二
ᚾᛟᚪᚺ
春の森はまだ寒く、地面は雪に覆われている。それでも僅かに溶けた雪の合間から、若葉が萌え始めていた。白樺の枝もよく見れば、若葉の芽が膨らんでいる。その内に葉は芽吹き、瞬く間に大きくなるだろう。葉が大きくなれば、夏が来る。夏の盛りを期待させる春の森をノアとシモンは人を連れて歩いていた。
先頭を歩くノアのすぐ後ろに黒髪、黒目の大柄な壮年の男、その後ろに茶髪でややふくよかな体系の若い男と四十代の眼鏡をかけた金髪の男性、列の最後をシモンが歩いた。茶髪と金髪の男はビョルケル出身であり、春の森をよく知っていたが、黒髪の大男はビョルケルの出身ではなかった。そのため、僅かに生き物の気配がする春の森を物珍しそうに見回す。黒髪の男は名をアルベルトと言った。ノアとシモンはこの男に森に棲む妖精たちを見せるために森を歩いていた。
忙しなくあちこちを見まわしているアルベルトにノアが古い白樺の木の洞を指さし、声を掛ける。
「ああいう木の洞の中で妖精たちは冬眠をしています。早起きの子もいますが、まだ寝ている子が大半なので少し覗いてみましょう」
「寝てるところを覗き見していいのか?」
「冬眠を邪魔しなければ」
ノアは指さした木の洞へ近づき、洞の中を覗いた。見れば、やはり若い妖精が眠っていることを確認して、アルベルトを呼んだ。興味津々でアルベルトが近づいてきて、洞の中を覗く。声を出さずにゆっくりと長く息を吐いて、アルベルトは洞の中で丸まって眠る小さな妖精を驚き眺めた。
「白樺の妖精です。まだ若い子ですね」
「森に棲む妖精は初めて見た」
「目を覚ました子ならあちらに」
目ざとく次の妖精を見つけて、ノアは白樺の木の枝に腰かけている妖精を指さした。いつからそこにいたのか、少し離れたところでノアたちを興味深げに眺めている。アルベルトがノアの隣に立って、木の枝に腰かけている妖精を見上げた。
「妖精ってのは森の中でどんな役割をするんだ?」
「兎や鹿のような他の生き物と変わりません。他の生き物を食べ、食べられ、森の一部であるのです。特別な役割と言えば、自分が属する動植物の成長を促します。妖精は森の動植物の魂の発露だと言う人もいますね」
「へえ」
木の枝からこちらを見ている白樺の妖精は、黒髪の男にノアが森の説明にしにきたのだと察した様子だった。ノアが頼むまでもなく、白樺の妖精は高く柔らかな声で歌い始めた。古い妖精語の歌はビョルケル出身者やノアには馴染の歌であったが、アルベルトには耳馴染がない。不思議そうに歌を聞いているアルベルトの目の前で、白樺の枝から新芽が次々芽吹いた。
「……芽が出た!」
「あれが妖精たちの力です。時期になれば花を咲かせたり、逆に枯らせたり、身を守るために幻覚を見せる魔法を使ったり、毒を撒いたりと種族によって持っている能力は違います。白樺の子は傷を癒す力があるので、森で仕事をする人たちはよく白樺の妖精に傷を治してもらいます」
「……この間、一人で森を歩いてみたんだけど俺には何も見つけられなかった。やっぱり何でも詳しい人に聞くもんだな」
森歩きに慣れていないアルベルトが、森の生き物をすぐに見つけるノアに素直に感心する。アルベルトは夏の終わりにビョルケルへ来て、秋と冬の初めは自分の引っ越し作業と近所に暮らす高齢者たちの冬支度の手伝い追われていた。妖精たちの多くは白樺の森で冬眠する。妖精の方から積極的に話しかけられるほど好かれるノアとは違い、アルベルトはあまり妖精に会ったことがなかった。
「春先では仕方ありません。今日は私とシモンがいるので、これだけ会えるのです。もっと暖かくなれば、もっと簡単に会えます」
「そうか。他の妖精はどこで会える? できればたくさんの種類が見たい。でも、まだ冬眠してるのが多いようだから難しいかな?」
「そうですね。妖精たちが人前に出てくるのはもう少し先ですが、気の早い子もいるので、少しは会えるでしょう」
「あ、宝石アゲハ」
森歩きに慣れているシモンがアルベルトたちの少し後ろで、目ざとく春先の生き物を見つけて、指さした。シモンが指さす先を全員が見る。見れば、太陽の光を受けてキラキラと羽が輝く蝶が飛んでいる。ステンドクラスを蝶の形にしたようなそれは、ビョルケルでは宝石アゲハと呼ばれる妖精の一種だった。羽はガラスのような材質で、羽の翅脈が色の分かれ目となり、個体によって羽が見せる色は様々だ。蛹で越冬した個体がごく最近羽化したのだろう。
「虫取りって禁止じゃないよな!?」
春の光を浴びたキラキラと宝石のように光る蝶に目を奪われて、アルベルトがとっさに蝶へ向かって一歩足を踏み出した。
「禁止じゃないけど、男が嫌いな蝶だからアルベルトが追うと逃げるよ」
シモンに禁止ではないと言われた瞬間、網も持っていないのに走り出そうとしたアルベルトは、その後のシモンの言葉に二の足を踏んだ。代わりにノアがアルベルトの前に一歩出る。すっと蝶に向かって手を伸ばした。
【おいで】
それはアルベルトにはまだ耳慣れない短い妖精語だった。美しい言葉だった。たった一言にアルベルトでさえ、はっと息を呑み、ノアの動きを目で追う。森を歩く男たちに気が付いて、森の奥へと逃げていこうとした蝶が迂回して、ノアの方へやって来る。そしてそのままノアの指先へそっと止まった。大人の片方の手のひら程度の大きさの宝石アゲハは薄く削った宝石を翅脈に沿って張り合わせたような羽を開いては閉じた。
「妖精語で声をかければ、こうして来てくれます」
「アルベルトさん、騙されないでください。こんなことができるのは、ノア様とシモン様だけです!」
同じことを求められたら困るとアルベルトの部下のコニー──ふくよかな体系の若い男の方だ──がすぐさまアルベルトに注意喚起をした。
「わかったよ。お前に同じことをやれとは言わない……」
ノアの手に留まっている蝶をよく見ようとアルベルトは蝶へ顔を寄せる。よほどノアを信頼しているのか、宝石アゲハはアルベルトが顔を寄せても、逃げることはなかった。
「綺麗だな。見た目はあのヒットした児童書と一緒だ」
「本では主人公の男の子に懐いていますが、実際はあまり男性は好きではありません。妊婦や子供が好きな生き物です」
「なんで?」
「理由はわかりませんが、妊婦や子供に特有の甘い匂いが好きなんだと言われています。持ってみますか?」
「え? いいよ、俺、そんなに虫得意じゃないし、扱い方わかってないし」
「じゃあ、なんでさっき追いかけようとしたんですか」
蝶を見て、虫が好きでもないのに追いかけようとしたアルベルトにコニーが思わず苦笑する。
「こんなの見たら追うだろ!」
「乱暴なことをしなければ大丈夫です。そんなに弱い生き物ではありません」
ノアがアルベルトの手を取り、蝶を移動させる。手のひらに乗った蝶を上から下からアルベルトは眺め回した。
「全盛期は?」
「春から秋の終りまで長く見られます。この個体はごく最近羽化した個体なので小さいですが、夏頃のアゲハはこの二倍近くの大きさになります。白夜の夏の森を朝も夜もなく一日中飛び続け、人を攻撃することもありません。夏の光を反射しながら飛ぶ蝶はとても美しいです。生きた宝石とも言われています」
「本当にそうだな。……いいな、こういうのを観光客に見せてやりたい」
大人しくアルベルトの指に掴まっている宝石を組み合わせて作ったような蝶をうっとりと眺めて、アルベルトはため息をついた。アルベルトが蝶の観測に満足したのを悟ってか、またふらりと蝶は飛んで行った。
「他に何がある?!」
仕事人間のアルベルトが目を輝かせてノアを見る。商材になりそうな蝶を見てわかりやすく喜ぶアルベルトに戸惑いつつも、ノアは春先の今でも会えそうな妖精について考えた。
「花がもっと咲けばたくさんの花の妖精が目を覚まし、人前に現れます。花の妖精は皆とても美しく、人懐こい種族も多いです。悪戯好きなので、そこだけ気をつけて欲しいですが。今日は春一番に咲くスノードロップの妖精に会ってみましょう。もう目を覚ましているはずです」
ノアの提案を受け入れ、アルベルトたちは森のさらに奥に進んだ。白樺の木がひらけて、唐突に空が見える。日当たりが良いからか、この広場だけは雪がかなり溶けていた。日を良く浴びて、スノードロップが白い花を咲かせている。その花のまわりを白い羽を持つ小さな何かが飛んでいる。白い髪、白い服を着て、瞬く間にキラキラ輝く睫毛の下の瞳も真っ白だ。大人の手のひらほどのスノードロップの妖精だった。純白と言う言葉がこれほどに似合う妖精もいないだろう。彼女たちが小さな声で歌えば、蕾が揺れて、ふわりと花が咲き、雪が解けていく。
「おお、すごいな」
大声を出して失礼だとアルベルトでも察したようで、小さな声でアルベルトがノアに囁く。
「妖精は大きさと生きた年数がほぼ比例します。彼女たちはまだ小さいので生まれて十年程度でしょう。若い妖精は好奇心旺盛ですから、人の方へよくやってきます」
よく見れば、若い妖精たちはこちらへ近づいてくることはないものの、ノアたちをちらちらと伺っている。ノアとシモンだけであればすぐ傍へ来てくれるのだが、見慣れぬ客人に戸惑いつつも興味はあるようであった。
「好奇心旺盛なのは、好都合だ」
「彼女たちの後ろに大きな個体がいます。このあたりのスノードロップの妖精の女王です。群生する種類の妖精たちは群れごとに女王を持ちます。群れが大きくなりすぎると新しい女王が生まれ、古い女王が自分の部下を連れて、群れを離れます」
「蜂と同じだな」
虫は苦手だと言っておきながら、ノアの説明ですぐさま蜂を連想するアルベルトの知識の豊富さにノアは感心した。ノアはアルベルトに求められるままに女王の説明をした。
「女王には必ず自分が示せる最大限の敬意を払ってください。女王に嫌われると群れ全体に嫌われます」
「敬意とはどうやって示すんだ?」
「一番良いのは妖精語での正式な挨拶をし、彼女たちの求めに応じることです。次はごく簡単な妖精語での挨拶。このくらいであれば、観光客にも事前に教えておけばできるはずです。どうしても妖精語が難しければ、人の言葉での挨拶でもいいです。気持ちが大事です」
「ノア、お手本を見せてあげなよ」
「そうしよう」
シモンに後ろから声をかけられて、ノアが歩き出す。アルベルトが追いかけようとして、シモンに止められた。
「ノアの挨拶を邪魔してはならない。彼は白樺の王と契約をしている。妖精にとって一番価値のある人間であるノアの挨拶は、妖精たちにとって特別な敬意だ」
「へえ、コニーは契約できないのか?」
アルベルトからすればビョルケル出身のコニーでも十分妖精語が達者な部類なので、コニーにもチャンスはないのかとシモンに尋ねた。
「滅相もない! 不敬ですよ!」
だがシモンからの答えを待つことなく、ノアと一緒にするなとすぐさまコニーが悲鳴を上げた。
「あはは、こればっかりは生まれ持った体質とか妖精語力とかのバランスだから、コニーは何も悪くないけど難しいかな。──ノアは本当に別格なんだ」
「へえ、そんなに違うもんかねえ」
アルベルトがコニーたちからノアの方を見る。見れば、小さな妖精たちが道を開け、ノアはスノードロップの女王の前へ歩み寄った。悠然とスノードロップの花の中で横たわる女王の前に立ち、胸に手を当て、頭を下げ、恭しく挨拶をした。
【──おはようございます。女王、冬からの目覚めのご気分は如何でしょうか】
ノアは歌うように妖精語を話した。アルベルトにはノアが何を言っているのか、全くわからないだろうが、それでもノアの話す言葉の音や響きに聞き惚れている。コニーを見れば、真剣な眼差しでノアの妖精語を聞いていた。純白のスノードロップの花の中、美しい妖精の女王と対等に話すノアの姿は、まるで御伽話の一説のようだとよくシモンに褒められた。
【とても静かな冬で、よく眠れたわ。全てはエストホルムのおかげね。冬の初めにエストホルムへ預けた子たちはどうなったかしら】
【……預かった三人のうち、二人は冬を越すことができませんでした。一人は元気です。お力になれず、申し訳ありません】
【そう。一人でも残ったのなら十分でしょう。エストホルムでさえ冬を越せないのなら、この自然では生きていけません。本来であれば他の生き物に糧になるべきでしたが、私はあの子たちがエストホルムの人たちに看取られて良かったと思います】
ノアは女王の前に跪き、もう一度自らの非力さを謝罪しようとした。小さな命が自分の手の中で静かに絶えていく姿を思い出して、ノアは堪えきれずポロポロと涙を零した。
【優しい人。本当に最後まで世話をしてくれたのね。ありがとう】
【……すみません。一人は三日も生かしてやれず……】
【いいのです。無理なことはわかっていました。優しい貴方たちのいる場所で眠れたことがあの子の最後の幸せです】
【……はい、……エストホルムの皆で見送りました】
小さく体を震わせるノアの髪を女王が白い指で梳き、額にキスをする。それは妖精たちからの最大限の敬意の証だった。
【ありがとう。私たちは常にエストホルムと共にあります。預けた三人の世話の礼にエストホルムのどんな願いも聞き入れましょう】
ノアは自分でも涙を拭って、少し呼吸を整えた。落ち着いて話せるようになってから、ノアは森の中にビョルケルの外からやってきた人がスノードロップの花や妖精を見るために訪れることへの許可を女王に求めた。花を荒らさない、小さな妖精たちが嫌がることはしないことなどいくつかの条件を守れば、好きに遊びに来ればいいと女王は鷹揚に許可を出す。ノアは丁寧に礼を言って、立ち上がろうとして女王がノアの手を取った。女王の方からもノアに話があるようであった。ノアは女王からの話を聞いて、頷くと今度こそ立ち上がり、シモンたちの方へ戻った。
「なんか色々話してたみたいだけど」
ノアとスノードロップの女王の会話が全くわからなかったアルベルトが目を赤くしたノアに声を掛ける。
「冬の初めに森では冬を越せそうにないスノードロップの妖精の幼体をエストホルムで預かりました。二人はすぐに死んでしまったのですが一人は無事に冬を越せたので、その礼として、花や妖精を見に外の人が森へ遊びに来ることの許可を頂きました。スノードロップの妖精は観光に協力してくれます」
「あ、ありがとう。今日はそこまでのつもりじゃなかったのに」
ノアが想定以上の成果を持って帰ってきたことに驚き、アルベルトはノアに礼を言う。
「他にも話をされていたようですが」
女王の方から始めた話をハンス──眼鏡を掛けた金髪の男性の方である──がノアに尋ねる。
「春の御神渡りが来ていると言われました。すみません、今日は早めに森を出てください。私は残って、春の妖精に挨拶をしていきます」
「……おみわたり?」
コニーもハンスもノアの言葉にはっと表情を変えたが、聞いたことのない単語にアルベルトだけは首を傾げた。
「森に春をもたらす妖精です。かなり長く生きている方なので、もう神だという人もいます。彼女が歌えば雪が解け、植物が新芽を出し、固い蕾は花が咲きます。早起きの個体やスノードロップのように自力で目を覚ます妖精もいますが、大抵の花や植物はこの春の歌を聞いて目を覚ますのです。春の目覚めは夏の成長の大事な土台です。春にきちんと芽吹けなければ、秋の収穫にも影響します。神に近い格の高い妖精は、基本的に人に会うことはしません。人が森にいると歌うのを止めてしまうため、春の御神渡りの間は、人は森を出ます」
「へえ……ノア様は会っていいの?」
「白樺の王と契約してるノアが挨拶しなかったら、人が春の妖精を無視してると思われて、逆に失礼だよ」
「……シモン様は?」
優しさと言う心で誰も触れないでやっていた疑問にアルベルトはまっすぐに切り込んだ。
「……い、いや……僕は……」
ノアを自慢しようとしただけだったのに余計なことを言ったとシモンが露骨に慌てふためく。
「シモンでも問題ありません。春の妖精が納得するだけの妖精語が話せれば」
「あ、ふーん」
「しょ、しょうがないじゃん! 最初に話しただろ! 頑張って勉強したけど妖精語の才能なかったの! だからノアと結婚したの!」
「……なかったのは才能じゃない。努力だ」
必死に言い訳をするシモンの隣でノアが残酷にも真実を暴露した。
「君は少しも妖精語の本を読まない。私との妖精語の会話の特訓も逃げ回る。妖精と話すときは慣れた言い回ししか使わない。それでは上達しない。でも君は人付き合いも魔法の扱いもあんなに上手なのだから、きちんと勉強したらちゃんと上達する」
「だ、だって、だって……!」
いつでも誰に対しても悠然と自信のある態度を崩さないシモンが非常に珍しく狼狽え、中身のない言い訳を始めた。その様子を見て、アルベルトは笑わずにはいられなかった。
「へえ、シモン様も人間だったんだな。大抵のことは卒なくこなすから、できないこともあると知って安心したよ」
「魔法使いだって普通に人間だよ! 若い領主ってすごく舐められるから、毎日必死に虚勢張ってるの!」
必死に言い訳をしているシモンの横で、ノアがどこか遠くの方を見やる。静かに何かを聞き取ろうとする様子を見て、コニーが声をかけようとする前にノアがシモンたちの方を振り返った。
「……風向きが変わって、僅かですが春の妖精の声が聞こえてきます。早く森を出た方がいいでしょう」
微かでもノアには聞こえる妖精の歌声は、アルベルトたちには聞こえないようだ。コニーも耳を澄ませてみるが、首を傾げるだけだった。
「一人で大丈夫? あの方は騒がしいのが何よりもお嫌いだから、僕らが森に入って怒ってないかな」
「森に入っている人は他にもいるだろうし、使いの者が事前に人払いをする。失礼なことをしなければ問題ない」
必要以上に不安がるシモンにノアが笑って、首を横に振った。それでもシモンは納得がいかない様子で不安そうにしている。
「それならいいんだけど、妖精たちは僕たちと感覚が違う。何が妖精の気に障るかなんて、ビョルケルで育った僕でもわからないことがある。怖いんだ、僕が妖精語が下手だったせいで、君が本当なら受けるはずのない罰を受けたり、大きな見返りを求められるのが。本当はノアが負うべき責任じゃなかったのに」
「私は妖精と話すことくらいしかできない。君はいつも私を助けてくれる。このくらいの仕事はさせて欲しい」
どちらかの心が不安な時、手に手を取るのが二人の約束だった。その約束の通り、ノアはシモンの手を取った。
「困ったことを言われたら、話を保留にしてちゃんと僕に相談するんだよ? 君は妖精のために何でもしすぎるから」
「わかっている。いつも相談しているよ。君がいるから私は安心して、彼女たちと話せるんだ」
手に手を取り、顔を寄せて、他に人がいることなど忘れて、二人は二人だけの会話をした。
「そういうのは二人の時にやってくれ。……見返りって、お菓子とか酒とかじゃないのか?」
人前でも堂々と家族のスキンシップをする二人に胡乱な視線を向けながらアルベルトは尋ねる。妖精たちに何をしてもらったら、見返りに何かを差し出さなくてはならないことは、最近ビョルケルに越してきたアルベルトでも知っている。だが実際にビョルケルの人たちが妖精たちに渡す見返りは、手作りの菓子や酒などどれも大したものではなかった。
「トラブルにならなければ、妖精は大した見返りは求めない。でも、白樺の王や花の妖精の女王のような格の高い妖精を怒らせると、大きな埋め合わせを求められる。指や目玉くらいならまだいい。心臓や頭を求められても、僕たちはそれに従って差し出すしかない。それがビョルケルを守ってもらうための王との契約なんだ」
ようやくノアから手を離して、シモンが自らの不安の理由をアルベルトに話した。
「……なんとか、話し合って勘弁してもらえないの?」
目玉や心臓を見返りとして求められた話は周囲から聞いたことがなかったようで、アルベルトもさすがに慄く。
「妖精たちは腕や目くらいであればまた再生するから、体の一部を求める心理的なハードルが低い。でも心臓や頭はさすがに再生できない。それらを求めてくるということはつまり、それだけ怒っているということだ。勘弁してもらえると思う?」
「多少の陳情はできますが、その結果どうするかは妖精が決めることです。陳情を聞き、それでもなお許せないというのであれば、妖精たちは怒りに見合った埋め合わせを求めます。私達はそれに従うしかない。断れば、冬の厳しさから街を守ってもらえなくなります。ビョルケルの安定した気候、作物の出来、不出来を知らせる妖精の占い、災害や疫病の知らせも、全て王の計らいがあってのことです」
「だから、絶対に妖精が許可してないことを勝手にしないでね。妖精たちを酷く怒らせたら、僕かノアの心臓でしか埋め合わせができない」
行動力があるのはいいことだが、自分の希望のために平気で無茶をしそうなアルベルトにシモンが改めて釘を刺す。
「わかってるよ。勝手なことはしない。じゃ、春の女神を怒らせないよう俺たちはさっさと撤退しよう。……ノア様は本当に一人で大丈夫なのか?」
「私のことは気にしないでください。春の妖精はお優しい方です。それに街の人には普段からたくさん助けてもらっていますから、大きな見返りに応えることで街が守れるというのなら、私は何も怖くありません」
珍しくノアを純粋に気遣ってくれたアルベルトにノアが首を横に振る。ノアの大げさな説明にアルベルトは思わず笑った。
「生贄じゃないんだから、そんなこと冗談でも言うもんじゃないですよ」
「……」
ノアへの気遣いなのだろうが、自己卑下するなというアルベルトの言葉にノアが戸惑う。返す言葉を探して、けれど何も見つけられずにノアは困ってシモンを見た。
「……ノアは真面目なんだよ。成り行きでも白樺の王と契約した以上、自分の責任を果たしたいんだ」
「そろそろ急ぎましょう。御神渡りの邪魔をしてはいけません」
ハンスが声をかけ、ノアを置いて、四人は来た道を戻り始めた。アルベルトが振り返るともうスノードロップの群生もノアも見えない。森は時々空間が歪んでいるような錯覚がした。