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妖精の森  作者: 四つ葉
4/8

 ᚾᛟᚪᚺ

 その日、ハンスがエストホルムへ、ある資料を持ってきた。

「今、移住者用の住居は四人以上の家族が住める大きさの物件しかないので、単身者やまだ子供のいない若い夫婦向けの少し小さな物件を建てようという案を進めておりまして、こちらがその若い人たち向けの物件の資料です。移住課としては、家族の移住ばかりを想定していたのですが、実際に来る移住の問い合わせは、独身の方やまだ子供がいない若い夫婦の方が多いのです。フットワークの軽さは移住に大きく影響しますね」

 いつものサンルームでハンスの話を聞きながら、シモンとノアは渡された資料を見た。資料には一人か二人程度が暮らすことを想定した新築の集合住宅の間取りや賃貸費用について記載されていた。現在ビョルケルにある無人の古民家は大人数で暮らすことを想定した造りであることが多く、少人数が住むことを想定した住宅を用意するのであれば、新規に建築するしかなかった。

「保守的な高齢者も多く、真冬には列車の運行が止まるビョルケルでは正直、移住の成功者は少ないです。ですが、ここ最近ですとノア様とアルベルトさんが移住を成功させたので、市役所内でももっと若い方を迎えたいという機運が高まりました。大きな一軒家では持て余しますし、集合住宅であればよく顔を合わせますから、雪かきも協力しやすいはずです。大工や工務店の方々も大口の仕事ができて、喜んでいます。古き良きビョルケルを残したいと新しい変化を望まない方も多いですが、私はやはり若い方に街に来てもらって、新しい変化を起こして欲しいと思っています。アルベルトさんは良い例ですね」

 今回の提案にハンスはよほど自信がある様子である。しかしノアは渡された資料を見ても、あまり良い気分にはならなかった。

 ノアはビョルケルの人たちが古い家を何百年と修繕を繰り返しながら暮らす様子を見てきた。古いものを何度も直し、大事にする姿が好きだった。そこに家の外観こそビョルケルに合わせているが、都会でも見るような造りの内装の集合住宅を見て、ノアは戸惑いが隠せない。

「……君はどう思う、シモン」

「ん?」

「君はヴィクトル様が守ってきたビョルケルで生まれて育った。ビョルケルの良いところをたくさん見てきたはずだ。新しい人が来れば、色んな事が変わる。ヴィクトル様の守ってきたものが変わってしまってもいいのだろうか」

 確かに暮らしやすいのかもしれないが、見た目だけをビョルケルの伝統的な赤い家に寄せただけの都会と変わらない集合住宅をすぐには受け入れられず、ノアはシモンを見る。シモンは一通り資料を見て、顔を上げた。ノアよりも古き良きビョルケルに思い入れのあるはずのシモンの表情は、決して暗いものではなかった。

「ここは千年くらい前までは妖精しかいない白樺の森だったし、最初できたのは、魔法使いの家と工房だ。エストホルムの館ができたのは五百年くらい前で、勿論、今の形ではなかった。君のお気に入りのサンルームができたのはほんの百年くらい前の話で、教会が今の形になったのはたった五十年前だ。街なんてその間に絶え間なく変わっていってるよ」

「……それは確かにそうだが」

「僕はその街の骨子さえ変わらなければ、後は何がどう変化してもいいと思ってる。ビョルケルの骨子は『手工芸品ヘムスロイドを作りながら妖精と暮らす街』であることだ。そこさえぶれなければ、何も心配はないよ」

 さっぱりとした表情でシモンは不安がるノアに答えた。

刺繍ポーソムや白樺細工、ガラス工芸品は大事にしたいですね。ビョルケルの大事な財産です」

「そうです。ビョルケル出身の人が持っていた刺繍ポーソムの手袋を見て、これを仕事にしたいと一人でやってきた人もいたね。その方は結婚して、今、引退された方の手工芸ヘムスロイド店を引き継いでいる。若い人が来なければ、今あるビョルケルの財産さえも守れない。僕は迷わない。新しい人に来て欲しい」

 決して大きな声ではないが、力強い声でシモンは断言した。自らが領主になったあの日から、その想いだけは決して変わることはないと。迷いのないシモンの意思と言葉にノアは感動してため息をついた。

「……君はやっぱり素晴らしい。私は今の光景にばかり囚われて、先のことがいつも考えられない。若い人が来なければ、かつてヴィクトル様が守り、今君が守っているこの街を維持できないことも想像つかなかった」

「ノアは街づくりを意識して生活したことがなかったから仕方ないよ。おじい様が守っていたビョルケルを気に入って、引っ越してきてくれたんでしょ。僕はそれだけだって嬉しいよ。僕が生まれて、君が気に入ってくれた街を一緒に守って欲しい。君がいるから妖精たちは街の人に協力してくれるんだ」

「私にできることであれば、何でも言ってほしい」

 二人掛けのソファーに隣り合って座る二人は、どちらかともなく手に手を取り、顔を寄せ合い、静かに笑んだ。客人のためにコーヒーを注ぐニルスがいつもの光景にため息をつく。

「そうやっていちゃいちゃしてると、またアルベルトさんに嫌味言われますよ」

「今はいないではありませんか。お二人の仲の良さを揶揄される方もいますが、私は好きですよ」

「ほら、大抵の人はこう思ってくれるよ。アルベルトがちょっとおかしいんだ」

 ハンスに擁護されて、シモンがニルスに反論する。

「ハンスさんはシモン様に気を使っているだけです」

「そんなことはいいんだよ。規模の小さな住居を新築するのはいいけど、ここは見過ごせない! 床暖房入るの!?」

「最近の新しい家にはほとんど床暖房が入りますから」

 ニルスに注いでもらったコーヒーを飲みながら、ハンスが当たり前のことだと答える。それにシモンが信じられないという顔をした。

「うちにはないのに!」

 シモンが悲鳴を上げる。床暖房と聞いて、嫌な予感がしていたノアがまたその話かと呆れた。

「ああ、エストホルムには床暖房はないんですね」

「この建物が建った当時に床暖房なんてありませんでしたから。エストホルムは館全体が指定重要文化財なので、大きなリフォームができません。ですが、他の家と同じように温水暖房は入っていますし、ガラス窓も三重ですから、寒くはありません。何も問題はありません」

 珍しく強い語気で、ノアが言い切った。

 温水暖房とは、暖房工場と呼ばれる施設で廃材を燃やして水を温め、工場から各家庭へ繋がった温水の通るパイプを部屋中の壁伝いに通すことで部屋を温める仕組みである。

 エストホルムの館は指定重要文化財なので、壁紙など一部を除いてのリフォームには逐一専門部署への通達が必要になる。そして大きなリフォームに関しては生活上の困難など正当な理由が認められない限り、実行することができなかった。

 床暖房は現在ある床に六十度の温水の通るパイプを張り巡らし、そのパイプをモルタルで埋めて、これを新しい床にする。温水パイプからの熱を吸って、モルタルが温まる仕組みである。この仕組みだと当然、現在の床が隠れてしまう。大サロンのヘリンボーンの床板の一部は、様々な鉱石を組み合わせ彩られ、美しい模様を成していた。これが隠れてしまうので、床暖房が認められないのである。ノアはシモンが生まれ育った自宅のリフォームが自由にできないことには同情できたが、大サロンの美しい床板をモルタルで埋めようとする神経は理解できなかったので、正直、専門部署に床暖房の件が却下されて良かったと思っていた。

「ノアは床暖房欲しくないの!?」

「今まで住んでいたアパートで床暖房は大抵あったから、君ほど床暖房に憧れはない。こんな身分不相応な邸宅に住まわせてもらって、身の回りのこともしてもらって申し訳ないくらいだ」

「そういうこと言わないって約束したよね!? 遠慮してるつもりで「ただの居候」とか「間借り」とか言われても、こっちは少しも嬉しくないの!」

 珍しくシモンに怒られ、ノアが委縮する。ノアは自分が暮らすエストホルムの館を中々「自分の家」と認めることができなかった。シモンと契約関係でしかない自分が、エストホルムの一人だと名乗ることに抵抗があるからだ。ただの一般人でしかない自分が、どうして重要文化財に指定されるようなエストホルムの館を堂々と自分の家と言うことができるだろう。身の程を弁えているという謙虚さを示すつもりでの発言だった。しかしノアの消極的な態度は、どんな経緯であれ正式に婚姻し、ノアを家族として迎えたいと思っているシモンを不快にさせるだけだった。

「そうだった。すまない。君を不快にさせるつもりではなかった。本来であれば、こんな立派な屋敷に大きな顔をして住める立場ではないから……自信がないんだ」

 正直にノアは自分の気持を話した。

 以前はこうした自分の気持ちを伝えることができず、人に誤解され、揉めてばかりだった。そしてそこでの人間関係が嫌になり、仕事を辞め、別の場所へ逃げてしまう。ノアはその繰り返しだった。

「どんな理由であれ正式に婚姻したんだから、僕と君の立場は一緒。ここは僕の家だから君の家。忘れないで」

 シモンの優しい言葉にノアが穏やかに笑って、頷いた。

「……お仕事の話に戻ってもいいでしょうか」

 どこまでも話が脱線しそうなので、ハンスが見つめ合っている二人へ声をかける。

「床暖房の話でしたっけ?」

「違います。移住者を増やす話です。実はアルベルトさんから、広場建設の話を私の方からも強く勧めて欲しいと再三言われておりまして、困っています」

 集合住宅の話以外にもう一つ伝えなければならない話をハンスはシモンに相談する。

「だから何度言われても、今年は駄目です!」

 アルベルトがまだその話を諦めていなかったことを知り、シモンは愕然とした。

「そうなんですが、アルベルトさんはなんというか、力強い方で、一つ断るのも大変で」

「……それなら、妖精たちがアルベルトさんの広場づくりに協力するよう白樺の王に願ってみるのはどうだろうか。妖精が広場づくりに賛同すれば、街の人も表立って文句は言わなくなると思う。広場さえできれば、後はアルベルトさんが上手く活用するはずだ」

「……いいの、ですか?」

 願ってもないノアからの提案にハンスが半信半疑で確認する。ノアは何でもない顔で微笑んだ。

「ええ、白樺の王には月に一度、必ずお会いし、日々の報告をします。王は森の様子も街の様子も全てご存じですから、謁見で私が王に報告する内容と言うのは、どんな内容でもいいのです。その時に話してみます」

「──ダメ」

 しかしノアの提案をシモンがにべもなく反対した。

「シモン」

「自分の言ってること分かってるの? 元々契約している範囲外の伐採はすごく重い願いだ。その願いの引き換えに心臓を求められても、断れないんだよ?」

「でも実際に何を求められるかは、願ってみるまで分からない」

「そうだよ、分からない! だから怖いんじゃないか! 心臓を求められて、誰の心臓を差し出すの? 僕は領主の仕事がある。差し出せるのは、君の心臓しかないんだよ?」

「それでも構わない。心臓を差し出すのに相応しい何かが得られるのであれば、私は──」

「駄目! 絶対に駄目! 君がいない生活なんてもう考えられない!」

 普段であればノアに対して余裕のある態度を見せるシモンが、余裕なくノアの提案を拒否する。その必死な様子にハンスはやや面食らった。

「それなら、事前に王に見返りが何かを確認してはどうでしょうか。あまりに重い見返りを求められるようであれば、諦めて──」

「それはできません」

 ハンスより白樺の王との取引ついて知っているニルスがハンスに答える。

「え、そうなのですか?」

「格の高い妖精ほど人の願いに対する見返りは後出しします。白樺の王の見返りは必ず後出しです。どんな見返りであっても叶えたい願いであることが重要なのです」

「見返りが重いからやっぱり止めますなんて半端な覚悟で願い出ていい相手ではないんですよ」

 願いの見返りが後出しである理由をニスルとシモンがハンスに説明した。

「……そうですか。それでは王に協力を仰ぐのも難しいですね」

 それほどリスクのある役割を引き受けるから、ビョルケルの領主は高い地位を保持できるのだとハンスは改めてシモンの立場を理解した。

「……私はずっと生きづらかった」

 ノアが犠牲になる可能性のあるやり方以外を検討するシモンたちを見て、ノアは訥々と話し始める。

「何度も職も住む場所も変えて、転々と生きてきたが、そういういい加減な生き方をしていたのは、頭のどこかでこんなに生きづらいのなら、もういつ死んでもいいと思っていたからだ。……でも、シモンと結婚して、人の中で生きる方法を教えてもらって、誰かの役に立って、初めて生きるのが楽しいと思えた」

 初めて得た楽しい日々を思い返してノアは穏やかに笑った。少しの変化でも不安になるノアは、生活が何もかも変わってしまった結婚当初、笑うことさえできなかった。誰とも打ち解けられず、困惑と疑心の中で暮らしていた。だが今のノアは、人を助け、助けられ、穏やかに暮らしている。

「……ノア」

 シモンが優しくノアを呼びかけ、ノアの手を取る。

「君との生活は、私にはあまりに幸せで……過ぎたものなんだ。一日だって自分が幸福だと思える日があるなんて、想像したこともなかった。王と契約ができる程に妖精語が話せる人間は探せばいる。新しい人を迎えるのに必要なものを作るために私の心臓が必要ならいくらでも差し出せる。何も怖いことはない」

 シモンの手をノアは優しく握り返した。

「駄目だよ、やっと君と生きていける方法が見つかって、君が笑うところが毎日見られるようになったのに。ノアはやっと手に入れた楽しい生活、もう止めちゃっていいの? 僕はノアと一緒にしたいことがたくさんあるよ。ザリガニ釣りも、まだしてないよ。夏の終わりにしようねって約束したの、忘れちゃった?」

「そう言ってくれる人がいるだけで、私はもう十分だよ」

 仕事中だということも忘れて、シモンとノアは二人だけの会話をして、頬を寄せ合った。ここまで潔くのけ者にされるとニルスもハンスもいっそ清々しい気持ちさえしてきた。

「すごいよなあ、あの人たち。毎日こんな会話して飽きないんですよ……」

 ニルスには度々仕事中のスキンシップはほどほどにと言われているが、仲の良さを周囲に見せるのも仕事だとシモンは言う。シモンの言うことは全て正しいと思っているノアは、周囲の人の意見が割れるとシモンの意見に従った。

「何度でも気持ちの再放送したいんですよ」

 結婚相手と仲が良いこと以上の幸いはないと思って、ハンスは二人の態度に文句を言うことはなかった。


 ᚪᛚᛒᛖᚱᛏ

「──本当にすみませんでした!」

 リフォーム中の交流施設の前でコニーがノアに深く頭を下げて、謝罪した。

「大したことはしていません。コニーさんはご自身の仕事をされただけなのですから、謝らないでください」

 深く謝罪するコニーにノアが戸惑いつつも、優しい言葉をかける。

「でも俺の交渉の仕方が悪くて、ノア様に大きな迷惑をおかけするところでした」

 アルベルトはいまだ広場づくりを諦めていなかった。様々に手を尽くしているが、話は進展せず、同じ状況が続いている。人を説得することに苦戦しているアルベルトを見てコニーは、ノアと同様に妖精たちを説得する方面から話を進めることを思いついた。

 さっそくコニーは交流施設の近くに暮らしている白樺の妖精たちに広場を作る許可を求めたが交渉の仕方が悪く、逆に白樺の妖精たちを怒らせてしまった。広場を作ろうと考えている場所は菫の花の群生地で、菫はもう少し暖かくなってから咲く。それを多くの妖精たちはとても楽しみにしており、木を切って更地にするとは何事かと怒り出したのだ。妖精たちの言うことはもっともである。コニーと妖精たちが話す様子がおかしいとすぐに気が付いたアルベルトの要請で来てくれたノアが、妖精たちと根気よく話し、上手く場を宥めてくれたのだった。

 生活と仕事では、妖精たちに願う内容の重さや規模が違う。コニーは生活の中での願いごとで困ったことはなかったが、この交渉で始めて大きく躓いた。

 ノアは妖精たちの怒りを丁寧に聞き、街に新しい人たちを増やすことは森の発展にも役立つことを説明し、木を切る話は一度白紙に戻すことを約束して、妖精たちの怒りを収めた。

「迷惑なんて。これは私の仕事です」

「でも、妖精を怒らせた埋め合わせに、心臓とまではいかなくても、ノア様の目とか指とか求められたら、俺もうシモン様に会えません」

 ビョルケルで生まれ育ったコニーは、自分と白樺の王と契約しているノアが妖精たちにとって同価値ではないことをよく知っている。妖精たちは、自分にとって最も価値のある存在から見返りを求めた。この街で妖精たちにとって最も価値のある人間は、白樺の王と契約しているノアと、ノアと婚姻関係にあるシモンだ。

「あのくらいの行き違いや意見の決裂は、事業規模の交渉ではよくあります。心配しないでください」

「そうだよ。事業規模だと妖精への願い事は大きな内容になるから、途端に交渉が難しくなる。そんなに気にしないで」

 少し離れたところから邪魔にならないようノアと妖精の交渉を見ていたシモンがコニーに声をかける。たまたまノアの職場からアルベルトと一緒に出てきたところを居合わせた。いつだってノアと一緒にいたいシモンは強引についてきたのだ。

「どう? アルベルト。ノアは妖精たちの不安を丁寧に聞き、安心できる提案をする。妖精のために行動した実績も多いから妖精からの信頼も厚い」

 常々、ノアの社会性のない言動を揶揄してきたアルベルトにシモンはここぞとばかりにノアの有用性をアピールした。自分が交渉したわけでもないのに、何故かシモンが堂々と胸を張る。

「……確かにさっきの交渉は鮮やかだった。ビョルケルの人が妖精と交渉するところを何度か見たが、怒っていた妖精から、あそこまで信頼を勝ち取る交渉は見たことがない」

 アルベルトの基準では社会性があるとは言えないノアは、妖精に関係したことでは誰よりも成果を出す。納得のいかない部分はあれど、目の前で見た事実は厳粛に受け止めるべきだとアルベルトはノアを褒めた。

「今回はノア様に完敗だったな。コニー」

 代わってアルベルトはコニーの背中を軽く叩いた。

「……そうですよね。僕なんかじゃ、ノア様みたいにはなれないですよね。アルベルトさんが少しでも妖精語が話せれば褒めてくれるので、ちょっと調子に乗ってました」

 だが意に反し、自己卑下してコニーが自嘲する。コニーにノアとの差を見せつけるための説明ではなかったシモンが困った顔をした。

「そうじゃないよ。ちょっと経験値が違うだけで、コニーはコニーの方法で交渉できるようになるよ!」

「そうだ。お前は他人を気にかけ過ぎて余計な仕事を背負い込んだり、誰かの発言にショックを受けやすいが、絵も工作も得意だし、基本的に接客も単純作業も力仕事も何でもバランスよくこなせる」

 落ち込み始めた大事な従業員をアルベルトはすぐに力強く励ました。

「規模の大きい要求がうまくいかないのは仕方ない。お前に足りないのは純粋に妖精語のスキルと交渉の試行回数だ。これは努力で挽回できる。でもあっちはどうだ!? 対人能力も生活能力もそう簡単に上がるもんじゃない。死ぬ気で頑張れば、お前はノア様を超えられるんだ! 自信を持て! ノア様に勝て!」

 コニーを励ましたいだけだったのだが、何もかも赤裸々に事実を語って、アルベルトはコニーの肩を強く叩く。

「……ノア様と勝負してないです……」

 一体どれほどの努力をしたらノアに追いつくのだとコニーは絶望するが、アルベルトの力強いコニーへの励ましを聞いて、ノアもまた表情を変えた。

 能力値のバランスの良いコニーの妖精語がもっと上達し、妖精との交渉が自力でできるようになったら、一人では人と上手く関われないノアの価値は下がる。まだ起きてない事実に勝手に不安になったノアがすぐにシモンを見た。シモンは、そんな不安がるノアの肩を優しく抱いた。

「大丈夫。何も心配することなんてないよ。生活に必要な能力を全て犠牲にして、妖精語と妖精との交渉に能力一点掛けしたノアに敵う人間なんて滅多にいないよ。何度も言ってるよね。一人で全てのことをする必要はないんだ。ノアが不得意なことは僕がフォローする。ノアはノアの得意なことをすればいいんだよ。君の後ろには領主の僕と白樺の王がいる。コニーが君に勝てる日が来ると思う?」

「卑怯だぞ!」

 ノアはバックアップチームが強力すぎて、何の後ろ盾もないアルベルトたちに勝ち目はなかった。

「卑怯じゃないでーす。仕事はチームプレーでーす」

 組織として目的を果たせばいいのだとシモンは勿論すぐさまアルベルトに言い返す。アルベルトに反論するシモンの後ろに隠れながら、ほっとした表情を見せるノアが、アルベルトは正直気に入らなかった。

「なんでもバランスよくこなせるコニーさんは素晴らしいです。私もそうなりたいのですが、どうにも難しくて」

「ノア様の妖精語にも相手に合わせた交渉もとても敵いません。いつもとても勉強になります」

「うちの交渉人」の方が優秀だと喧嘩をしているアルベルトとシモンの横で、コニーとノアは互いを褒め合った。最初に挨拶をしてからまだ日は浅かったが、この二人は仲が良かった。

「……アルベルトさんの言う通り、私は苦手なことが本当に全くできません。同時に複数の作業をするのが苦手なので、職場では会議の議事録係を免除してもらっています」

「議事録取れないってなんだよ!?」

「聞くだけ、書くだけならできるのですが、人の話を聞きながら書き取るというのができなくて」

 議事録が取れない理由が理解できず、アルベルトはノアに呆れるしかない。ノアのできないことが、アルベルトは本当に嫌で堪らなかった。どうせ会議中でもぼんやりしているから、話の内容を聞き逃すのだろう。ただ集中すればいいだけのことをしないノアも、それを許すシモンやノアの職場にもアルベルトは度々苛立ちを感じていた。

「あのさあ、そうやって苦手なこと逃げて回ってると、どこかで痛い目みますよ」

 アルベルトの指摘にノアは表情を固くして、言葉をなくす。

「いいの! その代わり、地下の蔵書室の掃除はノアが多めに担当してる。自分のペースで黙々とやる作業は得意だからさ」

 アルベルトの強い叱責に怯えるノアの間にシモンがすかさず入って反論した。

「誰にでも得意な作業も苦手な作業もあります。全ての作業を全ての人が同じようにやる必要はないと思いますよ、アルベルトさん」

 真面目なノアができないと言うならできないのだろうとコニーもノアに寄り添って、アルベルトを宥めた。

「コニーの言う通りだ。ノアはたくさんの音があるところが苦手だから基礎学校の運動会には行かないけど、祝辞の手紙を書いてくれるし、大きな行事がある時は湖の妖精に歌を歌うことをお願いしてくれる。できないことを無理してやるんじゃなくて、できることをすればいいんだ」

「……シモンが街の人たちに上手く私の話をしてくれて、街の人が理解を示してくれるので、私は今の仕事も生活もできます。私はできないことばかりですが、せめてできることでビョルケルの人たちに報いたいと思っています。ですからお二人も妖精のことで困ったら、いつでも私に相談してください。私の職場はここからならすぐ近くですし」

 ノアが困ればすかさず助けてくれるシモンのおかげで、ノアは動揺した心を水平に戻したようだ。ノアは言葉を選んで、二人に協力したい気持ちを伝える。

「そうですね。助け合うのが一番ですね。シモン様のお考えもノア様の職場も理解があってもとても素敵です。ね、アルベルトさん」

 これからも多々協力が必要なノアとシモンと揉めることも、そもそもノアに苦手なことを克服させる気もないコニーが話の落としどころを見つけて、やや強引にアルベルトに同意を求めた。

「……ノア様は本当シモン様と結婚できて良かったですねえ」

 しかし、聞けば聞くほど、妖精以外の話が何もかも信じられないノアの生活にアルベルトは堪らず嫌味を吐き捨てる。

 アルベルトの当てこすりにコニーはとっさに言葉が出ない。シモンが眉を顰める。しかし当の本人はアルベルトに珍しく褒められたと表情を明るくした。

「はい。本当に良かったです。シモンには本当に感謝しています」

 本当に日々シモンに感謝して生活しているノアはアルベルトの表面上の言葉に素直に同意した。

「失礼ですよ、アルベルトさん」

「……そういう言い方止めてくれる?」

 しかしコニーが苦言を呈し、シモンはアルベルトの言葉を歓迎しなかった。コニーとシモンの態度を見て、ノアだけが不思議そうにしている。

「シモン?」

 シモンはアルベルトの態度をよく思わなかったが、アルベルトの揶揄を理解していないノアの前ではアルベルトを叱責できないようだ。そうやって事実を伝えないからノアは変われないのだと思ったが、それを丁寧に説明してやるほどアルベルトは優しくなかった。

「交渉も終わったし、そろそろ戻ろう。ノア、職場まで送るよ」

 仕事は終わったとシモンはノアに声を掛ける。

「すぐそこだ。一人で戻れる」

「いいじゃーん。送るよ」

 シモンがノアの手を自然な手つきで取って、やや強引に歩き出した。ノアも手を振り払うほどのことでもないのか、穏やかに微笑み、手を握り返して大人しくついていく。揃いの白樺の葉の刺繍ポーソムの施されたコートを着て、揃いの結婚指輪をして、もう今更、街の人にどう勘違いされても気にしないのか、外で平然と手を繋ぐ二人にアルベルトはただ呆れるしかなかった。


 ᚳᛟᚾᚾᚤ

「……あの二人は一体何なんだ……」

「もう家族だって使用人の方は言ってましたよ」

「家族でもあそこまでするか?」

 コニーはビョルケル出身なので、妖精と人の間を取り持ちながら街を一つ支える重圧をいくらか想像できた。その重みを半分受け持ってくれるノアをシモンが大事にすることはそこまで不自然なことだとは思わなかった。だが、両親の不仲を見て育ったアルベルトには、契約結婚でしかないはずのシモンとノアの近すぎる距離感が理解できないようだった。

「あの、アルベルトさん」

 コニーが思案しながら、アルベルトに話しかける。

「何?」

「俺、基本的にアルベルトさんにすごく感謝してますし、アルベルトさんのこと大好きです」

「そりゃどうも」

「でもノア様への態度はあまり感心しません。何でもできるアルベルトさんから見たら、ノア様はとても頼りなく見えるんでしょうけど、冬を越せない小さな妖精たちのために泣いてくださるお優しい方です」

 少し震えそうになる声を励まして、コニーは自分よりも背も高く、体格が良く、何より自分より明確に立場の高いアルベルトを諫めた。

「アルベルトさんは俺が部屋から出てくるまで辛抱強く待ってくれたじゃありませんか。ノア様にももう少し優しくしてやってくれませんか」

 どんなことも成し遂げるアルベルトの強さは時に自分について来られない者を切り捨てる冷たさにも見えた。もう少し彼に優しさがあったら。そうしたら彼に救われる人がもっと増えるのにとコニーは常々思ってやまなかった。

 アルベルトが従業員であるコニーに諫められて、黙り込む。するべき返事を考えているようであった。アルベルトは自分の悪いところを指摘されて、反射的に怒り出すような人物ではない。受け入れるべき意見を正しく見極める力があることを冬の生活でコニーはよく理解していた。そうでなければ、コニーの性格でとてもこんなことは言い出せない。

「……その優しさっていうのは、どんだけ意味があるんだ?」

 しかし、アルベルトはコニーの意見を受け入れない判断をした。思ってもみなかったアルベルトの返事にコニーが惑う。

「優しいって長所でしょう……?」

「そりゃ、ただの一般人ならそうだろうよ。だけど、あの人の立場を考えろ。領主の配偶者だぞ。領主代行だ。街の代表なんだよ。優しさより強さや冷静さを求められることの方が多いはずだ。それなのにシモン様や街の人たちにフォローされてばかりで自分の立場を全うしていない。それが見てて嫌なんだよ」

「でも妖精関係の仕事はきちんとされてます」

「妖精語が話せて議事録とれる奴なんていくらでもいるだろ。ノア様だけが悪いなんて思ってない。シモン様だって同じくらい悪い。ノア様から苦手なことに向き合う機会を奪って、何もできない人間のままにしてる」

「それは……!」

 咄嗟に言い返そうとして、しかしコニーは何も言い返せなかった。シモンの話を聞いていた時は、ノアに寄り添う姿勢を見せるシモンが正しいように思えたのに、アルベルトの話を聞いているとノアに苦手なことを向き合わせる姿勢の方が正しいように思えてくる。

「俺はお前に部屋に閉じこもったままでいいなんて一度だって言ったことはない。だがシモン様のしていることは、部屋から出てこられないノア様にそのままでいいと言ってるのと同じだ。違うか?」

「……、……わかりません」

「俺は、あの人にきちんと自分の苦手なことに向き合って欲しい。逃げてることに向き合わなきゃ、人は成長できないんだよ」

 アルベルトの毅然とした言い分をコニーは否定できなかった。

 思い返せば、アルベルトはコニーが部屋から出てくるのを待ってはくれたが、一度だってコニーを甘やかしたことはなかった。コニーの良いところは褒め、悪いところは曖昧にせずに指摘した。だからコニーは立ち直れた。アルベルトは自分の信念に従って行動しているだけだった。どうしてそれを意地悪と捉えたのだろうか。コニーは自分が恥ずかしかった。

「……ノア様みたいな人が俺の親戚にいた」

 アルベルトの言葉に黙り込んでしまったコニーを心配したのか、アルベルトが急に違う話を始める。でもそれがノアの話と全く関連しない話ではないと察して、コニーはアルベルトを見た。アルベルトはコニーが彼を諫めたことを怒った様子はなかった。

「そうなんですか」

「顔かたちは勿論全然違うが、言動がホント、嫌になるくらいそっくり。勉強はそこそこできたようだけど、初対面の人間とほとんど話せない。話せるのはごく僅かな信頼できる身内だけ。俺よりずっと年上の親戚だったから、俺が物心ついた時にはもう、彼を知ってる身内だけで周りを固めてた。どこに就職させてもロクに続かないから、身内の会社で仕事させてたよ」

「仕事をしていたなら、ちゃんと社会人をしていたってことでしょう……?」

「信頼できる身内としか話せないんだぞ。その人専用の部屋を用意して、そこで仕事をさせてたのが正しい社会人だと言えるか。会社を持っていた親戚が高齢で、別の人間に引き継いだらその人は辞めさせられた。そんな特別待遇ができるのは、近い身内だけだ。その後はもう引き篭りだ。外で働ける訳がない」

「その方は今、どうしてるんですか?」

「……信頼できる身内は、親、年上の兄貴、小さい時から面倒見てくれた叔母。皆、年上だ。親戚は他にもいたけど、俺とか年の離れた年下の親戚とはほとんど話せなかった。関係を保つべき対象だと思ってなかったのかもしれない。年上の人は順番に死んでいく。最後に残ったのは、四つ上の兄貴だ。その人が急な心臓病で亡くなったら、すぐに後追い自殺したよ。俺が第一発見者だった」

「……、」

 信頼できる人を完全に失った人間の容赦ない末路を何の心の準備もなく聞かされて、コニーはとても言葉が出なかった。

「悪いけど、俺はそれで良かったと思った。本当にもう会話できる人がいなかった。身内でさえ話せないんだ。外の人間とはもっと話せない。どうやって生きていく? どう死ぬかが違うだけだ」

 血縁の一人が死んで良かったとアルベルトは惨いことを言った。でもコニーは彼を非難すべきだとは思えなかった。自分だって同じ立場なら同じことを思ったかもしれない。人ともう関わる術を持たない人をどう扱えばいいだろう。ただ静かに飢え死にしていく様を諾々と眺めることはもっと残酷なことに思えた。

「俺はノア様にあの人みたいになって欲しくない。今ならまだ十分若い。新しいことを受け入れられる。甘やかさず、苦手なことに向き合うべきだ」

 親戚と同じようになって欲しくないというアルベルトを酷い人だとはコニーは思えない。だがどう言っていいのかわからずにいるコニーにアルベルトが少し無理をして笑ってみせた。

「悪い。こんな話、されても困るよな。あの親戚の扱いを巡って身内で結構揉めたから、ノア様見ると胸がざわつくんだよ。今なら軌道修正できるのにって。でもこれは俺だけの感情だ。お前に押し付けることじゃなかった」

「いえ、話してもらえて良かっです。アルベルトさんのこと、誤解するところでした。色々心配してくれてたんですね」

「単に過去のトラウマを刺激されてイライラしてただけだよ」

 話が途切れて、二人の間に気まずい沈黙が落ちる。今度こそ、話を変えたのはアルベルトの方だった。

「──広場は人間側の許可を先に取ろう」

「……でもそれがアルベルトさんでも無理そうだから妖精からの許可をと思ったんですが……」

 上手くいっていない方法にしがみつくべきではないとコニーはアルベルトを意見する。

「いや、お前を社会復帰させた俺に協力したいと言ってくれる人が出てきた。少し攻略方法を変えよう。その人たちは妖精たちが嫌がらなければ伐採をしていいと言っているから、伐採に反対してる人たちの説得を頼む。やっぱりこういうのは、身内からの説得の方が効く。俺じゃ駄目だ」

「す、すごいです。ビョルケルに来て一年も経ってないのに木を切ってもいいなんて普通言ってもらえないですよ」

 状況に応じて柔軟に作戦を変え、保守的な人たちに新しい考えを受け入れさせるアルベルトの手腕にコニーは感動した。

「何言ってんだ、俺じゃない。お前が頑張って外に出たおかげだ」

 コニーはアルベルトに感謝の気持ちしかなかったので、逆にアルベルトに感謝されて恥ずかしいような嬉しいような気持ちになった。

「人間側の許可が出たら、改めて妖精を説得しよう。交流施設は俺たちの施設だ。これはノア様じゃなくお前に任せたい。何としても六月の夏至祭期間の前には完成させるぞ」

 六月の夏至祭の期間は、今でも昔ながらの夏至祭を守り続けるビョルケルに多くの人が遠くから訪れる。気候も良く、午後の十一時くらいまで空も明るいので、列車も夏の特別スケジュールで夜遅くまで運行する。シモンは保守的な街の人の感情を考慮して急ぐなと言うが、妖精と暮らす街を外の人に体験してもらう絶好の機会をアルベルトが逃すはずがなかった。

「木を切った後は広場の整備作業があるから、来週には木を切りたい。それまでに人間側を説得する。味方がビョルケルの商工会議所の所長と副所長だからな。やれると思う」

「わかりました。街の人たちからの許可出たことを説得材料に、また頑張ってみます」

 コニーは自分を部屋の外に強引にでも連れ出し、仕事まで作ってくれたアルベルトに本当に感謝していた。コニーの脳裏にあるのは、美しい言葉で妖精と対等に話すノアの姿だ。絵本の挿絵のような光景を一目見れば、もう忘れられない。あんな風に自分もなれたら。妖精語にある程度自信があれば、誰もが一度は思うものだった。

 ノアのように妖精と難しい交渉を成功させ、アルベルトに報いたい。ただその思いだけが、コニーの中の不安を必死に搔き消していた。


 ᛋᛁᛗᛟᚾ

 ノアといつも二人でとっている夕食が終わった後、使用人からエストホルム邸の庭に変な生き物がいるという報告を受けた。ノアとシモンがサンルームの窓から見てみれば、エストホルム邸の近くの森から時々やってくる『影』であった。生き物の残骸のようなもので、寂しさを埋めるために人の多い場所へふらふらとやってくる。エストホルム邸には魔法使いのシモンと妖精によく好かれるノア、それに使用人たちが多数いるので、こうした寂しさを抱えた生き物がしばしばやってくる。相手にしなければそのうちに森へ帰ってくるのだが、その日やってきた『影』はずっとエストホルム邸の周りをウロウロしていた。

 シモンがノアと婚姻する前からエストホルムに勤める使用人たちは、よくあることなのであまり気にしないのだが、最近雇い入れた使用人たちはエストホルム邸に来るこうした生き物に遭遇した経験がなく気味悪がった。

「いるだけで気味が悪いから追い払って欲しい」と言う使用人と「あれはいたところで何もしない。放っておけばいい」と話すノアで話が噛み合わない。マヤが「たまには対応されてみては?」とやんわりノアに提案するが「普段は何もしないのに、何故今回は対応すべきなのか」とノアが悪気なく反論する。使用人のマヤの方から雇い主の配偶者のノアに命令はできない。困ってマヤがシモンを見るので、シモンは苦笑しながら「気味悪がってるから対応してあげて」とノアに依頼した。シモンが対応してもいいのだが、シモンはノアにもっと人と関わって欲しかった。自分にとっても意味のないことでも、相手のためにしてやり、関係を良好に保つということを覚えて欲しかった。ノアは気味悪がる使用人のためではないが、シモンにそう言われたのですぐに対応しに、エストホルムの外へ出た。

「申し訳ありません。私が気味悪がったせいで、お手間をおかけして」

 マヤの隣に立つ若い使用人がシモンに頭を下げた。

「いいんだよ。助け合いだ。……ノアと少し話がある。ノアがあの影を追い払ったら、二人分のレモネードを僕の部屋に用意して、ノアに部屋に来るよう言って欲しい」

「かしこまりました」

 シモンはマヤにそう言いつけると自室へと戻った。ノアの部屋と対照的に刺繍ポーソムの施された絨毯を引き、ベッドのシーツやソファーのクッションにも様々な刺繍ポーソムを施したカバーを掛けた華やかな部屋だ。

 ノアとレモネードが来るまで、シモンは机で手紙の返信を書く。電話もあるのだが、教会や駅など人の集まる場所に少しあるばかりで、ビョルケルでの主な連絡手段はまだ手紙だった。ちょうど切りの良いところで、ノアとレモネードを用意したニルスがやってきた。

 ニルスはレモネードとクッキーを盛り合わせた皿をソファーの近くの小さなテーブルの上に並べる。ノアが先にソファーに座り、遅れてシモンが隣に座った。用事を済ませるとニルスが静かに部屋を出ていく。二人きりになって、シモンとノアは顔を見合わせた。

「夜のフィーカだね」

「話があるんだろう?」

 用意してもらったレモネードを飲みながら、ノアはシモンに尋ねる。

「別に大したことじゃないよ。さっきのこと、ノアには意味がないことでも対応してくれてありがとうって言いたかっただけ。影を気味悪がっていた子、安心したと思うよ。ノアは相手の表情とか身振りから感情や気持ちを読み取るのが苦手だから、相手が喜ぶ体験を積み重ねるのがいいと思うんだ」

 怒られるために呼ばれたのではないと理解して、ノアがほっとする。

「……君の言う通りにすると不思議なくらい生活がスムーズに進む。誰とも軋轢を生まない」

 だからシモンの言う通りのしたのだとノアは、シモンの願いを聞き入れた理由を話した。

「まあ、そりゃね」

 シモンから見たら、何故そこでということでノアは人の関係に躓く。ノアが悪気なく人との関係を悪化させる前に必要な対策をして、するべき振る舞いを教えれば、ノアは素直に実践してくれた。これで随分ノアの生活は問題が起きなくなった。

「でも私は君の指示に従っているだけだ。本心からの行動ではないし、どうしてそうしなければならないのか、私は理解していない」

 今までは日々の生活を問題なくこなすだけで、シモンもノアも精いっぱいだった。今後を考えていかねばならないとシモンが思っていたことをノアがきちんと理解していたことにシモンは驚く。

「相手のことなんて考えていない。……私は嘘をついている。何も誠実ではない」

 シモンの指示通りにしながら、きっと本当はずっと不安だったことをノアはシモンに訴えた。

「違うよ、それは違う」

「私のしていることは、ただの……擬態だ」

 ノアが度々口にする擬態と言う言葉にシモンは心臓を掴まれたような心地がした。ノアが擬態と言う度にシモンはどう言葉を返せばいいのか、いつもわからない。ノアの訴えに困っているシモンを見て、ノアは諦めたように笑った。

「いいんだ。昔からそうだから。正解パターンを覚えて、真似をする。そうする意味なんて考えたこともない。私が一人で正解パターンを見つけるのは大変で、効率が悪い。そのせいで住む場所も仕事も何度も変えた。今は君が正解を教えてくれるからすごく助かってる」

 ノアにとっての会話は、シモンにとっての会話と大分違うのだと知ったのは、ノアと暮らし始めて二年が経つ頃だった。シモンは相手を知るために会話をする。着地点はあっても正解はない。言い回しや話題選びに試行錯誤はあれど、会話とは相手との共同作業だった。しかしノアにとっての会話は『正解の反応』をするためのものだった。常に失敗の許されない一問一答の試験を受けているような感覚であるらしい。人の気持ちが汲み取れないノアにとっての会話は共同作業ではない。初めての人との会話は、見たこともない試験問題を受けさせられていることに等しかった。

「……君だけが私の失敗を許してくれる。正解を教えてくれる」

 隣に座るシモンの肩にもたれかかってノアが呟く。

「そのままの私でも怒らない。他の人は誰も許してくれない」

「……そんなことないよ」

 決してそんなことはなかった。まだノアを理解できていなかった頃、シモンはノアができないことを何度も怒った。しかし、それではノアを泣かせて傷つけるだけだと学んだだけで。かつてのシモンは今のアルベルトと何も変わらなかった。

「あの人は、許してくれない」

 ノアが悲しそうに首を横に振る。シモンだけがノアを許しても意味がないのだと。そんな風に。

「アルベルトは、難しいね。ノアの助けがないとできない事業をしようとしていたから、関わっていくうちにノアのことを理解してくれると思ったんだけど、想定通りにいかなかった。嫌な思いをさせてごめん」

 ノアの有用性を仕事の中で証明できれば態度も変わるかと思ったが、アルベルトはノアの長所で短所をお目こぼしすることはなかった。ノアが反論できない正論で、ノアの欠点を強く指摘する。

「……君はいつも私を守ってくれる。ありがとう」

 シモンが謝ることではないとノアはシモンの肩から頭を上げて、レモネードの入ったグラスをテーブルに置いて、シモンの手を取り、礼を言った。ノアにとって、手に手を取ることが相手を安心させる間違いのない手段で、ノアは自分が何度もそうしてもらったようにシモンを安心させるためにシモンの手を取る。互いの気持ちがずれていないことを確認して、どちらかともなく二人は顔を寄せた。額を押し当て、息が触れるような距離で二人は笑った。

「そういえば、今日、どうして君はアルベルトさんに注意をしたんだ。彼は君と結婚できて良かったと私を褒めてくれたのに」

 少し体を離して、ノアが聞きたかったことをシモンに尋ねる。うやむやにしたはずの流れをノアに掘り返されて、シモンは言葉に詰まった。

 あの揶揄を褒められたと勘違いできる程度には、ノアは人の言葉の裏が読めない。ノアを傷つけるだけの説明をシモンは正直したくなかった。

「……あー、なんというか」

「うん?」

「あれはね、……褒めてたんじゃないよ。街の人が君を気にかけて協力してくれるのは、僕の配偶者だからであって、そうじゃなきゃ誰にも気にかけもされず、どこにも馴染めず、今頃どこでどうしてたんだろうねという……嫌味だよ」

 だが嘘をつくことも、下手に誤魔化して誤学習させるのも適切な対応ではない。シモンは仕方なく、ノアに本当のところを誤魔化さずに話す。

 ノアが褒められたと思っていた言葉は、本当は嫌味だったとシモンに言われ、ノアは青緑の目を見開いた。アルベルトとのやり取りを改めて思い出しているのか、ノアがシモンから視線を外し、何かを考え込む。ゆっくりと時間をかけて、ノアはシモンの言う意味を飲み込んだ。

「……そうか、私はまたからわれたのか」

 また、という言葉がシモンは悲しい。ノアから聞かれる過去の話は、どれも良い内容ではなかった。

「でも、僕もコニーも注意した! あんなこと言う方が悪いんだからね!」

 咄嗟にシモンはアルベルトを非難した。あの場面で、非難されるべきはノアを揶揄したアルベルトである。それに間違いはなかった。

「でも、皆、本当はそう思っている。自分でもわかっている。私は君の配偶者だから、ビョルケルの人に気を使ってもらえる。そうでなければ過去に暮らしていた街と同じ結果だった」

 ノアはシモンのフォローの言葉にも冷静だった。ノアの言い分を否定することをシモンはできなかった。シモンがノアの言葉を否定しないことを肯定と受け止めて、ノアは悲しい顔をする。

「人の気持ちもわからない。できないことばかりで、いつも周りの人を呆れさせる。揶揄もからいもわからない私はきっと彼には滑稽でしかないだろうな」

「ノア、」

「少しでもボロが出ないように毎日必死に擬態をしている。本当に必死に。それでもアルベルトさんのような人にはすぐに見抜かれる」

 シモンの指示通りに行動するようになって、ノアは人と揉めることが格段に減った。周囲の人がノアを大事にしてくれるようになった。でもそれはシモンの指示に従った結果で、ノアが人と付き合える方法を獲得した訳ではない。想定外の何かが起きれば、ノアは途端に何もできなくなった。何もできなくなるノアを見て、大抵の人はノアが誰かの指示で動いているだけだと察して、ノアに失望する。アルベルトのようなタイプには、心からの行動ではないことを責め立てられる。

 ノアの目から涙が溢れて、ポロポロと零れ落ちた。

「……私はきっと、人ではないんだ」

 もう悲しいという感情さえ通り越したのか、虚ろな表情でノアは呟いた。

「違う、違うよ、ノア」

「私は自分が恥ずかしい。消えてしまいたい」

 両手で顔を覆って泣くノアをシモンはどう言葉をかけていいかわからず、ただ抱きしめた。

 たくさんの良いところが、ノアの中には勿論あって。でもそれを全て上書きしてしまうくらい彼にはできないことがたくさんあった。自分がシモンたちのようではないことにノアはずっと苦しんでいる。きっとそれは魂の形や色からして違うことだから、改善することは難しいのだろう。それなら、彼が彼のままで周囲に馴染めるように、周囲が少しずつ合わせたらいいのではないかとシモンは思っていた。そうしたらノアもまた一歩周囲に歩み寄れる。

 だが、ノアの周囲にいる人全てにシモンの考えを強制できない。エストホルムの使用人たちはノアの世話をすることが仕事の一つなので付き合ってくれるが、アルベルトやコニーのような距離感の相手には、相手の善意を期待するしかない。たまたまハンスやコニーはノアに寄り添ってくれたが、アルベルトはそうではない。アルベルトは自分の考えが正しいと自負を持っている。アルベルトのような人間もいる中で、気持ちを割り切りながら暮らすということはノアにはとても難しい。アルベルトの正論に毎回深く傷つき、身動きが取れなくなる。シモンもノアとアルベルトの間で、どうしていいかわからなくなっていた。

 小さく震えて泣くノアの髪をシモンは何度も撫でた。優しく背を叩き、ノアを宥める。

「どうしたらアルベルトと上手くやっていけるか考えるから、少し時間をくれる?」

 小さな声で嗚咽を漏らしながら、もう自分ではどうしたらいいのかわからないノアが縋るように頷く。

「作戦を考えるのは僕の方が得意だから任せて。皆で助け合おう。君もアルベルトも」

 子供のように泣いて甘えるノアの髪にシモンは子供にするようなキスをする。

「皆で仲良く暮らそう」

 ビョルケルは妖精と人が共に暮らすおとぎ話のような街なのだから。

 このエンディングが相応しいと、それだけはシモンは確信していた。


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