らぬきババア
突然、チャイムの音が響いた。
すっかり寝入っていたヒデキは、びくりとして目を覚ました。こんな夜中に、誰だよ――。
とは言え、暗がりで時計を見ると、まだ九時半を少し過ぎたところであった。
入院をきっかけに、ヒデキは起床消灯時間を病院のそれと同じにしていた。病院がそうしているのなら、きっと健康につながるのだろうと、単純に考えた。
そういうわけで、九時にベッドに入って眠りに落ちたヒデキにとって、九時半は真夜中に思えたものの、一般の人には、それほどの深夜とは言えない時刻であった。仕方なく、ヒデキは寝室を出て、居間のインターホンに歩み寄った。
真っ暗な居間に、インターホンのカラー画面が色を放っていた。
恐る恐る、ヒデキは近づいた。そこに見たこともない化け物じみた顔が映っていたら、どうしよう。想像したら、不意に、背筋が凍る思いがした。
それでも、ヒデキは勇気を出し、インターホンの画面を覗き込んだ。
見ると、そこには誰もいなかった。
ヒデキはほっとした。嫌なものを見なくて済んだと、胸を撫で下ろした。
同時に、憤りも感じた。いたずらに違いないと、勝手に決めつけた。
「ちぇっ」
舌打ちし、ヒデキはその場を立ち去ろうとした。目を覚ますまで巨乳ちゃんの夢を見ていた。もう一度あの世界にもどれなかったらどうしてくれるんだよ。そう思うと、ますます腹が立った。
と、そのときだった。
突然、チャイムの音が、立て続けに、響いた。
音が響くや否や、インターホンの画面が、再び色を放った。
「きゃあっ」
ヒデキは情けない声を上げた。気を緩めたときに、不意打ちを食らい、動転した。
そして、インターホンの画面に目をやり、再度、
「きゃあっ」
と叫んだ。腰を抜かし、その場にへなへなと座り込んだ。
画面には、人が映っていた。
婆、だった。
髪を振り乱した婆は、夜間の照明のせいなのか、何やら恐ろしげな顔色をしていた。
ヒデキは目を瞑った。これは夢だ。そう信じこもうと、必死になって目を瞑った。
音さえも何も耳にしたくはなかった。外界からの刺激を全て遮断したくて、両手で耳も塞いだ。
どれくらい、そうしていただろう。
かなりの時間が経ったように思えた。
時間が過ぎ去っていくにつれ、ようやく心が落ち着いてきた。
やがて、先ほど目にしたものも、本当に夢だったように思い始めた。
よろつきながら、ヒデキは立ち上がった。もうすでに、インターホンの画面は消えていた。
やっぱり、現実ではなかったのかな――。
ヒデキは思った。ルナが仕事で帰ってこない夜。寂しさのあまり、怖い夢を見ていたんだな。本気で信じ始めた。
ふうっと、ため息をついた。そうしてから、ヒデキは寝室に戻ろうとした。
と、そのときだった。またもや、ヒデキを震え上がらせることが起こった。
暗闇に、チャイムの音が響いた。
ヒデキは思わず、インターホンの画面に目をやった。
そこには何も映っていなかった。ただ青い画面となっていて、そこに、『玄関』という白い文字が、浮かび上がっていた。
「きゃあっ」
ヒデキはまた、声を上げた。
こちらでオートロックを解除しない限り、マンションのエントランスには入れないし、従って、玄関の前にはやって来られないはずであった。
それなのに、あの婆が、玄関の前に立ち、チャイムを押している――。
ヒデキはおしっこを少しだけちびった。
すぐさま、股間に熱いものを感じた。その気持ち悪さに、
「きゃあっ」
ヒデキは叫ばずにはいられなかった。
ヒデキは居間から駆け出した。
廊下を走り、寝室に飛び込んだ。
鍵を閉め、そうしてから、ベッドの方へ後ずさった。
ベッドに腰を下ろすと、ヒデキはまた目を瞑った。
「ルナっ、助けてよお」
震える声で呟いた。
と、そのときだった。またまたまた、異変が起こった。
ベッドが突然、揺れだした。
ヒデキは思わず、ベッドの方を振り向いた。
そして、ベッドにいるそいつを見た途端、
「うああっ」
と叫んだ。
ヒデキはベッドから飛びのいた。
ベッドには、婆がいた。
寝そべっていた。ヒデキの叫び声に、嬉しそうな顔を見せると、おもむろに起き上がった。
ヒデキは扉の方へ後ずさった。
追うように、ベッドから出て来た婆が、ゆっくりと近づいてきた。
婆は、一歩ずつ、近づいてきながら、
「ひとーつ」と言った。
なおもゆっくりと歩み寄り、
「起きれる」と、婆はしゃがれた声でその言葉を口にした。
婆のその言葉を聞き、ヒデキは一瞬、耳を疑った。まさか、と思った。
けれど、頭の中で反芻し、その言葉が意味することを認めた。
認めるや否や、
「うあっ」と、ヒデキは叫んだ。「そんな言葉、言うなっ」目の前の空気を払いのけるかのように、手を激しく左右に振った。
しかし、婆はやめなかった。にやりと笑い、
「ふたーつ」と言ってから、
「逃げれる」と、またもその言葉を口にした。
そして、
「やめろ、やめてくれっ。そんな言葉、聞きたくないよおっ」ヒデキが涙声で訴えると、
今度は立て続けに、
「来れる……、出れる……、投げれる……、見れる…、考えれる……、食べれる……、着れる……」
と、その言葉をいくつもいくつもヒデキに聞かせ、彼の嫌悪感や恐怖心を煽りに煽った。
ヒデキは、「やめてくれえっ」と、悲痛な叫び声を上げた。
本当に、その言葉を聞きたくなかった。聞き続ければ、きっと自分も毒される。そう信じていたヒデキは、このままぼくも……、そう思って絶望した。
ところが、である。
婆が調子に乗って、「殴れる、触れる、眠れる……」と言ったときだった。
それらの言葉を聞き、ヒデキはかっと目を見開いた。
突然、国語教師魂が呼び覚まされた。
すると不思議なことに、恐怖心も吹っ飛んだ。
ヒデキは婆を睨みつけた。怒声を上げ、
「ちょっと待てよ、おいっ。間違ってるぞ」と、婆に指摘した。
ヒデキの勢いに、婆が気圧された。婆は足を止めた。「え?」と言って、少し後ずさった。
そんな婆に、ヒデキは言った。
「おばあちゃん、今言った三つの言葉は、間違った言葉遣いじゃないよ。その三つは、一単語の動詞なんだよ。『られる』を誤って『れる』を付けた、いわゆる『ら抜き言葉』じゃないんだよ。何言ってるの?」
ヒデキの言葉に、婆がおろおろし始めた。「あ、ああ」と情けない声を出した。よろよろと後ずさり、
「ああ、なんてこと。……恥ずかしいです」と言って頬を赤らめた。
そして、
さらに勢いづいたヒデキに、
「あのさあ、『恥ずかしい』っていう形容詞に『です』をつけるのも、×だよ。『です』を『だ』に置き換えてごらん? おかしいだろ? 『です』は付けられないってことなんだ」
そんなふうにヒデキに教えられると、婆は顔を真っ赤に染めた。
「ごめんなさい……」
婆は、消え入るような声で言った。
言った途端、婆の姿も、すうっと、消えていった。
続編『なので婆』、『すごいです姉ちゃん』にも、乞うご期待。




