住職と白猫
「白や、白、どこへ行った。」
男は庭に出て猫を呼んだ。くたびれた僧形の中年男である。
朝飯の粥ができたのでそれを分けようというのである。
が、猫は出て来ぬ。
「なんじゃ、出て来ぬのか。白よ。」
男は言いざま障子を閉めた。しばらくして猫の鳴き声が聞こえたような気がしたので、また庭に出たが猫の声はない。
「おおいやじゃ、いやじゃ」
と男は言った。そうしてふっと気がついてあたりを見廻した。
「なんじゃ夢か」
しかし男の顔の上には何故か微笑が浮かんでいたのである。
*****
江戸時代の越後、六月のある日の明け方である。その寺の門前を訪れる者があった。身なりの良い大百姓と見える四十がらみの壮健な男である。
「お早うございます」
大百姓が言うと寺の中から、下男の身なりをした男が一人出て来たが、
「これはこれは」
と言ったきりで、そのまま一礼する。
「このお寺のお方かの?」
「はい。さようでございます」
「このお寺のお方にちと御用があってな」
「は?」
「いや、ちと、お頼み申したいことがござるのじゃがな。何分この時刻。ご迷惑とは思うが、お取次ぎ願えまいか」
「承知いたしました」
下男は一礼して、庫裏の方へと行く。
そして、主人は訪問者を本堂へと招き入れたのである。この寺の住職は、名を日道と言った。
*****
日道は本堂で大百姓と対面した。
「ご用件を承わりましょう」
日道は男を見て言った。
「この寺には白い猫の絵があると聞き申した。その絵を見せて頂きたいので御座います。」
大百姓が言う。
日道は軽くうなずき、
「左様で。確かに絵はございまする。しかしなぜ?
あれは手遊びとして拙僧が昔描いたものでございましてな。」
「いや、実はその猫の絵を所望いたしておる者がおりましてな。なにとぞ見せて頂き度いと存じております。」
日道はまたうなずきながら、
「なるほど。しかしどなたからお聞きになりなさった?あの絵は誰にも見せた事はなかったのですがの?」
「いや、その事はお答え致しかねます」
「事情は話せぬ、絵は譲れというのも困りましたな。拙僧も気に入っている絵なのです。」
大百姓は日道の顔をまじまじと見た。
「いや、それはごもっともなことで。しかし……」
男はためらっていたが、意を決した様子で言った。
「あの絵を所望いたしておりますのは、わたくしの幼い娘でございます。」
「娘とは、ますます解せぬ事でございます。」
「これは内密に願いますが私共の娘が高熱で伏せっていて奇妙な事を言い出したのです。」
男は話を続ける。
「自分は人間に生まれる前は猫だった。寺の住職に飼われていた白猫だったと。」
「しかし、そのような事があり得ましょうや。」
日道は首をひねった。
「いかにも。しかしあの絵を所望いたしておりますのは、まぎれもなく私共の一人娘でございます」
「それで何故拙僧の絵なのでしょうか」
日道はさらに首を捻る。
「それはその……娘が申します事には猫は水に落ちてそのまま何もわからなくなってしまったが、何のあいさつもできずにお寺を去ることになってしまった。
きっと住職様はどこへ行ったのかと心配しているであろう。
重い病はその罰なのだ。夢の中で観音様がおっしゃっていたと言うのです。
そして住職様が猫の絵を下さればわだかまりも溶けて病から回復するだろう、と。」
「そういうことでございましたか。そういうことでございましたか。」
日道は嘆息して合掌した。
「もちろんその絵は差し上げます。お待ちくだされ。」
日道は本堂を出てしばらくしてから絵を手に戻ってきた。それは手製の簡素な装丁しかしていない水墨画だったが、美しい白猫が丸くなって寝ている素朴ながら慈愛に溢れた絵であった。
「はあ、可愛がってくださったのですね。もったいないことです。」
大百姓は平伏して嗚咽を漏らした。
「猫にあってそのような義理を感じていたのも誠に尊いことです。それ故に観音様のお導きがあったのかも知れませんな。」
日道はしみじみと言った。
「今日は猫の夢を見ました。ただ懐かしかった。こだわりを捨てて自由に生きているつもりが心残りが存外あるものですな。これも良い機会だったのでございましょう。どうぞこの絵をお持ち下さい。」
「ではご厚意に甘えさせて頂きます。」
大百姓は絵を押し頂くようにして帰って行った。
娘の病は程なく治り、やがて長じて良縁にも恵まれたという。また大百姓は寺に厚く寄進をし、家は大いに栄えたという。
そして白猫の絵はその大百姓の家で大事に保管されていたものが郷土歴史資料館に寄贈され今でも展示されている。
近くへ立ち寄った際にはご覧になるのも良いだろう。
[終]