一
ᛋᛁᛗᛟᚾ
雪深い北の田舎街であるビョルケルで冬の妖精がようやく眠りについたのは、三月の終わりのことだった。この北の土地は、一番寒い時期には大地さえも凍って列車は止まり、夕方には日が沈み、暗い闇の中で雪がしんしんと降り積もる。人が住むには過酷な土地だが、冬の妖精が眠りにつけば、少しずつ明るい春がやってくる。あれほどに降りしきった雪が止み、雪間からスノードロップが咲き始める。美しい白い花が咲くのを人々は心待ちにしていた。
雪が止み、スノードロップが咲く頃、運休していた列車が再開する。その列車に乗って、都会へ出稼ぎに出ていた者が帰ってくる。または大事な人に会いに街を出て列車に乗る。ゆっくりと人の行き来が再開する。肺が凍りそうなほどに冷たかった空気が僅かに温み、雪解けの水が白樺の森に点在する湖に流れ込む。冬の間、仕事を休んでいた農家や猟師たちが仕事を再開し始めた。仕事道具の手入れをし、雪の積もった土地の具合を確かめ、妖精に今年の実りについて占ってもらい、今年はどうしていくかを同業者たちと話し合う。そうやってゆっくりと街の生活が動き始める時期がシモン・エストホルムは好きだった。
彼はこの土地に住み始めた最初の魔法使いの血族の末裔であり、ビョルケルを守る領主である。ビョルケルの人らしい金色の髪に空色の目。背は高く、細身である。冬の間はどんよりと一日中曇ることの多いビョルケルの年間の日照時間は長くないので、南の暖かな土地に住む人たちよりも肌は白い。いかにも育ちは良く、物腰は穏やかながら堂々と振る舞う。人好きのする穏やかな笑顔を見て、人々はすぐに彼のことが好きになった。
去年の夏に二十六歳になった。高齢の祖父から領主の立場を引き継ぎ、春の仕事始めで困っている人がいないかを確認するため街を歩いて回り、一人一人に話しかける。誰とでも親交を深めることのできる若い領主を街の人は心から尊敬し、頼りにしていた。
スノードロップが咲き始めた春先でも、ビョルケルは昼間でも二、三度程度の気温しかない。白樺の葉の模様の刺繍が丁寧に施された分厚いウールのコートを着たシモンは、街の西側にある赤い家の一つに向かった。ビョルケルには赤い染料で塗られた外壁板を組み、赤い瓦を葺いた家々があちこちにある。垂木、隅柱、窓枠は真っ白に塗りあげられ、四角い窓にはその家の主人が各々好きなものを飾った。家主の生活スタイルに合わせて、家の形は様々あれど、ビョルケルに建つ家の特徴は皆、同じである。赤い瓦を葺き、赤く塗った木材を使用し、隅柱や窓枠は白く塗る。自然の中に白い枠がアクセントになる赤い家々がある光景はまるで絵本の挿絵の風景のようでもあった。
シモンはいくつかある赤い家のうち、畑がある家に入った。家には向かわず、畑の方へ向かい、家の近くの小屋から猫車を押して出てきた農家の男性に声をかけた。
「こんにちは」
泥棒をするつもりではないのなら人の家の敷地内に勝手に入ることは、ビョルケルでは特にマナー違反ではなかった。田舎なので一つの家が持つ敷地が広く、こうでもしないと目的の人に中々会えない。
「こんにちは。何か御用事ですか?」
断りなく敷地に入ってきたシモンを特に諫めることもなく、家の主人がシモンに挨拶を返す。
「いえ、ただの様子見です。今年は順調に畑を始められそうですか?」
「ええ、心配していた小屋も雪で壊れずにすんだので助かりました。来週には種屋から種を買って、種まきを始めようと思っています」
「それなら良かったです。何かありましたらいつでもエストホルムまで来てください」
「ありがとうございます。妖精たちも手伝ってくれますから、きっと大丈夫でしょう」
男性の後ろから、ひょっこりと羊のような耳と角の生えた小さな子供が顔を出す。人の年齢で例えるなら五歳くらいか。これでももう三十年は生きている妖精であった。彼はこの農家の男性の仕事の手伝いをしている妖精だった。この妖精は植物が育つ様を見るのが好きで、毎日のチーズと一杯の牛乳と引き換えに彼の仕事を手伝っていた。
シモンは腰をかがめ、小さな妖精の頭を撫でた。
【あてにしてるよ。よろしく頼むね】
男性と話していた時と違う言葉でシモンは妖精に話しかけた。妖精がにっこりと笑う。シモンに返す妖精の言葉も人のそれとは違ったものだった。
遠い昔、妖精と人は互いの差はあまりなく、同じ火を分け合い、同じ場所で暮らし、同じ言葉を話した。しかし時代が経るにつれて、少しずつ互いの差が増えてきた。人は加工しやすい鉄を好んで使った。妖精は鉄の匂いや質感を受け入れることはできなかった。人はさらに利便性を求め、鉄で機械を作り、石炭で火を起こし、大きな工場を作った。しかし妖精たちは鉄の機械も石炭の匂いも大きな工場から立ち上る煙や稼働音を受け入れることができなかった。
次第に人と妖精は離れて暮らすようになった。生活の距離が遠くなると言葉の距離も遠くなる。同じであったはずの人と妖精の言葉は次第に分かれていった。現在では、車の走る都会では人は人の言葉だけを話し、ビョルケルのような今もなお妖精たちとの生活を続けている街では、人は人の言葉と妖精の言葉を話した。
ビョルケルでも車を走らせ、重機で木を切れば、生活は今よりも格段に楽になる。それでもビョルケルの人たちは妖精たちとの不便ながらも静かで穏やかな暮らしを選んだ。妖精たちと共に手で畑に種を蒔き、刺繍のための糸を紡ぎ、一本ずつ斧で木を切り、共に運ぶ生活に幸せと喜びを感じていた。
「妖精は可愛いですが、妖精語はなかなか難しいものですね。妻に教わってはいるのですが、私はなかなか覚えられず……」
彼はビョルケル出身の女性と結婚して、ビョルケルで農家を始めた。ビョルケルの街と街を取り囲む白樺の森にはたくさんの妖精が暮らしている。人の言葉を話す妖精もいるが、多くの妖精は妖精語しか話さなかった。
「妖精語は難しいですから、できなくても落ち込まないでください。僕なんて、妖精語が下手すぎて、領主になるのに必要な妖精との契約ができなかったくらいで」
白樺の森の奥に古い妖精がいる。白樺の森に住む妖精たちとビョルケルの人たちは、この古い妖精を白樺の王と呼び、親しみ、そして畏怖していた。ビョルケルと白樺の森を守り続けているエストホルの魔法使いたちは、この白樺の王と契約を交わすことで、妖精たちから生活の助けを確実に得て、雪や災害、疫病などから街を守ってもらっていた。
しかし、妖精語が下手と言う理由で、この大事な契約を白樺の王と交わすことのできなかった魔法使いがいた。シモンである。そのために当時ビョルケルの領主であった高齢の祖父から契約を直接引き継ぐことのできなかったシモンの代わりに、妖精語が堪能な者が契約を引き継いだ。そしてその契約者と婚姻をすることで、シモンはビョルケルの新しい領主となったのである。魔法使いの血族や妖精たちにとって、婚姻とは人間社会のそれとは異なり、正式で厳格な契約形態の一つであり、婚姻関係にある者双方は同等に扱われた。魔法使いの血族には婚姻相手の制約はなく、今でも彼らは土地を治めるために海や大樹や妖精などの人間以外の何かと婚姻することさえあった。契約により大きな制約が発生する関係というものは、自らも相手に尽くす必要があるが、契約相手から大きな恩恵を引き出すことができるからだ。
「妻から聞きました。私から見たらシモン様もお上手だと思うのですけれどね。白樺の王と契約できるほどの妖精語というのは、さぞ難しいものなのでしょうね」
「ええ、それはもう。勉強は継続していますが、全然上達しなくて嫌になります」
「ノア様の妖精語は本当に美しいですね。私には意味がさっぱりですが、まるで古い歌を聞いているようです。大変お綺麗な方なので、最初にお会いした時、人型の妖精なのかと思ったくらいで」
「ははは、人型の妖精かはともかく、そうですね、ノアの妖精語は本当に素晴らしいです」
妖精のようと褒められた自らの配偶者のことを思い出し、シモンは笑みを深めた。白樺の王と契約ができるほどに堪能な妖精語を話すシモンの配偶者は容姿も美しかった。出会えば、誰もがとっさに足を止め、視線を奪われ、思わずため息をつく。難しい妖精語を歌うように話し、森に棲む妖精たちと交渉をする姿はまるでお伽話の一頁のようでもあった。それでも本人は自らの姿を鼻にかけることもなく、人と妖精たちの間に立ち、シモンと共にビョルケルの生活を支えてくれた。シモンは挨拶をして別れた。
ᚾᛟᚪᚺ
暗く寒い北の土地には広大な白樺の森と湖があり、その森には太古の昔から妖精たちが静かに暮らしていた。森の中に点在する湖の畔に人が住み始めたのは、千年ほど前のことだ。森に暮らす妖精たちと一緒に、白樺の木を一本一本、斧で切り倒し、白樺の木材で家を建てた。最初に小さな家と小さなガラスの工房を作った。小さな家に魔法使いとガラス職人の夫婦と、家を作る手伝いをしてくれた妖精たちが身を寄せ合うように細々と生活を始めた。
魔法使いが生み出す魔法の光をガラス職人がガラスの中に閉じ込めて、彼らが最初に作ったのは、小さな明かりだった。ガラスを割りさえしなければ、何の動力も必要とせず、一年中、明かりを絶やさないガラスの明かりは、寒さ以上に暗さに耐えなくてはならないこの北の土地ではとても重宝された。魔法使いたちはその明かりを闇を怖がる妖精たちのために作った。用途に応じて様々な明かりを作っているうちに、今度は人が同じものを求めて工房にやってくるようになった。魔法使いとガラス職人は喜んで人のためにも明かりを作った。動力を必要としないガラスの明かりが人の間でも人気になると、少しずつこの小さなガラス工房に訪れる人が増えた。そのうちの幾人かは、この北の土地を気に入り、暮らし始め、それぞれ仕事を始めた。ある者は弟子入りをしたいと言うので同じようなガラス工房を作ってやり、ある者は白樺を薄く削いだ板で籠を作り、ある者は羊を飼って毛を刈り、糸を紡ぎ、ある者は布を織り、ある者は刺繍をした。この北の土地では、生きていくことが簡単ではなかったので妖精も人もよく助け合った。そうして昔ほど生きることは困難なことではなくなった今もなお、この北の土地で人々は妖精と助け合い、昔からの物づくりを続けて生活をしている。
その最初に北の土地へやって来た魔法使いの一族が、今のエストホルムの一族である。千年も昔からエストホルムの魔法使いたちは、妖精たちと共にビョルケルの街と白樺の森を守って暮らしていた。
この白樺の森には多くの妖精が暮らしている。雪深い冬の間は、人は森にはあまり立ち入らない。冬の妖精が眠りにつき、雪が止み、ようやく春が来る頃、エストホルムの一人であるノア・エストホルムが森の様子を確かめに来た。雪の重みで倒れた木や壊れて通行不能になってしまった歩道、冬眠せず暇を持て余した妖精たちが勝手に道を作り変えていないかを地図で記録をつけながら歩く。今年の冬は二か所の倒木と、一か所の通行不能、二か所の妖精の道の作り替えを見つけた。このことを何も知らないまま人が森に入ると危険なので、早めに対処しなくてはならなかった。
【ノアが来たから春が来たのね】
地図に記録をつけていると、唐突に妖精語で声をかけられた。ノアは地図に落としていた視線を頭上に向けた。見れば、白樺の木の枝に小さな妖精がいる。白樺の木肌のような白い肌に、白樺の葉によく似た羽が太陽の光を透かして光る。大きさは大人の手のひらよりもやや大きい程度。生まれて十数年程度の若い妖精だ。冬の間は、大抵の妖精たちはそれぞれの棲み処で冬眠するが、彼女は人が森を歩く気配を感じて目を覚ましたのだろう。特に若い妖精たちは、春の妖精の歌声を聞く前に目を覚まし、雪の森を歩き回る。
【起こしてしまったね。森の様子を見に来ただけだよ。すぐに帰る】
【いいのよ、そろそろ起きようと思っていたの】
【冬の間はよく眠れたかな】
【ええ、貴方たちがいてくれるから安心して寝ていられるの】
妖精の言葉にノアは笑みを浮かべた。彼女らの安寧を守ることは、ノアの喜びの一つだった。
【それは良かった。何か困りごとがあったらいつでも会いに来てほしい。君たちのために私は身も心も尽くそう】
胸に手を当て、ノアは目を覚ましたばかりの小さな生き物にも恭しく頭を下げ、丁寧に挨拶をする。彼女らを尊重することはノアの大事な仕事の一つである。
【貴方が私たちのために何でもしてくださることはよく知っているわ。ありがとう】
白樺の妖精がノアの言葉を聞いて、嬉しそうに微笑む。春の花が咲くような柔らかな妖精たちの表情を見ているのが、ノアはとても好きだった。
ビョルケルの街の南東側には大きな湖がある。夏至の頃には湖の周りには紫、赤、ピンク、白など様々な色のルピナスが咲くので、ルピナス湖と呼ばれていた。風のない日は波一つ立つことない、鏡のような水面には湖の周りに広がる白樺の森が映る美しい湖だった。ビョルケルの冬は、雪がない日も曇天ばかりが続く。ようやく春になり、空は久しぶりに晴れ、シモンの目の色のような青い空を見ることができた。街の人も久しぶりの青い空と日の光を喜んでいた。森からの帰り道、ノアが街の中で人に会えば「久しぶりに晴れましたね」と声をかけられた。ビョルケルに越してきてもう三年ほど経つが、人付き合いがあまり得意ではないノアは急に人に声をかけられることにいまだ慣れない。やや反応に遅れながらも、挨拶と簡単な会話をして、そそくさとエストホルム邸に戻った。
街の南東側、ルピナス湖の畔に街で唯一赤い煉瓦で建てられた大きな邸宅があった。アーチ形の窓と細やかな窓枠飾りが美しい邸宅である。屋根は赤い瓦で葺き、木材で建てられた家々のように窓枠は白く塗られ、隅柱は白い石材が利用されている。白樺の森が広がるビョルケルでは木材には困らないが、建築に適した石材は少ない。遠い土地から運ばせた石材で建てた家は富の象徴でもあった。美しい湖の畔にある赤い邸宅は、人工物でありながらも自然と調和し、人目を引いた。その赤い邸宅を街の人々はエストホルム邸と呼んだ。
入口外階段を上った先には正面玄関がある。窓と揃いのアーチ形の扉を開き、邸宅内へ入るとまず目に飛び込むのが、大サロンである。森を守る義務のあるエストホルムの人間は森へ入ることが多い。雪や雨でぬかるんだ道を歩いて靴がよく汚れるので、邸宅の中では室内履きに履き替える。自分用の羊の皮とできた室内履きにノアは履き替えた。靴の内側は羊の毛になっており、履けばとても暖かい。
ノアが大サロンに入るとすぐに明るい茶色の髪を短く切り揃えた、小柄な女性がぱたぱたと小走りでノアの前へやってくる。真っ黒な使用人の制服の上に赤い花の刺繍の施された真っ白なエプロンを身に着けている。
「おかえりなさいませ、ノア様。森の様子はいかがでしたか」
「今年は悪くないよ、マヤ。何か所か、修繕が必要な場所があったが困っている妖精たちもいないようだった」
マヤと呼んだ使用人にノアは脱いだマフラーと手袋を渡す。それからシモンと揃いの白樺の葉の刺繍が入った黒いコートを脱ぎ、それもマヤに渡した。
「それなら良かったです。うちで預かっている子たちも順調ですし、来週には親に返せそうですね」
「そうだね。今年は、死んだ子も少なくて良かった」
ビョルケルの人間と白樺の森の妖精は様々な約束事をして、互いに協力し合い生活をしていた。その一つが、寒く長い冬を森の中で越せそうにない妖精の幼体を春まで預かる仕事である。秋の終わりに冬を越せそうにない幼体を妖精たちは信頼している人間に託して森へ帰る。特に弱い個体はエストホルムへ預けられることが多かった。どんなに暖かな邸宅で育てても、幼体の半分以上は死んでしまう。それでもエストホルムでは妖精たちが望めば、どんなに弱い個体でも預かり、精いっぱい冬を越すための手助けをした。
「森の修繕の相談をしたい。シモンは?」
「少し前にお帰りで、今、サンルームにいらっしゃいます」
そうか、と返事をして、ノアは大サロンの奥へ進んだ。大サロンの白樺の床板はV字のヘリンボーンである。一部の床板が瑪瑙や翡翠、紫水晶などの鉱物に置き換えられ、美しい模様を成していた。その上にこの家の主人は、季節に応じた絨毯を敷かせた。春先の現在は、この邸宅の主人の配偶者が好きな春の花々が刺繍された絨毯が敷かれている。
化粧漆喰を施された真っ白な壁には、細やかな植物の柄が直接描き込まれていた。ビョルケルは冬が長いので、こうして壁に植物を描き、人々の生活の支えとしていたのだった。高い天井にはこの街に古くから伝わる妖精たちのお伽話の一場面を描いた天井画が嵌め込まれており、出迎えた客人たちを喜ばせた。
大サロンの左右には邸宅の主人の書斎と小サロン、大サロンのさらに奥には食堂と二階へ続く階段がある。二階は邸宅の主人たちの生活の場である。
そして邸宅の一番奥、階段の先に湖に面した位置に半円状のガラス張りのサンルームがあった。
邸宅の中で唯一、壁からドーム型の天井まで全てがガラスでできたサンルームにはいつでも日の光が降り注いだ。真冬には九時くらいにようやく日が昇り、午後三時には日が沈むビョルケルでは日の光は何よりも大事にされた。春先になってようやく日の出が午前六時頃になり、人々は冬の暗闇から解放される。
華やかな植物が描かれた大サロンの壁とは違い、少しでも日の光を感じることができるようサンルームの床は白い。青い空からガラスを通り、真っ白な部屋に燦々と太陽の光が降り注いだ。大きな丸いテーブルを囲むように一人掛けと二人掛けのソファーが交互に二点ずつ並べられている。若い男が一人、部屋の一番手前の二人掛けのソファーに腰かけていた。一人分のコーヒーがテーブルの上に置かれている。
「シモン」
見慣れた後姿を見て、ノアは思わず表情を緩め、彼の名を呼んだ。名を呼ばれた背中が、ぱっとノアの方を振り返る。金髪の若い青年がノアを見て、すぐに笑顔になった。
「おかえり、ノア」
ノアはサンルームへ歩を進めた。迷わずシモンの隣へ座る。
「森はどうだった?」
自分の隣に座ったノアにコーヒーを飲みながらシモンが尋ねた。
「倒木、道の作り替えと修繕が必要な場所があった。正確な場所は地図に書いたから見て欲しい」
ノアは上着の内ポケットに仕舞っていた地図をシモンに見せた。コーヒーカップをソーサーに戻し、シモンがノアから地図を受け取り、広げる。
「……ふーん、こんなもんか。今年は大したことないね。良かった。林業組合の人と協力して修繕しよう」
「君の方はどうだった?」
「うん、悪くなかったよ」
二人が話をしていると、黒のスーツを着た若い男の使用人がノアへコーヒーと菓子を運んできた。年の頃はシモンよりやや若い。金に近い茶色の巻き髪に青い瞳。ビョルケル出身で、名はニルスと言った。父の代からエストホルムに使える使用人である。シモンとは子供の頃からの付き合いで、シモンの第一子分としてよくエストホルム邸の周辺の森でよく遊ぶ仲だった。今では立派に成長し、部屋付きの使用人としてシモンに仕えていた。
ニルスが手際よく二人の前に菓子を並べる。菓子はぐるぐると渦巻き状にフィリングが巻き込まれた焼きたての小さな丸いパンであった。パンの中央には粉砂糖が振られ、スパイスの良い香りがする。温かなコーヒーと菓子パンの匂いはシモンとノアの二人を大変喜ばせた。
「今日の菓子はカネルブッレです。コーヒーは列車も動き始めたので、本日のフィーカ用に購入した新しい豆で淹れました。お気に召されますと良いのですが」
フィーカとはコーヒーを飲み、菓子を食べながら人と会話をすることである。冬が長く、真冬の時期はレールが凍結するため、ビョルケルのある北の地域では列車の運行が止まる。人の行き来がなくなり、曇天ばかりの暗い街で、人々は備蓄を譲りあいながら助け合って生きていかねばならなかった。そのために人との会話はとても重要なものだった。主に午前十時と午後三時、人々はどんなに忙しくとも必ず共に生活する人たちと一緒にフィーカをする。シモンにとって、ノアにとって、二人で過ごすフィーカはとても大事な時間だった。
ノアは使用人に礼を言ってコーヒーカップを手に取った。暖かなコーヒーが、まだ雪が多く残る森を歩き冷えた体を内側からじんわりと温めていく。
「……新しい豆は格段に良い香りで、美味しいな」
「冬は備蓄の豆のコーヒーだからね。同じ味で飽きてきちゃうよね」
ノアが呟き、シモンが同調する。二人は外行きの口調とは異なり、親しみの篭った砕けた様子である。
「あちこち歩かれて、お二人ともお疲れでしょう。ゆっくりお召し上がりください」
二人の仕事を労うと使用人はすぐにサンルームから出ていった。エストホルムの料理長が作る完璧な香りと焼き加減のカネルブッレにノアとシモンはため息をついた。
「カネルブッレ、大好き! 食べよ!」
シモンがさっそく焼きたての一つを摘まんで噛り付く。焼きたての柔らかなパン生地の感触にシモンがまた笑顔になった。
「焼きたてが一番好き! 料理長のカネルブッレも最高だけど、でもやっぱりノアの作るハッロングロッタが一番好きかな」
ハッロングロッタとは、中央の窪みにラズベリーのジャムを乗せて焼いた柔らかいクッキーである。妖精たちは甘い食べ物が大好きで、人が手間をかけて作った菓子をとても喜ぶ。妖精との交渉や取引をする機会の多いノアは、妖精たちに何か願う見返りとして、彼女たちが喜ぶ菓子を頻繁に作った。
「ありがとう。料理長のカネルブッレを越えられるなんて光栄だ」
「ノアは僕が作った蜂蜜酒が一番好きだよね?」
それ以外の返事をしてはいけない問い方でシモンがノアに尋ねる。正確な計量が必要な菓子とは違い、蜂蜜酒は酵母と水と蜂蜜と少しのレーズンがあればいい。それらを全て一つの瓶に詰め、密封し、後は酵母が活動できる室温の部屋に数か月置いておけば勝手にでき上がる。シモンは蜂蜜が取れる春と秋に必ず蜂蜜酒の仕込みをした。人間が自ら手間をかけて作った蜂蜜酒もまた妖精たちの喜ぶ飲み物であり、妖精たちとの大事な取引材料になるからだ。同じことを正確に繰り返すことが得意なノアはと違い、毎回感覚とその日の気分で仕込みをするシモンの蜂蜜酒は味が安定しなかったが、材料さえ間違えなければ美味しい酒になった。
「勿論。毎回、今回の仕込みはどんな味になるのかと、でき上がりが楽しみだ」
本当は味が安定している方が妖精と取引をしやすいので、毎回同じ味に仕上げて欲しいのだが、何年も一緒に暮らしてシモンの性格はよくわかっているので、ノアはシモンにそんな無駄な願いをすることはしなかった。
「わくわく感も味の要素だよ」
無理な理屈を言って、シモンが残りのカネルブッレを全て口に放り込む。ノアもカネルブッレを一つ食べ終え、コーヒーを一口飲んだ。それからサンルームから見える湖と白樺の森の光景を眺める。今は白樺の木に葉はなく、水面も静かで、生き物の気配はない。植物さえも息をひそめた鈍色の光景は静謐そのものであった。夏が来れば葉が青く生い茂り、秋になれば黄葉する。森の色に合わせて、湖は水面の色を様々に変えた。白樺の森の四季をつぶさに眺めることのできるサンルームはノアとシモンの大事な場所だった。
毎日見ている光景なのに、ノアは何度見てもこのサンルームからの光景にため息をつかずにはいられなかった。
「……このサンルームは本当に美しい」
ドーム状のガラスも真っ白な床もガラスを通して見える白樺の森と湖の光景も。サンルームの何もかもが美しかった。
「うん、僕もこのサンルーム、大好き」
「……私は本当はこんな場所にいていい人間ではない」
けれどその美しい光景に悲しい気持ちにさえなって、ノアはコーヒーカップを持つ手元に視線を落とした。
生まれたときからエストホルムのシモンと違い、ノアがエストホルムになったのはほんの数年前のことだった。ノアは魔法使いの血族でもなければ、ビョルケルの出身でさえない。人に誇れることなど、生まれつき妖精に好かれることと妖精語が堪能なことくらいだった。しかも南方の都会であればともかく、今もなお妖精との暮らしを守っているビョルケルでは妖精語が堪能な人間は珍しくない。それでもビョルケルの人はノアをシモンと同じエストホルムとして扱った。
ノアの視線の先に自分の両手と隣に座るシモンの手がある。ノアはコーヒーカップをテーブルにおいて、自分の左手を見た。薬指に槌目で幅の広い金の指輪をしていた。古い指輪だった。指輪には古い祈りの言葉が刻印されており、宝石は嵌め込まれていない。同じものをシモンもまた左の薬指にしていた。悲しそうにしているノアにすぐに気が付いて、シモンが手に持っていたコーヒーカップをソーサーに戻す。
「そんなことないよ。このサンルームの景色に負けないくらいノアだって唯一無二で、素敵だよ」
隣に座るノアへ体を向け、シモンが優しい言葉を掛ける。灰かがった栗色の髪。青みがかったエメラルドのような青緑色の目は人のそれとは違い、いつも宝石のように輝いた。ビョルケルの人たちと顔つきや骨付きは少し異なっていたが、顔立ちは大変整っており、誰もがノアを見ると足を止めた。
「君の金色の髪と青い目の方が夏の太陽と空みたいで綺麗だ」
「えー、ビョルケルの人、大体金髪と青い目だから珍しくないんだよね」
もっと南方の都会ならちやほやされる髪の色と目の色を少しもありがたがらないシモンにノアが思わず笑う。
「夏の森のような目が本当に綺麗。目だけじゃないよ。僕はノアの純粋で綺麗な心がすごく好きなんだ。ノアの隣にいると優しい人間になれたような気がするんだよ」
容姿が良いばかりで、ずっと人と関わることが上手にできなかったノアにそんなことを言ったのは、シモンだけだった。悲しそうにしているノアの手をシモンが取る。どちらかの心が不安な時、手に手を取ることが二人の約束だった。
二人の手の大きさはあまり変わらない。年を越して今年の二月にノアはシモンと同じ年になった。身長もほとんど差はない。左手にしている指輪の号数も一緒だ。
ノアがシモンの手をそっと握り返すとシモンがノアの額に額を寄せた。
「ここに……ビョルケルに来て良かった」
「僕もノアがビョルケルに来てくれて良かったよ」
「君に会えて良かった」
「僕もノアに会えて良かったよ」
ずっと一人ぼっちだったノアの独り言のような言葉にシモンが言葉を返す。それだけでノアはとても幸福な気持ちになれた。もう先ほどノアの胸を占めていた不安は消えてなくなっていた。
「……君と結婚して良かった」
シモンに向けて、ノアはそう言った。
「僕もノアと結婚して良かったよ」
ノアの言葉に嬉しくなって、シモンが笑う。その笑顔を見て、ノアもまた笑った。