表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妖精の森  作者: 四つ葉
3/8

 ᚾᛟᚪᚺ

 ノアがシモンと婚姻をしたのは三年前の夏の終わりだった。ノアは生まれつき容姿に恵まれ、勉強もよくできた。妖精語も誰に教わることもなく、幼い頃からある程度話すことができ、妖精によく好かれた。子供の頃、病気で視力を大きく失うと、ブルーベルの妖精が自らの目をノアにくれたほどだった。しかし、言葉に裏表のない妖精と付き合うのは上手でも、ノアは人と付き合うことがとにかく下手だった。相手の表情や身振りから感情や本心を読み取れない。人の言葉の裏やニュアンスがわからず、嫌味や揶揄いに気づけない。興味の幅が狭く、人との目的のない日常会話に参加することが苦痛で人との関係が続かない。それでも学生時代は勉強ができれば、人付き合いの下手さをある程度、お目こぼしもされた。良い教師に出会い、地方ゆえに生徒の数が少なかった教室の中でそこまで孤立することもなかった。しかし働きに出たら、そうはいかなくなった。似たような性格の子たちを選んで引き合わせ、本人の性格や得意不得意に合わせた活動を勧め、生徒たちの拙い会話の隙間を埋める声をかけしてくれる教師たちがいなくなった途端、ノアはどうやって人と関係を作ればいいのかわからなくなってしまった。そこで初めて、今まで一人で人との関係を作れたことがなかったことに気が付き、ノアは愕然とした。

 それでもノアは職場で仕事をしながら人と関係を作る努力をした。だが学校とは違い、職場では正解を指導してくれる人がいない。ノアは自分の行動のどれが正解で、不正解なのか振り返りができず、何一つ答え合わせができないまま、日々が過ぎていく。そして恐らくノアが選んだ行動のほとんどが不正解だった。気が付くとノアはいつも職場で孤立し、仕事を続けられなくなった。そうなる度にノアは仕事と住む場所を変えて、あちこちの地域に引っ越した。

 そんなノアを見かねて、偶然仲良くなったニワトコの木の妖精が、妖精の言葉と知恵を授けてくれた。これなら妖精と暮らす街で、妖精語の仕事ができるとニワトコの妖精が助言をしてくれた。ノアの妖精語は生活をするには問題ないが、仕事とするには少し心もとなかったからだ。ニワトコの妖精のおかげで、それまで選択肢に入らなかった妖精語の翻訳の仕事ができるようになった。かつて人と妖精が隣り合って暮らしていた昔、妖精は気に入った人間に様々な贈り物をした。特別な宝石や魔法の道具、他にも妖精の目、耳、知識、羽、心を読む能力、様々な秘術。そうした貰い物をする人間は珍しくなかったのだが、人と妖精が離れて暮らすようになった頃から、妖精から貰い物をする人間はすっかり減ってしまった。そのため、妖精の知恵を貰ったノアは、妖精と暮らす街では歓迎された。しかしその歓迎も初めのうちだけだった。どれだけ流暢に妖精語を話し、妖精の知識を持っていても、人と会話をし、関係が保てなければ、仕事は続かない。ノアは結局、妖精語の翻訳の仕事も長く続けることができなかった。

 南に比べて、北の方が妖精との暮らしを続けている街は多い。いくつか場所を変えれば、こんな自分でも受け入れてくれる所もあるかもしれない。ノアは妖精が多く暮らす街を選んでさらに北へ移動した。そうした辿り着いたのが、夏は白夜と呼ばれるほど日が長く、一年の半分を占める冬は曇天に覆われ、暗く寒いビョルケルであった。

 時期の良い夏の終わりにノアはビョルケルへ来た。大きな湖の畔、どこまでも広がる草原に夏の花が咲き、あちこちに可愛らしい赤い家々がある。ガラス工房の煙突からはゆるゆると煙が立ち上り、幌馬車がガラガラと走る道には轍ができる。人々はふっくらとして愛らしいウールの糸の刺繍ポーソムを施した服を着て、人間と一緒に幌馬車に乗る妖精たちが楽しそうに歌を歌っていた。そしてその街を取り囲むようにして、青々した葉を茂らせる白樺の森があった。言葉が出なくなるほど美しく、人と妖精が仲良く暮らす街をノアは一目見て気に入った。

 市役所の移住課で住処と仕事を紹介してもらい、街の中央にある教会が統括している妖精語の古書の翻訳部署にノアは就職をした。かつて人と妖精とは同じ言葉を話した。教会が保存している古い書籍や資料は、全て古い妖精語で書かれている。人々の中から妖精語が急速に失われつつある現在、どの街の教会も所蔵している妖精語の古書の翻訳作業に追われていた。

 そんな状況で、ノアのような妖精の知識や言葉を貰った人たちは大変重宝された。見目も良く、妖精の知識と言葉を貰っているノアは、ここでも最初はとても歓迎された。今度こそと思っていた。けれど自分の何が悪くて過去の職場で孤立したのかわかっていないノアは結局ここでも上手くいかなかった。過去の職場と同じように職場の人との行き違いが起きる。小さな誤解を上手く解けない。相手の言っていることが本心なのか、冗談なのか、判別がつかないので、場にそぐわないことを言ってしまう。皆が当たり前にできる仕事のいくつかが、何故かノアはできない。すぐに職場に通うことが辛くなった。もうここでも無理なら次はどこへ行けばいいだろう。これ以上北ともなるとそれこそ雪で作った家で暮らし、狩猟をする生活を今も続ける集落で暮らすことになってしまう。さすがにそれはできないと次の行き場もなく、追い詰められていると、ノアは職場である老人に声をかけられた。

 ビョルケルの人らしい金髪と青い目の大柄な男だった。夏の太陽のような金髪を後ろに撫でつけ、顔には貫禄のある深い皴があったが、老いは感じさせなかった。ノアよりも大きな体をまっすぐと伸ばし、姿勢も良い。堂々とした振る舞いには風格があり、誰もが彼に一目置いた。仕立ての良い背広に豪華なルビーのブローチを身に着けている。手には結婚指輪以外にも複数の大きな宝石のついた指輪をしていた。身なりから男性が裕福であることは一目で分かった。豪華な身なりを見ても、嫌味には感じられない。服も宝石もどれも彼によく似合っていた。

 彼は名をヴィクトル・エストホルムと言った。この街の領主を続ける魔法使いの一族の苗字である。この街で一番高い立場の男が何故つい先日越してきたばかりで、もう職場で孤立し始めている新参者に声をかけてきたのか、ノアには全くわからなかった。彼は動揺するノアを教会の賓客をもてなす応接間に通して、こんな話を始めた。

 自分はまだ健康だがそれなりに高齢であるし、重いリウマチの妻のために共に暖かな土地に移住をしなければならない。そのため領主の権限を孫に引き継ぎたいと思っている。領主としての権限を譲るには、白樺の王と呼ばれる妖精との契約が必要だ。孫は愛嬌もよく、魔法使いとしては優秀なのだが、残念なことに妖精語が非常に苦手である。妖精との契約には、正確で厳格な妖精語が必要だ。私の息子夫婦はすでに亡くなっており、孫は一人っ子で他に契約を引き継げるエストホルムがいない。何としても孫に引き継がねばならないのだが、あの妖精語力では正直難しいので、契約の儀式のときに君に通訳をお願いしたい。露骨に通訳をすると白樺の王の心証が悪くなるので、孫が困っている時だけ助けてやって欲しい。

 自分と正反対の人間がいるものなのだなとノアは正直感心した。白樺の森の奥に白樺の王と呼ばれる古い妖精が棲んでいることは、ノアもビョルケルに住むことを決めた時に街の移住課の職員から聞かされたので知っている。ノアはそれまでたくさんの妖精に会ってきたが、さすがに神にも近い格の高い妖精に会ったことはなかったので、白樺の王とはどんな妖精なのか純粋に興味があった。加えて、こんな自分でも役に立つことがあるのなら協力したいという気持ちから、ノアはヴィクトルの依頼を引き受けることにした。

 ヴィクトルの孫はシモンと言った。誕生日が少し前に来てノアより一つ年上の青年だった。ヴィクトルと同じ金髪と青い目。細身ですらりとした体格。ヴィクトルほど体は大きくなかったが、余裕のある悠然とした振る舞いは、育ちの良さを感じさせた。本来であれば自分ができなくてはならない妖精語の通訳を頼むことに対して、卑屈になることなく素直にノアに協力を願った。苦手なことやできないことを人に頼むことが苦手なノアは、こんな人間がいるのかとシモンを見て感心するばかりだ。そして、ノアは白樺の森の奥、普段は人の立ち入らない妖精の森と呼ばれる場所で、シモンの契約の儀式に立ち会った。

 結論から言うとシモンは白樺の王と契約ができなかった。儀式に際して、ノアは本当に必要な時だけ背後からシモンをフォローしたつもりだった。それは後にヴィクトルも認めてくれたし、シモンも否定はしなかった。だが、フォローされていること自体が白樺の王の不興を買うには十分な行為だった。「お前は私と契約をするのに必要な条件を満たしていない」と白樺の王はシモンに言い放ち、ノアへ自分と契約をするよう言いつけた。

 神にも近い古い妖精を前に拒否などできなかった。白樺の王と契約することがどういうことを意味しているのか何も理解しないまま、ノアは言われるままに白樺の王と契約をした。契約を済ませると白樺の王は月に一度の謁見に必ず来るように言い、あっという間に姿を消してしまった。

 シモンなりにギリギリまで妖精語の勉強をしている姿をノアは見ていた。儀式の直前まで、過去の儀式の記録から質問されそうな内容の回答を作り、妖精を称える言葉を暗記していた。ノアも少しでもシモンが白樺の王に気に入られるようにシモンの用意した予想回答集の見直しを手伝った。だが、森の様子も街の様子も全て知っている白樺の王に予想回答集など全く役に立たず、王はシモンが事前に暗記してきた内容を全て躱した質問をしてきた。事前に用意した回答がなければ、ノアに助けられないと答えられない付け焼刃の妖精語力のシモンを白樺の王が認める訳がない。「苦手なことを逃げてきた自分が悪いんだよ」と言いながら、人の感情を読み取るのが苦手なノアでもわかるほどに、シモンは契約ができなかったことに落ち込んだ。ヴィクトルは一番なって欲しくない事態になったと頭を抱えた。

 シモンが白樺の王と契約ができなかった経緯は仕方がなかったにせよ、こうなると次のビョルケルの領主はノアだ。しかし領主として生きていく術など何も知らないノアに任せては街は大変なことになる。どうしてもシモンがビョルケルの領主にならなくてはならなかった。そこで取られた措置が、シモンとノアの婚姻であった。

 魔法使いの血族たちとって婚姻とは、好き合う二人が交わすものではなく、厳格で正式な契約形態の一つである。互いの関係を明確にし、事前に提示された条件で互いを制約する。こうした制約のある関係は、自らも相手のために尽くす必要があるが、同じだけ相手から大きな恩恵を引き出すことができる。そのため、エストホルムのような土地を守る義務のある魔法使いの血族たちは、今でも格の高い妖精や大地、海、大樹など、様々なものと婚姻することがあった。そうして様々なものから恩恵を得て、土地やそこに住む生き物を守るのである。妖精たちは婚姻した者同士を、親子などの濃い血縁関係を持つ者たちと区別なく同等に扱った。つまり、白樺の王と契約したノアと婚姻することは、白樺の王と契約することと同義であった。

 土地や大樹などと婚姻することもある魔法使いたちにとって、同性の人間と婚姻することはビジネスパートナー契約のようなものである。領主として生きていくために生まれてきたようなシモンは、ノアと婚姻することに全く抵抗はなかったので、すぐに気を取り直して「じゃあ結婚しよ」と平然としていたが、ノアはそうではない。恋愛感情もなければ、数日前に初めて会ったばかりの同性とは結婚できないと猛抵抗した。しかし、婚姻しないのならば明日からビョルケルの領主としてやっていく覚悟があるのかとシモンに詰められ、ノアはあっさりとシモンと婚姻することを了承した。

 こうしてヴィクトルの紹介で二人が初めて挨拶をした日からたった一週間でシモンとノアは正式に婚姻をした。婚姻をするには教会での儀式が必要だったので、婚姻証明書に互いの名前を書くだけの本当に簡素な式をして、ノアはエストホルムになった。別姓を選ぶこともできたが、ノアは苗字を変えた。ずっとどの街でもどの仕事でもノアは誰とも関係を上手く築くことができなかった。そんな自分がどんな経緯であれ誰かと婚姻する日が来るなんて思ってもみなかった。結局、全く役に立たなかったがシモンと共に予想回答集を見直していた数日間、シモンはノアの妖精語をよく褒め、ノアが何でも言葉通りに受け止める会話の下手さに少し驚くことはあっても馬鹿にして笑うことはしなかった。シモンのような人が近くにいてくれたらとぼんやりと思っていたことが突然現実になった。身寄りのないノアが、初めて他人と繋がりが持てた。もしかしたらエストホルムとしてなら、人と上手くやっていけるかもしれない。そう思っての苗字の変更だった。

 しかし苗字を変えたところで、ノア本人が変わるわけではない。そんなことで人は変わらない。人と関われない人が、人と関われるようになるには、それに見合うだけの努力が必要なのだと知り、そして強制的に努力を求められたのは、ノアがシモンと婚姻をした年の冬のことだった。


 ᛋᛁᛗᛟᚾ

「──ほら、ノア、もうお客さん来てるから早く」

 エストホルム邸の二階は邸宅の主人であるシモンとノアの生活エリアである。その二階でシモンとノアは朝から押し問答をしていた。使用人たちが毎日しっかりとアイロンを当てた皺のないシャツの上に二人は揃いの灰青のスーツを着ている。スーツの下衿には小さな白のアネモネの刺繍ポーソムが施されており、シモンは胸元に大きなエメラルドが嵌め込まれたブローチを付けていた。指には結婚以外にも指輪をし、シモンはいつでも華やかに着飾ることを忘れない。対して、余計なものをあまり身に着けたくない性質のノアは、結婚指輪と毎日着用している細い金の腕輪以外の装飾品は身に着けていなかった。

「シモン、やっぱり私は行きたくない。君だけ話してきて欲しい」

 だがノアは、後はもう階段を下りるだけという段階になって、決意を翻した。

「何、言ってんの!? 今日はノアの提案を実行する日でしょ! そのための資料も用意したし、君がいないと話にならないの。皆、待ってるよ!」

「……でも、あの人がいる……」

 今日のために用意した資料を持っているノアは、視線を俯かせ、とても悲しい声を出した。

「ノア様はアルベルトさんが苦手なのです」

 ノアの身支度の手伝い──というよりは、客人に会う心の準備の手伝いをしていたマヤは、ノアが悲しそうにしている理由をシモンに伝えた。

「わかってる。彼はノアの苦手な要素を完璧に満たしてる」

 ノアが本日の客人に会いたくない理由は明白で、シモンはため息をついた。

「でも、アルベルトは今日、君に会いに来たんだよ」

「……彼は私のことが好きじゃない」

「ま、まあ、それはそうなんだけど、でもアルベルトは君がいないと仕事にならない。君の方が立場は上だ。あいつがまたノアを悪く言うならすぐに助ける。口ゲンカは得意だ。心配しないで」

 ノアが余計なことを言い出したせいで、もう約束の時間を少し過ぎている。客人をこれ以上待たせないためにも、シモンが階下に行きたがらないノアの手を強引に取り、サンルームへ直接繋がる螺旋階段を下りた。サンルームに繋がる扉を開く。冬の間の曇天が嘘のようにここ数日は天気がいい。天気がいい日は、客人をできるだけサンルームに通すようにしていた。このサンルームはエストホルムへ訪れる客人たちにも大変評判が良かった。

 サンルームにはすでに客人がおり、使用人たちが運んできたコーヒーを飲んでシモンたちが来るのを待っていた。一人掛けの椅子に四十代の眼鏡をかけた金髪の男性、湖の真正面の二人掛けのソファーに茶髪でややふくよかな体系の若い男と、黒髪、黒目の大柄な壮年の男が並んで座っている。彼らはシモンたちがサンルームに入ってくるとすぐにそちらを向いた。

「──お待たせしました」

 シモンはまず客人たちに挨拶をした。その後ろでシモンの後ろに隠れるようにしてノアがサンルームへ入ってくる。

「お世話になっております、シモン様。今日は天気が良くて、安心しました」

 最初に席を立ち、シモンへ声をかけたのは眼鏡をかけた金髪の中年の男性である。ハンス・エールンバリと言う名で、ビョルケルの市役所の移住課の課長をしていた。

「ええ、そうですね。雨だと森へ行けないので、晴れて良かったです」

 シモンはハンスと握手をして挨拶を交わす。それから二人掛けのソファーに座っている二人の男を見た。茶髪のふくよかな体形の青年がシモンと目を合わせるとすぐに立ち上がって頭を下げた。

「は、初めまして! コニー・トゥーンベリです。アルベルトさんのお仕事を手伝ってます」

「エストホルムへようこそ。話には聞いてるよ。絵がすごく上手なんだって?」

 シモンは話ながら、コニーへ手を差し出した。緊張でやや震える手でコニーがシモンの手を握り返す。

「い、いえ、好きでよく描くだけで、上手ってほどでもないです。俺くらいなんていくらでもいますし」

「そんなことないさ。コニーは都会で舞台の美術制作をしてたんだ。実家も工務店だし、器用で大抵のものは作れるし、何でもやってくれる。助かってるよ」

 謙遜したコニーにすかさず言葉を挟んだのは黒髪で大柄な男だった。名をアルベルト・ランデルと言う。去年の夏の終わりに単身でビョルケルに引っ越してきた男であった。現在、アルベルトは移住課で紹介された古民家を改装した家に一人で住んでいた。家族用の家しかなかったので部屋を余らして仕方がないらしいが、移住者向けの手探りの改装に文句を言わず付き合ってくれるそうで、改装を請け負う業者の人たちからの評判はとても良かった。

「妖精語も得意だし、工作も絵も得意で、アルベルトにはちょうどいい人材だね。どうやって知り合ったの?」

「ただのご近所さんだよ。工務店の知り合いが何人か欲しくてさ、近所の工務店に出入りして、そこで店番してたコニーの母親と仲良くなって、外回りから帰ってきた親父さんと仲良くなって、弟のエディとボードゲームするために家に行くようになったら、二階で引き篭ってた」

「……トイレとか食べ物や飲み物を取りに行ったりで、たまには一階に降りるので、その時にアルベルトさんに捕捉されたんです」

 お恥ずかしいと言いながらコニーは正直に自らの身の上を語った。

 アルベルトとコニー本人の言う通り、コニーはつい最近まで仕事をせずに、実家の自分の部屋に篭り切りの生活をしていた青年であった。

「なんだよ、捕捉って」

「最初、怖かったんですからね! 引き篭りにいきなりバイト代出すから妖精語を話してみろって言ったら、心臓発作起こしますよ!」

 コニーは三年ほど前に学校を卒業して、都会での生活に憧れてビョルケルを出ていった。そうした若者はビョルケルでもとても多い。しかし、舞台の美術制作という業界が過酷だったのか、就職した会社が良くなかったのか、まだ新人だったコニーの労働環境はお世辞にも良いとは言えるものではなかった。ある時、コニーは大きなミスをしてしまい、完成間近だった重要な作品を一つ壊してしまった。その大きなミスをコニーは大勢の人の前で二時間謝罪させられた。翌日、職場の人に対する恐怖心で仕事に行くことができなくなってしまったコニーはそのまま仕事を辞めて、ビョルケルへ戻ってきた。自宅の自分の部屋で引きこもるようになってからも、コニーは気持ちを奮い立たせて、何度か職を探したが職歴に空白期間があるせいか、書類審査に通らず、またふて寝をする日々を続けていた。そんな時にアルベルトに声をかけられたのである。

「起きてないだろ。エディが兄ちゃんは妖精語も得意だし、バイト代出すなら声かけていいって言ったんだよ」

 アルベルトは妖精を利用した新規事業をしようとしてビョルケルへ越してきた。妖精を仕事で利用したい場合、彼らと正式に契約を交わすために妖精語が必要になる。正式な契約がないと妖精の働きを確実に期待できないからだ。アルベルト自身は妖精との生活を選ばなかった南部の都市の出身で、妖精語が全く話せなかったため、妖精語が堪能な部下が必要だった。まだ若く、体力があり、定職を持っておらず、妖精語が堪能で、素直でこき使えそうなコニーはアルベルトには丁度良い人材であった。

「あはは! 面白いね。それで知り合って、妖精に会うためにコニー連れ回して、社会復帰させたんだ」

「そう。人と妖精が交流できる施設の改装を始める時に正式に社員にした。毎月、ちゃんと給料を出してるし、有給もあるぞ。福利厚生はこれからきちんと詰めてかなきゃな」

 そう話すアルベルトは、以前暮らしていた都会では二つの会社を経営していた社長であった。本人は小さな会社だったと謙遜するが、経営状況は良く、すでに一生分の収入は得たらしい。そのまま会社経営を続ければ良いものを、アルベルトは信頼できる社員に会社の経営権を譲渡し、自らは会社から離れた。同じことを続けるのは趣味ではないという。また新しい事業を始めようとアルベルトはビョルケルへやって来た。彼が現在、稼働させようとしている事業が、妖精と人を繋ぐ事業である。

 数年前、とある児童書が話題になった。内容は少年と妖精の王道の冒険譚だ。都会にはいない妖精たちと少年の冒険譚は、妖精と馴染のない子供たちには新しく映ったようで、近年稀にみるヒット作になった。妖精たちとの生活を守る街は北部に多いが、あらゆる地域に存在する。このヒット作が出るまで、妖精との生活は不便で面倒で古臭いと散々都会の人たちに蔑まれてきた。しかしこのヒットのおかげで、妖精と暮らす街に注目が集まった。妖精との生活をしたことのない人たちが、妖精と関わることに興味を持って、ビョルケルのような妖精と暮らす街へ観光に来るようになったのである。ビョルケルは元々六月の夏至祭とヘムスロイドと呼ばれる手工芸品が特産品であった。しかしその手工芸品ヘムスロイドも都会の工場が作り出す安価な製品で満足してしまう人が増え、年々売り上げが落ちていた。

 そこにこの児童書のヒットだ。妖精に会いに都会の人の方からビョルケルに遊びに来てくれ、ビョルケルの手工芸品ヘムスロイドにも興味を持ち、土産として買っていく人が増え、売り上げが戻ってきた。シモンの祖父のヴィクトルは領主として非常に優秀で人望のある人だったが、保守的な性格で、外から人を呼ぶことをあまりしてこなかった。そのため、ビョルケルの若い人が都会に憧れて出ていくのに、ビョルケルにはやって来ない。じりじりと若者の数が減り、年間の新生児の出生数が下がっていく。保守的な祖父の政策に散々苦言を呈して、何一つ受け入れられなかったシモンが、この児童書のヒットを逃すはずがなかった。

 しかし、この児童書には欠点もあった。ストーリーの重要な要素である妖精の描写が少しも正しくなかったのである。児童書では、妖精は人の心を持ち、人に寄り添える友人のような扱いであったが、実際はそうではない。彼らは彼らの倫理観と価値観があり、自然の延長のような存在で、人に恵みももたらせば、災厄ももたらした。彼らはただそこに在る。そこに人が寄り添い、共に生きることで、次第に心を通わすことのできる存在であった。

 ビョルケルに生まれ、暮らすシモンたち地元民はそうしたことを日々の生活の中で知っていたが、都会の人はそうではない。思うように妖精と会話できず、触れ合えず、もっと言えば児童書のように人の言うことを聞かない妖精に腹を立てて、妖精と仲の良いビョルケルの人を罵倒して帰ってしまうこともしばしばであった。ビョルケルの人たちは、せっかく遠くから来てくれた都会の人に妖精との付き合い方を教えてやりたいのだが上手くいかない。シモンもどうしたものかと悩んでいた時にビョルケルにやってきたのが、例の児童書のヒットで妖精と生活する街に興味を持ったアルベルトであった。

 アルベルトは移住課で住む場所を紹介してもらい、就職はせずに街をふらふらし、街の人と話した。北の土地では、白夜の夏が終わると短い秋が来る。白樺の葉が黄葉してくると人は冬支度を始める。ビョルケルでは特に寒さの厳しい真冬の十二月、一月、二月は列車が運行しない。レールが凍結して危険であり、列車の車輪とレールが擦れる甲高い音が冬の森に響くことを妖精たちが嫌がるためである。三か月もの間、物流が止まるため、人はどの家にもある地下倉庫に食べ物や必要な日用品、薪などの燃料を備蓄する。その備蓄を分け合い譲り合いながら、人は暗く寒い冬を越した。

 アルベルトは独身の若い男性と言う保守的な老人たちには嫌われそうな立場でありながら、非常にコミュニケーション能力が高く、様々な人から話を上手に聞き出し、冬支度が進んでいない老人たちの手伝いをして、あっという間に街の人たちの信頼を勝ち取った。そして街の人たちと会話をしていく中で、街の人から街の成り立ちや人々の関係、妖精について学んだ。どうやら児童書に書かれていたことはあまり当てにならず、妖精語ができないと妖精と契約できないこと、契約ができないと生活のサポートはともかく仕事にはならないこと、妖精との交渉には相応の見返りが必要なこと、妖精にはそれぞれ特徴や性格があるので、それに応じた対応が必要なこと、街の人も妖精たちもビョルケルを取り囲むようにして存在する白樺の森をとても大事にしており、森で生活の糧を得ることはあっても徒に傷つけることはしないことを。

 アルベルトは冬の間にシモンとも積極的に交流した。観光客と移住者が増えそうな事業を始めたいというアルベルトをシモンはすぐに気に入った。アルベルトのような人間は耳に痛いことも臆せず言ってくるが、有益な考えや思想をもたらし、行動力もあるので、自分で言ったことを実現する力がある。こうした人間はビョルケルにはあまりいないので、本当にいいタイミングで、いい人材がやってきたとシモンは感動したものだった。

「アトリエの改装工事は順調?」

 シモンがリフォーム担当のコニーに仕事の進み具合を尋ねる。

「はい。今は水回りの工事をしていて、昨日、きちんと蛇口から水が出るようになりました」

 コニーの色よい返事にシモンは満足げに頷いた。

 シモンや街の人たちから丁寧に話を聞き、自らの新事業の構想を語っていくうちに、アルベルトは元画家のある老人から白樺の森の近くにある古いアトリエを一つ、安く売ってもらえることになった。長い間、使用されていなかったので、ガラクタと埃塗れでかなりの改修を必要としたが、アトリエを一目見て気に入ったのはコニーだった。これでコニーの社会復帰が確たるものとなればという気持ちも手伝って、アルベルトはアトリエを買い、妖精と人の交流できる施設を作ることにしたのであった。

「シモン様、やっぱり色々考えたんだけど、交流施設の隣に妖精が来る広場が絶対に必要なんですよ」

 穏やかなコニーとシモンの会話にすぐさまアルベルトが割って入る。

 交流施設はあるだけでは意味がない。そこへ人が来る動線を作らねばならない。つまり街の入り口から外の人がやってきて、交流施設まで迷わず移動でき、そして妖精に会える。ここを確実なものとしなくてはならなかった。移住課の人と話し合い、街の入り口から交流施設まで、観光客が迷わず来られるよう看板や案内を出してもらえることになった。次に大事なのは確実に妖精に会えるということである。

 ビョルケルにいればすぐに妖精に会える訳ではない。彼らは彼らの生活があり、いつどこに誰がいるかわからない。野生生物と同じである。檻に閉じ込めて人に見せる訳にはいかないので、できるだけ自然な形で彼らには交流施設の近くに常に留まって欲しかった。現在アルベルトはこの妖精の確保という課題に頭を悩ませていた。

「でもあのアトリエ、ちょうど森と街の間にあって広場を作る余裕がない。だから少しだけ森の木を切って空間を作りたい。俺は重機の免許を持ってますから、重機さえあれば切り倒し作業ができます。ビョルケルにも重機はあるんでしょ?」

 アルベルトは妖精を確実に交流施設の近くに来させるために、妖精が過ごしやすい広場を作る案をシモンや街の人たちに話していた。日向、日陰、川、砂地、花のある場所、洞窟のように湿って暗い場所、子供たちが遊べる遊具。そうしたものをバランスよく配置することで、様々な種類の妖精を安定して呼びこむことができる。この広場を有料で利用させることで、事業の利益を得ようとしていた。どこの地域でも自然はいつ誰がどのように利用することも自由であったが、人の手で管理されている施設の一部であれば料金を取るのは不自然なことではない。しかしアルベルトの案は、街の人たちにも妖精たちにも受け入れられなかった。広場を作るために木を切るということが到底受け入れられなかったからである。

 ビョルケル市役所とエストホルムとしては、ビョルケルへ訪れる観光客と移住者を増やすために、自分たちでは考えつかなかった妖精を利用した新規事業をなんとしてもアルベルトに始めて欲しい。そのため、アルベルトが当初考えていた有料の広場以外の方法で、アルベルトが費用面で問題なく事業継続ができ、観光客と妖精が自然に会える環境づくりをする必要があった。

「ありますが、妖精との契約で重機の利用はとても制限が厳しいんです。資格を持っているからって簡単には使えないですよ」

 アルベルトの意見にすぐに異を唱えたのは、ハンスだった。移住課とアルベルトはビョルケルへ人が来る方法についてよく話し合っていた。

「そうですよ。重機は古い建物の解体とか基礎工事とか、あくまでも街の中で利用することが前提で、森の木を切るためには使わないんです。だからビョルケルの林業組合は重機を持っていません」

「その話は街の人にも妖精にも却下されたよね? ビョルケルに来たばかりのアルベルトが、白樺の森の木を重機で切ったら本当に大事になるよ」

 もう何度も却下している話をまた言われてシモンはアルベルトのしつこさに呆れる。

「でも白樺の森の土地の名義人はエストホルムでしょ。ならシモン様の特別な許可が出たってことにできないんですか?」

 自分の提案に確信を持っているアルベルトは、強い決定権を持つシモンにまだ食い下がった。

「できないよ! 白樺の森の土地の名義人こそ僕だけど、自然っていうのはそもそも誰のものでもない。皆のものだ。名義人の僕でさえ、勝手なことはできない」

 ビョルケルの街及び、ビョルケルを取り囲む白樺の森の広大な土地は、全てエストホルムの名義である。しかしそれは守るべき土地の範囲を明確にするためのもので、エストホルムが身勝手に開拓していい土地という意味ではなかった。昔から、どの地域も「自然は皆のもの」という共通意識と、その共通意識を守るための法律がある。誰がいつ白樺の森へ入り、魚を取り、狩猟をし、キノコや木の実を採取しても構わない。名義人のエストホルムでさえ、森の開拓が必要な時は必ず森に住む妖精と街の人たちと相談して、その開拓範囲を決定した。

「でも、生活のために白樺の木を切るのは街の人たちだって一緒でしょう? 白樺細工とか家を建てるための材木とか、燃料の薪を確保するための伐採と何が違うんですか? 妖精とは『生活のための伐採はしていい』って契約なんでしょう? それに切った分と同じだけの植林の手伝いはきちんとしますよ」

 三百年前に当時のエストホルムの領主が妖精と交わした契約書には、《近くに住む妖精たちに許可を取った上で、斧で木を切るのであれば、生活のための伐採は許可される》とあった。白樺細工の材料、燃料、建築資材の確保など一部は生活のための伐採として明確に記載があるが、それ以外の伐採は《これら以外の伐採については都度、近くに住む妖精と相談して伐採の可否を決める》とある。生活の変化にも柔軟に対応できるよう曖昧に書かれた契約書は、解釈を巡って、時々こうして揉める。だが今回の広場づくりに関しては、アルベルトの言い分は全く通らず、人、妖精ともに伐採不可の決定を下していた。

 木を切る目的も、その木を切るのが新参者のアルベルトであることも、木を切る手段が重機であることも街の人も妖精たちも到底認められなかった。そのことにアルベルトは苛立ちを隠さない。

「アルベルトが言いたいことはわかるんだけど、今回の広場づくりに関しては、人も妖精も『生活のための伐採』とは認めなかった。諦めて」

 妖精と暮らす上で最も重要なことは妖精との約束を違えないことである。ここは譲れないとシモンは頑としてアルベルトの意見を受け入れなかった。

「そりゃ短期的な目で見ればそうだけど、長期的な目で見れば広場づくりも生活だって! なんで田舎の人ってそういうの、わっかんないの!?」

「後はもう、根本的に新参者の都会人が森の木を切り倒すのが単純に気に入らない」

 伐採が許されない本当の理由をシモンは正直にアルベルトに答えた。

「あはは……」

 せっかく言わないでいたことをはっきりと言葉にしたシモンにコニーは苦笑いをするしかない。

「もう本当にそれですよね」

 ハンスもまた本当はわかっていたことを言うべきか、言わないべきかを迷っていたが、シモンがはっきりと言ってくれたのでシモンの本音に同意する。

「ふっざけんなよ! 誰がコニーを社会復帰させて、ボロボロのアトリエ買って、改装して、街に人を呼び込んでやろうとしてると思ってんだよ!?」

「アルベルトさん、シモン様は理解しています。理解してる人に当たるのは止めましょう」

 コニーに冷静に止められ、確かに意味がないことをしているとアルベルトはシモンを責めるのは止めにした。

「ごめんね、アルベルト。ずーっと広場を作っちゃダメって言ってるんじゃないんだよ。もう少し時間をかけて、交流施設が街のためにどんな役に立つのかを見せてから、広場を作る交渉をしても遅くはない。街の人はまだアルベルトたちが作っている施設ができるとどんなことが起きるのか想像がついてない。交流施設に協力すると観光客が増えて、その中から移住を考える人が出てくるって理解したらまた考えが変わる。そうすれば妖精が常にいる広場を作ることが生活の一つだと認めてくれるよ」

「……それは一体何年後の未来の話なんですかね……」

 都会人のアルベルトに比べて、恐ろしくゆっくりなビョルケルの人たちの時間感覚にアルベルトはため息をつくしかなかった。

「無理強いはできません。やれることからやっていきましょう」

 ハンスが優しくも毅然とした物言いで、アルベルトを諦めさせる。アルベルトはまだ不服そうにしていたが、それ以上、シモンに食い下がることはしなかった。

「それより、今日は皆に森の木を切る話をするために集まってもらったんじゃないよ。今の状況でもできるだけ確実、安全に妖精に会える場所について、僭越ながらエストホルムからご提案させていただこうと集まっていただきました。──ね、ノア」

 パン、と手を叩き、シモンが話題を変えた。サンルームの中央付近でやいのやいのと会話をしていた三人が、シモンに促され、一人サンルームの入口付近にいたノアへと視線を移す。四人の大人の視線が急に自分に集まって、部屋の隅で気配を隠すように立っていたノアはびくりと肩を竦めた。

 シモンはアルベルトを気に入っているが、ノアはアルベルトのようなタイプが非常に苦手だった。誰にでも話しかけ、体も大きく、迫力があり、見た目だけも怖いのに、耳に痛いことも臆せず言ってくるので、同じ空間にいるだけで萎縮するのだ。

「なんで、そんな端っこで隠れてるの。こっち、おいで」

 サンルームの隅で静かに気配を消していたノアにシモンが不思議そうな顔をして呼ぶ。

「おはようございます」

 ノアは暗い表情のままで、シモンたちへ近づき、挨拶をした。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

「どうも。今日はよろしく」

 ハンスがいつも通りの笑顔で挨拶をし、アルベルトが短く挨拶をする。その簡素な挨拶にノアはさらに暗い表情を見せる。アルベルトが自分を見下していると勝手に推測して暗くなっていることは想像できたが、このタイミングではシモンもノアをフォローできなかった。

「初めまして! コニー・トゥーンベリです!」

 まるで憧れの大スターに会ったような興奮でコニーはノアに握手を求めた。生活や仕事に必要なので、ビョルケルには妖精語と妖精との交渉が得意な人間は多くいるが、誰もノアの妖精語と交渉力には敵わない。特に妖精語を得意とする人たちにとって、白樺の王と契約が交わせるほどに妖精語の堪能なノアは憧れの存在だった。

「は、はい……。初めまして。ノア・エストホルムです」

 対して、ノアはコニーの方から差し出された手を恐々と握り返した。

「皆、立ち話もなんだし、座ってよ」

 シモンがアルベルトたちに腰かけるよう促す。外がよく見える二人掛けのソファーにコニーとアルベルト、アルベルトたちの右手の一人掛けのソファーにハンス、窓ガラス側の二人掛けのソファーにシモンとノアが座った。

「妖精に会いにビョルケルに遊びに来てくれた人をがっかりさせないように、できるだけ確実に妖精に会える場所を街中と森の中それぞれでノアがピックアップしてくれました。まずは地図を見てくれる?」

 シモンに促されて、ノアが手に持っていたビョルケルの地図を皆に配る。地図は観光客向けに無料で配布される簡易なものである。今はまだアルベルトたちが作っている交流施設の記載はないが、交流施設の完成の目途が立ち次第、この地図にも記載予定である。地図を見れば、妖精がよくいる場所が赤い丸で囲われ、妖精の種類とよくいる時間帯について記載されていた。

「じゃ、ノア、説明してあげて」

「え? でも、地図を見たら内容はわかるから……」

 別に自分は話さなくていいだろうと言わんばかりのノアの態度にシモンは困った顔をする。

「いやいや、ちゃんと説明してあげてよ。アルベルトは妖精のことまだそんなにわかってないしさ。ノアからの説明が聞きたくて、ここに来たんだよ」

 シモンにそう頼まれればノアは断れない。人と視線を合わせるのが苦手なノアは自分用にも用意した地図を広げて、そちらに視線を落とした。俯いたまま、自信なさげに話し始める。

「……お手元の資料をご覧ください」

「聞こえませーん!」

 下を向いているし、声も張らないので、遠くもない距離でも聞こえにくいノアの話し方にすぐさまアルベルトから物言いがつく。一番苦手な棘のある言い方に、もう泣きそうになってノアは助けを求めるようにシモンを見た。

「アルベルト、もう少し優しい言い方してくれる?」

 ノアからの視線を感じずとも指摘をするつもりだったシモンがすぐにアルベルトを窘める。

「聞こえなかったから聞こえなかったと言って何が悪いんですか」

 しかしアルベルトは自らの態度を反省することはなかった。

「……街の人たちにまた村八分にされるよ」

 アルベルトの反省のない態度をよく思わず、目を眇めてシモンはすぐさま釘を刺す。

「……っ、」

 シモンに釘を刺されて、アルベルトが言葉を飲み込んだ。

 アルベルトは正直、ノアが好きではない。時間をかけて十分に親しくならないと顔を見ても目を合わさず、話しかけても思うような返事が返ってこない。それでも仲良くなろうと雑談を振れば「その話題は興味がありません」と客人の会話を取り付く島もなく終わらせる。いつも自信もなさげで、アルベルトの問いかけに対する返答に迷えばいつもシモンや周囲の使用人に助けを求める。ノアの振る舞いの全てが、何でもはっきりものを言うアルベルトと相性が良いはずがなかった。

 エストホルムでは妖精に関する相談はノアが担当しているので、アルベルトは何度かノアにも会いに来た。だが出会った当初のノアはアルベルトを怖がり固まるばかりで、アルベルトが何を尋ねても答えない。何も話せないノアとアルベルトの間に立つのは、ノアの部屋付きの女の使用人だ。目の前にいる人間の回答を一人の使用人を介して聞くという非常に無駄な手間にアルベルトはある日とうとう我慢ならなくなった。

 甘えるな。努力不足。そんなんでは他所ではやっていけない。もっと苦労している人は他にもいる。なんでそんなこともできないんだ。ちゃんと考えて行動してるのか。などとエストホルムの使用人が止めるのも聞かず、アルベルトはノアに正論をふりかざし、冬の間に二度ノアを泣かせた。

 そして二度目のときに妖精たちに「ノアを攻撃するひどい人」という認識をされ、妖精たちからそっぽを向かれ、妖精と協力しないと生活できない街の人に真冬のビョルケルで村八分にされた。真冬のビョルケルで一人で生きることなどできない。アルベルトはこうして二日ほど、死の危険に晒された。

 さすがにビョルケルに越して来て早々、アルベルトに死なれるとシモンとしても困るので、シモンは妖精たちを納得させるために、氷点下の真冬のビョルケルの中心地にある大広場グローペンで、ノアに対して「ごめんなさいの儀式」という今時、基礎学校でも子どもたちに禍根を残すだけで意味がないとやらない公開謝罪をさせた。立ち会いをしてくれた大広場グローペンの近くに住む街の人たちの失笑の中、いい大人がいい大人に「ごめんなさい」をする様は中々シュールであった。

 村八分の件でアルベルトのノアへの態度は強制的に軟化させられたが、それでもノアはアルベルトを怖がった。そこでアルベルトより柔和な性格の従業員を連れてきて欲しいとシモンが提案し、優しい性格のコニーが挨拶も兼ねて、一緒にエストホルムへやってきたのだった。

 アルベルトにはノアはシモンと正式な婚姻をしているがただのビジネスパートナーだと事実をそのままに説明しているが、これらの冬の間の出来事のせいで、他にもっとマシな結婚相手はいなかったのかとシモンは度々嫌味を言われていた。

「アルベルトさん、体も大きくて、ちょっと怖いですよね。俺も最初は怖かったです。でも本当はいい人なんですよ。この仕事を始めようって移住してきたのだって、前の会社のイベントで妖精に会うことがあったからなんですよ!」

 アルベルトとノアの橋渡し役を仰せ付かっているコニーが、怖がるノアに寄り添う。ノアよりも少し年下で、優しげで、おおらかな性格を予想させる、ふくよかな体系。背はノアより少し低い。ノアの脅威にならない要素を完璧に満たしたコニーにアルベルトが苦手な気持ちを認めてもらえたからか、ノアは少し表情を和らげた。

「私もお聞きしたいと思っていました。アルベルトさんはあまり妖精とか田舎暮らしとか興味なさそうなのに、どうしてこの仕事をしようと考えたんですか?」

 ハンスが尋ねて、アルベルトを見る。

「俺は経営してた会社で、家族向けのイベントをよく開催してたんだ。ファミリーは客単価が高いから稼げる」

 そんな不思議がることかと少し照れながらも、アルベルトは妖精に興味を持つきっかけを話し始めた。

「そんな動機で家族向けのイベントを開くんですか?!」

 利益を出す責任のある立場になったことがないノアが、アルベルトの会話の導入に違和感を覚えてか堪らず非難する。シモンには当然の理屈でも、資本主義社会のルールをいまいち理解していないノアにはアルベルトの理屈は非情に映るようだった。

「当たり前だろ。稼げる見込みのないイベントを企画してどうするんだ。移動式のサーカスや子供向け映画の上映会は安定して稼げるイベントでさ。でも客の子供の中には、すごく繊細そうな子とか障害がある子もいる。そういう子って普段の生活と違う環境に入ることを怖がることが多い」

 ノアの非難など全く気にせず、アルベルトは淡々と過去に出会った妖精の話をした。

「ああ、わかります。普段と違う状況は見通しが立たないので、不安なんですよ」

 二人の子の父親であるハンスが、子供の心理状態を察して、若いシモンたちにきちんと理屈のあることだと話して聞かせた。

「でもせっかくイベントに来て、テントに入れないとイベントは楽しめない。親もがっかりする。そういう時にふらりと来るんだよ。──妖精が」

 その光景をシモンたちは容易に想像ができた。サーカスなどのイベントを開くのであれば、それなりに広い敷地を必要とする。自然の多い郊外であれば、近くに住む妖精が子供たちのはしゃぐ声につられて出てきても不思議なことはなかった。

「なるほど。ビョルケルではよくある光景ですね」

「言葉も違う、種族も違う。それでも妖精が傍に寄り添ってくれるだけで、それまで泣いていた子が落ちついてテントに入ってイベントを楽しめる。妖精は来たり来なかったりで少しも当てにはできなかったけど、そういうことがちょこちょこあってさ。だからいつか、妖精と触れ合ったことのない人が、妖精と触れ合える企画をしたいと思ってたんだ」

「素敵な話だね、ノア」

 この話をすでに知っているシモンが何とかアルベルトの印象を良くしようとノアに声を掛ける。ノアもアルベルトの話を聞いて、青緑色の目を見開き、関心の態度を示した。

「ぴったりと子供に寄り添う妖精の姿が、何故か目に焼き付いて忘れられなかった。障害が重くて人と意思疎通ができない子でも、妖精とは何となく意思を交わすんだ。本当に不思議な光景でさ。でもコニーみたいに妖精を知ってる従業員からは、妖精は扱いが難しいからサーカスや動物園みたいな商業化は無理だって言われて、前の会社では妖精を扱った企画はできなかった。諦めてたところにあの本のヒットだ。この機会は逃すまいと思って、街のリーダーが若い所を選んでここに来た。老人は中々新しいことを受け入れてくれないからな」

「……そうだったんですか」

 アルベルトの穏やかな表情を見て、ノアは関心のため息をついた。

「でも実際にビョルケルに暮らしてみて、俺の見立てはかなり甘かったと痛感した。妖精は人間が飼い慣らせるもんじゃなかったな」

「確かに飼い慣らすことはできませんが、寄り添い合うことはできます」

 そういう手伝いであればしたいとノアが少し前のめりになって、アルベルトの気持ちに寄り添った。アルベルトはノアの気持ちの変化を敏感に読み取って、穏やかに笑う。

「観光客にはそういう体験をさせてやりたい」

「そうだね。アルベルトはこの優しそうなコニーを社会復帰させてくれたし、妖精と人が寄り添う姿が見たいんだよ。悪い人じゃないよ。ノアと元々相性が良いタイプの人とは関係が作れるようになってきたから、今度はアルベルトみたいなのとも話せるようになろう」

 アルベルトの話に上手く乗っかりつつ、シモンはノアを励ます。アルベルトへの気持ちが少しでも変化したのか、まだ戸惑いつつもノアは頷いた。

「移住者が増えれば色んな性格の方がビョルケルに住むようになります。ノア様が色んな方と話せるようになるのは大事なことです」

 ハンスもノアの成長には大賛成だ。ノアの協力が必須なアルベルトはちょうどいい次の課題だとハンスも捉えていた。

「そうそう。そういう努力は嫌いじゃない。いざとなったらまた俺を村八分にすればいいんだ。強気でかかって来い」

 ノアの成長の課題扱いされていることはアルベルト自身も理解している。会社をゼロから興し、成長させてきたアルベルトはそういう扱いを受けることを気にする性格ではなかった。

「アルベルトの優しさはノアにはちょっと刺激的なんだよね……」

 シモンはこういうアルベルトが嫌いではない。しかし、ノアにアルベルトの厳しい優しさを受け入れさせるのはまだ難しいので、もう少し手心をとシモンは何度もアルベルトに伝えているのだが、アルベルトがそれを受け入れたことはなかった。

「俺までシモン様のように優しくしたら、成長できないだろ!」

「……そんな、まるでやればできるみたいな言い方……」

「ああん!?」

 コニーの静かな突っ込みにアルベルトが不服の声を上げる。それにハンスとシモンが思わず笑った。笑う二人につられて、ノアも少し笑う。

 シモンとハンスは揺るぎ無く自分の味方であり、コニーもノアに寄り添ってくれるようで、アルベルトも話す努力をすることは評価するという。そういったことに加えて、ノアにとって唯一の得意分野の話であることも手伝ってか、ノアは縮こまっていた背を伸ばし、呼吸を整えた。気持ちを切り替えることが不得手なノアが思ったよりも早く、気持ちを持ち直したことにシモンは感心した。

「……すみません。私は本当に人と話すのが苦手で」

「知ってる。そういうのはいい。本題に入って」

「……、……皆さんにお配りした地図に予め、必要なことを書き込んでおきました。この時間帯に確実に妖精がいるわけではありませんが、可能性はかなり高いです。今すぐに妖精が集まる広場を作ることは難しいので、まずは観光客の方にこちらの妖精スポットを紹介するというのは……どうでしょうか」

 やや自信のなさげなノアの説明を受けて、さっそくアルベルトたちが地図を読み込み始めた。シモンに「説明を」と言われたので、地図に書き込む余裕のなかった説明をしようとノアは考える。

「この地図はシモンにも見てもらっています。ピックアップした妖精たちは人の言葉も話せます。このコースを巡って妖精に全く会えないということはないと思うのですが、天気が悪い日や寒い日が続くと難しいかも……」

「今、読んでる。黙ってて」

 必死に考え、思いついたことから説明をしていると、地図を見ているアルベルトにすげなく言われた。

「……!」

 さっきは聞こえないと言ったくせにノアが話せば黙れというアルベルトにノアは絶句する。

「ノア、状況はどんどん変わっていくから、アルベルトの言葉一つにいちいち振り回されなくていいよ。皆、熱心にノアの作ってくれた妖精マップを見てくれてるから待ってて」

 状況の変化についていけないノアが不安にならないようシモンが声をかける。

「……わ、わかった」

 シモンがフォローしたものの、無言の客人たちにノアは不安そうだ。ノアの不安をよそにアルベルトたちは熱心にノアが用意した地図の内容を読んでいる。どうやら今は地図を理解する時間らしいと察して、ノアが静かにしていると、地図の書き込みを最初に読み終えたハンスが顔を上げた。

「いいですね。人好きで温厚な妖精たちばかりですし、初心者向きかと」

 ハンスの好意的な評価にノアはほっと安堵したのか、思わず零れたノアの綺麗な笑顔に、ハンスがにこりと微笑み返す。ハンスはノアにわかりやすい方法で感情を表現してくれるので、ノアはハンスのことが好きだった。

「妖精と付き合うときの注意書きみたいなのも欲しいですよね。いきなり触ったり、安易に名前を教えたりしないとか。この観光マップに注意書きを足したらどうかな」

 次に顔を上げたコニーがノアの地図に足りない部分を指摘する。

「そうですね。後、全ての方がきちんと注意書きを読むわけではないので、口頭できちんと説明する機会が欲しいですね」

 妖精は自然の延長のような存在であり、召使いでもなければ、ペットでもない。対等な隣人として付かず離れず生きていく。この塩梅が外の人には存外難しい。過去には、一部の妖精が妖精語で話しかけなければ反応しないことに観光客が怒り出す、許可なく妖精の美しい羽を掴み、報復に怪我をさせられる、名前を教えることが交渉の合図であることを知らずに名前を教えてしまい、人間側が不利な条件の約束をさせられてしまう、などのトラブルが度々起きていた。交流施設を開くのであれば、こうした対策を考えることも必要なことであった。

「妖精がもう信頼関係のある地元の人みたいに接してくれないって怒って帰っちゃう人も多いんですよね。さっき会ったばかりの外の人に妖精は懐かないんですけど、そういうのわかってもらうの、難しいですよね」

「そうなんだよね。僕も観光客に妖精は野生動物みたいなもんですって説明したことがあるけど、本と違うってめちゃくちゃ怒られて帰られちゃったことある。……本の方が間違ってるのに」

 児童書の存在を思い出して、忌々し気にシモンが顔を顰めた。確かにシモンはあの児童書に感謝もしていたが、同時に困らされてもいた。ビョルケルに来る人が増えれば、当然トラブルの数も増える。以前は、観光客の多くは夏至祭目当てに訪れた。暗い冬が長いビョルケルにとって、夜の十一時ほどまで明るい白夜の夏至はとても大事な時期だ。ビョルケル及び、周辺の街では、昔ながらの白夜を祝う大きな祭りをした。それが夏至祭である。マイストングと呼ばれる花で飾った柱を立て、女性は花冠クランスを被り、子供も大人も皆で踊る。蒸留酒スナップスで「乾杯スコール」の合図をし、苺と生クリームで飾ったケーキと小さな新じゃが、魚の酢漬け(シル)を食べる。夏至祭期間は妖精たちも浮かれ立つ。妖精側の無礼も観光客の無礼も「夏至祭だから」と言う曖昧な理由でお目こぼしされてきた。しかし現在、ビョルケルには通年観光客が訪れる。「夏至祭だから」と言う言い訳が利かない観光客の無遠慮な振る舞いに妖精たちは度々腹を立て、やや度を越えた報復をし、それに観光客が怒り出すという悪循環が起きていた。

「あの本って確か最初は自費出版の本だったんですよね」

 ビョルケルに新しい産業を生み出してくれたきっかけをコニーは改めて振り返った。

「そう。どこかの都会のお母さんが、自分の子供のために作った寝物語を本にまとめて自費出版したんだよ。それが子供の友達にも評判で、あちこち貸し出されてるうちに出版社の編集さんの目に留まって、商業本になったんだ。最初はそんなに売れてなかったんだけど、口コミで少しずつ売れてきて大ヒット!」

「いいですねえ。作家を目指す人の憧れの出世コースですよ」

 本を読むことが好きなハンスがうっとりと憧れて、ため息をつく。

「でも、あの本のお蔭で妖精との暮らしが注目されたけど、妖精の描写が全然正しくないから、こっちは迷惑も多いんだけど! なんで、妖精は皆友達みたいな書き方したの!?」

 児童書のおかげで恩恵も受けたが、同じだけ迷惑を被ってるシモンが不満を爆発させた。

「人と人以外の生き物が心を通わせるって、絵本や児童書の定番のテーマですから」

 ごく当たり前のことを二児の父親であるハンスは言った。

 件の児童書は当然ビョルケルの本屋にも平積みで並んだ。シモンも興味を持って、すぐさま購入して読んだのだが、妖精の描写のいい加減さにシモンは頭を抱えた。観光客には来て欲しいが、この本の妖精たちを期待してビョルケルに来られたら困る。シモンの不安はすぐに現実となり、ビョルケルでは観光客の一部が悪気なく引き起こす問題に悩まされるようになった。ノアもシモンが放り出した児童書を読んだが、「違う世界の妖精の話」と割り切ることにしていた。

「こっちは時に妖精と食うか食われるかのヒリヒリの交渉してるのに!」

 現実はこちらだとシモンがハンスたちに訴える。

「子供向けの本で、食うか食われるかのヒリヒリの交渉はしないんですよ……」

 それでは寝物語にならないとコニーがため息をついた。

 児童書に対するシモンの不平不満はいつものことなので、ノアはもう今更シモンを宥めることはしなかった。最後に地図から視線を上げたアルベルトがノアを見る。

「ノア様は本当に話さないよないよなあ。この中で出版業界経験者はノア様だけですよ。何か意見はないんですか?」

 大人しくしているノアにアルベルトがちょっかいを掛けた。アルベルトの名指しの問いかけにノアは逃げられず、表情を固くする。ノアの職歴は聞いた相手を不安にさせるからあまり話すなと常々言っていたのだが、「今までどんな仕事をしていたんだ」というアルベルトのしつこい質問責めから解放されたくて、ノアは自分の職歴のほとんどをアルベルトに話してしまっていた。ノアはだんまりが使えない相手だと少しでも早く会話から解放されるために何でもペラペラ話す悪い癖があった。この極端から極端に振り切る会話の下手さが人と上手くいかない原因の一つなのだが、ノアはその悪い癖が中々治せない。

 アルベルトもさすがに一か所で一年も持たず、ただ内定が取れたから就職したことが透けて見える仕事への熱意も何もない職歴をさすがに哀れに思って、ノアを罵ることはしなかった。しかし時々こうして揶揄の材料にはされた。

「ええ!? 出版社で働いた経験あるですか!? すごいです!」

 真実を何も知らないコニーが目を輝かせてノアを見た。真実を全て知っているシモンはやや困った顔をした。

「……い、いや……その……ただの……バイトで……」

 コニーにそんなにも憧れられるような働きは一切していないとノアがしどろもどろに答える。

「それだっていいじゃないですか。どんなバイトしてたんですか?」

「……出版社に投稿されてきた応募作品の下読みです」

 ノアはコニーに正直に答えられる部分だけを選んで話す。

「そのお仕事の話は初めて聞きますね。ノア様はよく本を読まれますし、向いていたんじゃないんですか?」

 アルベルトとは違い、ハンスはノアの職歴を尋問することこそしなかった。だが、仕事で付き合っていく中で、ノアが過去の職場でことごとく仕事が長続きしなかったことは知っていた。

「仕事の内容は向いていたんですが……下読みのバイトを統括していた編集さんが……その……怖い方で、」

「方で?」

「一週間でバイトを辞めてしまって」

 コニーとハンスに期待の視線を向けられ、ノアはしばらくどう答えたものか悩んだが、どう言葉を言い繕ってもマシな表現にならないと諦めて、正直に過去を語った。

「あ、……そういうこともありますよね。すみません。余計なことを聞いて」

「いいんです。私の職歴はどれもこんな感じで……ビョルケルに来るまで、ロクに仕事が続いた試しがないのです」

 ハンスもアルベルトも知っていることなので、遅かれ早かれコニーも自分の職歴を知るだろうとノアは自らの過去を話した。

「そうだったんですか。なんだか意外です」

 同じ小さな田舎街で暮らしているので、シモンの隣で妖精とも街の人とも卒なく話すノアを見て、それがまさか地道な訓練の結果だとコニーが想像できなくても不思議はなかった。

「どうせ少し注意されたのを必要以上に気にして辞めたんだろ」

 アルバイトを辞めた経緯までは知らなかったアルベルトが呆れ、勝手にノアの退職理由を推測する。

「ち、違います! 他の人が怒られているのを見て、怖くなって辞めたんです!」

 根拠のない推測は心外だとノアは反論するが、決して褒められた退職理由ではなかった。

「……あのさあ……」

 せめて自分が怒られてから辞めろとアルベルトはノアの言い分に呆れるしかない。

「今は妖精語の翻訳の仕事も領主代行の仕事も続いてるんだから気にしないの」

 このままだとノアがまた余計な話をしそうなので、シモンがさりげなくノアとアルベルトの会話に割って入った。

「……でも、ハンスさんは市役所の仕事一筋なのに」

 自分でも情けない職歴がコンプレックスで仕方のないノアが、職務経歴書のお手本のような職歴のハンスを見て、さらにまた落ち込んだ。この面子の中で、自分だけまともな職歴がないと不安になっているノアの手を隣に座るシモンがそっと手に取った。どちらかの心が不安な時、手に手を取ることが二人の約束だった。

「いいんだよ。ノアは今までの人生でたった一種類のジャムしか食べたことがないの? お気に入りのジャムを見つけるのには、色々食べて試すしかない。ハンスさんはたまたま一つ目のジャムの味が気に入っただけなんだよ。ノアはお気に入りのジャムを見つけるのに、他の人よりちょっと手間取っただけだ」

「俺も都会で一回転職したことありますよ。一社目が就職して半年で倒産しちゃって、慌てて転職活動したんです」

 シモン同様、コニーもノアを慰めた。

「……そうだったんですか。コニーさんも苦労されてたんですね」

 皆、自分の苦労はわざわざ話さないのだと知って、ノアは少し安心したようだった。

「ノア様のご苦労ほどじゃないよ。一年おきに会社を変えるのは大変だったでしょう」

 アルベルトの言い方にシモンはやや目を細めた。ハンスもいい顔をしなかった。コニーもアルベルトの言い方に戸惑っている。しかしノアだけは不思議そうに眼を丸めた。

「……この間は、仕事が続かないなんて甘えだと言ったのに、今日は苦労したと言ってくださるんですね」

 自分の言い分を簡単にひっくり返すタイプではないアルベルトが珍しく以前と違うことを言うのにノアは少し驚く。

「ノア様、多分、そういう労りの意味ではないです」

 アルベルトの言葉の裏を察して、できるだけ傷つけない言い回しでハンスがノアにニュアンスを伝える。

「……!」

 また言葉のニュアンスがわからなかったノアは表情を変えた。

「……そういう言い方、良くないですよ、アルベルトさん」

 これは明らかに自分の会社の社長の言い方が良くない。社員として、コニーがアルベルトを窘めた。しかし社員に注意されてもアルベルトは反省の色もない。

「お前は遠くから見てるだけで、この人の本性を知らんからそう言うんだ。いつもシモン様とノア様は揃いのお洋服で素敵ですね。でも、ノア様が自分で服を選べないから、シモン様が選んだ服を真似できるようにわざわざ揃いの服を誂えたんでしょう?」

 アルベルトの指摘に、コニーが改めて二人の服装を見る。皺のない真っ白のシャツ。下衿には小さな白のアネモネの刺繍ポーソムが施された灰青のスーツ。身に着けている装飾品に差異はあれど、二人は上から下まで揃いの服を着ていた。遠くから眺めるだけだった時も、コニーはシモンたちが揃いの服や上着を着ている様を見ていたはずだが、意識的にそうしているとは知らなかっただろう。

「……え、選べない訳では……ただ人に見られる機会が増えたので、服を選ぶのに時間がかかるので」

 一人で選べないと、一人で選べるが時間がかかる、は明確に異なる事実だ。ノアは後者であり、その二つを混同されたくなくて、アルベルトに反論する。しかしアルベルトがノアの言い分を認める訳がなかった。

「そういうのを選べないって言うんだ。今日だって、本当はノア様一人で良かった。シモン様はわざわざ予定をキャンセルして付き合ってくれてるんでしょう。自分の仕事くらい、自分一人でしたらどうですか。いい大人が甘えて情けない」

「アルベルトさん、いい加減にしてください!」

 アルベルトの容赦ない物言いをハンスがすぐに窘める。ハンスの思わぬ叱責の声にコニーとノアがびくりと肩を竦めた。人が言い合う様に必要以上に委縮する二人を気遣って、シモンが手の動きだけでハンスを制した。

「コニーに一度挨拶しておきたかったし、僕が妖精語を十分に話せなかったせいでノアは本来であれば必要のない仕事と責任を負わされることになった。本当は街の隅っこで静かに暮らしたいだけだったのに、僕のせいで毎日街中の人から声をかけられ、注目される立場になって、洋服一つ選ぶのにも気を遣う。ノアの不安と負担を減らすための対策をして何が悪いの。ノアは僕の仕事を手伝うために、妖精語の翻訳の仕事を減らしてくれている。助け合いだよ」

 シモンは悠然と振る舞い、ノアに代わってアルベルトの指摘に理路整然と説明する。これは過度の甘やかしではなく、生活上必要な対策であると。

「それが甘やかしすぎだって言ってるんですよ。ノア様が一人で服も選べない、仕事も進められない人間のままだと困るのはシモン様ですよ」

 しかしアルベルトはシモンの説明にそう簡単に誤魔化されるほど単純ではなかった。

「できない訳じゃない。苦手な部分をフォローしてるだけだ。ノアは必要なことはきちんとできる。現にこの妖精マップを作ってくれたのはノアだよ。ノアは今や僕よりもビョルケルの妖精に詳しいし、僕よりもずっと上手に妖精と交渉できる。ノアの妖精語だって、どれほどの努力の上に成り立っているのか、アルベルトは少しも想像できてない」

「ノア様はニワトコの妖精から言葉と知恵をもらったんでしょ? 努力なんて──」

「それは違います。ただ言葉と知恵があるだけでは駄目なのです。言葉も知恵も組み合わせです。必要な時に必要な言葉と知恵を正しく引き出せなければ意味がありません。それができる見込みある人間にしか、妖精は知恵も言葉も授けないのです」

 ビョルケル出身なので、アルベルトよりも妖精について知っているハンスがすぐにアルベルトの安直な考えを否定する。ノアの持たされたものがそんな簡単なものだと思われるのは、ハンスにもシモンにも心外以外の何物でもなかった。

「人間とは比べ物にならないほど長い時間を生きる妖精の知恵と言葉は、広く深い湖のようなものだ。扱いきれなければ、人の心より深い知恵と言葉に溺れて、人は気が触れ、廃人になる。妖精の知恵と言葉をもらって、正気を保っていられることこそがノアが日々努力している証だ」

 静かに、しかし毅然とシモンがアルベルトの知らない話をする。

 妖精の知恵と言葉は自らが扱いきれるという自負がなければ抱えているだけで気が触れる。妖精の知恵と言葉を持ちながら正気を保つには、日々の生活の中でその知恵と言葉を役立てる必要があった。

 ハンスとシモンの反論にさすがに分が悪くなってアルベルトが黙り込む。シモンとアルベルトが互いを見つめ、ノアたちは二人の出方を窺った。自分のせいで悪くなったと空気に耐えられず、ノアが最初に口を開いた。

「……努力と言ってもそんなにすごいことをする必要はありません。誰かのために妖精語を話した。一冊の妖精語の本を読んだ。それだけで十分です。頭の中に流れてくる膨大な言葉の海に溺れず、自分を見失わなければいいのです」

「アルベルトはノアが苦手なことが気になって仕方がないようだけど、できるところに目を向けて欲しい」

 真っ直ぐにアルベルトを見て、シモンは言うべきことを言った。もうアルベルトには何度もノアとの付き合い方を話したはずなのだが、アルベルトは中々納得しない。しかし、今回ばかりはアルベルトもノアを認めるだろうとシモンは手応えを感じた。

 しばし真剣な表情でシモンを見ていたアルベルトは、━━唐突に笑い出した。急に笑い出したアルベルトにシモンもノアも戸惑い、ハンスとコニーは慎重に事の成り行きを見守っている。

「……ははは、お優しいシモン様。本当に契約結婚なんですか?」

 そう言って、アルベルトは視線を二人がしている揃いの金の指輪に向けた。人間の社会では婚姻をするはずのない同性の二人が婚姻している。それだけでもアルベルトには違和感しかないだろう。加えて、シモンとノアは自分たちを仕事だけの関係だと言いながら、毎日揃いの服を着て、シモンは頼りないノアをフォローし、周囲に見せつけるようにスキンシップをした。それがビジネスパートナーとの標準的な関係だとアルベルトが思えないのは仕方がなかったが、シモンはノアのために今の体制を崩すつもりはなかった。

「……アルベルトさん、失礼ですよ、」

 アルベルトの言いたいことを察して、ハンスが顔を顰めて、アルベルトを諫める。

「恋人なら恋人って言えばいいじゃないですか。誰も気にしないですよ。不自然な言い訳をするからチグハグに見えるんだ」

 アルベルトにはっきりと二人の関係の不自然さを指摘されても、シモンは特に表情を変えなかった。ノアはアルベルトに自分たちの関係をどう説明したらいいのかわからないのか、困惑した表情で黙っている。

「恋人だとか、恋人ではないとか、そういう話ではないんだよ。どんな経緯であれ正式に婚姻した以上、ノア・エストホルムは僕の配偶者だ」

 アルベルトの揶揄に気を悪くすることも、怒り出すこともなく、平素の振る舞いで粛々とシモンは事実を話した。

「僕は彼を守る義務がある」

 毅然と、それでいて泰然とシモンはアルベルトに静かに宣言した。その場にいたシモン以外の誰もが息を飲んで、黙り込む。水を打ったように、場は静かになった。冬の湖面のような静けさを支配しているのは、シモンだった。自分よりも十歳近く年下のシモンに言い負かされ、アルベルトもすぐには言葉が出ない。

「──アルベルトさんの負けです」

 その静けさを破ったのは意外にもコニーだった。全員の視線がぱっとコニーに集まる。コニーは堪りかねてアルベルトの代わりに謝罪した。

「もう、ごめんなさい。この人、全然結婚願望ないから、お二人の素敵さがわからないんです。シモン様とノア様は街の皆の憧れです! 憧れてないのはアルベルトさんだけです!」

「そうです! お二人の助け合う姿は、街の規範です!」

 コニーの言葉にハンスが力強く同意した。

「そうだよね! 皆、そう思うよね!? アルベルトってよっぽど結婚願望ないんだね! まあいいや、仕事の話しよ。妖精マップなんだけど、コニーの指摘した注意書きの他に必要なものある?」

 ノアは場の空気が誰かの発言で良くも悪くも変わっていくことに戸惑うばかりだが、シモンはコニーとハンスが作ってくれた流れに上手く乗った。必要以上にアルベルトを責め立てることなく、会話を妖精の地図の件の戻す。

「地図と注意書きを上手くまとめたものを作りたいですね。具体的な内容は、これからコニーさんとノア様で詰められるのがいいかと思います」

 ハンスの提案にコニーとノアは頷く。

「そうですね。よろしくお願いします」

 さっそく仕事ができたコニーがノアに改めて挨拶をする。

「はい、では今後はどこで打ち合わせしましょうか」

 ノアは顔を合わせたばかりのコニーの都合よい打ち合わせ場所がわからない。ノアが尋ねるとコニーはサンルームを見回した。

「このサンルーム、すごく素敵なので、ここで打ち合せしたいんですけど駄目でしょうか。交流施設はまだ工事中で、人を呼べる状態ではないので」

「わかりました。ここで打ち合わせをしましょう。……シモン、いいだろうか」

 ルピナス湖の光景が美しいサンルームに訪れた客人たちは皆、一目でこの部屋を気に入った。コニーもまたこのサンルームを気に入ってくれてノアも嬉しいようだ。

「勿論。僕もお客さんを呼ぶことあるから、人と会う約束が被っちゃったら、また相談しよう」

 コニーの希望にシモンも鷹揚に許可を出した。

「ありがとうございます!」

 コニーとノアは相性が良く、話が順調に進んだ。

「今日は森を歩くは必要があるので、また別の日に打ち合わせを。注意書きに加えたい内容を考えておいてください」

「はい! わかり━━」

「ちょっと待て」

 順調なノアとコニーの会話に突然アルベルトが割って入る。

「俺はこのマップでいいとは言ってない」

 そして、ハンスとコニーとは全く別の意見を言った。

「えー? どこが駄目?」

 シモンがアルベルトの意見に露骨に不満な顔をする。コニーも困って、アルベルトを見た。

「俺はいいと思います。今、シモン様に言い負かされたからって、いちゃもんつけるの良くないですよ」

「断じて違う! このマップにピックアップされてる妖精ポイントはどれも交流施設から遠いし、まばらすぎる。妖精探して街中歩いてたら、それだけでクタクタだ。他にも手工芸品店ヘムスロイドや教会や民俗館も見て欲しいのに時間も体力も足りなくなるだろ。田舎は都会と違って見所がコンパクトにまとまってない。観光客は楽しく観光したくて来るんだよ。トレッキングに来るんじゃない!」

 てっきりいちゃもんを付けるのかと思われたアルベルトは、非常にもっともな指摘をした。

「そんなこと言われても、人のために妖精がいるんじゃないから、妖精を一箇所に集められないよ。全部回れって言ってるんじゃないんだよ。どこかで会えるよ」

「観光客は妖精を見つけるのがそもそも下手だし、見つけられなければ待てずに次のポイントに行く。運が悪けりゃ街を一周コースだ。妖精に思うように会えなくて怒り出した観光客が過去に何人いた? 観光客だって時間と金をかけて来たのに妖精に会えなきゃ、がっかりする。だから俺は早く広場を作りたいんだ。妖精に確実に会える場所を一箇所作っておけば、妖精に会えないせいで発生するトラブルを抑えられる。ビョルケルに一番人が来る時期は六月の夏至祭。今は三月末。今から木を切り倒して、広場を整備すれば六月に十分間に合う。シモン様、広場を作ろう!」

 自分は決して無計画に森の木を切ろうとしているのではないのだとアルベルトが再び広場づくりを提案する。

「うう、お前の提案はきちんと根拠もあって惹かれるけど……」

「そ、それなら……」

 不安そうにしながらも、シモンと同様に街の人と妖精の意見を無視できないノアが声を上げる。

「公園や噴水広場などのすでに街の中にある場所に、妖精ができるだけ長く留まる居心地の良い空間を作りましょう。要は妖精に会えればいいのです。すぐにできそうな場所は、ここと、ここと……」

「駄目だ」

 ノアが地図を広げて、シモンの権力ですぐに話が通りそうな場所をいくつか指さしてみるが、アルベルトが否定する。強いアルベルトの言葉にノアが体を固くした。

「案はいいけど、どこも交流施設から遠すぎる」

「どうして交流施設の近くに拘るのですか? 街を見て回りながら妖精も見つければいい」

 ビョルケルに来る観光客は決して妖精だけに会いに来るのではない。自然の中にある赤い家々、手工芸品店ヘムスロイド、森や湖、ビョルケルの美しい光景を見て回った。

「観光に来た全員が、元気で、体に不自由なく、スタスタどこまでも歩けると思ってんのか。妊婦、高齢者、赤子や小さな子供のいる若い家族、車椅子、弱視、何らかの障害のある人、そういう人を支える家族。そういう人たちは移動に悩む。ピンポイントで行きたい所だけに行く。無駄に歩き回る余裕がない。ノア様の妖精マップはそういう人が歩くことを少しも想定していない。だから駄目だと言ってるんだ」

 しかし、アルベルトは冷静な声音で、ノアの意見を却下した理由を話した。

「……すみません」

 自分の体の健康さを基準に地図を作っていたことが、ノアは恥ずかしいと体を縮こまらせる。

「ごめん、僕も気づかなかった」

 ノアの地図をチェックした段階で気が付くべきことに気が付けなかったのは自分も同じだとシモンがノアに謝る。

「さすがイベント会社元社長」

「アルベルトさん、カッコいいですよ! もうちょっと優しい言い方なら完璧です!」

 認めるべきことは認める主義のハンスとアルベルト派のコニーが低い黄色い歓声を送った。

「そこまで配慮してられるか。なあ、シモン様、駄目? なんとかならない?」

 アルベルトはコニーに褒められてまんざらでもなかったのだろうが、何でもない顔をして、ここぞとばかりにシモンに食い下がった。

「今年は駄目。今年の交流施設の活動具合をネタに街の特に保守的な人たちにまた交渉する。焦るのが一番良くない。一年だよ。僕だって本当はさっさと広場を作りたい」

 それでもやはり地元民の頑なさをよく知っているシモンは是とは言えなかった。

「一年も待ってられるかよ」

「私も説得に協力します。市役所の提案というのは保守的な方に結構響きますから」

「そうしましょう。俺も地元民なので、よくわかります。新しく来た人に街を変えられるのって、若い人はワクワクするけど、老人たちは怖いんですよ。知らない街になっちゃうって」

「妖精も人も尊敬と尊重が大事だと私はシモンに教わりました。できるだけ交流施設に近い場所に妖精が集まる仕組みを考えます。広場作りは待っていただけませんか」

 ハンス、コニー、ノアもアルベルトの意見が受け入れるべき合理的な内容だとわかっている。だが、今はまだその時ではないとシモンの意見を支持した。その場にいる全員に待ったをかけられて、アルベルトは冷静に考える。

「……ノア様」

 そして最初にアルベルトが指名したのはノアだった。

「は、……はい」

 アルベルトに待ったをかけたのは皆、同じなのにどうして自分だけ名指しされるのだとノアは震えながら反応する。

「施設の近くに妖精が安定して来る仕組みを作れるのか?」

 しかしノアの予想とは違って、アルベルトは俄かに目を輝かせてノアを見た。叱られるのではなく、意見を聞かれているだけだとわかってノアは安堵した様子を見せる。

「コニーさんはご実家が工務店で工作が得意なんですよね。妖精用の小さな水場や屋根のある休憩所を作ってもらえませんか。妖精が好きな木や花を交流施設の周りに意識的に植えるだけでも違います」

「任せてください! 水回りは父親の得意分野です!」

 ノアの提案にシモンが満足げに頷いた。

「ノアはアルベルトが知らないことを知ってるし、協力する。アルベルトは僕たちが気づかないことを指摘して欲しい。助け合おう」

「……わかった。焦って悪かった」

 アルベルトは希望していた広場づくりはできずとも、妖精が来る別の仕組みができるというのであれば異議は唱えなかった。

「街の中はこれでいいとして、次は森の中だ。あの児童書に出てくる妖精や生き物に会えそうな場所を通るコースだから、きっと観光客も楽しいと思う」

 二枚目の地図を見ても、アルベルトは特に文句をつけることはなかった。誰からも不満が出なかったことを確認して、森へ行きましょうとハンスが声をかける。皆、椅子を立ち、サンルームを出る際にノアはシモンに声をかけた。

「私の考えが甘かった。すまない」

「え? 僕もあの地図を確認したし、ノアだけのせいじゃないよ」

「でも、私は移動に難のある人の気持ちが想像できなくて、君に完成度の低い地図を提案させてしまった」

「最初の提案なんて指摘されて当たり前なんだよ。いろんな意見が出てきて、むしろ成功した部類だよ。そんなに心配しないで」

 ノアのいつもの悪い癖が始まったとわかりつつ、シモンはノアを宥める。

「でも、あの冬の日、私を助けてくれた君の役に立ちたかったのに」

 とても悲しそうにノアがそう言って、視線を俯かせる。ノアが何を思って悲しんでいるのかシモンはすぐに理解した。どちらかの心が不安な時、手に手を取ることが二人の約束だった。だからシモンはノアの手を取った。

「助けたなんて立派なものじゃないよ。あの日、初めて君の気持ちを少しだけ知ったんだ。僕は同じ家に暮らしてたのに、君があんなに孤独に苦しんでいたことに気づきもしない人間だった」

「でも、気づいてくれた。本当は自分で伝えなくてはならなかったのに。何も言えないでいる私の言葉を辛抱強く待ってくれた。私はずっと感謝しているんだ。君が私を待ち続けてくれたあの日々がなかったら、私は今でもきっと誰とも関われない人間のままだった」

「僕だって、君と会わなかったら、上手に人と関われないでいる人を切り捨てるだけの人になってたよ。君が僕を変えてくれたんだ」

「……始まった」

 もう何度も聞かされた二人のやり取りがまた始まって、アルベルトは盛大にため息をついた。

「? 何の話ですか?」

 シモンとノアのやり取りの意味がわからず、コニーが首を傾げる。

「最初はなんでも上手くいかないという話です」

 二人の会話の意味を知っているハンスがコニーに答えた。

「だって、会って一週間で結婚して、一緒に暮らすしかなくて、上手くなんていかないよ。夏の終わりに結婚して、最初の冬はケンカばかりだった」

 コニーが多少は外に出るようになった頃にはシモンとノアの仲の良さは街中の人が知ることで、コニーにはシモンの話が意外でしかない。

「私はどうしたら人と関われるのか、関わりたいと伝えられるのか、そのやり方がずっとわかりませんでした。必要な言葉を伝えられず、余計なことばかりして誤解されて、居づらくなって、そこから逃げ出す。その繰り返しでした。いつかどこかに私を受け入れてくれる場所があるかもしれないと思っていましたが、人と関わるやり方がそもそも間違っていたら、どこに逃げても同じことです。エストホルムの使用人も街の人も巻き込んで、何度もシモンと揉めました」

 ちょうどノアがシモンと婚姻した時期とコニーが引き篭り始めた時期は被っている。コニーがシモンとノアのことを知らなくても仕方のないことだった。

「ノアは白樺の王と契約して、僕と結婚せざるを得なくなって、もうどこにも逃げられなくなった。だから、ここで覚えたんだ。今度こそ、人の中で生きる方法を」

「シモンのおかげで、初めて生活も仕事も続きました。シモンには本当に感謝しています」

 穏やかにノアが笑う。ノアの心から安堵した表情を見て、シモンは嬉しい気持ちになった。

「そんな大したことしてないよ。結局、本人が頑張んなきゃ意味ないんだから。ノアが頑張ったんだよ」

「頑張れる環境を作ってくれた。そのことを感謝しているんだ」

「君がいないと困るからそうしただけだよ。結局は自分のためだ。……君がいないと僕は生きていけないんだよ」

 シモンが大事に手に収めていたノアの手のひらにキスをする。言葉でも態度でもシモンに大事に扱われて、ノアは笑みを深めた。

「支え合うって素敵ですね」

 二人の会話に、ほうとコニーがため息をつく。

「本気で言ってるのか……!?」

 シモンのノアの姿にうっとりと憧れるコニーが信じられず、アルベルトはコニーの肩を揺さぶった。

「アルベルトさんは心が冷たいです。素敵なやり取りじゃないですか!」

「一回ならいい。これを毎回やるんだぞ!?」

 エストホルムに妖精の話を聞きに行く度に脈絡もなく始まり、見せつけられる二人のやり取りにいい加減うんざりしているアルベルトはコニーに悲鳴を上げる。

「これは意識的にやってるの。領主の僕と白樺の王と契約してるノアの仲が悪かったら、街の人たちも妖精たちも心配する。だからこうやって僕たちは仲がいいんですよアピールをしてるだけ。ビジネスの一環なの」

 コーヒーを下げに来た使用人がシモンの説明に露骨に呆れた表情を見せたが、何かを言うことはしなかった。

「そうです。アルベルトさんにはもう何度も説明していますが、私とシモンはただのビジネスパートナーです。一緒に暮らしているのも、シモンが私を冷遇していると白樺の王や妖精たちを誤解させないためです」

「……この人たち、こう言ってるけど、毎日見てる使用人としてはどうよ?」

 毎回している説明がアルベルトにはどうしても納得がいかないようで、アルベルトはコーヒーを片付けている使用人に声を掛けた。

「この人たちは毎日二人きりのところでも、こんな感じです」

 使用人はアルベルトに問われるままに二人の事実を答える。

「それはシモンが普段からの態度が大事だというから!」

「そうそう。何気ない振る舞いに本心が出るからね。いつでも仲良しでいないとね」

 シモンとノアには自明の理である振る舞いに、アルベルトは呆れ、コニーとハンスは苦笑いをし、ニルスはいつものことだと特別表情を変えることはなかった。



「──ごめん、あんまり森を歩けなかったね」

 春の妖精に挨拶をするためにノアと別れた帰り道、予定通りに森歩きができなかったことをシモンがアルベルトに謝罪する。

「いや、雰囲気は掴めた。十分ですよ。地図を見ながら自分たちで歩きます」

「スノードロップの女王と話すノア様は本当にお美しかったですね。絵本の挿絵を見ているような気分でした」

「ため息が出るような綺麗な妖精語も素晴らしいです。真似できる気がしません」

「そうでしょ? そうでしょ? ノアはどんな妖精にも気に入られて、対等に話し合える。白樺の王と契約しているだけではできない取引をしてくるんだ。妖精に無理を強いることなく、人間側の要求を満たしてくれる。本当にすごいよ」

 コニーとハンスの会話にいつでもノアを自慢したいシモンがすぐさ混ざった。

「ノアは聴覚過敏や肌の過敏があって一緒に暮らすが結構大変なんだけど、それでも妖精と対等に話す光景を見ちゃうと全部許しちゃう」

「聴覚過敏?」

 シモンの話す聞き慣れぬ言葉にアルベルトが反応する。

「ノアはすごく耳が良いんだ。あんまり良すぎて、生活に困るくらい」

「そんなことあんの?」

「僕もノアに会うまでそんな人いるなんて知らなかった」

 人が一人歩けるだけの歩道の先頭を歩きながらシモンはアルベルトに説明する。

「食器がぶつかる音、足音、普通なら気にもとめない生活音が邪魔で、ノアは人の声が聞こえなくなるんだって。今は森を歩くとき以外は聴覚を調整する腕輪をしているから、そんなに困らないんだけど、それでも甲高い音とか、たくさんの音がある場所は苦手だね」

 シモンが左の手首を指さす。ノアは結婚指輪以外に必ず左手に金の腕輪を身に着けていた。細やかな装飾の入った腕輪はただの装飾品だと勘違いされることも多かったが、ノアには大事な生活必需品だった。

「……あの腕輪でそんなことができるんですか?」

「あの腕輪には、特定の周波数帯域を聞こえなくする魔法の呪文が刻んである。僕は魔法使いだから、頼まれてその人に合わせた魔法の道具をよく作るんだ。外せば本来の聴力に戻るよ」

 だから先ほど森歩きのために腕輪を外していたノアはアルベルトたちには聞こえなかった春の妖精の歌声が聞こえると話したのだ。

「ノアは食器のぶつかる音がして、たくさんの人の話すフィーカがすごく苦手なんだ。だから結婚してすぐの頃、うちの使用人たちのフィーカに参加しても全然話さないし、すぐに参加自体を渋るようになって、あっという間にうちで孤立した。理由が分かればまだ良かったんだけど、聴覚過敏は本人もわかってなくて、僕たちにはノアが人と協調できない人にしか見えなかった」

「フィーカに出ないと印象悪いですからね」

「フィーカに参加したがらない人がいるなんて思わなかったから、びっくりだよ。好きで結婚したんじゃないし、エストホルムの生活を好きになれとは言わないけど、最低限の協力はしてくれると思ってたから、僕たちに少しも関わらないノアを何度も怒った。怒るのにも疲れると今度は互いに避けるようになる。僕と関わらないノアを使用人たちも遠巻きにする。ノアは一時本当に一人ぼっちだった」

 とても今の二人からは想像もつかない話をシモンは徒然とした。

「それが今やあんな仲良しなんですね」

「アルベルトもそう思ってくれるんだ? もうここまで来るの大変だったんだからね。アルベルトにはもう少し僕とノアを尊敬して欲しい」

「そういうのいいんで、何がきっかけで仲良くなったのか教えてくださいよ。どうせ話したいんでしょ」

 仕事に何一つ必要がなかったので今まで聞かなかったのだろう話をアルベルトは尋ねる。コニーも興味津々でシモンの話を聞いていた。

「真冬のサンルームで、ノアが泣いてたんだ」

 シモンは先頭を歩きながら過去の話をした。

「サンルームは天井までガラス張りだから、冬は暖房効率が悪すぎる。冬の間、あそこだけは温水暖房をかなり弱めるから、人が来ない。だからうちで孤立してるノアにはちょうど良かった。自分で望んだ訳じゃない生活を急に強いられて、僕とも使用人ともどう関わっていいかわからず、誰も来ないサンルームで、一人ぼっちで泣いてた。その姿を見るまで、僕は本当にノアは一人でいたい人なんだと思ってた。……そんな人、いる訳なかったのに」

「……それで、どうしたんですか?」

「大人数のフィーカが無理だって言うから、二人でフィーカすることにした。それまでノアを怒ってばかりで、ノアのことを何も知らなかったから、お互いの話をすることにした。そうしたら、フィーカに参加しない理由とか話し始めたから、ノアが生活しやすい環境をちゃんと作ることにした。それまでも良かれと思って、色々してたんだけど、全部ノアに合ってなかった」

 アルベルトが無言で話の続きを促すので、シモンはもう少し過去の話を続けた。

「部屋に飾りが多いと目がチカチカするって言うから、部屋に置くものは無地のものにした。知らない食事が出てくるのが辛いっていうから、曜日でメニューを固定した。ノアの参加するフィーカは、本人含めて四人まで。そうしたらノアが笑うようになった。笑えるようになったら、少しずつノアも色々協力してくれるようになった。そういう調整をたくさんした。昔は僕らには当たり前のことができないノアを我慢できずに何度も怒ったけど、最近はもうできないって言うなら、できないんだって割り切れるようになった。やり方を調整することでできることも増えた。最近は、随分楽になったよ」

「すごい努力ですね。そういうことって中々できないですよ。俺も結婚相手にそんなことしてあげられるかな」

 シモンの努力にコニーが素直に感心する。

「コニーは結婚したい派?」

「勿論です! いつか素敵な人と結婚したいです!」

「アルベルトは結婚願望、本当に全然ないの?」

「ないですね。うちは両親の仲が悪くて、俺が学生のうちに離婚したし、家庭に夢がありません」

「えー、そうなの。うち、両親も祖父母も超仲良しだったから、結婚生活に夢いっぱいだったよ。おじい様はおばあ様を毎日ルピナスの妖精って呼んでたよ」

「……そういう家庭なら結婚しても良かったかもな」

 シモンのノアに対する態度に彼の父や祖父の配偶者への愛情が見えたのか、アルベルトは微笑した。

「でも、ご両親とアルベルトは別の人なんだから、両親がどうとかあんまり関係なくない? 面倒なことも多いけど、結婚もいいもんだよ」

「どういう時に結婚して良かったなと思いますか?」

 結婚に大きな夢のあるコニーが熱心に尋ねてくる。

「えー、小さなことなんだけど、自分を誰よりも優先してくれる人がいる安心感とか、毎日ハグできる相手がいる嬉しさとか。正直、人間関係はポンコツだけど、ビョルケルで妖精がらみのトラブルはノア以上の相談相手はいないし、ノアはいつも僕を尊敬してくれる。ノアが僕のフォローですごく生活しやすくなったと言ってくれるととても嬉しい。そういう小さな良かったが生活の中のあちこちにあるのがいいなって思う。ハンスさんもそう思いませんか?」

 シモンのすぐ後ろを歩いていたハンスにシモンは声を掛けた。シモンとノアの仲の良さを普段から好意的に捉えているハンスは大きく頷いた。

「全く同感です。結婚生活とは助け合いです。お二人はいつも助け合っていらして、街の人たちの規範です」

「ふふ、そうでしょう。そうでしょう」

 ハンスに褒められて、シモンがはますます調子に乗る。

「……恋愛結婚ならともかく、契約結婚でそんなに上手くいくものですか」

 シモンの話にコニーは素直に憧れてくれたが、アルベルトは結婚へ気持ちが傾くことはなかったようだ。

「共同生活という意味では、恋愛結婚も契約結婚もそう変わらない。特別な感情はそこまで重要ではないよ。相手を尊重し、理解し、受け入れる気持ちの方が重要だ。ノアと結婚して生活した三年は、それを知る三年だった」

 独身のアルベルトにはシモンの言う意味がいまいちわからなかった。同じようにわからないながらもコニーはシモンの言葉に感動するようで、シモンの話の何を聞いても目を輝かせている。

「シモン様は結婚生活は何が一番大事だと思いますか?」

 次は一体どんな素敵な言葉を聞けるのかと明らかに大きな期待を膨らませて、コニーがシモンに尋ねる。

「諦観を含む許容」

 しかしシモンはあっさりとコニーに現実を突きつけた。

「ええ~!?」

 華やかな言葉を期待していたコニーが困惑の悲鳴を上げる。

「シモン様、独身の方の夢を壊してはいけません」

「あはは、結婚生活って現実だから」

 結婚生活の現実を知っている二ハンスが、これは惨いとシモンを窘める。共同生活の現実を突きつけられてがっかりしているコニーをシモンがケラケラ笑いながら慰めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ