7-1 嵐の前触れ
夜も更け、客足も途絶えたころ。磨かれたグラスがまるで月の光のように、かすかに光を返す。
カウンターの奥で、シュウは静かに手を動かしていた。同じ動作を繰り返していると、不思議と心が落ち着く。今日もいろいろな客が訪れた。笑い声、酔い、たまに涙。それらが一日の終わりに静かに沈殿し、今はただ、グラスの澄んだ音だけが響いている。
――そのとき。ドアの鈴が、控えめに鳴った。
冷たい風が店内に流れ込む。シュウが顔を上げると、扉の向こうに見慣れた影が立っていた。
「よぉ。」
サルマだった。いつもより声が低い。背筋の伸びた体つきは変わらないが、どこか肩が重たそうに見える。シュウは手を止めて、穏やかに微笑んだ。
「今日もお疲れ様。 何にする?」
「少し強めのにする。」
それだけ言って、サルマはいつもの席に腰を下ろした。カウンターの木目をぼんやりと見つめる目が、どこか遠くを見ている。
シュウは無言でボトルを取り出し、ドライマティーニを作り始めた。
ドライ・ジンとドライ・ベルモットが、冷えたグラスの中で音もなく氷とダンスする。澄み切った液体は、冷えたマティーニグラスに静かに注がれ、オリーブが沈む。
サルマはそれを受け取ると、ひと口、ゆっくりと飲んだ。
短い沈黙。その沈黙が、普段なら心地よいはずなのに、今夜は妙に重たく感じた。
サルマの目が、どこか陰を帯びている。彼は普段、あまり弱音を吐かない。だからこそ、こういう時は――あえて聞かない。
シュウは、グラスを片づけるふりをして少し背を向けた。その小さな気づかいが、サルマにとっての「話すきっかけ」になることを、経験で知っていた。
やがて、ぽつりとサルマが口を開いた。
「北西のデゴル山にある鉱山で……魔族が出たんだ。」
氷のような言葉が落ちた。
サルマは視線を伏せたまま、淡々と続ける。掘り進めていた坑道が、どうやら魔族の棲み処に繋がってしまったらしい。鉱山の村は壊滅。逃げ延びた者はいないようだ。
「そこで、銀環聖団が鎮圧に向かった。……だが、戦は混戦だ。」
聞きなれない言葉に、シュウの胸がざわめいた。
銀環聖団――隣国ドランベルにある、月の紋章を掲げた魔族討伐を専門とする戦闘組織。
こっちの世界に来てから、戦争というのをこんなに身近に感じたことがない。
「そこにいた友人が……殉職した。」
グラスを置いて指を組み、サルマが呟く。その声には怒りも悲しみも混じっていない。ただ、静かに何かを受け入れようとする、疲れた人間の声だった。
「…それは、…残念だな。」
シュウは言葉を絞り出す。
普段は単独行動しかしない魔族が、今回は統制の取れた動きを見せているようだ。はじめてのことに戦闘は混戦を極め、リーダー格の魔族の確認もとれているらしい。リーダー格の魔族という存在に、何かが引っかかるシュウ。
「こういう稼業だ。……別れは珍しくねぇ。」
そう言いながらも、サルマの拳が震えていた。
「だが、友人となると……やっぱり、違うな。」
シュウは何も言えなかった。ただ、静かに聞き続けることしかできない。
沈黙の中、ふとザクレトの顔が脳裏をよぎる。
――魔族と人間。相容れない存在。
それでも、あの夜、この店で笑い合っていた魔王と仲間たち。今となっては夢のように感じられる。
繊細でガラス細工のような世界。少しでも強く触れれば壊れてしまうような儚い平穏。それを守ろうとするほど、恐怖が心を締めつける。
「……妻も子供も、国に残していっちまうなんてな。」
サルマがぽつりと言った。
シュウは目を見開いた。
「家族がいたのか。」
「ああ。」
苦笑しながら、彼はマティーニを一口。
「“お前も早く所帯をもて”って、そいつによく言われてたんだ。」
「そうなのか。」
サルマは少しうつむき、苦笑を深めた。
「俺が所帯なんか持てると思うか? 彼女ひとり作れねぇ男がよ。」
「そんなことないさ。」
シュウの声は柔らかい。サルマは短く笑って、それきり黙り込んだ。
静寂。
時計の針がひとつ進む音がやけに大きく響く。
「……いきなり居なくなるなんてな。」
ぽつりとこぼした言葉は、まるで独り言のようだった。
「正直、寂しい。」
その後は長い沈黙が続いた。サルマは残ったマティーニを、ゆっくりと飲み干す。
グラスの底にわずかに光が残り、それもやがて消えた。
「明日から早いし、帰る。」
「…そうか。来てくれてありがとうな。」
立ち上がったサルマの背に、シュウは微かに不安を覚えた。そして、その直感は、的中する。
「……しばらく、ここには来れないと思う。」
思わず手が止まる。
「どうして?」
「敵討ちってわけじゃねぇが……銀環聖団に加勢することにした。」
「っ……!」
息を呑む音が、静寂の中に吸い込まれる。
「いつ、帰ってくるんだ?」
問いながら、声が震えていた。サルマは少しだけ笑って、肩をすくめる。
「さぁ? 心配すんな。ちゃんと帰ってくるさ。」
それだけ言って、コートの襟を立てた。ドアを開けると、夜風が吹き込む。外はもう、深い冬の匂いがしていた。
サルマは振り返らず、手を軽く挙げて出て行った。
――鈴が鳴る。そして、閉まる音。
静寂が戻った店内。
シュウはカウンターに残された空のグラスを見つめた。
いつもの夜と同じはずなのに、何かが変わってしまった気がした。まるで月の光のように。




