2-2 寝不足と仕事
シュウの頭の中はどうにも晴れない。瓶を磨き、氷を割り、グラスを並べていく手はいつも通りなのに、意識は昨晩のやりとりに引き戻されていた。
――「すまないが、お金とやらは持っていない。対価を支払うには、どうしたらいい?」
ザクレトは、太く低く重い声でそう言った。
魔界では人間が持つお金という物に価値はなく、代わりに地位や名誉、知識や芸術、腕力や魔力が等価のものとして扱われる。金貨も銀貨も、通貨としての価値は魔族には無く、せいぜい同じ装飾が施されただけの金属のかけらにすぎない。
しかし対価という価値観は、人間と同じように持ち合わせていた。だからこそ、彼が差し出した問いは、真剣そのものであった。
バックバーに並ぶ酒瓶の隙間に、その指輪は静かに置いて行かれたまま、主人の帰りを待っている。
金属の質感は黄金そのままに、どこか現実離れした光を放っている。指輪全体が深い青を帯び、まるで内側から鼓動しているかのように鈍い光が脈打っていた。
神秘的で抗いがたい雰囲気をまとい、見ているだけで心を引き寄せられるようだ。
ザクレトは真剣な面持ちのままその指輪を外してシュウに渡した。
「これを受け取れ。」
その仕草は、彼にとって些細なことのようでありながら、どこか苦しげでもあった。
「明日来るときまで、預かっておいてもらって構わない。」
シュウは思わず首を振る。
「それならまた来た時に払ってくれれば。今回はそれでいい。」
そう口にしたのは、心のどこかで彼の覚悟を和らげてやりたいと思ったからだ。
だがザクレトはきっぱりと首を横に振った。
「いや、それではワシの気が済まない。」
その眼差しには、不思議なほどの潔癖さと矜持が宿っていた。
「明日、必ず来る!」
カラン――。
ドアのベルが鳴った瞬間、張りつめていた空気はふっとほどけた。
ドアを開けて現れたのは、いつもの常連、サルマだった。
「よお。」
飄々とした笑みを浮かべ、カウンターに腰を下ろす。
「今日も来たのか。」
思わずいつもの調子で応じるが、声はわずかにかすれていた。
サルマはすぐにそれに気づいた。
「昨日は迷惑かけたからな、詫びに来た。どうした? 疲れてるじゃないか。」
軽口の裏に、案じるような響きが混じる。
言いたい。魔王が来たのだと。だが、喉の奥で言葉がつかえて出てこない。
「なんでもない。」
短い返事でごまかすしかなかった。そもそも客の情報をペラペラと他の客に話すのはタブーだ。シュウは惑う心を落ち着けるように自分にそう言い聞かした。
サルマはカウンター席に座り、視線を横に流し、ふと目を細める。
「ん? あんなの昨日置いてあったか?」
彼の指さす先にあるのは、バックバーの隙間に鎮座する、不気味なほどに存在感を放つあの指輪だった。
「ああ、昨日の客の忘れ物だ。」
「ふーん。ずいぶんと高そうな指輪だな。見たことのない意匠だぞ。」
「今日は、何にしますか?」
「オールドクロウをロックで頼む」
サルマも、だんだんとお酒の種類を覚えてきた様子だった。自分好みの味が出てきて、純粋にお酒を楽しみに店に来てくれていることに、シュウはうれしく感じていた。
オールドクロウ――――。甘味と辛み、フルーティーさを感じる独特の味わいのある親しみやすいバーボン。シュウは手の平くらいの氷塊を、小刀でたたくようにして丸く成形していく。綺麗に磨いたロックグラスに、丸くした氷を静かに落とし、ご指名のバーボンを注ぎ入れ、サルマの前に差し出した。
「今日もお疲れ様でした。」
サルマが御礼を言って、グラスに口を付けたとき、カラン、と控えめにドアベルが鳴った。




