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らぬきババア

作者: 泉 羅卯
掲載日:2025/11/17

 突然、チャイムの音が響いた。

 すっかり寝入っていたヒデキは、びくりとして目を覚ました。こんな夜中に、誰だよ――。

 とは言え、暗がりで時計を見ると、まだ九時半を少し過ぎたところであった。

 入院をきっかけに、ヒデキは起床消灯時間を病院のそれと同じにしていた。病院がそうしているのなら、きっと健康につながるのだろうと、単純に考えた。

 そういうわけで、九時にベッドに入って眠りに落ちたヒデキにとって、九時半は真夜中に思えたものの、一般の人には、それほどの深夜とは言えない時刻であった。仕方なく、ヒデキは寝室を出て、居間のインターホンに歩み寄った。

 真っ暗な居間に、インターホンのカラー画面が色を放っていた。

 恐る恐る、ヒデキは近づいた。そこに見たこともない化け物じみた顔が映っていたら、どうしよう。想像したら、不意に、背筋が凍る思いがした。

 それでも、ヒデキは勇気を出し、インターホンの画面を覗き込んだ。

 見ると、そこには誰もいなかった。

 ヒデキはほっとした。嫌なものを見なくて済んだと、胸を撫で下ろした。

 同時に、憤りも感じた。いたずらに違いないと、勝手に決めつけた。

「ちぇっ」

 舌打ちし、ヒデキはその場を立ち去ろうとした。目を覚ますまで巨乳ちゃんの夢を見ていた。もう一度あの世界にもどれなかったらどうしてくれるんだよ。そう思うと、ますます腹が立った。

 と、そのときだった。

 突然、チャイムの音が、立て続けに、響いた。

 音が響くや否や、インターホンの画面が、再び色を放った。

「きゃあっ」

 ヒデキは情けない声を上げた。気を緩めたときに、不意打ちを食らい、動転した。

 そして、インターホンの画面に目をやり、再度、

「きゃあっ」

 と叫んだ。腰を抜かし、その場にへなへなと座り込んだ。

 画面には、人が映っていた。

 婆、だった。

 髪を振り乱した婆は、夜間の照明のせいなのか、何やら恐ろしげな顔色をしていた。

 ヒデキは目を瞑った。これは夢だ。そう信じこもうと、必死になって目を瞑った。

 音さえも何も耳にしたくはなかった。外界からの刺激を全て遮断したくて、両手で耳も塞いだ。

 どれくらい、そうしていただろう。

 かなりの時間が経ったように思えた。

 時間が過ぎ去っていくにつれ、ようやく心が落ち着いてきた。

 やがて、先ほど目にしたものも、本当に夢だったように思い始めた。

 よろつきながら、ヒデキは立ち上がった。もうすでに、インターホンの画面は消えていた。

 やっぱり、現実ではなかったのかな――。

 ヒデキは思った。ルナが仕事で帰ってこない夜。寂しさのあまり、怖い夢を見ていたんだな。本気で信じ始めた。

 ふうっと、ため息をついた。そうしてから、ヒデキは寝室に戻ろうとした。

 と、そのときだった。またもや、ヒデキを震え上がらせることが起こった。

 暗闇に、チャイムの音が響いた。

 ヒデキは思わず、インターホンの画面に目をやった。

 そこには何も映っていなかった。ただ青い画面となっていて、そこに、『玄関』という白い文字が、浮かび上がっていた。

「きゃあっ」

 ヒデキはまた、声を上げた。

 こちらでオートロックを解除しない限り、マンションのエントランスには入れないし、従って、玄関の前にはやって来られないはずであった。

 それなのに、あの婆が、玄関の前に立ち、チャイムを押している――。

 ヒデキはおしっこを少しだけちびった。

 すぐさま、股間に熱いものを感じた。その気持ち悪さに、

「きゃあっ」

 ヒデキは叫ばずにはいられなかった。

 ヒデキは居間から駆け出した。

 廊下を走り、寝室に飛び込んだ。

 鍵を閉め、そうしてから、ベッドの方へ後ずさった。

 ベッドに腰を下ろすと、ヒデキはまた目を瞑った。

「ルナっ、助けてよお」

 震える声で呟いた。

 と、そのときだった。またまたまた、異変が起こった。

 ベッドが突然、揺れだした。

 ヒデキは思わず、ベッドの方を振り向いた。

 そして、ベッドにいるそいつを見た途端、

「うああっ」

 と叫んだ。

 ヒデキはベッドから飛びのいた。

 ベッドには、婆がいた。

 寝そべっていた。ヒデキの叫び声に、嬉しそうな顔を見せると、おもむろに起き上がった。

 ヒデキは扉の方へ後ずさった。

 追うように、ベッドから出て来た婆が、ゆっくりと近づいてきた。

 婆は、一歩ずつ、近づいてきながら、

「ひとーつ」と言った。

 なおもゆっくりと歩み寄り、

「起きれる」と、婆はしゃがれた声でその言葉を口にした。

 婆のその言葉を聞き、ヒデキは一瞬、耳を疑った。まさか、と思った。

 けれど、頭の中で反芻し、その言葉が意味することを認めた。

 認めるや否や、

「うあっ」と、ヒデキは叫んだ。「そんな言葉、言うなっ」目の前の空気を払いのけるかのように、手を激しく左右に振った。

 しかし、婆はやめなかった。にやりと笑い、

「ふたーつ」と言ってから、

「逃げれる」と、またもその言葉を口にした。

 そして、

「やめろ、やめてくれっ。そんな言葉、聞きたくないよおっ」ヒデキが涙声で訴えると、

 今度は立て続けに、

「来れる……、出れる……、投げれる……、見れる…、考えれる……、食べれる……、着れる……」

 と、その言葉をいくつもいくつもヒデキに聞かせ、彼の嫌悪感や恐怖心を煽りに煽った。

 ヒデキは、「やめてくれえっ」と、悲痛な叫び声を上げた。

 本当に、その言葉を聞きたくなかった。聞き続ければ、きっと自分も毒される。そう信じていたヒデキは、このままぼくも……、そう思って絶望した。

 ところが、である。

 婆が調子に乗って、「殴れる、触れる、眠れる……」と言ったときだった。

 それらの言葉を聞き、ヒデキはかっと目を見開いた。

 突然、国語教師魂が呼び覚まされた。

 すると不思議なことに、恐怖心も吹っ飛んだ。

 ヒデキは婆を睨みつけた。怒声を上げ、

「ちょっと待てよ、おいっ。間違ってるぞ」と、婆に指摘した。

 ヒデキの勢いに、婆が気圧された。婆は足を止めた。「え?」と言って、少し後ずさった。

 そんな婆に、ヒデキは言った。

「おばあちゃん、今言った三つの言葉は、間違った言葉遣いじゃないよ。その三つは、一単語の動詞なんだよ。『られる』を誤って『れる』を付けた、いわゆる『ら抜き言葉』じゃないんだよ。何言ってるの?」

 ヒデキの言葉に、婆がおろおろし始めた。「あ、ああ」と情けない声を出した。よろよろと後ずさり、

「ああ、なんてこと。……恥ずかしいです」と言って頬を赤らめた。

 そして、

 さらに勢いづいたヒデキに、

「あのさあ、『恥ずかしい』っていう形容詞に『です』をつけるのも、×だよ。『です』を『だ』に置き換えてごらん? おかしいだろ? 『です』は付けられないってことなんだ」

 そんなふうにヒデキに教えられると、婆は顔を真っ赤に染めた。

「ごめんなさい……」

 婆は、消え入るような声で言った。

 言った途端、婆の姿も、すうっと、消えていった。

    

 続編『なので婆』、『すごいです姉ちゃん』にも、乞うご期待。

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