9-4 異世界でバーを開いたら魔王が入り浸っているんだが
「……立てるか?」
地面に伏したままのシュウへ、ザクレトがそっと手を差し伸べた。
その手を取ったものの、足にまるで力が入らない。泥に手をついたまま、体が持ち上がらなかった。
「まぁ、待て。」
ザクレトはそう言うと、右手をそっとかざした。ほの白く柔らかな光がふわりと広がり、シュウの全身を包み込む。その光は温かく、途切れた呼吸をやさしく繋ぎ、徐々に体の奥へと力が戻っていく。ようやくシュウは、体を起こすことができた。
「……お前、どうやって。さっきまで、馬車に……。」
「ああ。今、連れていかれたのは――」
ザクレトは、馬車が消えていった方をじっと見つめ、短く息を吐いた。
「幻影魔法で作ったワシの分身だ。たとえ首を落とされても残影が消えぬ、精巧な複製体だ。 奴らはいずれ、それを“処刑”したと信じ込むだろう。」
「……そんなことが……。」
「四人いる魔王のうち、名が世に広まっているのはワシだけだ。 なぜだと思う?」
シュウは小さく首をかしげた。
「……?」
「“偽物を斬って魔王を討った”って名乗りをあげる人間が多いからだ。その度に、ワシの名は世界のあちこちで勝手に広まっていく。」
ザクレトは苦笑し、肩をすくめた。
「皮肉な話よな。英雄がどれほど名を残しても、五十年もすりゃ忘れられる。その度に新しい”魔王ザクレトを倒した奴”が現れて、歴史が書き換わる。」
シュウは息を呑む。
その軽い口調の奥に、どれだけ長い時間と孤独が積もっているのか──想像もできなかった。
「……とにかく、ここは場所が悪い。行こう。」
「どこへ?」
「マスターの店だ。あそこなら、しばらくは誰にも見つからん。」
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店に戻るころには、地面はすっかり乾き、石畳が陽の光を受けて淡く輝いていた。
遠くではゆっくり鐘の音が響き、処刑の日の騒ぎの残滓を静かに洗い流していく。
ここは――疲れた体と心を癒すための空間、シュウの店「Bar Karabiner」
そのドアの前には、濡れた木板に<マスター不在につき休業>の札がぶら下がっていた。さらに赤い紐が蜘蛛の巣のように幾重にも張られ、風に揺れている。
「……サルマがかけたんだろうな。」
「この赤い紐は…?」
ザクレトが眉をひそめる。
「立入禁止の紐だ。騎士団の仕業だろう。」
ザクレトが不満げに鼻を鳴らす。
シュウはポケットを探るが、鍵は出てこない。
「あ、鍵……。サルマに預けたんだった。」
そう言うシュウを押しのけるように、ザクレトがドアの前にすっと立った。
「まかせろ。」
ニヤリと笑うと、鍵穴に指先を軽く触れる。
その瞬間、錠前が内側から外れるように、鈍い音を金属音を立てて開いた。
ガチャリ――。
シュウは苦笑した。
「そういえば、最初に会った時も、勝手に入ってきたんだったな。」
「そうだったか?」
ザクレトはいたずらっ子のような笑顔で笑い、先に店内へ足を踏み入れた。
中は静まり返っていた。
テーブルも椅子も、いつもの配置のまま。
だが、どこか違って見えた。
まるで、世界が色を失ったような――そんな感覚。
シュウは無言のままカウンターへ入り、湯を沸かし始める。
ポコポコと不規則に立つ湯気が、少しずつ店内の冷えた空気を温めていく。
その湯気の向こうで、ザクレトはしばらく店内を見回し、ただ黙って立ち尽くしていた。
やがて、視線をシュウへ向けて、ぽつりと口を開く。
「……申し訳なかった。」
「……?」
「そなたの大切な場所を壊したこと、謝りたい。」
思いがけない言葉に、シュウは手を止め、カウンター越しにザクレトを見た。
その眼差しには、いつもの軽口の気配が一つもない。
「気にするな。こちらこそ、助けてくれてありがとう。」
ザクレトはしばらく黙っていたが、やがて静かに言葉を続けた。
「孤独と苦労の末にこの店を築いたのだろう?――転移者よ。」
シュウの指が、ぴたりと止まった。
空気が一瞬、固くなる。
「……俺が転移者だって、どうして分かった?」
湯気の向こうで、ザクレトはゆっくりと目を細めた。
「エラルドの書記にあった。“白き息吹をまといし者、この世の理から外れ、あらゆる世界を移ろう者なり”……そう書かれていた。」
「エラルド……の?書記? 何を言っている?」
「ああ。魔素を扱う魔族には、そなたら転移者は白いオーラをまとっているように見えている。 人間には決して見えぬ光だ。」
シュウは黙った。
「エラルドもそうだった。この世界に突然現れた人間で、冒険者だった。彼は元いた世界への帰り道を探す中で、彼が記していた書記に、その本文があった。おそらく“白き息吹をまといし者”の意味は分からないまま、同じ境遇の人間を探し、旅の手掛かりを掴みたかったのだろう。」
「……。」
「最初はワシも、転移というのは、この世界を単に移動できるだけの魔法だと思っていた。 だが違う。転移とは、人間だけに与えられる“何か”だ。魔法ではなく、理そのものをねじ曲げる力――。」
シュウは静かにカップへ湯を注ぎ、立ち上る蒸気を見つめていた。
店内には、少しずつ焙煎豆のやわらかな香りが広がっていく。
「……シュウは、元いた世界に帰りたいと思うか?」
「……え?」
不意を突かれ、シュウは一瞬言葉を失う。なぜそんなことを、という戸惑いが胸に広がる。
「もし望むのなら、ワシも――そなたが帰る方法を探してやろうと思っている。」
「……。」
シュウは答えられなかった。
ザクレトの声は珍しく柔らかかった。
シュウは静かに問い返す。
「……どうして、そこまでしてくれる?」
ザクレトはふっと視線を落とし、短く息を整えると、ゆっくり口を開いた。
「ワシにとっても、それは“道の途中”だ。ワシは――人間に戻りたい。」
その目が鋭く光る。
「そしていつか、この世界とは別の場所へ渡り、永遠の牢獄から抜け出す。……それが、ワシの願いだ。」
その言葉には、計り知れない年月の孤独と、蓄積された執念が滲んでいた。
そう言って微笑むザクレトを見つめながら、シュウの胸の奥に、静かに何かが芽生えるのを感じた。
ザクレトの願いを――。
転移の謎を解き明かし、ザクレトを永遠の孤独から救う。
それは自分とは無関係なはずの願いだ。だが、なぜかその方が腑に落ちた。
自分が何を望むのか、まだはっきりとは分からない。
けれど――人は、ときに誰かに気づかされて、自分の道を見つけるのかもしれない。
シュウはそんなことを、ぼんやりと思った。
シュウは店の中をぐるりと見回す。一枚板のカウンター。磨き込まれたグラス。こだわって選んだ酒の瓶たち。そこに染みついた、いくつもの笑い声。
「……どうした?」
物思いに沈むシュウを見て、ザクレトが首を傾げた。
「…この店は、今日で閉めるよ。」
「!? どうしてだ? 大事な場所だろう?」
「そうだ。ここには、大切な思い出がたくさん詰まってる。」
シュウはザクレトに視線を向け、穏やかに微笑んだ。
「ここは、この世界で俺の孤独を埋めてくれた、大切な場所だ。でも、もう一人じゃない。」
その言葉に、ザクレトは目を見開いたまま固まる。
「バーは続けるよ。場所を変えながら――」
その一言に、ザクレトの表情にふっと明かりが灯る。
「いつか、帰り道が見つかるようにな。」
「ということは……!」
「お前の言う”道の途中”。それに付き合うよ。」
ザクレトは嬉しそうに深くうなずいた。
「元の世界に帰れるよう、ワシも全力で協力する!」
「本当は、一緒に行きたいだけだろ。」
「ははは! やはりバレておったか!」
豪快に笑うザクレトにつられて、シュウの胸にも不思議な高揚が生まれる。旅立つ覚悟が、ようやく固まりつつあった。
少し冷めた湯でコーヒーを淹れ始めるころ、ザクレトはカウンターから下がり、出口の方へ向き直った。
「では、ワシはまた旅に出る。しばしの別れだ。また次の店で会おう。」
「ありがとう。おまえと出会って、退屈しなかった。」
「ふん……いらぬ礼だ。元気で暮らせ。」
ザクレトは軽く手を上げると、振り返ることなく店を後にした。
この店で最後に見送る客は、友となった魔王――ザクレト。
扉が、静かに閉まった。
しばらくの間、シュウはそこに立ち尽くしていた。
静まり返った店の中で、聞こえるのは抽出されたコーヒーが滴る小さな音だけ。
やがて、深く息を吐いてカウンターに戻る。
実際のところ、自分はほとんどこの国を追放されたも同然だ。――長居はできない。
コーヒーを一気に飲み干すと、旅支度を始めた。
荷物をまとめ終えると、シュウはペンを手に取り、一枚の紙に向かう。
< サルマへ
迷惑をかけたこと、真実を隠していたこと、本当にすまなかった。
この店に通ってくれたこと。
この店を守ってくれたこと。
そして、俺を仲間として扱ってくれたこと――
心から感謝している。
落ち着いたら、またどこかで会おう。
シュウ >
封筒に便箋を収め、カウンターにそっと置く。
最後にもう一度、店内を見渡した。
誰もいないはずなのに、どこか温かな空気だけがそこに残っている。
「……行くか。」
荷物を背負い、ドアを開ける。
外には雲ひとつない、澄みきった青空が広がっていた。
大きな荷物を背負い直し、シュウは静かにセレナスを後にした。




