8-3 雨の強い日
サルマはバスタオルで頭をかきむしるように乱雑に拭くと、カウンターに腰を下ろした。
「今さっき着いたんだ。その足で、そのまま来たんだよ。」
どうやらドランベルからセレナスに戻り、そのまま駆けつけてくれたようだ。濡れた服をたくし上げながら、タオルを体に押し付けるように拭いていく。
シュウは驚きと安堵で胸が熱くなった。無事でいてくれた――それだけで心の底から安堵が押し寄せる。
「他の二人は?」
「ああ。ノルムとゾーなら一緒だったよ。二人はもう家に帰った。 …悪いな、何も言わずに出て行ってしまって。」
シュウは安堵の表情を浮かべ、肩の荷を下ろすようになでおろす。横でクローヴェルの鋭い視線を感じながらも、シュウの心はサルマの存在によってはっきりと落ち着きを取り戻していた。
「何か飲むか?何がいい?」
「ヴァンショーがいい! ノルムが旅の途中で、そればっか言うんだ。 寒い~、マスターのヴァンショーが飲みたい~、って。」
笑みを浮かべながら、シュウはコンロの火をつけて準備を進める。
「デゴル山の戦いに参戦していたんだろう?」
「ああ。今回の戦いは激しかった。」
サルマは低く、しかし熱を帯びた声で話し始めた。
「銀環聖団と連携をとって、魔族をばらけさせて、小隊ごとに各個撃破していく作戦が功を奏したんだ。最終的に、指揮を執っていたと思われる魔族の隊を囲めるかどうか、ってところで、とんでもない奴が出てきたんだ。」
シュウは息を呑み、鍋の火力を確かめながら背筋を伸ばす。
「とんでもない奴?」
「ああ。そいつは、突然戦場に現れたかと思うとな。いきなり立ってられないくらいの激しい風を巻き起こして。身動きどころか、まともに目を開けることすらできなかったよ。」
声の力が増すにつれ、シュウの心臓も早鐘のように打つ。
「ほう、その先陣に君はいたのか?」
クローヴェルが会話に割って入る。
「…あんたアルケインの団長さんだろ? 今回の戦闘支援も本当に助かった。 ありがとう。」
「いや、ドランベルは同盟国だ。支援も当然のこと。」
シュウは落ち着いた様子でヴァンショーを出し、クローヴェルにサルマを紹介する。
「クローヴェルさん、この人がさっき話していた銀環聖団に加わっていた私の友人です。」
「無事が確認できて何よりじゃないですか。よかったですね、ご主人。」
「心配させてすまなかったな。」
そういうとサルマはクローヴェルの方に向き直り、握手を求める。
「俺はサルマ。よろしく。」
「クローヴェルだ。」
がっしりと握手を交わす二人。
「それで、その魔族は、あの手配書の魔族で間違いないか?」
クローヴェルは掲示板を指さす。
「あ? ああ。あいつだ! あれは、とんでもない魔力を秘めてるぞ。天候を変えちまう魔族なんか、聞いたこともない。」
「おっかないな。」
シュウは、二人に話を合わせていく。
「今回出てきたのが、本当に”軍隊”なんだとしたら……間違いなくボスはあいつだ。手下に指揮を任せて、裏にあんな化け物が控えているとは……末恐ろしい話だ。」
シュウの脳裏に、ザクレトとサルマが戦場で対峙していた可能性が浮かぶ。今回は、事なきを得たようだが、想像するだけで胸の奥がざわついた。
それでも今は、こうしてサルマの無事を確かめられただけで、心の底から安堵が込み上げてくる。
「……あまり無茶はするなよ。」
思わず漏れたシュウの言葉に、サルマは目だけで小さく笑った。
「ありがとう。」
シュウは静かに息をつきながら、ピトの手紙の真相が――、ザクレトとサルマが対峙したあの戦場に、何か関わっているのではないかと感じていた。
しかし安心と共に、シュウの心は少しずつ現実に引き戻される。
「そういや、レオンたちは?」
サルマが唐突に訊ねた。
「っ…。ん、今日は来ていないよ。」
シュウはぴしゃりと答えた。
「ふーん。元気か?」
「ああ。元気だよ。」
シュウは簡潔に答えるが、クローヴェルの妙な視線をくすぐったく感じていた。とにかく話題を逸らすことを意識する。しかし団長の目は鋭く、ほんの小さな反応も見逃さない。
「レオンの奴も見た目からして絶対強いからな。今回の遠征に一緒に来てくれるかと期待していたんだけど。」
上の方を見上げながら思いにふけるサルマの言葉に、クローヴェルはすかさず反応する。
「その、レオンって人は、この前、ここで一緒に飲んだ人か?ご主人。」
クローヴェルは観察を続けながら、シュウに慎重に問いかける。
「!! …ええ、そうです。」
シュウは短く答える。嘘をつくことはできない。しかし答えるたびに心臓が高鳴る。
「ん?一緒に飲んだのか? じゃあ共通の友人ってことになるな!」
サルマは楽しげに笑う。
「とても気さくな人物だった。一緒に乾杯した仲だ。」
クローヴェルの声は冷静だが、どこか探るような響きにも聞こえてくる。
「あいつほぼ毎日ここに来るからな~。今日もいるかと思ったんだけど。」
サルマは楽しげに笑う。
「はっ。毎日来ているのか?」
「ああ、そうだ。」
「毎日は言い過ぎだろ。時々ですよ。」
シュウは、なんだか危ない橋を渡っているような気がして、背筋に冷や汗が垂れていくのを感じていた。
「いやぁ~それにしても。このお店も、ずいぶんと大物が来るところになったな。」
サルマはどこか得意げに笑う。こういう反応は、レオンとそっくりだ。まるで自分のことのように、このお店を好いてくれている。それは単純にとても嬉しかった。
「ところで、レオンという人物だが、どういう人なんだ?」
クローヴェルの質問に、空気が一瞬にして引き締まる。シュウは内心、心臓が跳ねる。二人の会話は冷や冷やする。どう話題を逸らすか、頭の中で瞬時に計算が走る。
「どうって、別に普通だぜ。妙に熟練の老戦士みたいで、紳士的だし、いろんなことに詳しいしな。 あと、お酒好き。」
「酒好き?」
クローヴェルの視線がさらに鋭くなる。
「ああ! でもあいつ、お酒弱いんだよ! あれはいつだったっけ……酒飲んだ瞬間、ぶっ倒れたよな! ふふっ、倒れるまで飲むなっての。」
シュウは心臓が凍る。
この流れは、――まずい。
視線を正面に固定しながら、視界の端でクローヴェルの様子をうかがう。団長の両手はグラスの上で組み、微動だにせず静かに観察していた。
「…そんなことあったか?」
「えぇ?覚えてないのかよ! 初めて常連全員がこの店に集まって、大盛り上がりだっただろ?! 確か、レオンの奴、ピーナッツのハチミツ漬けを食べて、また倒れてさ! ……レオン、あの時大丈夫だったか? 俺、先に帰っちまったけど。」
サルマの笑い声が響いた瞬間、クローヴェルの指がピクリと動いた。シュウはそれを見逃さなかった。団長は目線を手元のグラスに落とし、低く静かな声でサルマに問いかける。
「サルマさん、そのレオンって人。 もしかして、最初、ラスティ・ネイルってお酒を飲んで倒れているんじゃないか?」
「え? ああ……。そんな名前だったかも。」
サルマは無邪気に笑いながら答える。
――自分の心臓の音が耳の奥で反響する。冷たい鐘の音のように、頭の中で何度も鳴り響く。まるで進めてはいけないカウントダウンが始まったかのように。
団長の勘の鋭さに、シュウはなすすべがなかった。




