Ⅰ.
一口ずつゆっくり咀嚼して、モソモソとした食感に口の中の水分が奪われて、スポドリに手を伸ばす。すると、横からも手が伸びて私より先にボトルを掴んだ。そして手早く蓋を開けて、こちらに渡してくれた。
「はい」
「ん、ありがとう」
お礼を言ってペットボトルを受け取りながら、思案する。
「なんか、お姫様みたい…」
ぽつりと、つぶやいたあとペットボトルに口をつける。
だって、芭月は未だに私が倒れないように、背中を支えてくれているし、その上ちょうど欲しいタイミングで欲しいものを渡してくれる。これがお姫様でないなら、何なのだろうか。
…いいところのお嬢様?どちらにせよ、ちやほやされる立場にあるのは間違いない。
「こはる姫?」
なんとなしにつぶやいたような、芭月に少しだけ恥ずかしくなる。
「私にお姫様なんて似合わないね…」
思わず笑ってしまう。それは自嘲する笑みのつもりが、不思議なことに照れたような口調になった。
「ふふっ」
芭月の笑い声が教室に響いた。
「ははっ」
優亮の笑い声も教室に響いた。
「ふふふ」
つられて私も笑う。
傍から見れば、急に笑い始めた変な三人組に見えなくもないだろう。けれど、私達にしかわからない、他人にわかるはずもない理由がある。
誰か一人でも、たった一つでも選択を間違えていれば、今こうして一緒にいられなかったかもしれないということを、ここにいる私達はわかっている。
だからこそ、なんでもない、大した意味のないこの時間が、この空間を共有できていることが嬉しくて、楽しくてたまらないんだ。
「ね、みんなで出かけない?」
かみしめるようにつぶやかれたその一言に、なんだかワクワクしてきた。
「どこにいくの?」
「それを今から考えるんだよ!」
ね、楽しそうでしょ?と言いたげに瞳を輝かせた芭月に、ひたすらに同意する。
すごい、すごく、とっても、楽しそう…!
抑えきれぬ好奇心で、芭月と優亮の顔に視線を何度も移動させる。
「俺はどこでも。というか、琥晴ちゃんと、は…橘が行きたいところならどこでも」
「あんさぁ、別に『橘』ってわざわざ呼ばなくていいんだよ?」
「いやっ」
「何も考えずに私のこと呼ぶときは『芭月』って言っちゃってるんだから」
確かに。話の流れにはよくついていけなかったが、優亮が芭月のことを名字で呼んでいるときは毎回違和感を感じていた。
二人は幼馴染だというのは聞いていたから、より不思議には思っていた。
あ、もしかして…。
「思春期で女の子の名前呼ぶの恥ずかしくなったの…?」
「ぐふっ…!ぅっ、ふふふ」
「っ〜〜〜!!」
思いつきをそのまま声に出してみたら、芭月は盛大に吹き出し、優亮は顔を真っ赤にして言葉をつまらせていた。
「あ、えっと…?ご、ごめ」
「琥晴さいこー!あははっ、思春期で恥ずかしくなっちゃったねぇ〜。ふっふふ」
とっさに謝ろうとしたが芭月に遮られ、むしろ喜ばれていた。謝る必要がないのかと錯覚しかけたが、思いとどまる。
優亮を見ると居づらそうに顔を赤くしていた。
「ま、そんなことはどうでもいいからどこいく〜?」
本当にどうでも良さそうな顔をしながら芭月は話を戻した。
優亮は顔を赤くしながら少し悲しそうに笑って、諦めたように私に視線を投げた。
「どうでもいいとか言わないでよ、悲しくなるじゃん。芭月…」
一瞬驚いた。
こうもあっさりと、自分が恥ずかしさで名字呼びをしていたのを認めるのか。
じっと優亮の顔を見つめる。すると驚いたように目を見開き、照れたように顔をそらされた。
見つめすぎた…?
そんなふうに呑気に考えていたら、芭月が楽しそうに私を抱きしめてきた。
こちらを覗き込んでにへらっと微笑んでみせた彼女は、鼻歌交じりに私の髪を梳き始めた。
「ま、優亮の呼び方がもとに戻ったってことで、どこ行こっか」
優亮の呼び方がもとに戻ったことと、何の脈絡もないお出かけの話になったのに少し笑ってしまった。
「どこに行こうか…」
特に何かを思ったわけでもなくつぶやいたが、優亮が反応した。
「あのさ俺、水族館とか好きなんだけどどう?」
水族館……!
「私、行ったことない!行ってみたい…!」
過剰なほど水族館という単語に反応してしまって、浮かれるままに声に出したあと少し恥ずかしくなる。ちょっとテンション上げすぎたかも……。
「じゃあ水族館に決まりでいいんじゃない?」
涼しそうだし、と続けて芭月は笑った。
水族館、楽しそうだな。芭月もいるんだし、もっとずっと楽しいんだろうな。想像しただけでワクワクしてきて、ふふっと声を出して笑ってしまう。
「おっ、楽しみなんだね〜」
私の様子を見てか、芭月はにこりと笑った。
「そういえばなんだかんだ、今一緒にいるけどさ、琥晴と優亮はは今日が初対面なんだよね?」
純粋な質問を投げかけられ、濁す必要もないからそのままうなづいた。
「うん、そういうことになるね」
「あ、あぁーまぁ、あ。うん」
妙に歯切れ悪く優亮もうなづく。どういうことだろう…?
「ふーん」
芭月は意味ありげに微笑み、優亮の歯切れの悪さを深く考えるまもなく、細かい日程を提案し始めた。
私は誰かと出かける。ということ自体慣れていないので、とりあえずうなづくことしかできなかった。けれど、心はとってもふわつくような楽しさに踊るようだった。
「早速だけど、行くのは明日にしない? 会えない日が続くと寂しがりがいるしね」
一瞬だけ芭月の視線が優亮と私に向いて、ふたりとも芭月から少し視線をそらした。
でも、確かに芭月の言う通りで明日も会えないなら、孤独を感じてずっと落ち込んでるかもしれない。芭月に会えないまま、『あの人たち』しかいない家にいるのはしんどいな。
そんな風にさみしい思いするという想像をする自分に思わず笑ってしまったが、幸い二人には聞こえてなかったみたいだ。けれど、二人ともとても楽しそうに笑っているから聞こえてもよかったのかもしれない。
大丈夫、この人たちと一緒なら私は一人にはならないよ。
そう自分の心に言い聞かせたときに、いつの間にか話はまとまっていて、待ち合わせ場所も時間も決まっていた。最寄り駅に十時。
「じゃ、話も決まったことだしそろそろ帰ろっか」
「え」
芭月の発言に窓の外を見ると、青い空がオレンジ色に染まり始めていた。青から赤い太陽の色を混ぜて薄紫から桃色の空のグラデーションがとてもきれいで、思わず見惚れた。
もうそんな時間なのか、意外と一日が終わるのってあっという間なのかな。それならきっと、私たちが終わりを目指して飛ぶ日もそう遠くはないだろう。
ふっと横に気配を感じて見れば芭月がいて、そしてその向こう側に優亮がいて、なんだか笑ってしまう。
今日はとても笑う日だな。
ポツリとそんなことを思うと、
「琥晴、今日はいっぱい笑うね」
芭月も同じことを思ったらしい。そして私の手を握って、
「これからは毎日笑顔にさせて、さみしい思いなんてさせてあげないからね!」
なんて言ってくれた。
それが嬉しくて嬉しくてたまらなくて、口元が緩むのがわかった。
あぁ、幸せってこういうことを言うんだろうな、なんて考えてしまうほど、私は喜びを、嬉しさを感じていた。
だから、向こうの優亮の顔が複雑そうに歪んでいたのは見なかったことに、そもそも見えなかったことにした。
芭月も優亮も私の家の前まで送ってくれて、玄関のドアを閉める直前まで手を振る芭月の姿が見えて、ほわりと心が温かくなる。『あの人たち』に見つかる前に私はドアが閉まったのを確認して、急いで自分の部屋に逃げた。
「明日が楽しみだな…」
思わずつぶやいて、一人で照れくさくなってふふっと笑ってしまう。柄にもなくニマニマと自分がニヤけているのがわかる。
明日に備えて今日は早く寝よう。
ここ数日、というかまだ夏休み二日目ではあるが最近、『明日』にワクワクしている。きっと芭月に会えるから。芭月と話せるから。今日からは優亮もそこに加わってきっともっと楽しくなる。
早く、明日が来ますように。