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妖精の森  作者: 四つ葉
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 ᚾᛟᚪᚺ

 一番寒い時期だと午前九時くらいにようやく日の昇るビョルケルでも、四月も下旬になると午前五時前には日が昇り始める。夜更かしのできないノアの朝は早い。エストホルム邸で誰よりも早く起きて、館中の暖房をつけて回り、静かなサンルームで一人、湖と白樺の森の向こうから上ってくる太陽の光を浴びるのが、ノアの日課だった。

 遠くから使用人たちが朝の支度をする音が聞こえ始める。館がようやく温まってきた頃、館の中で一番遅く起きるシモンが自室から出てくる。自室を出てすぐ右手にある洗面所で顔を洗い、髪を整えたシモンがサンルームに直接繋がる階段を下りてくる音が聞こえて来た。耳の良いノアは足音が館の誰のものか、すぐに判別がついた。サンルームの隅にある小さな扉がガチャリと開く。その音を聞いて、ノアはゆっくりと振り返った。白いシャツの上にブルーベルの刺繍ポーソムの入った灰色のセーターというラフな格好のシモンが扉の前に立っていた。休日でもノアと揃いの服である。翌日着る予定の服は、シモンが前日までに決めて、使用人がノアの分を揃えて部屋に用意してくれる。それをノアは翌朝着るだけで良かった。

「おはよう、ノア」

「おはよう、シモン」

 互いに朝の挨拶をして、ハグをする。ハグは家族や恋人、仲の良い友人など親しい間柄で行う挨拶である。ノアはシモンとだけハグをした。

「サンルームに入ってくる光で、ノアの髪がキラキラ光って、まるで湖の水面みたい。うちの中に湖の妖精がいるって思っちゃった」

 シモンはよくノアを湖の妖精のようだと褒めた。シモンの祖父のヴィクトルは、彼の妻を毎日エストホルム邸の湖の畔に咲くルピナスの妖精のようだと褒め讃えていたそうだ。アルベルトや一部の街の人には、シモンとノアの近すぎる関係が異質に見えるようだが、シモンはそんなことを気にしたことはなかった。そんなことよりも大事なことがあると彼はよく言った。ノアの気持ちだ。

 ノアは相手の表情や振る舞いから、相手の本心が読み取れない。そんなノアのために、シモンは日々自分がノアを大事に思っていることをわかりやすく態度や言葉で伝えてくれた。シモンは妖精や街の人たち以上に、ノアに自分たちの仲の良さを伝えることを大事にしていた。

「……そんなことを言ってくれるのは君だけだ」

 シモンをハグしたまま、ノアが小さく呟く。夜のフィーカで、シモンにアルベルトの揶揄いを教えられた日から一週間近く、ノアはずっと元気がなかった。

 森歩きでノアはアルベルトと仲良くなれたと思っていた。しかしノアが思うほどアルベルトはノアのことを好いていなかったし、認めてもいなかった。ノアはそう思っていた。少し油断するとノアは自分にはわからない言い回しで揶揄いに遭う。過去に何度もあったことだった。人には様々な面があり、誰かから認めてもらえる部分もあれば、認めてもらえない部分もある。そうやって割り切れないノアは、相手の言葉に必要以上に傷ついた。自分でも悪いところだと理解しているはずなのに、この思考を止められない。ノアは無防備なところに受けたアルベルトの揶揄の言葉が今でも辛くて堪らなかった。

 今日はシモンにしがみついたまま、ノアは離れられなかった。シモンも無理に引き離すようなことはせず、ノアの背中を優しく撫でた。

「ずっと君の腕の中にいたい。そうしたら誰にも馬鹿にされないし、怒られない」

 シモンの腕の中、夢うつつのような心地でノアがうっとりと本音を漏らした。現実的な言葉ではないことは、ノアも理解している。現実的ではないことを言葉にするくらいのノアの我儘をシモンはいつも許してくれる。

「……じゃあ、そうする?」

 甘い、悪魔の誘惑のような言葉にノアは思わずびくりと肩を震わせた。

「いいよ、ノアのこと飼ってあげる。僕だけに会って、僕だけを見て、僕だけと話すの。素敵でしょう?」

 それはもう対等な関係ではないとノアでも思ったが、そうできるのならそうしたい。自分の世界からアルベルトのような不安要素を排除したい。安寧しかない小さな世界の中で閉じこもりたいとノアは思った。きっとそれはとても幸せだ。

「……とても魅力的な提案だが、街の人たちから妖精関係の相談をいくつも受けている。仕事もある。生まれて初めて三年も続いた仕事だ。手放せない」

 しかし、そう言ってノアはシモンから体を離した。今のノアであれば正しい判断ができると思うから、シモンはこんな冗談が言うのだ。

「でも甘えさせてくれてありがとう」

 穏やかな声音でノアはシモンに礼を言った。思えば、三年前は落ち着いて話し合うことさえできなかった。シモンに少しでもノアの悪いところを指摘されれば、少しも自分に自信のないノアは酷く傷ついて会話にならない。ノアが苦手な要素を持っている人とまともに会話ができない。フィーカをすれば、自分の得意分野の話しかできず、興味のない話題を振られると興味がないという態度が露骨に出る。そういう振る舞いが相手を失望させるのだとシモンに教えられて、するべき振る舞いを覚えるのに三年かかった。子供に教えるようなことをノアに今更教えなくてはならないことをシモンは何度も怒った。それでも一つ、二つと山場を越えるたびに二人の関係は良くなった。初めて人と暮らせる場所を整えてくれたシモンに感謝して心を寄せると、シモンは「そんなに無防備に人を信じてはいけない」とノアを諭しながら、彼とは違う色と形をしているはずのノアの心を大事にしてくれた。

「ノアは毎日よく頑張ってるよ。いつ誰に声をかけられてもちゃんと話せるようになったし、フィーカできる人も増えたし、仕事も続いてる」

 シモンが優しくノアの頬を撫でる。

「強くなったね」

 自分の頬を撫でてくれたシモンの手を取った。

「私が少しでも強くなれたというなら、それは全部君のおかげだ」

 ノアは自分に優しく触れてくれたシモンの手のひらにキスをした。いつも彼がノアにそうするように。

 互いの気持が繋がっていると確認して、ノアとシモンは見つめ合って、小さく笑った。カタンと音がして、はっと二人は音のした方を振り返る。大サロンへと繋がっているサンルームの正面扉が開いた音だった。扉からとても申し訳なさそうな顔をして、ニルスが入ってくる。

「……朝食の支度ができました」

 二人の世界に浸りきっていたシモンとノアにどう声をかけたらいいのか迷っていた様子のニルスが用件を二人に伝えた。

「はーい!」

「ありがとう」

 大体いつもしている会話なだから、途中で会話が邪魔されても二人は特に気にしない。用があればいつでも声を掛けたらいいのにとノアは、二人のやり取りを邪魔しないよう気を遣う使用人たちが不思議でならなかった。二人はニルスの後に続いて、サンルームの隣の食堂へ移動した。清潔感を最優先した食堂は白を基調とした部屋だ。部屋の中央には白いシーツを被せた大きなダイニングテーブルが一つ置かれている。二人で使うには大きなテーブルに今日は普段よりもたくさんの皿が用意されていた。皿の上には生クリーム、ベリーソース、蜂蜜、サワークリーム、ブラウンチーズ、シロップ漬けにされたベリー類がそれぞれの皿に盛られていた。二人が座る椅子の前には網目模様が特徴的な焼きたてのヴァッフェルが用意されていた。日曜日だけのお楽しみの朝食だった。二人はさっそく自分の椅子に腰かけた。

 とにかく甘いものが好きなシモンはベリーソース、蜂蜜、シロップ漬けのベリーをヴァッフェルに乗せる。ノアはサワークリームと少しの蜂蜜を掛けた。バターが利いた焼きたてのヴァッフェルは生地がふわふわでとても美味しい。シモンのスキンシップといつも通りの美味しい朝食にノアの落ち込んでいた気持ちはゆっくりと回復していった。

 朝食を済ませて、ニルスが食事を済ませた皿を下げに来る。黙々とニルスが皿を片付け、ノアとシモンが話しながら食堂を出ていこうとすると、慌てた様子でマヤが食堂へやってきた。息を切らして食堂に入ってきた二人を見て、皿を片付けていたニルスも俄かに驚く。

「どうしたの? マヤ」

「今、交流施設の近くに住んでいる人が」

「どうしたんだ」

「アルベルトさんが重機で森の木を切っているらしくて、エストホルムで把握してるかって確認に来られたのです。シモン様、把握されていますか!?」

「はあ!?」

 マヤの報告に最初に悲鳴を上げたのはシモンだった。

 ビョルケルで重機を使用するには、事前に多くの許可と告知が必要になる。エストホルムへの許可。重機を使う範囲の近隣住民からの許可と二週間前からの告知。妖精たちからの許可。そうした告知や準備もなく、重機で森の木を切ることなどあり得なかった。

「把握も何もアルベルトに重機の使用なんて一度だって許可してない!」

「どうして急に重機なんて……」

 突然重機を動かし始めて、一体何がしたいのだとシモンの隣でノアは困惑した。

「あいつ、何としても六月の夏至祭に広場を間に合わせる気なんだ……!」

 ハンスに頼み込んでも広場づくりの許可が取れないことに業を煮やしたのか、強硬な手段に出たアルベルトにシモンは頭を抱えた。

「勝手に木を切って、六月の夏至祭どころじゃないですよ。あの人、コニーさん一家を巻き添えにして、明日からビョルケルで生活できませんよ!?」

 アルベルトは田舎の人間関係を何も理解していないとニルスが嘆く。アルベルトに協力していたコニー一家も森の木を勝手に切った大罪人として同じ扱いを受けることは想像するまでもなかった。

「ど、どうしますか」

 こんなことをしでかす人間は、この数百年ビョルケルにはいなかった。どう対応したらいいのか全くわからず、ニルスはシモンに判断を委ねた。

「ニルスは今すぐアルベルトを止めに行って欲しい」

「それは構いませんが。……ノア様は」

 ニルスが窺うようにノアを見た。ニルスの視線につられてマヤもシモンもノアを見た。

 理由はどうあれ、妖精たちの許可なく森の木を切り倒すことは大罪だ。この罪の埋め合わせは、決して簡単なものではない。妖精たちは罪を犯した本人ではなく、自分たちにとってより価値のある人間の何かを対価として求める。

 アルベルトでは価値が軽すぎる。妖精たちが最も価値を認める人間は、白樺の王と契約しているノアとノアの婚姻相手のシモンである。ノアかシモンの心臓が、妖精たちにとって最も価値のある見返りだった。シモンとノアは正式に婚姻しているので、妖精たちにとってどちらも同価値だ。しかし人間側は少し事情が異なる。シモンは領主としての仕事がある以上、人間たちにとってより価値のある人間はシモンの方だった。妖精に心臓を差し出せと言われた時、人間側の都合を鑑みて差し出せるのはノアの心臓しかなかった。

 こういう時のための配偶者であり、婚姻契約である。領主の配偶者や血縁者は、こうしたトラブルが起きた時のための保険でもあった。ノアはこの三年、多くのことをシモンやエストホルムの使用人、そして街の人たちに助けられて生活していた。初めて誰かの役に立てた。ビョルケルを守るということが、初めてノアが得た自尊心だった。アルベルトがビョルケルの一人であるというのなら、彼の起こした問題のためにノアは心臓でも何でも差し出せる。周囲が動揺している中、ノアだけは冷静だった。

「シモン」

「な、なに?!」

 急にノアに声をかけられて、突然の事態に気が動転しているシモンの声が裏返る。ノアは冷静にシモンを見た。珍しく動揺しているシモンの手を取る。どちらかの心が不安な時、手に手を取り合うのが二人の約束だった。

「今までありがとう。君と暮らせてとても幸せだった。こんな私が結婚できるなんて思っていなかったから、人と暮らす生活ができるなんて思ってもいなかった。全て君のおかげだ」

 穏やかな声でノアはシモンに別れの言葉を伝えた。

「待って待って待って! 人生諦めるの早いよ!」

 潔くエンディングトークを始めたノアにまだ何も諦めていないシモンが悲鳴を上げる。

「でも、この埋め合わせはもう私か君の心臓しかない。君はこの街にいなくてはいけない人だ。それなら私の心臓を差し出すしかない」

 冷静にノアはシモンに事実を伝えた。こうした事実を冷静に相手に伝えるのはいつもシモンの役割だったのに。こんな非常事態に立場が逆転したことにノアは少しだけ可笑しな気持ちになる。

「それはそうなんだけど……」

 ノアの言うことは間違いなく正しい。だがシモンはまだ何も諦められないようだ。

「これから二人で、白樺の王に謝りに行こう。なんとか許してもらうんだ。僕が謝罪の言葉を考える。ノアは通訳して欲しい。君が僕の助けがないと生活できないのと同じくらい、僕だってもう君なしで生きていけないんだよ」

 シモンの気持ちは嬉しかったが、ノアはシモンの判断が最適だとは思えなかった。下手な言い訳は、白樺の王を怒らせる。あの王を怒らせるということは、白樺の森に棲む妖精たちを怒らせるということだ。妖精たちの助けがなければ生活できないこの街で、妖精たちを怒らせるリスクのある手段を選ぶことが正しいことだとは思えなかった。

「……だが、私くらい妖精語ができる人間なら探せばいる。私の心臓は王に差し出して、私の代わりになる人間を見つける方が効率がいい」

「何かあったときに僕の代わりに死んでもらうことになるけど結婚して欲しいって言われて、結婚してくれる人なんて早々いないよ! 何言ってるの!?」

 効率だけで言ったらノアを生かす方がいいとシモンが断言する。

「死ぬだけで人の役に立てるなんて素晴らしいと、皆思うものだと……」

「大抵の人はノア様ほど生きづらさを感じてないので、死のリスクのある結婚なんてしたくないんですよ」

 何もかも普通の人と感覚の違うノアに呆れながら、ニルスがノアの代わりが簡単に見つからない理由を説明した。

 婚姻当初、妖精たちの見返りとして、場合によっては心臓を捧げることがあるとシモンから説明されて、それまで生きづらくて仕方のなかったノアはいっそ「都合がいい」とさえ思った。どうせ誰の役に立てずに死ぬなら最後くらい明確に誰かの役に立ってから死にたかった。突然の婚姻に戸惑っても、死のリスクは全く戸惑わなかったノアに、シモンもヴィクトルも「これを都合がいいと捉えていいのか」と困惑したものだった。

「そうですよお。ノア様が対応してる十年選手の引き篭りの方の対応はどうするんですか。華やかな経歴のシモン様が引き継いだら、相手の方を追い詰めるだけです」

 シモンが引き継ぐことのできない仕事を抱えているはずだとマヤがノアに、ノアだけができる仕事を思い出させる。

「そうだよ!? お坊ちゃん学校を卒業して、領主に就任した人間に十年以上引き篭ってる人が心を開いて話せると思う!? どんな仕事も一年も続かなかったノアだから会って話してくれるんだよ!」

「教会の中庭の薔薇の妖精は妖精語が未熟なシモン様が話しかけても、相手にしてくれません。薔薇の妖精は街で生活に困っている人の話をしてくれます。早めの段階で生活に困っている人を教えてもらわなければ冬には毎日雪かきが必要で、列車も止まるビョルケルでは生きていけません。本人が自宅遭難するだけならまだいいです。火事を出して、近隣住民の家や備蓄を焼いたら冬を越せない人が出てきます」

 心臓を捧げている場合ではないとニルスもまたノアの抱える大事な仕事をノアに思い出させた。

「……」

 毎日、日々を生きていくだけで精いっぱいで、自分が街でどんな役割を負っていたのか、ノアは振り返って考えたことがなかった。自分で思っていたより、人の役に立っていたらしいことにノアはすぐに気持ちがついてこない。今自分が担当している仕事をどうするのかとマヤたちに問い詰められて、ノアは何も答えが思い浮かばなかった。困惑しているノアの手をシモンが力強く握り返した。

「ノアは僕だと関係が作れない人と、関係が作れる。流暢な妖精語を求めてくる妖精、君と同じようにどう生きていいのかわからなくて困っている人、ノアは僕が埋められない場所を上手に埋めてくれる。君がいてくれるから僕はビョルケルの領主でいられるんだ。君は僕の支えなんだよ」

 支えだと言われて、ビョルケルに来るまでずっと誰の役にも立てなかったノアは泣きそうになった。でも今は泣いている場合ではないから、ノアは泣くのを堪えた。

「……王に一緒に謝りに行こう。妖精語ならできる。何と言えばいいのか、教えて欲しい」

 ようやくノアから出てきた前向きな言葉を聞いて、シモンはノアを強く抱きしめた。



 月に一度の白樺の王の謁見には準備がいる。前日から肉食を避け、当日の朝に身を清め、正装をする。正しい道順で森を歩き、途中で会う使いの者に丁寧に挨拶をする。

 今回はそれを全部飛ばして、最短ルートで会いに行く。服装もブルーベルの刺繍の施されたセーターと揃いの長ズボンにいつもの白樺の葉の刺繍の入った黒のコートを羽織った。肉食を避けられず、身を清める時間もなく、正装の民族衣装も着ていない。その上、本来であれば歩くのに一時間はかかる正しい道順ではなく、十五分ほどで森の奥へ辿り着く緊急時用の近道を二人は利用した。もうこれだけで森の様子も街の様子も全て把握している白樺の王の心証はかなり悪くなっているはずだった。

「昨日は夕飯にミートボール食べちゃったし、呑気にサウナ入って、湖でクールダウンしてる場合じゃないし、正装に着替えてる暇あったら、早く王にお会いして誠心誠意謝罪した方がマシだと思うんだよね」

「……本当に誤差の範囲のマシだな……」

 王に謁見するために必要な準備を何一つしてないことにノアは不安しかなかったが、シモンが一刻も早く会うことが誠意になると言われて、従うことにした。

 普段の謁見であれば、正装をしたノアが森を歩いているとあちこちから妖精たちがやって来て、ノアに挨拶をし、王へ渡したい木の実や花を渡してくれ、妖精たちと歌を歌いながら歩く。それは心地の良い時間であった。しかし今はシモンとノアの緊迫した空気を感じてか、森の生き物たちは息を潜め、シモンたちの前に出てくることはなかった。

 白樺の木が左右に聳える長い一本道を歩く。街の風とは違う、冷えた空気が二人の頬を撫でた。白樺の若葉が萌え、若葉の向こうに燦々と降り注ぐ太陽の光がある。空気は冷たく、耳鳴りがしそうなほど静かな一本道だった。どんな生き物の声も息遣いも聞こえてこない。美しくとも寂しい光景に自然と二人の会話も途切れた。パキ、とシモンが踏み割った乾いた白樺の枝の音が異様なまでに辺りに響いた。

 道の途中でシモンはふと足を止めた。街の空気よりも一段階冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐く。シモンに合わせて、ノアも足を止める。

「シモン?」

「そろそろの王の領域に入る。その前に方針を話しておきたい」

 まだ続く一本道を見ながらシモンはノアに答えた。

「僕は最後まで君を諦めるつもりはない。でも、それは白樺の王に嘘をついたり、誤魔化したりするという意味ではない。白樺の王は常に森の様子も街の動きも見ている。今、僕たちがここへ向かっていることも、こうして話していることもわかっている」

「……」

 それはノアもわかっている話だった。シモンはノアを諦めないでくれるというが、本当にそれでいいのかノアにはわからない。ノアは上手く人と関われず、ずっと生きづらかった。正直なことを言えば、いつ死んでも構わないと思っていた。誰もノアを大事にしなかった。でもそれはノアが誰のことも大事にしてこなかったからでもあった。

「お為ごかしは通用しない。謝るべきことは謝り、聞き入れて欲しいことはきちんと言う。誠実に話す。妖精たちは飾った言葉を好むけど、今日はそういうことはしなくていい。僕が言ったことをそのまま通訳して欲しい」

 でも今は自分が死ぬと悲しみ、困る人がいる。ノアには大事にしたい人がいる。ノアはシモンから家族は助け合うものだと教わった。

「わかった。余分に言葉を飾ったりせず、君の思いをできるだけそのままにお伝えする」

 シモンを信じて、ノアはそう答えた。

「……うん、お願い」

 シモンがノアの答えに笑顔を見せ、満足する。前を向き直し、二人はまた歩き出した。いくらか歩くとまた森の空気が変わる。白樺の森の奥の奥。通常であれば人が立ち入れない妖精たちだけの空間がある。そこへ足を踏み入れた感覚があった。途端に苔むした空間に出た。空気は異様に暖かく、ビョルケルの春の気温ではない。若葉が僅かに萌えいずる乾いた白樺の木の道を歩いていたはずなのに、ここの白樺の葉は青々と茂っていた。小さな川が苔むした地面のあちこちに流れている。この空間は年中同じ様子であり、妖精たちだけの空間が人のそれとは全く違うことを示していた。湿った空気を吸ってノアは思わず咳き込んだ。清涼な葉と甘い花の匂いが、辺りに立ち込めている。月に一度訪れているはずなのに、ノアは今でもこの濃く、湿った空気に慣れない。シモンに聞けば、ここは魔力の溜まり場なのだと言う。普段から魔法を扱うシモンには心地よい空間なのだそうが、魔法を扱えないノアには重苦しい空気だった。それでもゆっくりと呼吸を繰り返して、ノアはこの空気に体を慣らした。

「……大丈夫?」

「平気、だ。この空間に入った時が一番苦しい。そのうちに慣れる」

 少しずつこの空間の空気にノアが慣れてきたことを確認して、シモンは前を向き直した。さらに奥へ進む。人間の住む白樺の森ではあり得ない一際大きな白樺の木の下に、その妖精はいた。

 長い年月を生きてきたことを示す二メートルは優に超える大きな体。真っ白な長い髪、足元まですっぽりと体を覆い隠す白のローブ、いくつも節の分かれたヘラジカのような大きな角を持ち、真緑の目が二人を見ている。白樺の葉が生い茂り、地面は苔むすこの空間で、その妖精の白さは異様でさえあった。森の中で擬態のできない白い生き物は、動物も妖精も長くは生き残れない。それでもこの妖精は、白変種というハンデを一切もろともせず、長き年月を生き残り、そして数多の妖精と人の暮らすこの白樺の森で王と称されるまでになった。それほどまでに強き妖精だった。白樺の王とは呼称で、本当の名前ではない。誰もこの妖精の本当の名前は知らなかった。

「……王……」

 自分によく似た真緑の目に魅入られて、ノアがうっとりと呟く。長く生き、強い妖精ほど強い魔力を持つ。自らの体から溢れるほどの魔力は、辺りの生き物に影響し、草木の成長を早め、人や妖精を魅了した。

 シモンと違い、魔法に耐性のないノアはすぐに王が無自覚に振りまく魅了の魔法に取り込まれてしまう。

「──ノア」

 シモンの呼びかけに、はっとノアが我に返る。白樺の王は意図してノアを魅了している訳ではないので、シモンが呼びかければノアは正気に返ることができた。

「ノア、ぼんやりしてるとすぐに王に魅了されるから、僕の声を意識して聞いて。もしくは、自分が王と話すという強い意志を持って」

「……すまない」

 正気に戻っても、ノアはまだ少し頭がくらくらする。ノアはシモンの言う通り、彼の声を聞くことに意識を向けた。

「挨拶を」

 シモンに促されて、ノアは王と話す強い気持ちを持って、一歩、白樺の王の方へ歩み寄った。胸に手を当て、恭しくお辞儀をする。

【此度、謁見叶いましたことを謹んでお喜び申し上げます。美しき我らが王、白き妖精、私たちの父よ。王の授けてくださる知恵とお力で、今日、私たちはこのビョルケルで生きていくことが──】

【話が違う】

 ノアの挨拶を遮り、冷たい声音で白樺の王は二人を叱責した。

「…………」

 ノアは王の冷たい言い様に慄き、思わず言葉を飲み込んだ。体を固くして、冷たく自分を見下ろす真っ白な妖精を見上げる。冷たい声音と言葉の強さで、白樺の王が重機で森の木が切られたことに激怒していることは明白だった。シモンは小さく震えるノアの隣に立ち、ノアの肩を軽く叩く。

「僕が話す」

 ごく小さな声でシモンがノアに囁いた。白樺の王の怒りに怯えていたノアはシモンをちらりと見て、小さく頷いた。

【このたびは、私たちの過ちにより王にご迷惑とご不快をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます。王の尊厳を傷つける愚かな行為を止めることができず、申し訳ありません。ビョルケルの人間の過ちは私たちの過ちです。二度とこのような過ちを繰り返すことがないよう努める所存です。王の信頼を回復するために努力いたしますことを、お許しいただけないでしょうか】

 シモンの言葉をすぐにノアが妖精語に変えて、白樺の王へ伝える。王はノアの通訳を聞きながら、シモンを見下ろした。

【……三百年前に交わした契約の範囲外の木の伐採は大罪である。この罪に見合った埋め合わせをせよ】

 何の感情も含まれない淡々とした言葉を聞いて、シモンが表情を変えた。

【王、どうか私の話を聞いていただけないでしょうか】

 日常会話であればシモンでも妖精語で話せる。ノアの隣で、ノアの通訳を介さず、シモンが直接白樺の王へ訴えた。

【契約者の心臓を差し出せ。契約外の伐採はまだ少ない。此度は一つで良い】

 しかし表情一つ変えずに白樺の王が容赦のない判断を下す。否、これは妥当な判断だ。

「……シモン、余計な言い訳をしない方がいい。本当に今までありがとう」

「駄目、待って。もう少し話させて。お願い、通訳して」

 シモンが泣きそうになりながら、必死に首を横に振る。生きることを諦めかけているノアはもう思考することも難しくなってきた。魔法が使えない者にはいるだけで息苦しい空間で、白樺の王の魅了の魔法にまたかかりそうになる。しっかりと意識を持たないとシモンの声さえ届かくなりそうだった。

【何故、外の人間を受け入れた。何故、この事態を想像できなかった。私がノアを殺すのではない。お前がノアを殺すのだ】

 容赦のない王の言葉にノアの隣に立つシモンが表情を歪め、顔を俯かせた。妻が何よりも大事だったという彼の祖父のヴィクトルは外の人間をビョルケルに呼ぶことをしてこなかったとノアは以前にシモンから聞いたことがあった。自分の家族と街の発展を天秤にかけ、ヴィクトルは家族を選び、シモンは街を選んだ。その決断に今も迷いはないと、シモンは白樺の王を再び見上げた。

【外から新しい人を呼ばなければ、街は死んでいくからです。妖精たちがもっとも楽しみにしている赤子の誕生は、新しい人たちが来なくては続かない。妖精との契約を知らない外の人間を受け入れたのは、決して人間側だけの身勝手な理由ではなく、この森の発展と妖精たちのためでもあります。森を手入れし、火を扱い、冬を越せない幼体を預かり、世話をする人間が減っていくことは妖精たちにも良いことではありません】

 シモンが人の言葉で必死に訴える。それをノアが妖精語に変えた。できる限り、シモンの気持ちを歪めないようにノアはシモンの言葉に近い妖精語を選んだ。

 この白樺の森で、人と妖精は一方的な関係ではない。互いを助け合う共生の関係だった。人が一方的に妖精を消費するのではない。人にとって妖精の助けが必要なように、妖精もまた人の助けが必要だった。

【森のルールを徹底できなかったことは、私たちの非です。これから必ずルールの順守を徹底させます。どうか寛大な対応をお願いします】

 必死に二人は願った。しかし王の表情は全く変わらなかった。肌に直接伝わる白樺の王の怒りも変わらない。シモンの陳情は少しも王へ届いていなかった。シモンは人間を言いくるめるのは得意だったが、この王を納得させる言葉をそれ以上はもう思いつかないようだ。

「……シモン」

 シモンの言葉を通訳し終えたノアはシモンを見る。シモンの次の言葉を待った。しかし極度に緊張しシモンの震える唇からは、震えた息が僅かに零れただけだった。

【──王】

 言葉が見つからないシモンの代わりに、ノアが白樺の王を見上げて、話し出した。ノアが話し出すとは思わなかったのか、シモンがはっとノアを見た。ノアは魅了の魔法にかかっていない。しっかりと白樺の王を見上げていた。

【何か】

【王、私は今とても幸せです】

 シモンでも間違いなく聞き取れるごく簡単な言葉をノアは話した。嬉しいことばかりではなかったが、幸いな日々を思い返して、ノアは思わず笑みを零した。

「……? え、何? どうしたの?」

 何故、ノアが今そんなことを言い出したのかわからず、シモンは戸惑っていた。ノアはシモンに構わず話し続ける。

【シモンは私に人の中で生きていく方法を教えてくれました。街の人はこんな私でも頼ってくれます。僅かですが友人と呼べる人もできました。妖精たちは皆可愛くて、ビョルケルのザリガニは美味しいですし、シモンとフィーカをしながら眺める街はとても綺麗です】

 一つ楽しかった出来事を思い出すと、ノアは次々に楽しかった出来事がよみがえって、思いつくまま口にする。本当に初めて得た幸いの日々を。

【王は毎月の謁見で、たくさんの昔話を聞かせてくださいますね。私がアルベルトさんに泣かされた相談をした時も親身に聞いてくださいました】

 白樺の王は森の様子も街の様子も全て知っており、毎月の謁見で話す内容にあまり意味はない。手間をかけ、変わらず毎月白樺の王へ会いに来る行為そのものが重要であった。

 人と上手く暮らせないでいたノアに白樺の王はいつも優しかった。静かに話を聞き、時にノアの生活を助けてくれた。

「この方にそんな相談してたの……?」

 いくら報告する内容が自由でもまさかそんな話までしているとは知らなかった──ノアも怒られるような気がして今までシモンに報告しなかった──シモンがノアの話にやや呆れる。

【王が今回の契約外の伐採の埋め合わせに心臓を捧げよと言うのであれば従います。ですが、できれば私は】

 ノアは何にも惑わされることなく、真っすぐに王を見上げていた。

【まだ貴方と生きていきたい】

 それは、普段の自分からは想像がつかないような、毅然とした声音と言葉だった。

「……」

 シモンは唖然としたまま、隣に立つノアを見た。視線を逸らしたら負けだと常々シモンに言われているので、ノアは白樺の王から決して視線を外さなかった。

 王がノアを見下ろしている。何か思案している様子であった。ややあって、先に視線を逸らしたのは白樺の王の方であった。

【森の奥に末の子の成長が悪くて心配している白樺の妖精がいる。対応せよ】

「……!」

 白樺の王から心臓以外の埋め合わせを引き出したことに、ノアとシモンは驚き、息を呑む。

【今回の埋め合わせはそれで良い】

 白樺の王の恩赦にノアとシモンは顔を見合わせた。

【あ、ありがとうございます!】

 これはノアが通訳するまでもない。シモンは必死に白樺の王へ礼を述べた。

【……本当にそれで良いのですか……?】

 ほぼお咎めなしの埋め合わせが信じられず、ノアは白樺の王に確認をした。

【まだ私と一緒に生きたいのだろう?】

 子供の我儘に付き合う親のような表情で、白樺の王が静かに笑う。心臓を求めてきた時の怒りは、白樺の王にはもうない。格の高さに関わらず、妖精は時々こんな気まぐれを見せた。気まぐれに人を助け、困らせ、時に殺し、実りを与える。そこに人が理解できる理由や論理はない。彼らは決して召使いなどではなく、共に暮らす隣人で、そして自然の延長だった。彼らのあるがままをノアは静かに受け入れた。

【……ありがとうございます】

 今度こそ、ノアは深々と白樺の王へ頭を垂れて、心から礼を言った。


 ᛋᛁᛗᛟᚾ

 妖精たちの空間から人間の暮らす白樺の森へ戻るとノアはその場に座り込んでしまった。

「ノア!? 大丈夫!?」

「……大丈夫だ。いつもこうなんだ。座っていればそのうち落ち着く」

 体の負担が大きい場所へ行かせてしまった罪悪感とノアが生きている事実が信じられず、シモンはその場で蹲るノアを堪らず抱きしめた。人形でも案山子でもなく、体温のある人間の体だった。

「ノア、良かった……」

 泣きそうになりながら、シモンはノアを抱きしめて、彼が生きていることを何度も確認した。

「ノアのおかげだよ。ありがとう」

 息苦しくなるほど抱きしめられて、ノアは少しシモンの体を押しのけた。顔を見合わせると、ノアは戸惑った表情をしていた。

「誠実に話すしかないとシモンが言ったからそうした。だから君のおかげだ」

 互いに相手のおかげだと言うことが可笑しくて、シモンは思わず笑った。笑うシモンにつられて、ノアが笑う。

 ノアが生きていることと同じくらい、ノアと助け合えたことがシモンはとても嬉しかった。三年前、自分たちは本当に何も話し合うことができず、何も協力し合えなかった。いつから助け合えるようになったのか、シモンは思い出せない。最初の一度をもう思い出せないほど、シモンとノアはたくさんのことを助け合って生きてきた。

「よし、次はアルベルトを説教に行こう!」

 これは得意分野だと、まだ座り込んでいるノアの前でシモンが力強く立ち上がる。

「あいつ、今度という今度は徹底的にわからせてやる!」

「皆で仲良く暮らすはずでは」とノアはシモンに尋ねたが、シモンは無視して握り拳を作っていた。


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