7-4 嵐の前触れ
「ほら、あそこに座ってくれ。」
シュウはできるだけ自然に言葉を選んだ。
新しく現れた客――レオンを、クローヴェルから二席離れた場所に案内する。
(頼むから。静かに飲んでくれ……。)
願いを込めながら、レオンを誘導する。
「常連さんかい?」
クローヴェルの方から、シュウに尋ねた。シュウの祈りも虚しく、団長と魔王の接点を作ってしまった。レオンは椅子に腰を下ろすと、すぐにクローヴェルへと気さくに声をかけた。
「お前さん、初めて見る顔だよな。さては噂を聞きつけてきたか?」
軽い口調。
それを向けられたクローヴェルは、一瞬だけ眉をひそめた。
普段、街の人々は彼を見るとき、まるで神殿の聖職者でも見るように背筋を伸ばす。
こんな風に気安く話しかけてくる者など、いるはずもない。
「……ああ。」
返事は短く、どこか探るような声。
それでもレオンは意に介さない。
笑顔で続けた。
「どうだ? ここの酒は格別だろう!」
「そうだな。評判通りだ。」
クローヴェルの口元に微かな笑みが浮かんだ。その表情は、警戒か、それとも興味か。とても紳士的で品のある受け答えをする。
カウンターの奥では、シュウが静かに頭を抱えていた。
(なんでお前が誇らしげなんだよ……! やめろ…それ以上切り込むな。)
気まずさを誤魔化すように、シュウは声をかける。
「ほら、レオン。今日は何にする?」
(なるべく関わらせないように……。頼むから、余計なこと言うなよ……!)
レオンが「うむ」と返事をするより早く、クローヴェルがグラスを掲げて言った。
「このラスティ・ネイルという酒、とても美味しいぞ。」
「ほう! それ、ワシも飲んだことあるぞ! 甘くて美味しいよな!」
(おい……! やめろ、やめろぉ……!)
シュウの心の叫びも虚しく、レオンは胸を張って言った。
「じゃぁ、ラスティ・ネイルを。」
(お前、それ禁止って前に言っただろ!?)
焦るシュウの視線に気づく様子もなく、レオンはどこか嬉しそうに頷いた。
そのとき、クローヴェルが愉快そうに笑った。
「せっかくだ。今日の出会いに乾杯しよう! 私が奢る。ご主人も一杯つきあってくれ。 同じラスティ・ネイルを三つ、お願いしたい。」
「えっ……。」
(やばい、これ、もう逃げ道が……)
その瞬間、レオンの首回りで、小さな影が“ぴょん”と跳ねる。
姿を隠していた妖精ピトだ。
彼女はレオンの耳を思いきり引っ張った。
「……痛っ!!」
「(禁止って言ったじゃないですかっ!!)」
レオンの表情が、そうだったとばかりに一瞬だけ引きつる。
焦りを悟られまいと、咳払いでごまかす。
クローヴェルがレオンの方を見て、不思議そうに首をかしげた。
「どうした?」
「いや、なんでもない。」
引くに引けない空気。
レオンはちらりとシュウを見た。
その視線には、珍しく“助けを求める色”があった。
(……ここで別の酒に変えたら、あの話の手前、疑われる……。)
そう、クローヴェルはついさっき言っていたのだ。
「ハチミツを使った酒を飲めば、魔族を見分けられる」と。
この場で逃げることは、逆に危険だ。
「ご注文ありがとうございます。」
シュウは心の中で天を仰ぎつつ、慎重に、しかし手際よく酒を作り始めた。
オールドパーを注ぎ、ドランブイを加え、氷でゆっくりとかき混ぜる。
琥珀色の液体が静かに輝きを増す。
レオンは、さっきまでの自信満々な態度が嘘のように、そわそわと落ち着かない様子を見せていた。
その挙動を、クローヴェルはグラスに視線を落としたまま、横目で静かに観察している。
わずかな仕草も見逃さないその眼差しに、さすが王国騎士団の団長だと、シュウは内心で恐怖していた。
(頼む……何事もなく過ぎてくれ……。)
「お待たせしました。ラスティ・ネイルです。」
シュウは、三つのグラスをそれぞれの前に置いた。
微かな蜂蜜の香りが、夜気に溶けて漂う。
クローヴェルが姿勢を正す。
その瞳が、炎のように光を宿した。
「――今日の出会いに、乾杯!」
三人が同時にグラスを掲げる。
レオンの手が、わずかに震えているようにも見えた。
グラスの中の琥珀色を見つめたまま、そっと口に運んだ。
その様子を横目で観察するクローヴェル。
やがて、レオンは小さく目を見開いた。
「……うまいな、これ。」
クローヴェルの眉がぴくりと動く。
「久しぶりに飲んだけど、やっぱり美味しいな。」
シュウが自分のグラスを見ながら、言葉を継ぐ。
団長はその様子を見つめ、満足げに頷いた。
「うむ。やはり、このお店は噂どおりだった。とても美味しいよ、ご主人。」
レオンも、それに合わせるように微笑み、不思議そうな顔をしてシュウを見つめていた。
(……頼むから、余計なことは言うな。)
クローヴェルはグラスのお酒を一気に流し込むと、すっと立ち上がり会計を要求した。
「いい夜だった。ありがとう。」
「今夜はゆっくりお休みになってください。」
「久しぶりにぐっすり眠れそうだ。また来るよ、ご主人。」
クローヴェルは会計を済ませ、お金をしまうシュウに微笑みかける。
その表情には、どこか柔らかな陰が差している。
「レオンさん、またいつか。」
その言葉に、レオンが軽く右手をあげる。
クローヴェルはそれを見て、一瞬ためらい――同じように右手を軽く上げて応えた。
その短い呼応のあいだ、二人の視線が静かに交わる。
クローヴェルは小さく笑みを残し、踵を返して扉へ向かった。
カラン――。
扉の鈴が鳴り、団長の姿が夜の闇に消えた。
シュウはその瞬間、カウンターの下にずるずると沈み込んだ。
「……疲れた。」
心臓がまだ暴れている。冷や汗でシャツが肌に張りついている。
そんな彼の顔を、ザクレトがのぞき込む。
「なぁ、これもラスティ・ネイルなのか?」
「……え?」
「このグラスの中身だ。とても美味しいが、以前飲んだものと違う。」
シュウは苦笑しながら答えた。
「それは“ゴッドファーザー”。混ぜてるお酒が違うんだ。アマレットっていう、杏仁のリキュールを使ってる。」
「なるほどな! 見た目はそっくりなのに、違うお酒なんだな!これもすごく美味いぞ!」
ザクレトは本当に嬉しそうに笑い、もう一口飲んだ。
シュウは額を押さえて、深くため息をつく。
「……お前、ほんっと緊張感ねぇな。」
「そうか? でも、ちゃんとやり過ごせたじゃないか。」
「やり過ごしたのはシュウであって、ザクレト様じゃありません!」
ピトも姿を現し、呆れ顔で呑気なご主人様を睨む。
「ははは! いやぁ、あれはなかなかスリルがあったな。」
「笑いごとじゃないんだよ!まったく……こっちは胃が痛くなる思いだったんだから。」
シュウは大きく息をつき、ようやく張りつめた空気が解けていくのを感じた。その口元には、疲れと安堵が入り混じった、かすかな笑みが浮かぶ。
そして、この店にまだ“平和な夜”が続いているという小さな奇跡。シュウは静かに胸をなでおろす。
ザクレトはそんなシュウを見て、空のグラスを軽く掲げた。
「なぁ、マスター。次の一杯が飲みたい。」
「……今日はもういいだろ。閉店だ。」
「えぇぇ~……。」
肩を落とし、しぼんだ表情をする魔王を見て、シュウは呆れたように笑いながらも、次はどんなお酒を出そうかと、つい考えを巡らせてしまう自分に気づいて、苦笑した。
極度の緊張から解き放たれたおかげで、さっきまで話していたデゴル山での戦いの話はすっかり忘れてしまっていた。シュウは結局、ザクレトがこの抗争に参戦しているのか、確かめることはできなかった。




