6-1 バーときどきお悩み相談室
雨は、しとしとと降り続いていた。季節の変わり目にしては冷たく、外の世界を湿らせる音が、店内に優しく響いていた。こんな日は客足もまばらで、カウンターの奥でシュウは静かにボトルを並べ直していた。
落ち着いた照明が、木製のカウンターを柔らかく包み、バックバーに並んだ琥珀色のボトルに反射して小さな星を作っている。
閉店の時間も近づいてきて、今日はもう閉めてしまおうかと思ったそのとき、ドアが小さなノック音を立てた。
「…どうぞー?」
シュウはドアに向かって声をかける。だが、返事もなく、ドアは静かに閉まったままだ。少し間を置いて、再びノックが鳴る。シュウは眉をひそめ、仕方なくドアの方へ歩み寄った。
「いらっしゃいませ?」
ドアの向こうにいたのは、びしょ濡れの小さな影だった。羽をばたつかせながら飛んでいるその姿に、シュウは一瞬、目を疑った。
「ピト…?」
宙でうつむいたまま沈み込むように頷く妖精。
元気のない姿に、シュウは心配しながらドアを大きく開き、店内に招き入れた。
「一人か…?」
小さな妖精は、羽を少し震わせながらゆっくりと飛び、水を滴らせながらカウンターの方へと向かう。
シュウは、とにかく濡れた体を拭くようにと、奥の部屋からタオルを取り出してきて、ピトに渡す。
ピトは、雨でびしょ濡れになった体を、大きなタオルにすっぽりとくるまった。タオルに埋まるようにしていると、小さな体がさらに小さく見える。
シュウは、ろうそくに火をともし、ピトの近くに置いてあげた。
タオルに包まれたままカウンターの上に座り、ろうそくの火にあたるピト。
ようやく落ち着いたのか、小さな声が震えるように絞り出された。
「…ありがとう。」
「何があった?どうして一人なんだ?」
「ザクレト様なんて、もう知りません…。」
聞こえるか聞こえないかの力ない声に、喧嘩でもしたのだろうかと、シュウは眉をひそめる。
「そうか。 牛乳でも飲むか?」
シュウはそう言うと、温めた牛乳をピト専用の小さなコップに注ぎ、それを手渡す。大さじ一杯ほどの量だが、ピトにとっては十分だ。
ピトの表情は不満と怒りで固まっており、その体を小さく丸める姿に、シュウは自然と胸を痛めた。
ピトはタオルの中で小さな手を牛乳のコップに添えながら、ぽつりと話し始めた。
「ザクレト様が…大事な笛を壊したの」
「…あの銀の笛か?」
シュウは頷きを期待するように見つめる。ピトもまた、悲しそうに下を向く。小さな手がコップをぎゅっと握りしめる。
シュウは静かに返事を待った。
「ザクレト様が、壊れた笛を持っていて。問い詰めたら、壊れていたのを見つけたって。」
「…? っ。」
シュウが言葉を発するより前にピトが被せる。
「…自分で壊したくせに。なんであの人はいつも嘘をついて…。」
ピトの言葉が重く響く。どうやら2人の喧嘩は、笛を壊した事実をザクレトが隠そうとしたことが原因のようだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ある日、ピトは自分の笛がなくなったことに気づき、城中を駆け回って探していた。
はじめて出来た人間の友人からもらった最初の贈り物。
いつも同じ場所に置き、毎日身につけていた笛が、今朝はそこになかった。昨日、どこかで手放したか、最後に触ったのはいつか、頭の中の記憶をぐるぐると巡らせながら、部屋中を探した次は主人の書斎に駆け込む。
「!!」
「…っどうした?そんなに慌てて」
「はぁっ! ザクレト様、私の笛っ、知りませんか?」
首を激しく横に振る魔王。
それを見るや否や、次の部屋に飛んでいく妖精。
どこを探しても見つからない。悲しみと焦りが混ざる中で、ピトは改めて自室の笛の置き場所を改めて調べた。
よく見ると、何か細く光るものがある。見つけたのは、見覚えのある毛。ザクレトの首周りのファーの毛だ。
「!?」
部屋にあった落とし物を持って、また主人の書斎へ飛んでいく。今度は確かな疑いを持って、倍速で向かう。
さっきは空いてた車載の扉が今度は閉まっている。
「ザクレト様っ!!」
ピト専用のドアを思い切り開けて中に入ると、まだそこにザクレトの姿はあった。
「私の部屋に、あなたの毛がありましたよ! 私の笛、どこにやったんですか!?」
「!? しっ…知らんぞ!ワシは知らん! 毛がなんだと言うのだ!?自分がくっついてる時のものが、落ちたんじゃないのか!?」
この哀れな主人は確実に隠し事をしている。
その時、大扉の方が開き、召使いが書斎に入ってくる。
「ザクレト様、治したい笛というのはどれのことでしょうか。」
やってしまったと言わんばかりの表情で固まる魔王。
それを見て、ピトの怒りはすぐに頂点に達した。
「私の笛に何したんですかっ!!?」
しぶしぶと書斎の机から取り出したのは、紫色の布で巻かれた包だった。
それを手のひらの上で開くと、布の中から、見るも無惨に壊れた銀の笛が現れた。
あまりの光景に、ピトの目に涙がにじみ、彼女は勢いよく外へ飛び出した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「それで…家出して来たってことか」
シュウは静かに頷き、タオルに包まった小さな妖精を見つめる。ピトの目には、涙の影がうっすらと残っていた。
「あんな人…嘘までついて…」
雨音が静かに響く店内に、小さな声が沁み入る。まるで小さな妖精の心情を表しているかのように、体を温めているろうそくがゆらゆらと揺らめく。
「…しも、…む。」
しばらくの沈黙が続き、ふっと聞こえた話し声をシュウは聞き逃してしまった。
「え?」
「…私も、お酒飲む」
シュウはやめておけと言わんばかりに無言でピトを見つめ、グラスを拭く手は止めなかった。
前に一度お酒を口にしたときは、小さな体では受け付けなかったのか、気持ち悪くなってしまっていた。
「じゃぁ、もっといいものを出してあげる。」
ピトの目が一瞬、驚きと喜びで輝いた。小さな笑顔が、タオルの中でふっとこぼれる。
シュウは微笑みながら、ピト専用の小さなカップに牛乳で解いたホットココアを注ぐ。ピトはそっとそれを受け取り、静かに味わう。
「……おいしい…。」
その言葉に、シュウは軽く頷き、カウンターの向こうでグラスを拭き続けた。妖精の目からこぼれた小さな涙は、しとしとと降る雨音、ゆらめく温かい空間、甘く優しく包み込まれるような味に、じんわりと溶け込んでいく。
しばらくの間、二人は無言で座っていた。雨は依然として降り続いていた。
「…ありがとう…シュウ。」
ピトが静かに御礼を言うと、店のドアの外が突然に騒がしくなった。
カラン――。
シュウとピトが音の鳴る方に顔を向けると、びしょ濡れのノルムとフォルンがなだれ込むように店に入ってきた。




