バーのこども
バーを出たところに子供が転がっていた。よく見ると、転がっているのではなく膝を抱えて座っていることがわかった。どこかから流れてきてしまったものの、どこにいても同じだからとりあえずここにいる、というような顔つきをしていた。私はなんとなく通りにくかった。
「そこの子供、何してるの」
私の言葉に、子供は子供なりに頑張った鋭い目を投げ返した。それから舌打ちし、のっそり起き上がった。
バーのマスターがドアを開けて出てきた。
「ちょっとムラくん、お代が千円多いわよ」
「チップだよマスター」
「ここは日本だってこと、忘れてもらっちゃやーよ。――あら」マスターは子供に気がついた。「どうしたのよお嬢さん、こんな時間に、こんなところで。狼に食べられちゃうわよ」
「別にどうでもいい」子供が答えた。子供はそれからネオンの溢れる夜の街に消えていこうとした。
「ムラくん、あの子捕まえてきて」
「煮込むの、それとも丸焼き?」
「冗談言ってないで、ほら」
まだ遠くへ行っていなかった子供を私はバーの通路を出たところで捕まえた。
「なに? あたしを抱きたいなら十五はいるよ」
「おませさん。マスターが君と話したいんだって」
「店の前に座ってただけで席料でも取るつもり?」
「君の財布にそこまでの期待はしてないよ。マスターはおせっかいなんだ。驚くべきことだが、世の中にはおせっかいを焼きたいってだけで動ける人間がいるんだ」
まだぶつくさ言っている子供を引っ張り、私はバーに戻った。子供も本当はどこかに止まり木を求めていたのかもしれない。私の手を振りほどくこともしないで、紐のほどけかかったスニーカーを素直に前へ運んできた。バーには四、五人の客が入っていたが、誰も自分の世界の外には出たがらず、静かにカクテルなんかを飲んでいた。
「それで、お嬢さん、お名前は?」
「エマ・ワトソン」
「どうりで美人だと思ったわ。で、本当は?」
子供はため息をついた。「なんでオカマ口調なの?」
「やあね、オカマだからに決まってんでしょ。名前がないならレーズンって呼ぶわよ」
「マスターの乳首と同じ」私が言った。
「見たことないでしょ。淡いピンクかもしれないわよ」マスターは脚を組み替えた。「で、レーズン、あなたこんなところで何してるのよ。家出じゃないでしょうね」
「家出じゃない。私に家なんてないから」
「その調子だと親もないって言いそうね。でもこんな時間にうろついてると怖い人に身ぐるみ剥がされるのよ。そうなってからでは遅いの」
「別にどうでもいい」二度目の台詞だった。
「あのね、本当にどうでもいい人は家にいて、なんにもしないのよ。レーズンは何かを変えたいからこんなクソみたいな街をうろついてるんでしょう。何かががつんと自分の人生にぶつかってくるのを待ってるんでしょう。そういうの、どうでもいいって言わないわよ」
「黙ったら、オバサン」
「やっだぁ、女性扱いされちゃった」
「死ね」
子供はすぐにこういう言葉を使ってしまう。まあしかし、こういう街では「死ね」は我々の血液だ。私はなんとなくそういう人々を愛していた。実際、私は死ねという言葉を使わずに他人を徹底的に叩きのめす善人が山ほどいるのを見てきたから、死ねにはあまりにも工夫がなくて、ストレートで、不器用で、それゆえに愛らしかった。死ねと言われたとき、私は少しも腹が立たない。他人が正義を語っていると、ものすごく死にたい気分になるのに。不思議なものだ。
私はその子供をマスターに託し、バーを出て家に帰った。その夜は殊に美しい星の夜だった。
再びバーに足を運んだのは二日後だった。席に座った私のところにカシスオレンジを運んできたのはあのときの子供だった。マスターがうっすら化粧をして女性に近づいているのに、子供は男もののスーツを着て少年めいていた。
「マスター、酒を扱う店で子供を働かせたら捕まるんじゃないの?」
「案外大丈夫みたいよ。問題はむしろいまが二十二時以降だってことね」
「二十二時以降ならなんなの」
「マスターとってもピンチってことよ」
それにしても死ねとまで口走っていた子供が素直に働くというのは意外だった。ここが子供の居場所になったのなら社会通念上よいことなんだろうが、私はその腹のうちを探ってみたくなった。
しかし私が呼びつけるより先に、子供のほうから私の隣の椅子に座った。客の入りが落ち着いて、暇ができたのだ。
「あたし、割と大人びてるほうだと思うんだけど」子供が言った。
「そうかもしれない」
「なんで子供って呼んだの。最初に」
「おれから見ると子供だよ」
「じゃああたしを抱きたいとか微塵も思わないわけ」
「マスターのほうがいいね」
「うわあ、何気にショック」
「五年後に君が金に困ってたら買うかもしれない」私はスモークチーズをかじった。「売ったことは?」
「あったほうがいいかな、この街では」
「売るのなら君自身のために売りなよ。どうしても手に入れたいものがあるとか、捨てたいものがあるとかさ。街はほっときな」
子供は私のスモークチーズをひと切れ奪った。「あたしも飲みたいな。お酒って何かを変えそうだし」
「思っているほどじゃないよ。でもいつか一緒に飲もう」
子供はそれから二週間くらいバーにいたが、三週間目に消えた。マスターでさえその行方を知らなかった。この街にはそういうやつばかりいる。穏やかな現れ方を知らず、さよならの言い方を知らず、いつどこにいるのか、生きているのか死んでいるのかもわからないやつらだ。悲しいことに、私たちはそういうことに慣れてしまって、いなくなったやつの椅子に荷物を置くのも躊躇わないようになっていた。私が消えても、マスターが消えても、捜すようなやつはいないだろう。それがむしろここの安らぎの根幹でもあった。
あの子供が消えて半月くらい経ったころ、マスターに胃がんが見つかった。初期だったが、マスターはなかなかに気落ちして、見ていられなかった。手術の前後にはしばらく店を閉めるという話で、もしくたばったらこの店をあげるわと半分本気っぽく言われたが、いらんと断った。実際いらなかったし、このマスターがくたばるはずもないと思っていた。
それは小雨の降る夜だった。私はなんとなく胸騒ぎがして、バーのある通りを歩いていたが、そこに見覚えのある子供が膝を抱えてあのときのように座っていた。
「どうかしたのか、子供」
顔を上げた子供は泣いているようだった。
「店が開いてないんだけど」
「ああ、マスターがね。ちょっとあったんだ」
「何があったの?」
「病気になったんだ。いまごろ病院の白いベッドの上だよ。で、君のほうは? どうしてたの」
「頑張ってみようと思ったんだ。もう一度だけ。だけどやっぱりだめだった。――もうだめかもしれない」
私は歩み寄り、子供の肩に手を置いた。が、言葉がなかった。
「マスターならうまく励ますんだろうね」
「ねえ、あたしを買わない?」子供は鼻水を垂らしながら言った。
「一応聞くけど、街のためじゃないよな」
「あたし、捨てたいんだ。何かを変えたい。あたしのために」
「そうか。でもな」
私が断ろうとしたのを弾き飛ばすようなキスだった。勢いがありすぎて、ぶつかった前歯が痛い。五秒で離れ、子供は泣いたままだったが、潤んだ目にははっきりした意志が感じられた。
「あたし、頑張るから……」
私たちは同じ小雨に濡れて歩いた。
「やっだぁ、エロい〜! なんて話するのよ〜」
元気になったマスターは取り戻した元気を最大限発揮してそう叫んだ。あの夜のことは私にとって遠い昔のことのように感じられた。
「あの子がそんな大胆なことするなんてねえ。で、どうだったの?」
「なにが」
「あの子とのベッドタイムよ。あの子、テクニックもクソもなかったでしょ? ムラくんならわかってると思うけど、あの子絶対ヴァージンだったわよ」
「もしかしたらいまもそうかも」私は言った。
「いまも? やらなかったってこと?」
「やっぱりだめだった。おれ、あの女の傷がまだ治ってなかったよ」
「まだ言ってるのその話。もう二年も前じゃないの。じゃあなに、勃たなかったってことでオーケー?」
「オーケー」
「もったいないわねえ。向こうから食いついてきた魚でしょ? 損したわね」
マスターは赤ワインを一杯入れてくれた。私はそれを時間をかけて飲んだ。マスターが急に声を静めて言った。
「でも、あの子も傷を負ったかもしれないわね。かわいそうに」
「そうなのかな。おれが勃たないのを見て、笑いが止まらないみたいだったが」
「そうなの?」
「勘違いしたみたいだった。自分は子供だとはっきりわかったと言ってたな。子供はもう少し子供らしくしておくと言って帰っていった。吹っ切れたようでもあった」
マスターもまた赤ワインを飲んだ。遠い目であの子供のことを見ていた。
「きっとあの子は急ぎすぎていたんだわ。自分以外のものになるのは、自分自身にとことん付き合ってからでもいいのにね。きっと、それをする気になったんだわ」
その日は遅くまで飲んだ。家に帰ると、あの子供のことを考えた。ベッドに一本だけ私のものではない長い毛が落ちていたが、私はそれが子供ではなくあの女のものであればいいと思った。私はどうもまだあの女に呪われているようだ。が、マスターの言うように、とことんまで付き合ってみてもいい。五年もすれば、子供でなくなったあの子供を、もしかしたら抱けるかもしれない。この街にいさえすれば、そういうこともあると思える。その日もやはり、星の美しい夜かもしれない。




