Ⅱ.
今日の目覚めはとても良いものに感じた。起き抜けの気だるさや、まぶたの重さを全くもって感じない。
カーテンを開けようとベッドから立ち上がり、窓に向かう。
「うっ…」
カーテンを開けるとすでに太陽が登っていて、その眩しすぎる光に目をやられた。思わずうめき声を上げて目を覆う。
そんな我ながら人間らしいような行動に目の痛みを感じながら、笑ってしまう。瞬きを繰り返してもなかなか治まらない痛みと、眩しさの残る残像をもう気にしないことにして、さっさと出かける準備を始めた。
せっかく出かけるならどんな服がいいのだろうか…?
自分の持っている少ない私服を引っ張り出してすべてを床に広げる。基本的にシンプルなものばかり、悪く言えば地味な服ばかりだった。
そんな地味な服ばかりでどうコーディネートしたらいいのかもわからず、無難に白のブラウスにジーンズの組み合わせを選び、その他の服は片付けた。
そのうち、この服たちは着る人がいなくなって捨てられるんだろうな…。
ふとそんなことを思って少しさみしくなった。この服も私のように誰にも見られることがなくなって、悲しい思いをするのかな。意思を持たないものに対して哀れみを持った自分がなんだかおかしくて、ふっと笑いが漏れる。
服になんかに情を抱くくらいなら、その分を芭月に抱いたほうがよっぽどいいだろう。
さ、出かけよう。きっと今日も楽しい一日になる。
おまじないのように自分に言い聞かせて、音を立てないように自室のドアを開ける。昨日のような失敗はしないように、慎重に階段を降りて、玄関に飛び出す前に左右をよく確認して人がいないことを確認する。
まるで横断歩道を渡るみたいだ、と一人で笑いかけたが急いで靴を履いて、下を向いたまま外へ飛び出した。
「うぉ、琥晴」
するとびっくりしたような聞き覚えのある声に顔を上げると、芭月がいた。この夏の暑さだというのに、芭月は薄手ではあるが白い長袖のカーディガンを羽織っていた。下は水色のスラックスで割と涼しげには見えるが。
そんな事を気にする前に話を聞けば、ちょうど迎えに来てくれたらしい。
「おはよ、琥晴」
「う、んおはよう…」
朝から芭月に会えて嬉しいのに胸がざわついて、あまり喜べなかった。
「ねぇ、顔のそれ、どうしたの? 大丈夫?」
芭月の日焼けしていない白い右頬に、それよりも白いガーゼが怪我をしたときのように貼られていた。聞いたあとに聞いてよかったのかと後悔が押し寄せてきて、あとか、えっととか、無意味な言葉にもなってない声だけが漏れていく。
私が慌ててるのを見たからか、芭月は少し困ったように笑ったが、少し失敗をしてしまったような苦笑いを浮かべた。
「昨日、転んじゃって、たまたまころんだとこに硬いもの落ちててそれにぶつけて痣できちゃったんだ」
違和感しか感じることのできない状況の説明で、なんとなく用意されたセリフを読み上げているような無感情さも感じた。だけど、私が深堀りしていいことなのか、芭月が言葉を濁すということは聞いちゃいけないことなんだ、そんなふうに思った臆病な私はただ、
「そっか、お大事に」
と怪我をしてない反対側の左の頬を、撫でることしかしなかった。
「ふふっ、ありがとう」
芭月は一瞬眩しそうに目を細めたあと、私の頭をなでた。そのあと歩き始めようと言うように背中を軽くポンッと押してきた。
「そういえば、琥晴のその服いいね。似合ってる」
「ほんと?ありがとう、嬉しい…」
「……。芭月も、似合ってるよ」
歩き始めてから、芭月に服を褒めてもらえて、喜びを逃さないように口に息を少しためる。そのあとに照れくささを含みながら出た褒め言葉は、ほんのり甘くて酸っぱいような気がしてなんとなくむず痒くなる。慣れないことはするもんじゃないな、なんて思いながらちらりと芭月の顔を盗み見た。
「ぇ、」
驚いて思わず声が出た。
芭月は嬉しそうに、驚いたように、照れたように、口元を緩めて、目を丸めて、頬を朱色に染めていた。だがそれも一瞬のことで、私が芭月を見ているのに気づいたからか、すぐに表情を取り繕ってニコリと微笑んでみせた。朱色の頬はそのままだったが。
頬が赤くなると余計に白いガーゼが痛々しく見えて、自分のことのようにズキリと胸が痛む。
歩きながら自然と繋がれた手にぬくもりを感じる。そのことに安心して、それを少しでも伝えたくてぎゅっと握り返した。
「あれ、ふたりともいるんじゃん」
後ろから間の抜けたような聞き覚えのある声が聞こえて、芭月の手を握ったまま振り返った。
「そーだよな、俺たちの家めっちゃ近所なんだから、最寄り駅にする必要なかったんじゃん」
「優亮、おはよう」
ふざけたように笑う彼の顔を見て、また安心感を覚えた。
「なんだ、どうせ遅刻すると思ってたのに、やけにお早いご出発で」
不機嫌そうに皮肉めいた話し方をする芭月を、軽くなだめたが、昨日も似たようなことあったな。なんか少し面白くなる。
「ふふっ、まぁまぁ芭月。芭月だって早く来てくれたでしょ?だからいいじゃん」
「んーまぁね。なんとなく私の魂胆を優亮のくせに見透かしてる気がして気に食わないの」
「あー、やっぱ?そんなことだろうと思ったよ」
呆れたように優亮が肩をすくめたが、私には全く持って芭月の魂胆が何なのかがわからず、二人の顔を見比べて首を傾げた。
「てか芭月…」
突然息を呑むように、芭月の頬に視線を動かした。その視線に気づいた芭月がバツの悪そうな顔をしてそっぽを向く。
「別に」
一瞬にして無言の空気が流れる。しかし優亮が弾かれたように、慌てたように表情を取り繕ってわざとらしいくらい明るい大きな声を出した。
「お前子供の時からよく転ぶもんなぁ!気をつけろよ!」
そっか、そうなんだ。そんなふうに納得しかけたが、優亮は転んだんじゃないってきっと気づいてる。私にはわからない何かを、きっと優亮は知っているんだろう。だって明るい声を出したくせに、目は暗いままだ。
優亮がこの場の空気をなんとか取り持とうと話し続けてくれているおかげで、私達の間の空気は少しずつ和らいできていた。
ただ、少しでも早く良くなりますように、芭月が私に気を使わないくらいに心を許してくれますように、なんて目が痛くなるほど青い空に叶うわけ無いと知りながら願った。
電車から降りると、まず最初にクラゲの水槽がお出迎えしてくれた。
「わ、すごい」
「これからもっといっぱい見に行くんだよ〜」
そんなゆるい会話を交わしながら改札を出ると、竜宮城のような駅舎の天井が見え余計にワクワクした。
「私、こんな遠くにお出かけするの始めて…!」
海が近いからだろう。爽やかな海の香を乗せた潮風が吹いて、首筋を撫でていった。少し歩いていくと水平線が見えてきて、さっきの駅の名前にも入っている島が見えてきた。思わずテンションが上がり、少し駆け足になる。
「あっ」
「っと、あぶな」
「っ!」
交差点から勢いよく飛び出してきた自転車と危うくぶつかりそうになった。ただ芭月と優亮が私の腕を掴んで引っ張ってくれたおかげで助かった。
「あ、ありがとう」
「いいのいいの」
「ったく、一時不停止かよ」
迷惑をかけたのにもかかわらず、芭月は優しく微笑んで怪我しなくてよかった、と頭をなでてくれた。優亮も、自転車に乗っていた人に対して文句を言っていて、私への文句は一言も言っていなかった。
なんだろう、ちょっと違うのかもしれないけど、優しい人たちだなぁ。
きっと、数日前の私には絶対にわからない温かさを感じて、少し後ろにいた二人の手を取る。
「琥晴?」
「っこ、琥晴ちゃん?」
「えへへっ、早く水族館に行こっ!」
さっきに比べて周りをよく見ながら私は二人の手を引いて、まっすぐ水族館を目指して歩き始めた。