第一話「海への憧憬」
放課後の釣り部部室で、俺は一人潮汐表とにらめっこしていた。
「うーん、明日の満潮は午前六時十五分か。干潮が午後十二時四十分……スズキ狙いなら満潮の二時間前がベストタイミングだな」
俺の名前は水島潮。県立海浜高校二年生で、釣り部の部長をやっている。祖父が漁師だった影響で、物心ついた頃から海のことばかり考えて生きてきた。潮の満ち引き、魚の生態、季節による回遊パターン――そんなことを考えているときが一番楽しい。
ただ、最近は少し寂しい思いをしている。部員たちが受験モードに入って、釣り部に顔を出す回数がめっきり減ってしまったのだ。
「潮、まだいたのか」
振り返ると、副部長の田中が申し訳なさそうな顔で部室に入ってきた。
「おう、お疲れ様。今日は補習だったんだっけ?」
「ああ……それがさ、潮。ちょっと相談があるんだ」
田中の表情が重い。嫌な予感がした。
「実は……もうあまり部活に参加できそうにないんだ。親からも『受験に集中しろ』って言われてるし」
やっぱりか。最後の砦だった田中まで……。
「そうか。仕方ないよな、受験は大事だし」
俺は努めて明るく答えたが、正直かなりのショックだった。これで釣り部の活動は事実上、俺一人になってしまう。
「ごめん、潮。でも、潮なら一人でも十分やっていけるよ。何せ『歩く漁業百科事典』だからな」
田中は冗談めかして言ったが、その言葉が余計に寂しさを募らせた。
家に帰ると、机の上に見慣れない封筒が置いてあった。差出人を見ると『株式会社ヴァーチャル・オーシャン』とある。
「なんだこれ?」
封を開けると、中から一枚のカードが出てきた。
『VRMMOβテスト当選通知書』
下には小さく『抽選倍率:約五百倍』とある。
「え?俺、こんなのに応募したっけ?」
記憶をたどってみると、確か一ヶ月ほど前、ネットで海洋系のゲームを調べていたときに、何気なく応募フォームを送信した覚えがある。まさか当選するとは思わなかった。
パンフレットを読んでみると、『アルネシア・オンライン』は五つの地域に囲まれた大陸を舞台にしたVRMMOで、特に海洋要素が充実しているらしい。釣りや漁業も本格的にシミュレートされているとのことだ。
「これは……面白そうだな」
普段はゲームにそれほど興味がない俺だったが、海に関わる要素があると聞くと話は別だ。しかも最近、現実では一人で釣りをすることが多くなってしまった。VRの世界でなら、思う存分海を楽しめるかもしれない。
翌日の土曜日、届いたVRヘッドセットを恐る恐る装着した。
『ようこそ、アルネシア・オンラインへ。まず、プレイヤー登録を行います。』
VR技術の進歩に驚きながら、俺はキャラクター作成画面に向かった。
画面には五つの種族が表示される。ヒューマン、エルフ、ドワーフ、フェルーナ、ノクターン。それぞれに特色があるようだが、俺は迷わずヒューマンを選択した。バランス型と説明にあるし、何より現実の自分に近い方が違和感がないだろう。
画面には様々な職業が並んでいる。戦士、魔術師、盗賊、僧侶、狩人、拳闘士、召喚士、鍛冶師、料理人……どれも魅力的だが、俺の目を引いたのは『狩人』だった。
説明文を読むと、『自然との調和を重視し、弓術や罠術、採取技能を得意とする職業。野生動物や自然環境に関する知識が豊富』とある。
「これだな」
海も自然の一部だ。狩人なら海の環境にも応用が利くだろう。何より、採取技能があるということは、きっと魚を獲る技術にも繋がるはずだ。
キャラクターの見た目は現実の自分に近いものに設定した。茶髪、少し日焼けした肌、海を見つめる鋭い目つき。名前は迷わず『ウシオ』にした。
目の前に美しい海が広がった。エメラルドグリーンの水面が太陽の光を反射して、まるで宝石のように輝いている。
「すげぇ……本当に海にいるみたいだ」
ゲーム内の最初の町『オルディア港』に降り立つと、潮の香りが鼻をくすぐった。本当に海にいるような錯覚を覚える。
最後に外見の細かい調整を行う。髪の色は現実と同じ茶髪、肌は少し日焼けした健康的な色合い。目は海を見つめ続けてきた鋭いまなざしに設定した。
『キャラクター作成完了。アルネシア・オンラインの世界へようこそ』
画面が暗転し、次の瞬間、俺は本当に海の香りを感じていた。
「これが……VRの世界か」
目の前には青い海と白い砂浜が広がっている。波の音、潮風、太陽の暖かさ――すべてが本物そっくりだった。
俺は深呼吸をした。現実では一人になってしまった釣り部での寂しさも、この美しい海の前では小さく感じられる。
「よし、ウシオとして新しい海の冒険を始めよう」
アルネシア大陸の海が、俺を待っている。この仮想の世界で、俺はどんな魚と出会えるだろうか。どんな海の秘密を発見できるだろうか。
胸の奥で何かが熱くなるのを感じながら、俺は最初の一歩を踏み出した。
【アルネペディア】
・オルディア港:ゲーム開始時の拠点となる港町。多くの冒険者が旅立つ場所。
・狩人:自然との調和を重視し、弓術や罠術、採取技能を得意とする職業。野生動物や自然環境に関する知識が豊富。