9-2 異世界でバーを開いたら魔王が入り浸っているんだが
夜が明けた。長い夜だった。
シュウは夢ひとつ見ることなく、ただ冷たい石壁に背を預け、天井の隙間をぼんやりと見つめて過ごした。月が沈み、薄明かりが差し込む。遠くで鳥の声がする。それが、今日が「その日」だと告げていた。
重い鍵の音が響く。
鉄格子の扉が開き、騎士団員が二人、無言で中へ入ってくる。
「出ろ。」
短い命令に従って立ち上がると、足元がわずかに揺れた。長く座っていたせいなのか、それとも恐怖で震えたのかは分からない。どちらにせよ、もう逃げ場はない。
牢を出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
久しぶりに吸い込む外の空気が、やけに澄んでいる気がする。
その透明さが、かえって胸に痛かった。
――これが、最後に吸う空気かもしれない。
王国裁判所へ続く石畳の道を歩く。
騎士団員に両脇を固められ、足元では鎖がかすかに音を立てた。
道の両端には、裁判を見に来た人々が集まっている。
「魔族を匿った男らしい」「きっと死刑だ」「若いのにな」
そんなひそひそ声が聞こえてくるが、どの言葉も頭には入ってこなかった。
ただ、自分の足音と、鎖が石畳を叩く乾いた音だけが、やけに大きく響いていた。
裁判所の扉が開いた瞬間、眩しい光が差し込む。
広い室内の最前、壇上には王が座していた。
まさか、王自らが臨席するとは思わなかった。
――この事件が、国にとってそれほど重大だということなのだろう。
裁判で飛び交う言葉は、まるで遠くのざわめきのようにしか聞こえなかった。
「被告、シュウ。お前は魔族と通じ、この国を貶めようとした。これを認めるか。」
法廷が静まり返る。
無数の視線が一斉に自分へ向けられた。
喉がひどく乾く。
「……否定します。」
声はかすれていたが、その一言だけははっきりと言えた。
それ以上、余計な言葉を重ねる気にはならなかった。結果がどうなるかは、もうわかっていた。恐怖も諦めも、心の底で静かに溶けていくようだった。
それでも――ここまで来ても、自分は友を売ることだけはしなかった。いや、できなかった。それだけは自分の誇りであり、自分という人格を守る最後の線でもあった。黙っていることこそが、ザクレトを守る唯一の方法だったからだ。自分は、あの魔族を確かに友だと認めていたのだ。その事実を、痛いほど強く自覚していた。
王はわずかに眉を寄せ、短くため息をついた。
続いて判決文が読み上げられる。
「被告人シュウ。法に基づき、死刑を言い渡す。」
その言葉が響いた瞬間、法廷はざわめきに揺れた。
それでも、自分の心の中は妙に静かだった。
まるで長い旅路がようやく終わりにたどり着き、物語の幕が静かに下りたような、そんな穏やかな感覚さえあった。
恐怖も怒りも湧いてこない。
ただ、静かな終わりだけがそこにあった。
シュウは判決を聞かされたあと、再び牢へと戻された。
小窓から差し込む外の光をぼんやりと見上げていると、ほどなくして足音が近づいてくる。
鉄格子の向こうに立っていたのは、騎士団長クローヴェルだった。
「……世間話でもしようか。」
意外な言葉だった。団長が、そんなことを言うとは思わなかった。
「あんたみたいなのは初めてだ。」
「……俺みたいなの?」
「死刑を宣告されても、顔色ひとつ変えない。まるで……死ぬことが怖くないみたいだ。」
「怖いですよ。ただ……それより、信じた人を裏切るほうが、ずっと怖いだけです。」
そう答えると、クローヴェルは細めた目でじっとこちらを見つめた。
「本当のことを話す気はないか。あんたは……何者なんだ?」
沈黙。
「この国の重鎮たちは、皆あんたに興味を持っている。 生い立ちが分からないことと、何か関係があるんだろう?」
シュウはただ黙って聞いていた。転生という現象を知っているのは自分だけ。誰に話したところで信じてもらえるはずもなかった。
「じゃぁ、レオンという男とは、どこで会った?他に知っていることは?」
再びの沈黙。
「……黙秘か。」
苦い笑みが団長の口元に浮かぶ。
「残念だ。」
しばらく沈黙が続いたのち、クローヴェルは視線を落としたまま言葉を継いだ。
「サルマたちは今も必死にレオンを探している。……お前を助けるために、な。」
「……そうですか。」
「一週間の猶予を与えると言ってしまったが、すまない。時間は作れなかった。」
悔しさの滲む声だった。
「あんたに謝ってもどうにもならんが、彼らには申し訳なかった。」
ぽつりとそう呟くと、団長はゆっくりと背を向けた。
鉄格子の向こうへと去っていくその背中を、シュウはただ黙って見送った。
翌朝。空は驚くほどの快晴だった。
ありえないくらい澄んだ青空。
雲ひとつなく、太陽の光がまぶしいほどに照りつける。
――なんて、皮肉。
牢の冷たい床を見つめながら、シュウは静かに自分の内側と向き合っていた。死刑執行が目前に迫っているというのに、実感はまだどこか遠かった。
処刑場までは馬車で向かうらしい。牢から連れ出されると、建物の裏口へ回される。手枷を付けられたまま待機していた馬車へ乗せられると、クローヴェルも同じ馬車に乗り込み、隣の席に腰を下ろした。彼は腕を組み、ただまっすぐ前だけを見ている。
「出せ。」
クローヴェルの声を合図に、鞭の音が鳴り、馬車はゆっくりと動き出した。
大きく揺れる車内で、クローヴェルは神妙な面持ちのまま黙り込んでいた。
シュウは手枷のかかった自分の手を見つめながら、店での日々を思い返す。
楽しかった時間。騒がしい笑い声。何気ない会話。
――どうか、みんなにはこれからも元気に、自分の人生を歩んでほしい。
そのとき、馬車がふいに止まった。
だが扉は開かず、外からの気配もない。
「どうした?」
団長が車内から声をかける。しかし返事はなかった。異変を察し、シュウも顔を上げる。
クローヴェルは立ち上がり、素早く馬車を降りる。
「おい、なぜ馬車を止めた?」
低い声で問いかけながら前方を見据える、その視線の先――、道の真ん中に、レオンが立っていた。
御者は手綱を持ったまま深く眠りこみ、馬はその場で静かに立ち止まっている。
風が吹き、レオンの髪がゆっくりとなびいた。
「貴様は…。」
クローヴェルは警戒を崩さぬまま道へと踏み出し、レオンに向き合う。
「ずっと探していたぞ。」
レオンはただ短く告げた。
「その馬車に乗っている男を解放しろ。」
「無茶を言うな。」
低く押し殺したようなクローヴェルの声が響く。
そのやり取りを耳にし、シュウは思わず馬車から身を乗り出した。
目が合った瞬間――時間が止まったように感じた。
「……レオン……!」
レオンはかすかに微笑む。
「おい!車内に戻れ!」
クローヴェルが鋭い視線を向け、声を張った。
空気が一気に張り詰める。
その刹那――レオンが一歩、前へ踏み出した。
「……すまなかった。シュウ。」
レオンがそう呟いた瞬間、クローヴェルが鋭く叫ぶ。
「とまれ!」
動いたレオンの気配に反応し、クローヴェルは即座に剣を抜く――。
だが、その刹那。
「少し待っていろ。」
レオンは右手をゆっくりと天へ掲げた。
次の瞬間――世界が悲鳴を上げたような、裂ける音が響く。
空が急激に暗転する。
つい先ほどまで雲ひとつなかった青空が、嘘のように漆黒へと染まり、轟音を伴って稲妻が走った。
突風が街を巻き込み、雨が滝のように降り注ぐ。
窓という窓が激しく揺れ、住民たちは慌てて扉を閉める。
街全体が混乱のざわめきに飲み込まれた。
「魔法……。やはり、お前は魔族か!」
クローヴェルは剣を構え、レオンを正面から睨みつける。
今にも斬りかかりそうな気迫だった。
だが、レオンはただ静かに右手を下ろすと、軽く指を鳴らした。
その瞬間、ありえない光景が広がる。
二人の立つ周囲一帯だけ、暴風雨がぴたりと止まり、雨粒も風も宙に固定された。
まるで世界の一部だけが別の空間になったかのようだった。
その異様で幻想的な光景に、クローヴェルは背筋を凍らせるほどの恐怖を覚えた。




