Ⅲ.
水族館の中は適温に冷房が効いていて、とても快適だった。最初に小さな子どもたちがたくさん張り付いている水槽を横目に、道なりに進むと壁一面のとても大きな水槽が視界に入る。
「わっ……!」
ちょうど目の前をイワシの魚群が、うねりながら悠々と大きな水槽を埋め尽くすように泳いでいた。他には初めて見るような魚がいっぱいで、思わず心が弾んでやや駆け足になった。
水槽の目の前まで駆け寄ると、にこやかに笑っているように見えるエイがすっと横切る。
「琥晴、同じ顔してたね」
「たしかに」
「どういうこと?」
後ろの二人の会話が聞こえ振り向く。優しい顔をした芭月と、同じような顔をした優亮がそろってこちらを見つめている。
芭月がいたずらっ子のような笑顔を浮かべて、けれど何も教えてくれなかった。
芭月も優亮も変なの。
そんなことを心のなかでは思ったが、口には出さなかった。そんな疑問も面白さに変わるくらい、今がとても楽しかった。きっと今の私は、近くで大きな水槽に興奮している小さな子供よりはしゃいでいる気がする。
しばらく進むと、魚の子どもの小さな水槽が並んでいたあとに天井にもガラスが張られた道に差し掛かった。
「わ……!」
思わず足を止めて水槽に目を向けると、ガラスが曲線を描いていて奥にまで手が伸ばせそうな気がした。そっとガラスに触れようと近づいたが、足元もガラスになっていることに気がついてその場でしゃがむ。
「あっ……」
さっきの子とは違うだろうが、またエイがにこりとした顔をしながら優雅に目の前を横切った。もともとそういう顔をしているのだろうけど、なんだかここでの生活は楽しいよ。とでも言っているような気がして思わず笑ってしまう。
「そっか、君は。楽しそうだね……」
一言も発していないエイになぜか感情移入と言うかなんというか、不思議な感覚だ。ちょっとだけ、悠々と泳ぐ姿が羨ましく思う。
私も、こんなふうに何も気にせずに生きることができたら…。
そんな事を考えて、頭を振った。
結局タラレバを言ったところで、どうにもならないことは私が一番わかってる。
「こーはるっ」
「わっ」
後ろから肩に手を乗せられて驚く。そっと乗せられた手に自分の手を重ねて振り返ると、楽しそうながらも優しい笑顔を浮かべた芭月と目があった。
「次のとこ行こ!」
私が重ねた手を握って、引っ張り上げられた。
「よ〜し!レッツゴー!」
なぜかテンションの高くなった芭月に手を引かれ薄暗いトンネルを歩く。
壁に窓があり、そこから見える水槽は本物の海を眺めているようで目を奪われた。けれど、足を止める間もなく芭月はどんどんと先に軽い足取りで進んでいく。
横にある展示された水槽には目を触れずさっさと歩いて、芭月は止まってくれなかった。
どこに向かってるんだろう……?
ここは一本道だからいつかその目的地につくのは分かる。けれどずっとこのまま辿り着かないのではないか、なんて不安がよぎる。
芭月の手を見つめながら、足元に気をつける。
「琥晴、見てみて」
ちゃんと目的地に着くことができたのかと、ほっとしてそっと顔を上げた。
「わっ」
今日はずっと同じことしか言っていないな、なんて思いながら息を呑む。
薄暗い空間にわずかな明かりの灯る海月の展示だった。
半透明なふわふわとした体に淡い光を受けて、より儚いような印象を持たせるそれに一瞬で心奪われた。そのまま水に溶けてしまいそうなのに、輪郭を持ったそれは言い切れぬ魅力があり、見惚れる。
「ふふっ、ふわふわ……」
「んぐっ……!」
優亮のむせる声が聞こえて振り返ろうとしたが、後ろから来た芭月に隣の水槽に移動させられる。肩に置かれた芭月の手を気にしていたが、丸い窓の水槽にあっという間に意識を持っていかれた。
どの子も水槽の中にいるはずなのに、とても自由気ままに見えて、やはり羨ましいと思う自分がいた。
だめだな、こんなんじゃ。
何がだめかもわかっていないのに、なんとなくそんな事思う。けれど、その考えは、間違っていないともなんとなく思う。せっかく二人が私のために、水族館に出かけようといって、楽しませてくれているんだ。マイナスなことばかり考えているのはだめだろう。
ふわふわと水中を舞って、悩み事なんて無いだろう海月に励まされた気分になって口元が緩むのがわかった。
「きれいだね」
胸の中に溢れたなにかはわからない感情が、私にそんなことを言わせる。横にいた芭月がそれに反応して、
「そうだね」
と、小さく笑った。
そうだ。きれいなんだ。この空間は私に眩しすぎるくらいに。
「ね、次のとこ行こ」
軽く振り返って芭月と優亮に微笑んだ。この笑顔は我ながら自然に出たいい笑顔だったと思う。
なんだか、今日はあっという間に過ぎてもう夕日が海に顔を近づけていた。とっても、とっても充実した一日だった。イルカショーを見て、ペンギンとアザラシの泳ぐ姿に和んで、水槽越しにカメとハイタッチして……。少し思い出しただけでも心が弾んで自然と口角が上がるのがわかる。
今は水族館を出て、砂浜に向かって歩いているところだ。その場のノリと勢いで引いたくじで、一等を引いた優亮にもらった大きな海月のぬいぐるみを抱きかかえながら。
芭月からはお餅のお菓子をもらった。家に帰ったら今日を思い出しながら食べようと思う。
砂浜に足を取られながら、時々転びそうになってそのたびに芭月と優亮に助けてもらって、なんとか波打ち際まで歩くことができた。
「……」
「……」
「……」
みんな、夕日が海に顔を隠していくのに見惚れて黙っていた。夕焼けの空なんて何度も見ているはずなのに、海という場所だからか、それとも芭月と優亮と一緒だからか、それとも今日を存分に楽しんだからか、きっと全部だからとてもきれいで、まぶたを閉じても眩しさが思い出として頭に残った気がした。
時間も時間だからか、人はだいぶ少ない。
「帰ろうか」
名残惜しそうな声音で芭月がポツリと呟いたのをきっかけに、私達は無言のままゆっくり砂浜をあとにした。
帰りの電車を待っているときも、誰も喋らなくて、私はただ海月の頬をつついて時間を潰した。電車に乗ると、若干の冷房が効いていて涼しくて、その涼しさが心地よくて睡魔が優しく語りかけてくる。席に座るとその声がぐっと大きくなって、自分でもうつらうつらし始めたのがよく分かる。
「眠い?寝てもいいよ」
そんな芭月の優しい声で私はゆっくり夢の中に落ちていった。
***
「……なぁ、本気なのか?」
優亮が琥晴が眠ったことを確認したあとに、念を押すように私に問いかけてくる。
「なんのこと?」
きっと意味はないだろうけど、一応とぼけてみる。いつものようにばかにするような薄ら笑いを浮かべて、わざと上目遣いにして。
「『琥晴ちゃんだけは死なせないから』ってこと」
優亮を琥晴に会わせる前に確かそんな事を言った。言ったときはまだ優亮は私達が死のうとしてることなんて知らなかったし、きっとこの言葉の意味すらわかっていなかっただろう。
そうだよ、
「本気だよ。琥晴だけは死なせないから。私が……」
守ってあげるから。
「絶対に」
情けないくらいに顔をクシャッと歪めた優亮の顔から目を逸らして、精一杯の虚勢で鼻で笑ってやる。
「琥晴ちゃんを一人にするつもりか?」
「そのための優亮でしょ」
「っ……」
「知ってるよ、あんたが琥晴のことどう思ってるかぐらい」
黙り込んだ優亮に追い打ちをかける。
「でも」
「うるさいな、うじうじしてんなよ」
いつまでも下向きな態度の優亮に自分でも苛立ち始めたのがわかる。肩に寄りかかっている琥晴の体温を感じたくて、自分の頭を彼女の頭にくっつける。たったそれだけのことで、苛立った心が落ち着いたのがわかる。
琥晴は、私の大事な大事な――
「琥晴は、私の特別だよ」
夢の中の彼女にそう呟くと気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。