2-3 寝不足と仕事
ドアの音に、シュウの胸がわずかに跳ねる。
魔王――ザクレトが本当にやって来るのか、半信半疑のまま一日を過ごしていたが、今、その姿は扉の前に現れていた。
「……ほんとに来た。」
思わず口をついて出た言葉は、半ば独り言だった。
ザクレトは、昨日と変わらぬ落ち着きでカウンターに歩み寄る。その背には不思議な威圧感があり、店内の空気さえも押し広げるようだった。
「すまなかった。」
低い声が響く。
「お金とやら、渡しに来た。」
彼の手から差し出されたのは、一枚の金貨だった。重みのあるその輝きは、他の硬貨とは明らかに違う。表面には精緻な細工で、セレナス王家の盾の紋章が彫られている。まばゆいばかりの金色が、店の薄暗いランプの光を跳ね返した。
シュウは受け取った途端に息をのむ。
「……これは、、、払いすぎですね。」
彼の声はかすれ、どこか怯えすら混じっていた。手にしているのは、ただのお金ではない。王家の紋章が入った正真正銘のセレナス金貨――価値が高く、ここセレナスでは王家や貴族しかまずもっていない。1枚あれば馬1頭は買えるだろうか。
「受け取れません。」
シュウは差し出された物を返そうとする。だがザクレトは強く押し返してきた。
「昨日の分の”お会計”とやらだ。受け取れ。」
ザクレトは、堂々とした態度で満足そうに支払いを済ませようとした。
「いや……」
シュウは言葉に詰まり、視線を落とす。手のひらの金貨は、あまりに重すぎた。
ザクレトの表情に、ほんのわずかに影が差す。
「……気に入らんか?これがお金とやらだろう?」
懐疑的な声をぶつけられる。
横でやり取りを見ていたサルマは、驚愕に目を見開いたまま、グラスを掲げた手を止めていた。庶民ならまず見たこともないような金貨が、今、目の前にあるのだ。
シュウは困惑を押し隠そうとしながらも、ようやく口を開く。
「……その、このお金ではお釣りが払えないんです。」
「お釣り?」
ザクレトは片眉を上げる。
「それは何だ?」
「えっと……」
シュウは説明を始める。必要な代金より大きな額を渡された場合、差額を返すのが習わしだと。
ザクレトは一瞬きょとんとした後、どっと笑みを浮かべた。
「なんだ、足りているのなら良いではないか!釣りなど返されても困る!素直に受け取れ。」
シュウは混乱して、突き返された金貨を固く握ったまま動けなくなった。
「それよりも、昨日の指輪を返してもらえぬか?」
ザクレトはバックバーに置かれた預かりものに視線を向け、真剣な口調で言った。
指輪。その言葉に、シュウはようやく体をバックバーに向けることができた。
酒瓶の隙間から光を放ち続けているそれは、今もなお存在を主張している。
なんとか手から金貨が離れ、指輪を取り上げ、持ち主に返した。
「その指輪……おっさんのだったのか。」
サルマがザクレトに問いかける。
「そうだ。」
ザクレトは頷きながら右手の中指にその指輪を嵌めた。
「これは非常に思い入れのある指輪でな。はじめてこの指を離れたが、どうにも落ち着かなかった。」
「そんなに大事なものだったのですか?」
「いいのだ。」
ザクレトは静かに言った。
「こうして昨日のことも清算もできて、戻ってきたわけだしな。」
その声音には、確かな安堵が滲んでいた。
「それよりも、今日もまたお酒を飲んでいっていいか?」
ザクレトは続ける。
「お金なら、さっきのと同じものであればまだあるからな。」
「もう要りません!しばらくもうお金は大丈夫です!好きな時に好きなだけ飲んでいってください。」
ザクレトは、とても晴れやかな表情を浮かべ跳ねるようにカウンターについた。
サルマが半ば呆れ、半ば感心したように肩をすくめる。
「……あんた、ずいぶんと羽振りがいいんだな。お貴族様かい?」
「おい、サルマ」
シュウは慌ててサルマに注意する。バーでは他の客へ話しかけるのはマナー違反だし、それに相手は魔王だ。
「?? ハブリ?オキゾクとはなんだ?」
ザクレトは怪訝な顔をサルマに向ける。
シュウの静止もむなしく、サルマは興味のそそられる大男に食らいついていく。
「ははっ、おもしれーおっさんだな。」
サルマは笑いながら、手元のグラスをあおった。
「つまりな…お金持ちでうらやましいな、ってことだ。」
シュウの配慮をよそに、サルマの気楽な調子が、張りつめた空気をわずかに和らげる。
「昨日まで持っていなかったから、今日取ってきたのだ。」
「…? ははっ、いいな。おっさん変わり者だな。」
「そうか?それより、マスター。何かもらえないか?」
シュウはため息をひとつつき、バックバーへと向き直った。
(昨日倒れてたからな。少しアルコールの弱いものにしよう。)
するとシュウは、棚からワイングラスを取り出した。




