Ⅰ.
水族館のあの日からもう一週間が経った。
時間が経つのは早いな、なんて考えていたらあっという間に夏休みの終わりなんてやってきてしまいそうだ。優亮にもらった海月のぬいぐるみは優しい愛らしい眼差しで今も私を見つめてきている。けれど芭月にもらったお菓子は食べ終わってしまってなくなってしまった。包み紙は深く考えずにゴミ箱に捨ててしまったので、芭月にもらったものは残っていない。捨てた自分をわずかながら恨んでしまう。
水族館に行ってからの一週間も、毎日欠かさず私達は場所を変えながら会っていた。場所を変えたとはいっても基本的に学校がほとんどだ。優亮が補習だったりバイトでいない日は二人して屋上に出て入道雲を眺めたり、部活動の様子を向こうに聞こえもしないのに応援したり、芭月の持ってきたお菓子を二人で食べたり――。
きっと、なんてことのない、どうでもいいような日常かもしれない。けれど、私にとってこの日々はどれもかけがえのない大切な時間だ。死ぬ未来が決まっているからというのもある。それに加えて、ずっと一人で灰色だった私の時間が、芭月といる時間で鮮やかに色づいて感じているから……、なんていうのは大げさだろうか。けど、私にとってはそのくらい大げさにしてもいいくらい幸せなことで、もしかしなくとも人生で一番楽しめていると思う。
あーあ、終わりなんて来なければいいのに。
――ピロン
そんな事を考えていたら、スマホが鳴った。見てみれば、芭月からで今日も学校で、という内容だった。それに優亮が反応していて、今日は久しぶりに三人で集まれるらしい。そんなことに少し嬉しいようなふわりとした気分で、夏休みなのにもかかわらずほとんど毎日来ている制服に袖を通す。スカートを履いたところで試しに二、三度くるりとその場で回転した。
「ふふ」
ふわりと膨らむスカートが楽しくて思わず笑ってしまう。
今日は何をしようかと、わくわくしながら音を立てないよう、静かに外へと足を踏み出した。
「こーはる」
「芭月!」
「おはよう」
「うん、おはよう」
いつものごとく家の前で待ってくれていた芭月が微笑んでくれた。けれど、日に日に増えているように感じる怪我の跡が痛々しくて目を背けたくなる。いくら聞いてもわざとらしくごまかされてしまって聞くに聞けないでいる。なんとなく、芭月の首にある青黒いあざをちらりと見ると、それに気づいた芭月は首に手を当てて隠してしまった。
そんな芭月に何も言えないでいると、意味深に微笑んで私の手を引いて歩き始めた。されるがままに足を運ぶしかできなかった。
「あ、そういえばお菓子ありがとう」
「いーの、いーの」
「おいしかった」
「ならよかった。お金は余ってるだけ勿体ないんだし」
そっか、とだけ言うつもりだったのに、言葉が詰まって出てこなかった。代わりに頷くとそっと頭に手が乗せられた。そのまま髪の毛にそって撫でられる。歩きながらで少し歩きにくいけど、嬉しいからやめてほしくない。
「おっ、おはよ」
「優亮おはよー」
「あ、優亮おはよう」
偶然道中に優亮の姿を見つけ、こちらに気づいた優亮が小走りで駆け寄ってる。優亮はちらりと芭月を一瞥したあとあからさまに目を逸らした。
「えっと、…………?」
疑問に感じはした。けれど、それを口に出す前に芭月が
「よし、早めに行こうか」
と言って、芭月もまた気づいているはずなのにあからさまに私の言葉を遮った。歩き始めた芭月と一瞬目があったが、すぐに逸らされてしまった。
どことなくぎこちない無言の空間のまま、屋上に着いた。屋上はいつもと変わらず無機質なコンクリートで、余計に空気に冷たさが混ざってきた気がする。せっかくいつもの場所に来たというのに、ふたりとも無言のままで居心地が悪い。だからといって私からなにか話題を振ることもできず、ただただ沈黙だけがこの場に落ちる。
暑いはずなのに流れる空気が冷えている気がして、アンバランスな空間がやはり居心地悪い。
「琥晴、おいで」
どうしようかと悩んでいたら芭月がさっきまでの無表情とは打って変わって、柔らかく微笑んできた。言葉とともに差し出された手を思わず掴むとぐっと引き寄せられ、バランスを崩す。後ろで焦ったような息遣いが聞こえたが、そのまま私は芭月の胸に倒れ込んだ。
「わっ」
前にもこんなことがあった気がする。なんてことを考えた瞬間に芭月もバランスを崩して二人して転んでしまった。ただ上手に転んだというか、芭月がうまく怪我をしないように倒れたおかげで、ふたりとも怪我はせずに済んだ。
「いったた……。ごめんね、琥晴。流石に転ぶとは思ってなかった」
困ったように恥ずかしそうに笑ってみせた。笑っている。その、はずだ。なのにどうして私はこんなに違和感を感じているんだろう。聞いても結局はぐらかされるだけだろう。だけど、どうしても気になって、
「やっぱりなにか、あった?」
聞いてしまった。
聞いた直後に、後悔した。芭月が息をつまらせて、私から目を逸らして表情を一気に曇らせた。口元には引きつった笑みが張り付いている。けれど芭月はすぐに表情を取り繕って、にこりと笑って私を抱きしめてきた。そして幼子に諭すように私の頭を撫でて優しく、優しく私を安心させようとしてくる。
「大丈夫、大丈夫だよ」
私はそこまで幼くない。そう言われて大丈夫だなんて思えるほど単純なんかじゃない。そう言い返そうとした。だけど、その『なにか』を教えてもらえるわけがないと気付いて、それが悔しくて、まだ芭月に信用されていないのが辛かった。その感情が上回って声を出せば涙が出てきそうで、それを隠すために黙って芭月の肩口に顔を埋めた。
ため息を吐き出すように聞こえないよう、音を立てないようにゆっくりと息を吐き出して、涙が引くのを待った。
頭をそっと撫でてくる手の感覚が心地よくて、つい眠気を誘われる。けれど、さっき感じた感情が胸のあたりをちくっと刺して、眠気が覚める。芭月の服をぎゅっと握って、一度深呼吸をした。やや波立っていた心が段々凪いでいく。
「ごめんね、変なこと聞いて」
いつか、芭月が話してくれるといいな。
そんな思いを胸に秘めて、彼女にそっと呟いた。
私がどういう意図を込めて呟いたのかを気付いたのか、芭月はまた私の頭を一度撫でて、
「ごめんね、大丈夫だよ。……いつか、話すから」
そう微笑んだ。
「わかった、いつか、いつか話してよ。絶対……」
芭月の言う『いつか』がいつになるのかはわからないけれど、その言葉に縋るように彼女の袖をぎゅっと握った。
「……ふたりとも、大丈夫?怪我とか、」
少し居心地悪そうに優亮がためらうように聞いてきた。
私には、わざと話題を変えようとしたように感じたが……。気づかなかったことにする。
ゆっくり、芭月から離れて一人で立ち上がったあとに、軽くスカートを整え埃を叩く。その頃には芭月も一人で立ち上がって優亮を向いていた。
「だいじょーぶ!うまく着地できたから」
「そう、それならいいけど」
やはり決まりの悪そうに優亮は空返事をする。二人の間に何があったのかはわからないけど、ギクシャクとしているのは間違いない。きっと私には二人を仲直りさせることはできない。だけど、仲を取り持つくらいはできるだろう。どうしたら、どうすれば、二人は笑ってくれるかな――。
考えても、悩んでもわからなくて、どうしようにもまず何をするべきかもわからなくて、
「笑って」
想いがそのまま口からこぼれた。
「へ?」
芭月の間の抜けた声が響く。目をパチパチと瞬かせきょとんとした表情でこちらを振り返る。優亮も驚いたようにぽかんと口を開けていこちらを見ている。
意図せず二人の視線を集めてしまい、どうしようかと一瞬あたふたしたが、すぐに私が二人にどうしてほしいのかを思い出して、もう一度言った。
「笑って、ほしいなって」
最初は自分の意志で言ったつもりもなかったから、ちゃんと言えたはずなのに、いざちゃんと言おうとすると少し照れくさくなって視線を彷徨わせた。
「私にはね、二人に何があったかなんて全然わからないよ。でもね、」
彷徨っていた視線の焦点が合う。二人の顔を見比べて、また少し照れくさくなってしまって照れ笑いで笑ってしまう。
「笑顔でいてほしいんだ、ふたりともね。ふたりとも、私の大事な人だから」
最後まで言い切ったあと、やはり恥ずかしくなってえへ、と笑ってしまった。けれど、ふたりともやはり驚いたように口を開けて、優亮は何かを言おうと口をパクパクと動かしていた。芭月は嬉しそうに笑って優亮の肩を叩いた。
「だってよ、優亮!」
「いたっ、痛いってば芭月!」
ベシベシと数回叩いたあと、優亮の悲鳴におそらくあえて気づかないふりをしたかと思うと、ゆっくり私の方へ向き直った。
「そっか。私のことを大事な人って、言ってくれるんだね、琥晴は」
そして何かを噛みしめるように、優しさを詰め込んだ笑みを浮かべて、そっと壊れ物に触れるかのように私の頭を、優しく撫でてきた。その手が暖かくて優しくて、されるがままになる。芭月の瞳を覗き込むとひどく苦しそうな、けれど慈しむような感情の入り混じった色が、薄く膜を作っているように見えた。
「芭月……?」
「ん? なあに、……あ、れ?」
最初は微笑んでいたけれど、私の声に応えたとき、一粒の雫が芭月の瞳から落ちた。
「あえっと、その、ちがくて、えーっとね。あれ、あ、あはは」
芭月は涙の流れる瞳を隠すように手の甲で目元を抑えている。しかし、隠せていない部分からポロポロとこぼれているのが見える。
「ど、どうしてかな。おかしいなぁ」
困ったような声で、けれど可笑しそうに笑っていた。
芭月の涙の意味を私には正しく理解することができない。だけど、少なくとも私はそばに寄り添って涙が落ち着くのを待つことはできるから、そっと彼女の肩を抱きしめた。
その時に見えた優亮の顔は今までに見たことないぐらいに青ざめ引きつっていた。