とびきり性格が悪いやつの笑みを浮かべながら。
「なあに嘘ついてんだよ。俺の肩でばっかベソベソ泣いてるお嬢さんはどこのどいつだ?」
「……しょうがないじゃん。一人だと泣きたくないんだから」
いつもの調子で言葉は返ってくるが、依然として声は震えているし覇気はない。傷心している女をいじめる趣味はないので早々に降参し、痛まない程度によじっていた髪を手放した。
「あーハイハイ。マキちゃんは不器用だもんなあ」
殻の内側を庇うように丸めている背を二回ほど軽く叩き、煙草を吸う。女を慰めるには些か粗雑な扱いだ。好きなだけ泣けばいいと受け止めるのではなく、さっさと泣き止めと急かすような手つきであるから。
マキを女として扱うことだって、できないわけじゃない。否応なしに泣いてる女を相手にするならキスしてそのままベッドに雪崩れ込むのが一番手っ取り早いし、慰めの言葉を考えるくらいなら思考がめちゃくちゃになるくらいに啼かせるほうが性に合っている。
だが手触りのいい髪を許すように撫でてやれば、すぐ傍にある寝室へ連れ込んで口を塞げば、たぶんコイツはもう俺の前で泣くことはないだろう。あのバーに顔を出すこともなくなるし、二度と俺の前に現れることもない。コイツはそういう女だ。
目に馴染んだ暗闇の中でじりじりと身を削っていく鮮烈な赤を眺めながら、難儀なやつだな、と同情する。
人前で泣くのはみっともないからと我慢するという心意気はまだ理解の範疇であるが、一人になったときに泣くと惨めになるからもっと泣きたくないという意地を聞いたときは、一体コイツは何が楽しくて生きているのだろうか、と冷めた疑問を抱いたことを覚えている。
随分と立派な信条を掲げて生きてきたらしい。そんな信条に見合うような身も精神もしていないくせに。
だが、コイツがそうやって無理やり背筋を伸ばして顎を引き、震えそうになる足をヒールの音で掻き消しながら前へと進み、死んでも目を逸らすものかと言わんばかりの眼光は嫌いではなかった。コイツは土壇場では絶対に潰れない、とびきりいい女だ。
心底生きづらそうだと思うし、少し目を離した隙に倒れていてもおかしくはないような気の張り方を治さないのは馬鹿だと断言するが、そういう虚勢を含めてマキなのだろう。コイツと出会ってから大して時間は経っていないし、互いの苗字すら知らないような間柄ではあるが、それくらいは把握している。
マキはたぶん、ずっと一人で努力し続けてきた人間だ。誰にも認められなくても、気づかれなくても、実を結ばなくても。ただひたすら自分自身のために、懸命に。
「ジュカってなんでこんなに体温高いの?」
気の抜けた細い声に意識を戻す。零れかけていた先端の灰を皿の中へそっと落とし、もう一度口元へと寄せた。
「さあな。筋トレしてるからじゃねえの」
「ふうん」
私もジム行ってみようかな、と寝言のようにちいさく零しながら額を擦りつけるマキに若干腹が立ち、部屋の中に立ち込めるように煙を吐いてやった。案の定マキは咳き込み始めて、恨めし気に顔を上げる。一時間ぶりのご対面だ。
「煙草臭いんだけど……」
泣き腫らした目で睨まれたって怖いはずもなく、むしろようやく手綱を握れて清々する。有利な状況下で吸うニコチンは格別だ。
「俺がタダで肩貸してやってんだから文句言うな。毎度びしゃびしゃにしやがって」
「あはは、ごめんなさい」
脅したというのに、まるでくだらない悪戯がバレた子供のように明るく笑ったマキを見て、俺もつられるように喉を鳴らした。今夜もようやく気が晴れたらしい。
コイツが何に傷ついたのかは知らないし、微塵も興味がない。俺は慰めないし世話も焼かない。
だが、まあ、傍にいてやるくらいならいいかと思ったのだ。煙草を吸い終えるまでなら付き合ってやってもいいと、たまたま気が向いたから。それが何となく今でも続いている。
この女が、歯を食いしばって日々を生きている女が、俺の肩であれば泣けるらしい。それを俺は許している。他の誰でもなく、俺自身が決めたことだった。
「あったかいとさあ、涙腺がゆるむんだよね」
「へえ」
テーブルの下に放置してあるティッシュへ手を伸ばし、マキは遠慮なく鼻を噛む。俺はようやっと解放された肩をほぐすように軽く回してから頬杖をつき、マキの拙い話に耳を傾けることにした。
「だからお風呂とか布団の中とか、ご飯食べてるときも、すごく泣きそうになるんだけど」
「嫌なんだろ?」
まばたきを一つ零し、マキは内緒話をするようにふ、と笑う。窓辺から差し込む月明かりが似合う女だな、と目を細めた。
「うん。だってさ、笑っていたいじゃん。泣きたくないよ」
弱い自分が嫌いだと、コイツは何度も何度も口にしていた。
本当に弱いやつはすぐに現実から目を逸らして、信頼を裏切って、責任から逃げていくようなやつらのことを指すのであって、マキのような人間のことではない。負けることが悔しくて、膝をついてしまうことが情けないと泣くようなやつが、弱いはずがない。
「惨めだなって思うと苦しいし、弱いって認めるのも嫌だから、泣きたくないんだけど。どうしても我慢できないときもあって」
湿気を含まない、すっきりとした夜風がマキの頬にかかっている滑らかな髪をやさしく梳く。
コイツがこの部屋を訪れるようになってから、ここは風通しがいい部屋なのだと初めて気がついた。それまでは窓を開ける理由がなく、人工的な風以外を必要としなかったから。だから喧騒に佇むような街中であっても、吹き込む風は案外穏やかで落ち着くのだと知れたのは、俺にとっても利得であった。
けれども、たぶん、この風が心地良いのは、マキが夜に好かれているからだ。
マキを俺の家へ連れて帰る夜に広がる空はいつだって澄んでいる。雲が夜空を陰ることはないし、一度だって雨が降ったこともない。星は夜空のさなかで上品に瞬き、風はいつだってコイツの頬を慰めるようにそっと撫で、月はマキが来るのを待っていたかのようにやさしく照らしている。
マキが俺の知らない街のどこかで生きていたとしても、世界は何も変わらない。月も風も星も消えることはなく、ただそこにある。自然の価値は不変であり、人間には到底手が付けられない。
だというのに、マキが俺の傍で泣く夜はひどく心地がいい。やさしさで満ちているのだ。夜が、マキに惚れているから。
脳みそに花が詰まったのかと疑いたくなるような話だと思う。それでも一人で見上げる夜とは比にならないくらい、この女が真夜中に溢れる涙を必死で押し殺そうとする日は、どんなときよりも綺麗なのだ。
「ジュカは肩が広いし、あったかいし。私一人くらいが少し寄りかかっても気にしないだろうから、泣いてもいいかって油断しちゃんだよね」
雑踏に消える足音の一つ。人生の数ページにだけ名前が記されている女。剥がれていることにすら気づかないような薄い記憶。
海辺に転がっている小さな貝殻を指でつつき、拾い上げることなく、そのまま歩き出してしまう少女のような声色で、自分はそういう存在なのだと言いたいらしい。
馬鹿か、とフォークでも投げつけてやろうとする前に、マキが俺の目を真っ直ぐと見つめた。
「泣いて、情けなくて、惨めだって落ち込んでも。ジュカの肩でなら、一人じゃないんだなって安心する」
だからありがとう、ジュカ。赤みがかったままの目と鼻、掠れたままの声でマキは俺に微笑む。泣き腫らしたみっともない顔だというのに、綺麗だと、つい見惚れてしまった。
瞳に残っている涙の欠片だとか、白磁の肌に差す赤だとか、触れたくなるような柔らかい髪だとか。月光が、夜風が、星空が、今この瞬間はこの女がもっとも美しいのだと見せつけているようで、やはりマキは真夜中に愛されている女なのだと、俺だけが知る事実を咀嚼した。
「どういたしまして」
別に、気にしないとまでは言ってないだろ。
だがこの阿呆な女にそう告げてやるのはどうにも癪だから、清涼な風がやさしく撫でていた頬をこちらへ引き寄せるようにかるく抓ってやった。
大して痛くもないくせにマキは文句を投げつけながら俺を睨んでくる。だがやはり全く迫力はなくて、むしろ笑いが込み上げてきた。誤魔化すことなくそのまま笑い飛ばしてしまえば、信じられないものを見たような目を向けたあと、つられるようにコイツも笑い出したから、俺はようやく夜の祝福を受け止めている、マキの柔らかで綺麗な髪を思いきり乱してやった。まったく気分のいい夜である。ざまあみろ。




