表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妖精の森  作者: 四つ葉
7/8

 ᚾᛟᚪᚺ

 交流施設での話し合いの後、ノアとコニーで妖精から重機による伐採と広場をつくる許可を正式に取り、すぐに街の人に告知をして、アルベルトはその日のうちに重機で伐採作業を済ませた。次にコニーとコニーの実家の工務店と協力して、広場の整備作業が始まった。

 その日は本当はシモンがアルベルトと会う約束の日だった。だがシモンはもともと別の予定が入っており、ノアが対応することになった。コニーに広場の作り方で相談も受けていたのでちょうどいいとノアはシモンの代理を務めることを快諾した。

「別の日にしてよって言ったんだけど、どうしても今日がいいって言うからさ。あいつ、せっかちなんだよね。なんで都会の人ってあんなせかせかしてるんだろうね?」

 身支度と朝食を済ませ、ノアとシモンは話しながら一緒に出かける支度をする。今日は明るいグレーのチェック柄の揃いのスーツを着た。マヤとニルスがそれぞれ主人のコートを持ってくる。大分暖かくなってきたが、早朝はまだまだ分厚いコートが必要な気候だった。

 二人がコートを着て、その日の予定を確認しているとエストホルムの正面玄関が開く。大サロンから二人は開いた扉を見た。朝早くからハンスがエストホルムにやって来た。

「おはようございます」

 玄関の入り口でハンスは深々と二人に頭を下げた。

「おはようございます! ちょうど出る支度が済んだところです」

「おはようございます。……今日はどのような用事で?」

 コートを着て、二人は正面玄関へ向かう。エストホルムでは内履きに履き替える必要があるからか、ハンスは玄関から中へ入ってこようとしなかった。

「ノア様は今日、アルベルトさんの所へ行かれるのですよね。私も実は用がありまして、それなら一緒に行って欲しいとシモン様にお願いされまして、お迎えに上がりました」

「……シモン、一人で行ける」

「どうせ行先一緒なんだからいいじゃん、一緒に行ってきて」

 これではハンスはノアの子守だ。複雑な顔をしたノアにシモンは悪びれない。

 ノアのためにシモンが朝も早くからハンスをエストホルムへ呼んだことにノアは申し訳なくなった。だが確かに優しくノアと相性の良いハンスが一緒に来てくれることはノアにとって心強い。

「アルベルトさんは行動力があって、心強いこともたくさんあるのですが、時々言葉が強いのが難点ですね」

「……全ての人に自分が期待する言動をして欲しいと思うのは無理なことです。ですが、よろしくお願いいたします」

 ノアがハンスと交流施設へ行くことを了解するとハンスはほっとしたように笑った。

 ハンスと早速出かけようとすると今度はマヤがノアに声をかける。白樺の王を怒らせた一件から、マヤはノアにいつもきちんと装飾品を身に着けるよう厳しく言うようになった。日々、身に着けている装飾品というのは、体の一部の代替品になる。シモンは何でも華やかなものが好きなので、日替わりで様々な指輪やブローチやらピアスやらつけていたが、ノアは肌の過敏があり、装飾品が肌に触れていると気になり、結婚指輪と聴力を制御する腕輪以外の装飾品を身に着けない。この二つはノアにとってとても大事なものなので、体の代替品として差し出すことはできなかった。王を怒らせた一件でマヤはノアが装飾品を身に着けないことにかなり過敏になっていたので、仕方なくノアは言われるままマヤが持ってきた装飾品を選ぶことにした。

 マヤがシモンから使用の許可を得たブローチや指輪を並べたベルベッドの布の張られた黒のトレーを見る。トレーに並べられている装飾品は、どれも何百年も前に作られ、エストホルムで大事に保管されている歴史的価値の高そうなものばかりだ。これは本来であれば博物館や美術館でガラスケースに大事に展示されるものなのではとノアは思ったが、シモンはこういうものしかエストホルムにはないと言う。

「首周りは一番過敏でネックレスは絶対に嫌と仰るからブローチと指輪を用意しました。こちらの指輪はどうですか?」

「指輪は気になるからつけたくない」

 唯一肌身離さず身に着けている結婚指輪は、嵌めている違和感よりも気にかかることが多かったシモンとの婚姻当初に幸いにも慣れた。生活に慣れてしまうと、新しい感覚はノアには違和感にしかならない。聴力を抑える腕輪は、身に着けている違和感以上のメリットをノアにもたらすのでまだ身に着けていられるが、ただ華やかさを演出するだけの装飾品を長時間身に着けていることはできなかった。

「もうそんなことばっかり言って! ならブローチを選んでください!」

「……シモン以外にこんなすごいブローチを付けて仕事をする人はいない……」

「何か選ばないとマヤに怒られますよ」

「もう怒られてる……」

 ノアがマヤに怒られている様を横目にシモンはさっさと靴を履き替え、外へ出た。ノアはどれかを選べばいいだけのことだと自分に言い聞かせて、黒いトレーに並べられたブローチを見る。しかし精密な意匠のブローチは目がチカチカするばかりで、選ぶのに必要な思考力をノアから奪った。結局、自分ではブローチを選べず、助けを求めてシモンの方を見たノアに代わってマヤがブローチを選んだ。それをニルスがさっさとノアのコートの胸元へ留める。

「……このブローチは少し仰々しいよ、マヤ」

 マヤが選んだのは、血のように真っ赤なルビーが美しいブローチだ。鳩の血と呼ばれる真っ赤なルビーは、室内ではやや暗い赤色だが、春のビョルケルの太陽光でもピンクやオレンジに傾くことなく、深紅の薔薇のような赤い輝きを見せた。

「そんなことありません! よくお似合いです! ねえ、シモン様!」

 正面階段の辺りで会話をしながらノアを待っていたシモンとハンスにマヤが否定の返事を許さない呼びかけをする。

「よく似合ってるよ。いいじゃない、それ、付けていきなよ」

 室内ではやや暗い赤は、太陽光では非常に美しい赤色を見せる。白樺の葉の刺繍が施されたコートに真っ赤なルビーはよく調和した。

「でも、これは本当なら博物館や美術館で飾るようなものだろう」

「ブローチは身に着けるために作ったんだよ。ノアに使ってもらう方が、博物館でガラスケースに入っているより、ブローチだって嬉しいよ」

 そういうシモンは、今日は自分の目の色とそっくりのアクアマリンの指輪を嵌めている。どんな豪華な指輪もブローチも彼が身に着ければしっくりと馴染み、ビョルケルの若い領主を引き立てた。

「日々の生活の中で使うのが一番ですよ、ノア様」

「……そうですか」

 ハンスにもブローチをするよう促されて、ノアが戸惑いながらも頷いた。

 いつまでも出発せずに正面玄関でシモンたちが話していると、正面階段から降りて来ないシモンを呼びに年若い御者が階段を上がってくる。シモンの後ろから、おずおずとシモンの肩を叩いた。シモンが彼に気が付くと、御者がすでに用意している馬車を指で指し示す。

「ああ、ごめん。行こう」

 御者は一言も話さず、しかしノアたちにしっかり頭を下げて、シモンと共に正面階段を降りて行った。一言も話さなかった御者にハンスがやや違和感を覚えたのか、首を傾げる。そのことにノアが気が付く。

「彼は家族の前では普通に話せるのだそうですが、人がたくさんいる場所だと緊張しすぎて、上手く声が出ないんだそうです。ですから、話せない時は無理に話さなくていいという条件で、シモンが雇った御者です。普段は馬の世話が主な仕事ですから、人とあまり話せなくても問題ありません」

「ああ、そうでしたか。いろんな方がいるんですね」

「ええ、私もそうした症状があるとは知りませんでした。場面……なんだったかな。症状の名前は忘れてしまったのですが、私たちが治療をする訳ではありませんから、症状の名はあまり重要ではありません。彼のして欲しい通りにしてやればいいのです」

「ノア様は日常会話が苦手なので、あまり話せない使用人がいると安心するんです。自分だけじゃないって」

 ノアの説明にマヤがすかさず突っ込みを入れた。

「三年前のノア様は会話ができなさすぎて、今更話せないくらいで動じる使用人なんてうちにはいません」

 マヤの横に立つニルスも茶々を入れる。使用人たちには日々助けてもらい、信頼関係があるので、この程度の揶揄であればノアも動じなかった。

「ははは……その通りです」

 お恥ずかしいとノアが自らの過去を素直に認める。

 ノアがエストホルムに来たときは大変だった。ノアが他の人には当たり前のことができないという度に使用人たちには嫌がられ、シモンには呆れられ、とにかく何をするでも揉めた。シモンが必要に迫られて、ノアが生活しやすい環境を整えると、意外なことに使用人たちの表情も変わってきた。ノアが暮らしやすい環境というのは、使用人たちはもっと仕事がしやすい環境だった。興味関心の幅が狭く、聴覚過敏があり、複数の人の会話についていけないノアは、冬の生活で何よりも大事な大人数のフィーカに参加できない。そこでシモンは今までは一度で全員が参加していたフィーカを時間をずらして、三部制にした。一つのフィーカの参加数は減ったが、仕事の区切りをつけて参加しやすくなったので使用人たちは仕事がしやすくなった。参加人数の少ないフィーカになると、ノアもよく参加し、使用人たちと会話ができるようになった。どうやらこの世には当たり前のことができない人もいるらしいということをノアを見て強制的に理解した使用人たちのおかげで、エストホルムでは御者のような他の人と同じことができない人でも働けるようになった。

「いってらっしゃいませ」

 丁寧に頭を下げて使用人たちがノアを見送る。「行ってきます」とノアが答え、ハンスと共に正面階段を降りる。交流施設はエストホルムから少し時間はかかるが、徒歩で行ける距離だった。

「さっきはシモンと何を話していたのですか?」

 ブローチを選べず困ってシモンの方を見たら、シモンとハンスが何かを話していた様子が見えたことを思い出して、ノアがハンスに尋ねる。

「いえ、大したことは」

 シモンと会話をしていたハンス本人がそう言うなら大した会話はしなかったのだろうとノアはハンスの言葉をそのままに信じた。

「……私は本当に色々なことができなくて」

 並んで歩きながら、今更ハンスに見栄を張ることもないかとノアは話し始める。

「大人数のフィーカは参加できないし、複数の人が話し始めると誰が何を言っているのかわからないし、議事録は取れないし、言葉通りにしか受け取れないので相手の本当の気持ちを読み取れませんし、人が冷静に話しているだけの声のトーンが怖くて責められていると感じて、おかしなことを言ってまたトラブルになったりで……」

「ノア様のおかげで人間関係のトラブルを一通り体験して大変勉強になりました」

 人とはこうして行き違うのだと、ノアが悪気なく起こした人間関係のトラブルの解決に度々協力してきたハンスは少し遠い目をした。こんな田舎で人間関係のトラブルは時には火事を出したくらいの大事になる。白樺の王と直接契約しているノアには何としても良好な人間関係を維持してもらわねばならなかった。

「それでもシモンはこんな私でも結婚して良かったと言ってくれます。今まで自分は付き合いやすい人を選んで付き合ってきた。付き合いにくいのは無意識のうちに遠ざけておきながら、自分は誰とでも付き合える人間だと思いあがって生きていたと」

 ノアは失敗ばかりの自分の話をあまりしたくないのだが、今日は落ち着いて自分の話ができた。

「私と強制的に暮らしてきて、シモンは目を向けてこなかった人のことを考えるようになったと言っていました。なんでこんな配慮をする必要があるんだとも何度も思ったそうですが、でも私が暮らしやすい環境は、シモンや使用人たちはもっと暮らしやすい環境です。それでいいと言っていました」

 ノアが生活しやすい環境を整えたばかりではなく、シモンは人間関係で軋轢を起こさない相手を婚姻相手に選べば遭遇しなかった数々の揉め事を起こしたノアと婚姻して良かったとさえ言う。シモンの考えの柔軟性の高さにノアは感心するしかなかった。

「シモン様は素晴らしい方ですね」

 素直にハンスはシモンを褒めた。シモンが褒められてノアは自分のことのように嬉しかった。ノアは春の花が咲くような美しい笑顔をハンスに見せる。

「はい。私のような者のために考えを変えてくれる優しいシモンがとても好きです」

 ノアのシモンへの全幅の信頼の言葉を聞いて、ハンスもまた同じように穏やかな笑顔を見せてくれた。



 ノアとハンスが交流施設に着くと、いつもより静かだった。広場には整備に必要な道具が置かれ、正面玄関には誰もいない。建物の中に人がいる様子もなかった。

「……いつもリフォームをしていて、誰かしらが出入りしたり、作業の音が聞こえてくるはずなんですが……」

 戸惑うノアに対してハンスは腕時計を見て時間を確認する。就業時間にはやや早い時間だった。

「アルベルトさんは喫煙者ですよね。喫煙エリアはありますか?」

 就業前の喫煙者がすることなど一つだとハンスがアルベルトの行動を予測する。

「ああ、建物の裏手です」

 シモンが妖精は煙草の煙の臭いが嫌いだから絶対に建物の中で吸うなときつく言いつけてから、アルベルトは渋々交流施設の裏手に喫煙エリアを作った。作ったと言っても、喫煙エリアというアルミの小さな看板を施設の裏手の壁に下げただけだ。交流施設のリフォームに関わっているコニーもコニーの父親も喫煙をしないので、喫煙エリアを使用するのはアルベルト一人だけだった。

 施設の裏手に回ると、案の定、喫煙エリアでアルベルトが煙草を吸っていた。

「あ、悪い。就業前の一本吸ってた」

「おはようございます。コニーさんは?」

 聞けば、コニーは母親が風邪を引き、母親の世話のため、今日は有休を取っていた。

「コニーに用あった? 悪いな、今日はいないから」

「いえ、コニーさんにも用はありましたが、急ぎません。ご家族の看護の方が大事です。今日はシモンの代理としてきました。何かシモンに話したい用事があるんですよね。私では直接対応できませんが、シモンに伝えます」

 代理という言葉にアルベルトが僅かに反応する。しかしそのことに気づかず、ノアは話を続けた。

「シモンとも話し合ったのですが、教会前の大広場グローペンで夏至祭を見た方が、こちらに来るには少し道が複雑でわかりにくいので、夏至祭の期間だけ大広場グローペンの近くの市役所から馬車の定期便を出してはどうでしょうか? 今、歩きながらハンスさんにも話したのですが、市役所の許可はハンスさんが取ってくれるそうです」

 残り僅かになってきた煙草を吸いながらアルベルトが静かにノアの話を聞く。

「へえ、昔の職場ではロクに職場の人と会話できなくて仕事が続かなかったのに、シモン様とは話せるんだ」

 煙を吐き出し、アルベルトは揶揄とも感心とも取れぬ感想を言う。

「ええ、私は今まで誰とも話し合えなかったのですがシモンになら話せるのです」

「ふうん。シモン様とはどこで話し合うの? ベッド?」

 それまでの会話と一切変わらぬ声音でアルベルトはそう尋ねる。何故、ベッドで話し合う必要があるのか、ノアにはアルベルトの質問の意図がわからなかった。ハンスがノアのとなりで唖然としている──ようにノアには見えた。

「? ベッドのある互いの自室で話すこともありますが、大体はシモンの書斎かサンルームで話します」

 ノアなりにアルベルトの意図を解釈して、一番適切と思われる返事をする。

「……ぷ……っ……く、は、はは、あはははは!」

 しかしノアの返答にアルベルトが一瞬笑いを堪えたが、抑えきれず心底おかしそうに声を上げて笑い出した。何故、突然アルベルトが笑い出したのか、ノアには全くわからない。

「アンタ、ホント、こういう言い回しわかんないよなあ。シモン様とセックスしてるのかって聞いてんの」

 アルベルトがノアをまっすぐ見て、自分の言わんとしていたことをはっきりと告げる。アルベルトの突然の侮辱にノアは呆然とし、すぐには言葉が出てこなかった。

「……してません」

 本当にそんなことはしていなかったので、ノアはアルベルトに正直にそう答えた。

「不敬ですよ!」

 強い言葉でハンスはアルベルトを叱責したが、アルベルトは少しも堪えない。残り僅かになった煙草を吸い込んで、アルベルトは思いっきりノアに煙を吹きかける。アルベルトの行動を予測できず、まともに煙を被って、喫煙しないノアは咳き込んだ。

「シモン、シモン、シモーン!」

 歌うようにアルベルトは吸い終えた煙草を携帯灰皿で揉み消しながら、ノアが一番信頼している者の名前を繰り返した。

「アンタ、本当に妖精とシモン様以外スッカラカンだよな!」

 明確にアルベルトはノアを侮辱した。ここまではっきりと言葉と態度で示されれば、それが侮辱だとノアでもわかる。しかしアルベルトの突然の態度にノアはただ呆然とするしかない。確かに以前からアルベルトがノアをよく思っていないことはノアにもわかっていた。だが、ここまではっきり侮辱される理由はわからなかった。

「な、なんで、こんなこと……」

「勘違いすんなよ。アンタのことは初めから好きじゃなかった。いつも隣にビョルケルの最高権力者がいるから、仕方なく敬意を払ってただけだ」

「この方をどなただと思っているんですか!」

 ハンスの叱責にアルベルトは悪びれるどころか、面倒くさそうに顔を顰めた。

「ただの妖精語の通訳だろ。アンタ、前に俺にそう言ったじゃん。ただのビジネスパートナーだって」

「きょ、今日はシモンの代理として……」

「俺に一人で会いに来れない奴が、シモン様の代理? 笑わせんなよ!」

 アルベルトの強い言葉にノアは息を飲み込んで、体を固くした。ただでさえアルベルトは体も声も大きく、ノアには怖い存在だった。そのアルベルトが露骨に威嚇すれば、ノアはもう言葉も出ない。

 確かにノアの方からアルベルトに一人で会いに行ったことはなかった。二度も泣かされていたので、シモンが心配して今日のように必ず付き添いを付けるからだ。

「代理ってのはシモン様と対等の人間が務められる仕事だ。街の人に守られているアンタが街を支える責任を果たしているシモン様と対等なはずがない。結婚したくらいで対等になれると思うなよ」

 アルベルトの厳しい正論にノアは反論の言葉一つ出てこない。

 ──それにどんな理由であれ正式に婚姻したんだから、僕と君の立場は一緒。

 床暖房の件で、婚姻したのだから自分たちは対等だとシモンが言ってくれたことをノアは思い出した。彼がそう言ってくれたのは、彼が優しいからだ。きっとアルベルトの方が一般的な反応だ。ノアだって自らが本当にシモンと同じ立場などと思ったことはなかった。優しいシモンの言葉に甘えていただけで。アルベルトが怖くて言葉もないノアの隣で、ハンスもアルベルトの指摘に反論ができなかった。

「アンタ、いつもお守りがついてるよな。シモン様か、ハンスさんか、あの女の使用人。いいねえ、お世話してくれる人がたくさんいてさ。苦手な人は代わりに話してもらうの? 私は話せないんですって?」

 アルベルトが容赦なくノアの行動を言い当てる。実際にそうなので、ノアは言葉が出ない。最近はずいぶん減ったが、過去に揉めたり、どうしても苦手な人との会話は付き添ってくれた誰かに間に入ってもらった。成人にもなって、こんなことをしてもらっている自分がノアは恥ずかしくて仕方がない。

「──甘えんのも大概にしろよ」

 呆れさえ含んだ冷たい声音でアルベルトがノアに吐き捨てる。

 それはノアの今までの人生で、あらゆる人間から突きつけられた言葉だった。

 もうノアはアルベルトが怖くて、視線を外すことさえできないほど体が動かない。アルベルトが硬直しているノアの胸元に見慣れない豪華なブローチをつけていることに今更気が付く。

「……何そのブローチ。博物館に置いておくレベルのもんだろ。シモン様ならともかく、そんな似合わないもんつけてて、恥ずかしくないの?」

「……マヤが付けろと言うので……それにシ、シモンは似合うと……」

 自分が身勝手に着飾ったのではなく、マヤが用意し、シモンが似合うと言ってくれたのは事実だ。ノアはどうしてもアルベルトにそのことだけは知って欲しかった。目の前の言葉に囚われ、ノアはアルベルトが聞いてもいないことばかりを言う。

「だからそういう意味で言ってんじゃない。身の丈に合わないもん着けてて恥ずかしくないのかって言ってんだよ」

「そんなことはありません! ノア様、大変よくお似合いです!」

 ノアに代わってハンスが力強く反論した。ハンスが味方してくれることにノアは安堵した。彼までアルベルト側に立たれたら、ノアはもう自分一人ではこの状況を覆すことなどできない。

「そうやってアンタらが甘やかすから、この人はいつまでも真人間になれないんだ」

 そうまでしてノアを庇うのかと呆れ返り、アルベルトがハンスを睨む。ノアには身が竦むようなアルベルトの睨みにハンスは一切動じることはなかった。ノアを庇うように半歩前に出た。

「失礼な! ノア様はきちんとご自身の責任を果たされています! 貴方が勝手に森の木を切り倒した件で、白樺の王の怒りを解いてくださったのはノア様です! 王のご配慮がなければ私たちはこんな過酷な土地で生活できません。ビョルケルを支えるこの方を侮辱するのは止めてください」

 ノアに代わってハンスが反論する。ハンスがノアの味方となり、助けようとしてくれることにノアはようやく少し体の緊張が解けた。

「貴方だって、散々妖精のことでノア様に助けられたはずです。これからだってノア様の助けが必要です。誰にもできないことの一つや二つあります。この雪深い土地では、支え合えなければ私たちは生きていきません。ノア様は妖精から生活の助けを得る。私たちはノア様が苦手なことを助ける。たったこれだけのことではありませんか。何がそんなに不満なんですか」

 しかしアルベルトはハンスの意見が少しも響いた様子はない。ノアを守るハンスを煩わしそうに見て、頭を搔く。

「そうやってさ、特別なことができるっていいな。だけどさ、それだとノア様は今の立場がなければ生きていけないってことだろ。ノア様の能力は、妖精と暮らす街で、それこそ王のような格の高い妖精と契約するくらいの立場でなければ意味がない。俺はバランスよく何でもやれるようになれって言ってんの。シモン様が妖精語ができるようになって、ノア様のことが必要なくなったらノア様はどうやって生きていくの?」

「……」

 シモンが少しも真面目に妖精語を勉強しないので、今すぐその心配はなかったが、いつかは自分たちはそれぞれの生き方を選ばなくてはならない。シモンは妖精語さえ上達すれば、自分の人生を歩むことができる。しかし、ノアは。それはノアが内心でずっと心配していたことでアルベルトに問われても、すぐには答えが出ない。ハンスに守ってもらったはずの心がアルベルトの指摘に急速に冷えていく。ノアはまた泣きそうになった。

 俯き、何かを必死に堪える様にノアの状態を察して、アルベルトが心底嫌そうにため息をついた。

「何も言えずにまた泣くのか。まあ、せいぜい泣いて、俺に虐められたとシモン様に言いつければいいよ。俺と違ってシモン様は優しいもんな。シモン様はどうやって慰めてくれるの? 勿論、ベッドでさ」

「いい加減にしてください!」

 同じ揶揄を繰り返すアルベルトにハンスがすぐさま反撃する。しかしそんなことでアルベルトは一々悪びれもしなかった。

「アンタもアンタだ。市役所の移住課でノア様がまともに話せるのが、アンタしかいないからエストホルムとの打ち合わせはアンタが対応してるんだろ。コニーから話を聞いて呆れたよ。今日もシモン様に、俺からノア様を守るよう言われてんじゃないの? そうやって甘やかして本当にこの人のためになると思ってんの? アンタらがこの人を今の立場以外の生き方ができない人間にしてるって自覚ある?」

 アルベルトの指摘にハンスはすぐに言い返せない。その反応にノアはアルベルトの言葉が真実なのだと察して、胸が苦しくなった。ああ、きっとあの時、二人はそのことを話していたのだ。僅かに表情を変え、言葉に詰まったハンスの態度を見て、ノアと同じことを察し、アルベルトが意地悪く笑う。

「ハンスさんもわかってるんだろ。本当はこんなやり方はよくないけど、シモン様が言うから仕方なく合わせてるだけだ」

「……」

「そんでどうにもならなくなってから、後悔するんだ。どいつもこいつもお前は冷たいっていうだけで俺の話を聞かないで、誰もフォローできる人間がいなくなってから慌てだす」

「……?」

 アルベルトが何の話をしているのか、ノアにはわからなかった。自分だけが会話の流れを理解できなかったのかとハンスを見るが、ハンスもアルベルトの話を理解できないようで戸惑っていた。

「毎日、毎日、その場しのぎでごまかして、いつかどうにかなる、本人が目を覚ますって、そんな訳あるかよ! もう成長期の子供じゃない! 今日できないことは明日もできないんだ!」

「……あの、アルベルトさん……?」

 戸惑いながらノアがアルベルトの名を呼ぶ。それでもアルベルトの言葉は止まらなかった。

「今日が一番若いんだ。今日から改善すれば良かったんだ! そうしたら信頼できる人がもうどこにもいない世界に絶望して、あの人は首を吊らずにすんだ! 俺があの人を追い詰めたんじゃない! 間違った守り方をしてた人間が、あの人を殺したんだよ!」

「……誰、のことですか……」

 明らかに自分のことではないアルベルトの話にノアは戸惑って、慄く。ハンスはアルベルトの言葉の背景を察してか、少し冷静に言った。

「……ノア様と似た方が、お近くにいたんですね」

「ああ、見た目以外はうざいくらいそっくりだった」

「その方の事情は何も知りませんが、ですが、これだけは私でもはっきりと言えます。──ノア様はその方ではありません」

 ハンスの静かな言葉にアルベルトの怒気が少し治まった。冷静になったアルベルトにハンスが話しかける。

「貴方の言うことは理解できます。ノア様と似たような方がお近くにいたのでしたら、ノア様はアルベルトさんにはさぞもどかしく見えることでしょう。……私にもアルベルトさんのように思っていた時期がありました」

 ノアを傷つけぬようハンスは慎重に言葉を選んでいる。

「私はこの三年、シモン様とノア様を見てきました。確かにシモン様も最初はアルベルトさんと同じ考えで、ノア様を他の人と同じことができる人にしようとされていました」

「へえ、あの人が」

「ノア様はシモン様とご婚姻されてすぐの頃、街の人と挨拶もできず、日常会話なんてもっとできませんでした。それを改善されようとシモン様は毎週毎週、ノア様を街中連れ回して、街の人と挨拶と会話の練習をさせたのです」

「……っ」

 普段、できる限り思い出さないようにしていることをいきなりアルベルトに暴露されて、ノアは表情を歪める。それはシモンがノアに課した最も辛い課題だった。ノアは今でも時々当時のことを夢に見ては魘された。

「……アンタ、もう本当にどうしようもないな……」

 いい大人がそんなことをしていたのかと、アルベルトがハンスの話に呆れ返る。

「二か月、そんなことをして、でもノア様はまともに話せるようにはなりませんでした。人とまともに話せないところを街中の人に晒してノア様があまりにお可哀そうだったので、見かねた花屋の店主がシモン様に会釈だけでもいいから、最低限の挨拶だけできればいい、私たちはノア様が落としたハンカチを拾って相手に届ける優しい方だと知っているから問題ないと訴えたのです」

 小さな田舎街なので、ハンスの話すそれはノアが暮らす以前から街に住んでいる人たちであれば、知っていることだった。ノアがシモンに挨拶の練習をするよう言われる少し前にノアは花屋の前で女の子が落としたハンカチを拾って、少し先を歩く持ち主に渡したことがあった。それを偶然花屋の店主が見ていたのだ。花屋の店主からシモンにあの進言がなければ、あの特訓はもっと長期間続いて、シモンとの関係はもっと拗れていたかもしれなかった。

「それを聞いてシモン様は反省されたのです。ノア様にはきちんと良いところがあるのに、悪いところばかりを見て、そこばかり怒って。それでは人は委縮するだけで成長しません。だから本当に人と関わる上で最低限のことだけができればいいという方針に変えられました。挨拶を自分の方からする。それだけを求められたのです。そうしたら、今では挨拶と簡単な会話くらいは誰とでもできるようになりました」

「……私はシモンと婚姻したころは本当にビョルケルに越してきたばかりで、街の人たちが、どんな方かわからなかったので、尚更話せなかったのです。今は親しい方も増えたので、話せるようになりました」

 あの二か月の特訓はノアにとって悪夢以外の何物でもなかったが、「挨拶だけすればいい」というルールに変わった途端、あの特訓に何も言わずに付き合ってくれていた花屋の店主とは簡単な会話ができるようになった。特訓のルールが変わったから挨拶だけで良くなったのだとノアから花屋の店主に話しかけたのだ。それから店前に並べられている花の話をした。たったそれだけのことができるようになるために、三年前のノアとシモンはずいぶんと遠回りをしていた。

「時間が解決することもあります。怒っているだけでは何も改善しません。移住課で私としか会話ができないというのであれば、今はそれで構いません。少しずつ改善していけばいいのです」

「そんなちんたらやってられるかよ」

 少しずつ成長すればいいというハンスの意見を気の短いアルベルトは認めなかった。

「シモン様のやり方でノア様が成長する保証はありません。ですが、悪いところを詰って、追い詰めるだけの貴方のやり方では誰も成長しません」

 それが三年、シモンとノアを見てきたハンスの答えのようだった。ハンスが揺ぎなく自分の味方でいてくれることにノアは安心する。

「アルベルトさん」

 それまでアルベルトと話せないでいたノアがアルベルトを見た。

「今日は、シモン・エストホルムの代理できました。話をさせてください」

 毅然としたノアの態度にアルベルトは感心した表情を見せた。

「ふうん。そういう態度、取れるんじゃん。それでは、こちらへどうぞ。──ノア・エストホルム様」

 アルベルトは嫌味なほど恭しく頭を下げ、手のひらで交流施設を示した。



 交流施設に入ると元アトリエの一番大きな部屋の壁に大きな絵が飾られていた。見たことのない絵だったが、白樺の森と湖、そしてシモンの目の色のような青い空。ビョルケルの風景だった。

「……絵がありますね。買われたんですか?」

「いや、コニーが昔描いた絵。就職して家を出る時に結構処分したらしいんだけど、気に入ったのは実家に残してあったんだよ。子供の頃、画家になりたかったんだって。ならここでくらい、画家気分になってもいいかと思って。あんな上手なのにさ、画家になれないって言うんだから絵で食ってくって難しいんだな」

 絵を見上げるアルベルトの視線は優しげだった。お世辞ではなく、本当に上手だと思っているのだとノアにもわかる。

 コニーらしい繊細な筆運びの美しい白樺の森と湖の絵だった。エストホルム邸の近くでイーゼルを設置して描いたのだろうか。エストホルム邸のすぐ近くにあるルピナスの湖には毎日様々な人が訪れる。散歩に来る人、楽器の演奏の練習をする人、ピクニック、風景画を描き来た人。いつでもどんな理由で訪れても構わなかった。湖の近くへ遊びに来た人たちに湖の妖精たちはよく話しかけ、よく歌を歌った。きっとその一人だった若い頃のコニーを想って、ノアはそれだけで泣きそうになった。

 アルベルトはこういう優しさがあって、だからノアはアルベルトのことがとても苦手だったが、嫌いにはなりきれない。

 アルベルトが絵の説明をするとすぐにアトリエの左側にある扉を開ける。扉の先には台所と食堂があった。アルベルトはハンスとノアを食堂へ行くよう促してから、一人台所へ向かった。食堂の古いテーブルの上には今日は黄色のミモザが飾られていた。

 ノアとハンスで隣り合って座る。少ししてからアルベルトがコーヒーと菓子をトレーに乗せて食堂へやってきた。

「せっかく妖精語が得意なのに都会だと仕事がないんだよな。どっかの街で、妖精語で絵本を作ってる絵本作家がいて、そういうのにも憧れたとか言ってたな」

 アルベルトが話しながらコーヒーをノアたちの前に並べ、ミモザの近くに菓子の乗った皿を置く。たくさんのスパイスの入ったクッキーのペッパルカーカだった。

「ビョルケルでも有名な方です。コニーさんは妖精語が本当に上手なので、そういう生き方もよいですね」

「絵本作家希望なんて、たくさんいて食ってけないよ」

 最後の自分の前に自分のコーヒーカップを置き、アルベルトは椅子を引いて座った。

「コニーさんは妖精語も妖精との交渉もとても上手です。アルベルトさんの事業の従業員は向いていると思います」

「あいつ、いてくれてよかったよ。三年も引き篭ってたのなんか嘘みたいに働いてくれるしさ。助かってる。俺としてはもっと手こずってくれても良かったんだけどな」

 コーヒーを飲みながらアルベルトがノアにはよくわからない言い回しをした。仕事などできる方がいいに決まっている。自分だけ意味を汲み取れないのかとハンスを見れば、ハンスも不思議そうな顔をしていた。

「仕事ができる方がよいではありませんか」

 コーヒーを飲みながらハンスも首を傾げた。

「まあ、何もなければな。コニーは思ったよりも行動力があるし、仕事ができる。妖精から先に許可を取ろうとしたり、伐採の交渉もあとちょっとで上手くいきそうだった。交渉が成立すると白樺の王を怒らせられないから、それで慌てて重機を動かして、木を切り倒したんだ」

 ペッパルカーカを一枚口に放り込み、アルベルトが事もなげに言う。それから平然とコーヒーを飲むアルベルトがノアは全く理解できなかった。ノアの隣でハンスもぽかんとしている。

「──何を言ってるんですか?」

 もう言葉も出ないノアに代わって、ハンスが尋ねる。怒りなのか、動揺なのか、コーヒーカップを持つハンスの手はにわかに震えていた。

「何語でも会話の様子でなんとなく交渉具合が良いか悪いかくらいはわかるじゃん? あの時、コニーは後一押しって感じだったんだよ」

 それでもアルベルトは笑顔で話した。自分の何かが悪いのか、ノアはアルベルトの言っていることが全く分からない。

「コニーが妖精との交渉がうまくいってないのなんてわかってたよ。それでよかったんだ。だって、初めから交渉が上手くいってない状態で、木を切り倒す予定だったから。でも、こんな田舎で人間に恨まれると生活ができなくなるから、人間の許可は取った。コニーの奴、もっと手こずってくれると思ったのに優秀でビビったよ。スレスレのところで俺の計画が潰れるところだった。……計画っていうか、実証実験っていうの?」

「実験?」

 思わぬ言葉にコーヒーを飲むことも忘れて、ノアが尋ね返す。シモンとノアが守り、支えるこの妖精の街で、一体どんな実験が必要だというのか、ノアには全くわからない。

「そう、実験。白樺の王を怒らせたら、一体どうやってその怒りを鎮めるのか。一度、確認しておきたかったんだよな」

 自分で淹れたコーヒーを飲みながらアルベルトが平然と話す。どれほどに説明されても、ノアにはアルベルトの言動の根拠が理解できなかった。

「……どうしてそんな実験をしようと思ったのか、お聞かせ願えますか」

 怒りで声が震えるハンスが、アルベルトに丁寧に尋ねる。アルベルトは二人が動揺し、怒り出すのは予想していたようで、ノアとハンスの態度に悪びれもしない。「説明するよ」と言って、また一口コーヒーを飲んだ。

「街の人たちは妖精たちと上手に生活をしてる。でもやっぱり時には妖精と揉めることもある。小さなトラブルなら自分たちで解決するけど、話が拗れるとノア様かシモン様を呼んで解決してもらってる。でも人に頼ることを前提に妖精と交渉するのは良くないだろ? 大きなトラブルも自分たちで解決するにはどうしたらいいかって聞いて回ったんだけど、みーんな、「シモン様かノア様を呼んで対応してもらう」って言うんだよ。シモン様にも聞いたけど同じ答えだった」

「それは当たり前です。ノア様とシモン様は白樺の王との契約者です。このお二人以上に妖精と交渉できる人は、ビョルケルにはいません」

「だからそういう人に依存した状態って良くないんだって。明日、急にこの二人が事故死したらビョルケルはどうなるんだよ」

「……それは、……ええ、と」

 そうした時のことを当然知らないハンスが困ってノアを見る。ノアはハンスの視線を受けて自分が答えるべき回答だとアルベルトを見据えた。

「シモンのご両親が早くに亡くなられたので、シモンの突然死の時の対応は決まっています。シモンの従兄がビョルケルの比較的近くの街で領主をしているので、その方に代行を依頼します。妖精語も魔法使いとしても申し分ない方です。ですが、彼には彼の領地と仕事があるので、まだ御存命のヴィクトル様とその方で、できるだけ早くビョルケルの領主になれそうな方を探すということになってはいますが……」

 数日程度ならノアでもシモンの代理を務められるが、それ以上の期間となるとノアには難しかった。ビョルケルと白樺の森には人を好まない生き物を避けるためのまじないが設置されている。雨風で呪いの文字が薄れてしまうと効果がなくなるので、シモンが定期的に見守りをし、必要があれば呪いを新しくした。この他にも見返りとして定期的に魔力を求める妖精との契約や手工芸品ヘムスロイドの一つであるガラス照明の動力源となる魔力の補充など、様々なことにシモンの力が必要だった。街にはシモンのほかにも魔法使いの血族が数家族住んでおり、彼らの力も借りているが、エストホルムの血族の魔力は一際強く、ビョルケルの生活はシモンの魔力に多く依存していた。

 魔法使いの血族ではないノアではシモンの代わりは務まらない。シモンが突然亡くなれば、ビョルケルを支えるに十分な魔力を持ち、妖精語が話せる魔法使いを新しくビョルケルの領主として迎える必要があった。

「詰めが甘いんだよ、エストホルムは。シモン様が死んだ時の対応が曖昧過ぎる。ノア様の教育も、自分が突然死んだ後の対応も全て甘い。妖精とトラブルを起こした時の対応も一緒だ。自分とノア様に解決方法を依存させたままで、他に手段がない」

 アルベルトの指摘にノアもハンスも反論できなかった。

「そもそも仕事っていうのは、トラブルをどう対処するかが大事なんだ。その一番大事な部分をビョルケルの人たちはたった二人に依存している。俺は怒らせた妖精たちに目玉や心臓を求められることなく、穏便に宥めるノウハウが欲しい。それが白樺の王や森の奥に住む他の格の高い妖精であってもだ」

 思ってもいなかったアルベルトの考えにノアはすぐには内容が呑み込めない。こんなことを言い出す人間はビョルケルにはいなかった。もしかしたらアルベルトと同じような心配をしている者もいるのかもしれないが、それをシモンかノアに陳情する者はいなかった。

 アルベルトはそれまでに見せたこともないような真剣な表情でノアとハンスを見ている。この考えが、アルベルトにとって決して一時の思い付きではないことはノアでもわかった。

「業務上、起こり得る可能性のあるトラブルの対策を考えるのは別におかしなことじゃないだろ。俺は従業員の生活と命を守る義務がある。困ったらシモン様に相談すればいいと思ってる、そこのふわふわした人と覚悟が違うんだよ」

「……、……」

 それでももう少し優しい言い方をしてくれないものかとアルベルトのきつい言い回しにノアはまた少し泣きそうになった。

「シモン様が、今日は予定があるのは知ってた。でも強引にでも今日会いたいと言えば、代理でノア様を出してくるだろうから、今日呼んだんだ。あの口の上手いシモン様じゃのらりくらりと躱されて聞きたいことが聞けない。最初こそだんまりだったけど、ノア様は俺みたいな苦手な人間相手だと早く会話を終わらせたくて、何でもぺらぺら話そうとするからちょうどいい」

 ノアはできるだけ相性の悪いアルベルトに会いたくなかった。しかしシモンがアルベルトの対応をノアに任せようとする以上、ノアが取るべき一番苦痛のない方法は、アルベルトが必要な情報をさっさと話して解放してもらうことだ。ノアの安直な対応策をアルベルト本人に見透かされて、ノアは恥ずかしくて仕方がない。

「あれほどまでに妖精たちに大事にされている白樺の森の木を重機で切ってもノア様もシモン様も無傷で帰ってきた。埋め合わせは今エストホルムで面倒を見てる妖精の幼体の世話だけ。前からそうじゃないかと疑ってたけど、あれを見て確信した。エストホルムには妖精たちに大きな見返りや埋め合わせを求めさせない秘策があるんだろう? 白樺の王の怒りさえ宥められる秘策を話してくれればさっさと解放してやるよ。後はいくらでも俺の非道をシモン様に言いつければいい」

 優しいようで残酷なアルベルトの指示にノアはどう答えたらいいのかわからなかった。

 アルベルトの言う秘策を話せないというのではない。ノアにはアルベルトが期待しているような秘策などなかった。勿論、シモンにもだ。妖精とは普段の関係が何よりも大事だ。敬意と尊重。彼女たちが望むことをして、望まないことをしない。それらを知るために話し合う。時に大げさに彼女たちの美しさや能力を褒め称え、丁寧に彼女たちの話を聞く。自分たちの願いは誤魔化さず、明確な言葉で伝え、嘘はつかない。その原則を守りながら、付かず離れず共に生きていく。これが最も大事な妖精たちと暮らす術だった。しかしアルベルトはそんな基本的なことはもう知っている。これではない。アルベルトはもっと短期的で確実に妖精を宥める方法が知りたいのだ。

 そんな秘策が本当にあるのかとハンスが困ってノアを見る。この問いかけにはアルベルトがどれほど怖くともノアが答えなくてはならなかった。こんな時にシモンがいれば。そうしたらきっとシモンはノアを守って、上手くアルベルトと話し、アルベルトを納得させてくれるだろう。でもきっとそうすればアルベルトはシモンの後ろに隠れて何も話さないノアをますます信用しなくなる。

「……大きな見返りを求められないように、普段の生活に気を付け、誠実に妖精たちと付き合っていくしかありません。妖精との付き合い方はアルベルトさんがもうご存じのとおりです」

 今いない者のことを思っても仕方がない。ノアは震えそうになる声を励ましながら、精いっぱい自分の知っている話をした。

「もしも何かの理由で妖精を怒らせてしまったら、彼女たちの求めに応じるしかありません。妖精たちは怒りに見合った埋め合わせがあれば、必ず機嫌を直しますし、過去の失敗を引きずることはありません」

「俺相手にそういうお為ごかしは必要ない。ノア様は妖精に言われるままに目玉や心臓を差し出すのかよ。それじゃいくら体があっても足りないだろ。今回、ノア様達が白樺の王に対してやった秘術を話してくれればいいんだ」

「秘術などありません。少しでも行き違いや怒りを宥めるために妖精たちと誠実に話すのです。私もシモンも本当にそれしかできません」

 決して嘘をついているのではないのだが、アルベルトはノアの説明を信じなかった。

「そんな訳あるか。妖精の許可なく木を切ったんだぞ。その埋め合わせが妖精の幼体の世話だけで済むはずがない」

「誠実に話して、今回だけは許してもらったのです。次はもうこんなことはできません!」

 どうしてもアルベルトに信じて欲しくて、ノアでさえ想像してなかったほどの声量が出た。珍しく大きな声を出したノアにハンスが驚き、アルベルトが片眉を上げた。

「こんなに強情なのは珍しいな。シモン様に絶対に言うなって言われてんの? エストホルムの権威を維持するのに大事なノウハウだもんな」

「違います!」

  シモンさえ侮辱する言葉にノアは怒りが沸いた。頼りない自分が悪く言われるのはまだ理解できるが、ビョルケルのために日々心を尽くしているシモンが悪く言われることはノアには耐え難いことだった。

「確かに私もシモンも白樺の王と契約をしているので、街の人より求められる見返りは少ないかもしれません。私やシモンが謝罪をしたということを大きな誠意と捉える妖精も多いです。だから私たちが問題の解決のために呼ばれるのです。それでも確実に大きな見返りを求めさせない方法はありません」

 妖精の求める見返りの前に自分とシモンと街の人たちはそこまで変わらないとノアは必死にアルベルトに訴える。

「同じことを求められるのならば、街を守る立場の私たちが引き受けているだけなのです。心臓を差し出せと言われたらそうするしかない。それは私たちも同じなのです」

 手も声も震えていたが、気丈な声でノアがアルベルトに説明をした。

「じゃあ、明日妖精が心臓を差し出せって言ったらそうするのか?」

 アルベルトがどこから言い訳を突き崩して本当のところを引き出すべきか見極めるようにノアの一挙手一投足を見ている。その視線がノアは堪らなく怖かった。

「します。本当に今回の件だって、そのつもりで私は王に会ったのです」

 それでも負けずに、ノアはアルベルトと話すことを選んだ。

「で、許してもらったと。なんて言って許してもらったんですか? そのくらい聞かせてよ」

 アルベルトはノアに乞われて、あの妖精たちの森の中の出来事を思い返した。夏の白樺の森のような深い緑の目。長寿を想像させる大きな体。白変種である真っ白な姿は、ただ強く美しかった。あの緑の森で白変種が生き残ることはとても難しい。他の人と違うことにただ苦しむばかりだったノアとは違い、他の妖精たちと全く違う色姿でも強く気高く生きてきた白い妖精に一目出会った時からノアは魅了されてならなかった。白樺の王から溢れ出す魔力による魔法の効果ではない。純粋に強く美しい生き物に心惹かれる本能にも似たような気持ちだった。あの妖精の傍にほんのひと時でも置いてもらえたら。こんな自分でも少しでも変われるのではないかとノアは思った。そんなはずはないのに身勝手で子供のような話を王はいつも静かに聞いてくれた。シモンと上手に暮らすことができなかった時も、アルベルトに泣かされた時も。

「──貴方とまだ生きていきたい」

 あの時と同じようにノアは誠実にアルベルトに伝えた。

 美しく、強く、そして優しいあの妖精と共にノアはこのビョルケルで暮らしていきたかった。

 思ってもみなかった言葉だったのか、ノアの言葉にアルベルトが少しばかりたじろいだ。それを見たからではなかったが、ノアにはアルベルトに話しておきたいことがあった。

「私はずっと誰とも生きることができませんでした。仕事も生活も続けられず、逃げ続けるばかりでした。でもこの街でシモンに人との生き方を教わって、妖精たちと暮らして、こんな自分でも生きていていいのだと言われたような気がして……嬉しかった」

 シモンに助けられて、やっと人の中で暮らせるようになったと実感した時にノアが思ったことはそれだった。

「貴方がビョルケルに住む人である限り、何か大きな問題を起こして、その埋め合わせが私の心臓なのであれば喜んで王に差し出します」

「俺のこと嫌いなんじゃないの?」

「関係ありません。ビョルケルに住む人であれば、私はどなたも公平に扱います。シモンと婚姻したときから、私の身はすべてビョルケルのためにあるのです。そのために心臓を捧げるのであれば、私は何も『怖く』ありません」

 ノアの言葉に隣に座るハンスが僅かに反応する。しかしそれに対応している余裕はノアになかった。

「ですが、私はまだビョルケルで暮らす人と生きていきたいです」

 アルベルトに言うべきことを言い終えると堪えられずノアの目からぽろぽろと涙が零れた。緊張し、感情が高ぶると悲しい訳でなくても涙が出てきてしまう。隣に座るハンスがすぐに自分のポケットから、丁寧にアイロンまで掛けられたハンカチをノアに渡してくれた。ハンスが渡してくれたハンカチを受け取り、ノアは涙を拭う。

「気持ちが高ぶると涙が出てきてしまうんですよね」

 何度もノアが泣き出すところを見てきたハンスにノアの涙はそれほど意外なものではない。きちんと言うべきことを言い切ったノアに代わり、今度はハンスがアルベルトを見据える。

「ノア様は確かに頼りなく見えるかもしれませんが、シモン様と同じくらいこの街を守るエストホルム様です。白樺の王もお認めになっていることです。この方を侮辱することはこの方を契約者として認めた白樺の王を侮辱するのと同じこと。決して許されることではありません」

 白樺の王の契約者をビョルケルの人たちは丁重に扱ったが、感情が高ぶると涙が出てきてしまうノアを見て、アルベルトはただ笑うだけだった。

「市役所の人もここまでこの人のお世話をしなくちゃならくて大変だねえ。まあ、エストホルムと揉めるわけいかないから、必死にもなるか」

 どこまでもノアへの理解を示さないアルベルトの態度にハンスは明らかに苛立つ。

「貴方はどうして」

「だっていい大人が普通こんなに泣く? 呆れるしかないよ」

 ノアの涙を理解しないアルベルトにハンスが苛立って席を立とうとしたが、仕事中の話し合いで泣き出すのは笑われて当然だとノアが彼の服を掴んで引き留めた。

「ノア様もさ、街の人にここまで気にかけてもらっているのだから、それに見合ったことをしてはどうですか。ノア様は今までずっと仕事も生活も一か所で続かなかったんでしょ? シモン様を説得してでも、白樺の王や他の妖精を確実に宥める方法を共有し、ノア様が他の人と同じだけの社会性を身に着けるのは、この街と貴方のためになる。俺は意地悪でこんなこと言ってるんじゃない。少し考えれば俺が正しいとわかるはずだ」

 泣いて、少しぼんやりした頭でノアはアルベルトの主張を聞いた。彼の主張は間違ってはいないが、正しくもなかった。それを彼が納得できる形で伝える言葉と冷静さは今のノアにはなかった。

「今までさぞ生きづらかったことでしょう。俺は本当にノア様がシモン様とご結婚されて良かったなと思っていますよ。経営してた会社で貴方みたいな人、時々雇っちゃうんだけど大抵人間関係で行き詰ってすぐ辞めてしまう。……あの子たちどうしてるのかなって今でも時々思い出して心配になります」

 それは嘘ではない、労わるような声だった。ノアには少なくともそう思えた。もしかしたらただ憐れんでいただけなのかもしれないが、ノアにはアルベルトの本心はわからなかった。

「貴方は本当に運がいい。自分の性質を理解して、寄り添ってくれる配偶者がいる。しかもその人は街で権力を持っていて、貴方が生活しやすい環境も整えてくれた。これを幸運と言わずしてなんと言いましょう」

 少し優しいと思えた言葉の次にアルベルトはそう続けた。もう涙さえ止まるほどに冷たい言葉にノアの心臓が芯から冷えたような心地だった。きっと何一つ生きづらさを感じたことのないアルベルトには悪気さえないのだろう。誰もが自分と同じように他人に合わせて生きることができると疑問さえない。

 この生きづらさを、逃げられない状況で必死にシモンと築いてきた三年間を何も知らない人間は「運がいい」で片づけるのかとノアにはもう絶望しかなかった。シモンが手探りでノアの生活を整えたように、ノアもまた必死にシモンとの生活に合わせてきた。けれど、シモンやアルベルトのような人には、ノアが必死にならなければできないことが簡単にできるのだ。聴力一つままならない自分の体がノアは心底嫌になる。

 ノアがビョルケルでの三年でどれほど努力してきたかを知っているハンスが、アルベルトのあまりに軽い言い様に手が震えるノアを心配そうに見た。

「今度は、貴方が周りに報いる番ではないですか」

 ノアの内心など何も知らず、アルベルトは一方的にノアに必要な情報を求める。

 心が冷えて、もう涙も出ない。乾いた心の底にあったのは、怒りだった。その怒りの下にあるのはきっと深い深い悲しみだ。

「──今でも生きづらいです」

 もう震えない声でノアがアルベルトに言い返す。

「シモンと結婚した程度で何もかもが解決すると思いますか。毎日、必死に普通の人のふりをして、考えたってわからないのに正解の言葉を探して、自分に何一つ自信が持てないのに意見を求められる苦痛も、他の人が当たり前にできることを依頼して、断られる惨めさも貴方は何も知らないでしょう!?」

 ずっと心に蓋をして気が付かないようにした気持ちが言葉になって溢れ出す。普段のノアから聞くことのない言葉にハンスもアルベルトもたじろいだ。

 シモンと結婚したからと言ってノアの辛さの全てが解決するはずがない。人と会話を合わせるために他の人の何倍も話を聞く努力をし、正解の振る舞いを覚え、突然湧き上がる誰かに嫌われたという妄想を掻き消して、普通の人たちの中で必死に人の振りをする。その生きづらさが消えることは決してなかった。

 一度開けてしまった蓋はもう簡単には戻せない。二人がもうそれ以上の言葉を求めていないことをわかっていても、ノアの言葉は止まらなかった。

「今だって生きづらい。私ができることなんて、優秀なシモンの半分もない。あれだけ優秀なシモンと生活をして、私が何も感じないのと思うのですか? そこまで私が愚かだと思いますか? ……いっそそうだったら良かった。誰の揶揄も優秀さもわからなければ楽だった。でも、私はどうして自分が馬鹿にされるのかはわからなくとも、馬鹿にされたことはわかるのです! 毎日、自分の役立たずさに心が押し潰されそうになる……!」

 しても仕方がないとわかって、それでもノアは悲鳴を上げるように訴えた。

 ノアがこれほどまでに本心を話すとは思わなかったのか、アルベルトは唖然としている。アルベルトからこんな表情を自分でも引き出せるのかとノアは少しおかしな気持ちになった。シモンに話したら笑ってくれるだろうか。褒めてくれるだろうか。

 自棄のような気持ちにもなったが、ノアがアルベルトに言いたいことはそんなことではなかったはずだった。図らずもずっと見ないようにしてきた気持ちを言葉にして吐き出して、ノアは少し心が軽くなる。

「……それでもたった一つでも自分にできることがあるならしたい。街の人は妖精を都合のいい召使いにしたいのではありません。対等な隣人として付き合いたい。貴方だって虫は苦手だと言いながら、宝石アゲハを決して雑には扱わなかった。スノードロップの妖精たちの前で大声を出さず、画家になりたかったコニーさんの絵を飾ってくれています」

「それは人として普通のことをしただけで……」

 ノアに言われるまで当たり前すぎて気にも留めなかったことを言われて、アルベルトが戸惑う。そうだ、それが彼の良いところだとノアは改めて思った。ノアはどうしても最初の印象で相手を悪い人だと思ってしまうと、その気持ちを覆せない。しかしシモンに人とは一面だけを見て判断するものではないと何度も諭されて、ようやく最近その意味がわかるようになってきた。

「そういうことでいいのです。共に暮らすということは相手がして欲しいことを考えることだと私はシモンに教わりました。妖精たちに対しても同じです」

 人の気持ちを正しく読み取れないノアはまだそれがきちんとできない。表情や身振り、声のトーンなどから巧みに言葉の裏を読み取るシモンやアルベルトたちがノアは羨ましくて仕方なかった。

「貴方は私よりずっと相手のために行動ができる。妖精たちに大きな見返りを求められるようなことをせずとも新しい人と妖精を繋ぐ手助けができるはずです。私は決して貴方に必要な情報を隠すようなことはしません。必要な協力はします。自分たちだけで全てを解決する必要はないのです。ですから大きな見返りなしに妖精たちを宥める方法を確立するために、故意に王や妖精たちを怒らせるようなことは今後しないでください。共に助け合いましょう。私たちにはそれしか方法はありません」

 互いに言いたいことは全て言った。ノアの本心を探るようにアルベルトがノアを見る。泣き、喚き、これ以上ないほどに醜態を晒して、もう今更アルベルトに弱気になることもないとノアは真っすぐにアルベルトを見据えた。しばらく互いに睨み合って、先に折れたのは意外にもアルベルトの方だった。

「言いたいことはわかった。アンタが情報を隠してる訳ではなさそうだってことも理解した。妖精と揉めたときの対処法については、少し考えさせて。……今日はもういいや、ノア様、仕事行きなよ。俺の手伝いで仕事抜けすぎだよ。職場の人、困るだろ」

 ノアがシモンの仕事の手伝いを優先する曜日は決まっている。優先するだけで、用事がなければ自分の仕事をする。ここのところはアルベルトの事業の相談に乗ることが多く、度々翻訳の仕事を抜けた。

「誰のためにノア様が翻訳の仕事を抜けていると思っているんですか」

 まるでノアが本来の仕事をさぼっていると言わんばかりの言い方にハンスがアルベルトを窘める。

「わかってるよ。だから今日はもう仕事行けって言ってんの。ハンスさんはまだ用事済んでないから残って」

「ええ、わかってます。……ノア様、仕事に戻ってください。後はこちらで話し合いますから」

「……は、はい」

 アルベルトだけではなく、ハンスにも帰れと言われ、おろおろしながらもノアは席を立つ。ハンスに「大丈夫ですから」と念を押されつつ、席から離れようとしたノアを不意にアルベルトが呼び止めた。先ほどの勢いはすっかりなくなり、びくびくしながらノアはアルベルトの方を振り返る。

「やっぱそのブローチ、よく見たら似合ってるよ」

 喫煙エリアでは似合わないと言ったのに突然なんだとノアは戸惑う。ハンスが笑って「シモン様の代理として認めてくれたんですよ」と教えてくれた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ