7-2 嵐の前触れ
サルマが帰ってから、しばらくの間、店の中は深い静寂に包まれていた。シュウは手を動かすことも忘れ、カウンターの前でただ突っ立っていた。
今まで無数の夜を一人で過ごしてきたはずなのに、この夜だけは妙に心細かった。
空になったマティーニのグラスが、ランプの明かりを受けてわずかに光る。その透き通るような冷たさが、胸の奥のざらついた不安を映し出しているように思えた。
――魔族と人間は、相容れない存在。
それは、この世界の理のように、誰もが疑うことのない常識だった。
だが、思い出してしまう。ザクレトのことを。
あの夜、店の片隅で笑っていた黒衣の魔王。
人間の姿に化け、同じ酒を酌み交わし、くだらない話で笑っていた姿を。
人の世界を壊すためではなく、理解しようとしているように見えた。
――人間と魔族が、同じ空間で笑い合う。
そんな光景を見たのは、きっとこの店だけだろう。自分だけが真実を分かっている気がして、どうしようもない無力感に包まれる。
ザクレトの方から攻撃を仕掛けてくることなど、想像すらできなかった。
彼が敵であるとは、到底思えない。
けれど、それでも――力ある者として危険を含んでいるのは間違いない。
もしサルマが、ザクレトの正体を知ったら。
もし、ノルムやゾー、ゴロやフォルンが知ったら。
そして、自分は……どうするのだろう。
答えの出ない問いが、胸の奥をゆっくりと渦巻く。
考えれば考えるほど、心が冷たく硬くなっていくようだった。
もしかしたら――みんな、この店に戻ってこれなくなるのかもしれない。
そんな思いが一瞬よぎり、息が詰まる。
そのときだった。
カラン――。
ドアベルの音が、思考を断ち切った。
「いらっしゃいませ。」
ほとんど反射的に口が動いた。入ってきたのは、街の男たち三人。
仕事帰りなのだろう、服には砂埃がつき、顔は赤く、疲れがにじんでいた。
「三人だ。」
「どうぞ。」
いつも通りの声で応じ、カウンターへ案内する。
それぞれの注文を受け、シュウは空のマティーニを回収し、仕事を始めた。
シェイカーの音が、沈黙を打ち消すように軽やかに響く。
――その音に混じって、男たちの会話が始まった。
「そういや、最近ドランベルで魔族との抗争が起きてるらしいぞ。」
「聞いた聞いた。銀環聖団が大規模作戦に出るって話だろ?」
手を止めずに耳を傾ける。
どうやら、想像以上に事態は大きくなっているようだった。
デゴル山の南麓に広がる都市、ドランベル。
そこは、王国セレナスとも交易を結ぶ、この地方有数の商業都市である。山から産出される豊富な鉱石資源をもとに発展し、小さくも、活気と富に満ちた都市国家だ。
その都市を守るのが、月の聖紋を掲げる精鋭部隊――銀環聖団。
サルマが加勢すると言っていたのは、まさにその銀環聖団だった。
「ぶっそうな話ですね。」
シュウが、淡々と会話に割って入る。あえて声に抑揚をつけず、いつも通りの調子を保つ。そうでなければ、心の動揺が顔に出てしまいそうだった。
「まったくだよ。」
男の一人がため息をつく。
「この国の王国騎士団〈アルケイン〉も、交易路の規制を強めてさ。商売あがったりだ。」
「でも銀環聖団は勝てるのかね? 魔族との抗争なんて何十年ぶりだろ。」
「こっちが優勢って聞いたぞ。今回は制圧に向けた動きだって聞いた。」
「勝ってもらわないとな。安心して眠れねぇよ。」
「セレナスは大丈夫だろ。二百年は平和を維持してきた国だ。」
笑い交じりの会話。
だがその笑いの底に、不安が滲んでいるのをシュウは感じ取った。
男たちはただ、「怖い」と言えないだけなのだ。
バーテンダーをやっていると、こうした“外の話”を耳にする機会はとても多い。
恋の話、商売の愚痴、金や賭博、冒険譚、宗教、政治――。
このカウンターの上では、どんな話も一つの酒の肴になる。
だが、今夜の話だけは違って聞こえていた。
カウンターで繰り広げられる話は、確実に自分の世界に繋がっている。
サルマの戦い。ザクレトの立場。そして、シュウ自身の選択。
――自分にも、何かできることはあるだろうか。
そう思った。
けれど、何をどうすればいいのか分からない。情報を集めることくらいしか、思いつかなかった。
「次の戦いは、いつ頃起こるんでしょうね。」
シュウは、自然を装って尋ねると、男たちは顔を見合わせた。
「さぁ?」
「……噂だが、銀環聖団は隣国や周辺の町、村にまで戦える者を募ってるって話だ。」
「一気に攻め入っていくのかな?」
「わからない。まぁ、数か月もすれば落ち着くと思うけどな?」
数か月――。
短いようで、永遠にも感じられる時間。
その間に、サルマはどうなるのか。そしてザクレトは――。
ザクレトもこの戦いに参戦しているのか。
シュウは心の奥で、ある決意を固めつつあった。
このまま何も知らないままでいるわけにはいかない。戦いが広がる前に、ザクレトに話を聞きたい。あの穏やかな目をした魔王が、何を思ってこの世界に関わっているのか。すぐにでも知りたかった。
「そういえば――」
男たちの会話が急に変わる。
「最近、パン屋の娘とはどうなんだ?」
「えっ?」
軽口を叩く声に、笑いが起こる。
だが、シュウにはもう会話の内容が入ってこなかった。
気がつけば、彼はドアの方を見ていた。
無意識のうちに、あの音――“カラン”という鈴の音を、待っていた。ドアが開き、ザクレトがひょっこり顔を出す姿を。「やぁ、また来たよ」と、あの穏やかな声が聞こえる瞬間を。
けれど、待てども待てども、扉は静まり返ったままだ。
バカなことを考えている――と自分に言い聞かせる。
ないものねだりをしても状況は変わらない。そう分かっていても、心は勝手に願ってしまう。
――いっそ、連絡手段を持つべきだろうか。そんな考えまで浮かんだ。もし戦が拡大すれば、ザクレトもきっと巻き込まれる。
(でもこの世界での連絡手段って、手紙とか――?)
そのときだった。
カラン――。
鈴の音が響いた。
グラスを拭いていた手が止まる。胸が高鳴る。だが、同時にわずかな恐怖もあった。
男たちの話し声が一瞬止まる。ランプの光がわずかに揺れた。夜の空気が、張りつめる。
そして、ゆっくりと扉が開いた。




