Ⅲ.
屋上から室内に戻ったばかりだというのに、空気はひんやりとしていて少し心地よく感じる。
階段を降りるときにも、芭月と手は繋がれたままで、それが嬉しくて口元が緩んでいるのが分かる。少し恥ずかしいような気もしたけれど。
階段を降りてすぐの空き教室に入った。窓が開いているから蝉の声がよく聞こえる。適当に椅子を持ってきて、後ろの方で向かい合えるよう三角形を作るように置いていく。
全員が座って向かい合ったタイミングで、芭月が誰の反応を見るわけもなく、切り出した。
「優亮。いきなりだけど夏休みが終わったら私たちもう会えないんだ」
その一言で、その場の雰囲気が一瞬で楽しいものではなくなったのがわかった。
ズキッと、一瞬だけ鈍い痛みが頭に走る。その痛みが何なのか考える暇もなく、会話は進んでいく。
「は? なに、どーゆう冗談?」
「冗談じゃないよ」
中野さんは芭月の言った言葉の意味が理解できていないのか、ひたすらに首を傾げていた。私はというと、そのことを中野さんには隠し続けるつもりでいたから、正直驚いた。ひやりと冷たいものが背中を流れる感覚があった。
「どっかに引っ越す、とか、そういう?」
彼にはきっと分からないだろう。毎日笑顔が絶えない人は、頭の隅にも浮かぶことがないようなものだから。もしくは脳裏にちらついた、一抹の不安を拭い去ろうとしているのかもしれない。その不安は拭えるどころか、べっとりとくっついて取れなくなってしまうかもしれないけれど。
まあでも私は、芭月が夏休みの終わりのことを中野さんに話すと決めたのなら、私は黙って従おうと思う。私に口出しをする権利は無いから。もとよりそのつもりもないが。
「引っ越しなんて…、そんなことしないってのは、優亮が一番分かっているでしょ」
強く責めるような口調だったが、表情はなんの感情も宿していないように見えた。
そんな芭月を見て、中野さんは何かを言いたげに、唇をわなわなと震わせた。けれどすぐに唇を固く引き結んで、自身の髪をかきむしった。
理解できていない。いや、彼は芭月の言葉でもう気づいているかもしれない。けれど、彼の心がそれを認めたくないから、理解できていないふりをしているのかもしれない。
―ガタッ
勢いよく立ち上がって、体の横で握りしめた拳をわずかに震わせた。
「さっきから意味分かんねぇよ! なんで…、なんで急にそんなこと言うんだよ! なぁ!!」
「!!」
中野さんの大声に、体がビクリと反応する。
彼は納得できないが、気づいてしまった、理解してしまった、というような様子で、芭月を睨んでいる。けれど、芭月は変わらず感情の見えない表情で彼の視線をじっとその身に受けていた。
そんな中、中野さんは私に視線を向けてきた。その目は申し訳ないというような感情を含んでいるように見えた。
ただそれもほんの一瞬のこと。
よく確かめる前に、彼の目は芭月を責めるための険しいものに戻っていた。
「そんな言い方するんなら、ほんとは私らが何をするか分かってるんじゃないの?」
少しだけ柔らかい表情になった芭月は、一度下を向いてからやっと中野さんの目を見た。
それに対して、中野さんはなにも言わなかった。首を縦にも横にも振らなかった。中野さんは少しも動かなかった。
ただ、芭月をずっと睨んでいた目が潤んで、今にも泣き出しそうになってしまう以外は。
それは私にも、芭月にも、無言の肯定に捉えられた。
「「「……」」」
誰もなにも言わなかった。何かを言うべきではないとみんな分かっていた。でも、この場をなんとかするには言葉が必要だと、みんな分かっている。だから、この場にふさわしい言葉をみんなが探していた。
互いの顔だけは見ないように。
何を言うべきか分からなくなってしまうから。
力なく、中野さんが椅子に座り込んだ。そして膝に肘をついて祈るように手を組んだ。
「なぁ…」
ぽつりと、耳を澄ませていないと聞こえないような小さな声が、この場に響いた。
一番に言葉を見つけたのは中野さんのようだ。
「ふたりは…、橘も、琥晴ちゃんも、ふたりとも。死んじゃうつもりなの…?」
声は震えていた。顔を上げた彼の瞳は、わずかに潤んでいる。
今日会ったばかりなのに彼らしくない、と思った。ほぼ初対面の私でもそう思うくらい、彼は明るいのだ。そして私が気がつくほど彼は今きっと、不安なのだ。幼馴染で小さい頃からずっと一緒にいたであろう芭月が、自ら死を選ぼうとしているから。それを、すでに決定してしまっているから。
私は、そんな彼を見て目をそらすことしか、できなかった。そのときに、ずっとこちらを見つめている彼の目が、少し揺らいだのを見なかったふりをした。
「もし、そうだって言ったら…。優亮はどうするの?」
「っ、それは…! 説得、する、に…決まってる……」
芭月の言葉に、中野さんは焦燥感に駆られたように立ち上がる。最初こそ大きな声だったが、だんだん音になっていないほどの声が、自信なさげにこぼれた。
「本当に?」
中野さんを試すように、芭月が下から覗き込みながら訊いた。
それはただの確認のようで、死刑宣告をする裁判官の言葉のように重く聞こえた。
中野さんは一瞬、体をビクッと震わせて数秒視線を彷徨わせたあと、考え込むように下を向いた。
しばらく彼は何も言わなかった。また、私達の間に沈黙が流れる。蝉の叫び声が痛いくらいに外から聞こえてくる。
―もう、どれだけの時間が経ったのだろう。
まだ沈黙を守ってから、十数秒かそこらしか経っていないだろう。けれど、私にはこの十数秒が果てしなく長いものに感じられた。
彼の返答次第で、私の残りの人生は大きく変わってしまうような気がしてならなかった。彼が一番どう答えるべきか悩んでいるはずなのに、何故か私まで不安になってきて、ちらりと芭月に視線を向けた。
視線に気づいた芭月は何も心配することはない、と言いたげに少しだけ目尻を緩めた。それを見てもあまり落ち着かなかった。
「……」
何かを決意したように中野さんが息を吸い込んだ。
次に発せられる音を聞き逃さないように、私は息を殺した。
「俺は…」
芭月はただ静かに、ナイフのように鋭く冷たい視線を向けた。私はどうすればいいのかわからなくて、ただ黙って彼の言葉を待った。
「俺には、二人を説得することはできない…」
ずっとずっと考えて、すぐに答えを出さなきゃいけない状態で、彼はそんな答えを導き出したようだ。
「その資格がないって言うのが、正しいんだろうけどな」
力なく、切なげな目をして乾いた笑いをこぼした。
「俺が説得したところで、二人は揺らがないんだろうし、きっと不快にさせてしまうだけだろ…?」
悔しそうに、私達に視線を向けることなく、ぽつりぽつりと独り言のように話していく。
「だから?優亮はどうしたいの?説得できないから?なに?」
あえて挑発するように芭月はふっ、と鼻で笑った。それに対して中野さんは一瞬だけ、顔を上げた。
「俺には説得ができない。する資格もない。きっと二人に何かをしてあげることもできない。だけど、それでも、二人が終わりを、死のうとしてるんだとしても俺は…」
芭月は、先程のように嘲笑しなかった。ただ、彼の真っ直ぐな、無力だと嘆く言葉を黙って受け止めていた。
「二人と、一緒にいたい…!」
「っ…!!」
続いた言葉は静かながらも力がこもっていた。
思わず息を呑んでしまった。芭月は待っていたと言わんばかりに破顔して、少し勢いをつけて椅子から立ち上がった。そして心底安堵したように中野さんの肩を叩いた。
「ぃって!? な、にすんだよ!」
「ううんっ、ちょっと嬉しくなっただけ!」
言葉の通りまんざらでもなさそうに笑ってみせた芭月は、叩いたところを軽くさすっていた。中野さんは少し恨めしそうに芭月を見たあと、少しだけ安堵したように頬を緩めた。二人に合わせるように黙って私も立ち上がった。
そんな二人を見ていた。
「琥晴? どうしたの?」
芭月に指摘されるまで、全然気づかなかった。
「琥晴ちゃん?」
中野さんも不思議そうに、笑って私を見つめている。芭月が自分の両手の人差し指で持ち上げ、笑みの形を作った。それにつられて、私も頬に手を当てると、
―笑ってた。
あれ。私、いつの間に…?
でも、そんな疑問もどうでも良くなるくらい笑ってたことに喜びを感じて、芭月に寄りかかった。
少し驚いたような気配を感じたが、すぐに嬉しそうな吐息が聞こえた。それに私も思わず、息を吐いた。
中野さんは、何もできないことから逃げることもできたし、私達を説得することもできた。でも、そうじゃなくてちゃんと私達に向き合う選択肢を取ってくれた。それが、なんだか嬉しくて…。
私も少しは、彼に向き合ってみるのもいいのかもしれない。
「あ、の」
「?」
緊張で少し声が掠れた。でもちょっと勇気を出せばなんとかなる。
「中野さん…あの、ゆ、ゆ」
「ゆ?」
「琥晴?」
だっ、だめだ。緊張で目が回りそう。
芭月が何かを察したのか、背中をなでてくれた。
そこで緊張がふっと、和らいだ。緊張しまくっていたことが間抜けに思えるくらいに、気が抜けて、全然大丈夫じゃん。と思えた。
「優亮って呼んでもいいですか」
私の一言で一瞬沈黙が落ちた。
沈黙が長くなるに連れ、なんでか顔がどんどんと熱くなってくる。
「あっ、あのやっぱとりけ…」
「え、いいの…? ……いだっ!」
ぽかんと口を開けたままこちらを見ていたので、恥ずかしくなってなかったことにしようとした。けれど、それにちょうど重なるように、中野さんは口を開けたまま、少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。直後、なぜか芭月からチョップを食らっていた。
「欲丸出し、ばっかじゃないの?」
呆れたように大きなため息をついた。
えっと…?なんて言えばいいのだろう。中野さんが、顔を真っ赤にして芭月に叩かれたところを抑えて、顔を隠すように後ろを向いた。
何が起きたのかあまり理解できず、首を傾げていると芭月が少しだけ困ったように笑った。けれど、優しく中野さんの肩を叩くと、視線だけで私のことを指した。
「えっと…」
「琥晴ちゃん…!
「はいっ!」
突然名前を呼ばれて驚く。
「あの、琥晴ちゃんさえよければ、俺のこと好きなふうに呼んでくれていいよ」
少し照れたように笑って首に手を当てる彼に、一瞬胸がキュッ、としたような気がした。
「じ、じゃあ…優亮って呼ばせてください…」
なんでか恥ずかしくなって、声はどんどんしぼんでいく。そんな私を見たからか、なか…優亮は顔を少しだけ朱色に染めた。
彼は私に向き直って、また少しだけ照れくさそうに笑った。
そんな彼の姿に、ひと夏で終わってしまう期限付きの関係に、ちりっ、と胸が痛んだ。
それに呼応するかのように、
―ズキッ
「ぅっ…」
急に頭痛がして、思わずうめき声を出す。張り詰めていた糸が切れたように、視界がぐにゃぐにゃと歪み始めて、床に手をついてしゃがみこんだ。
「琥晴!?」
「琥晴ちゃん!」
二人が私のことを呼ぶ声が聞こえたけれど、そっちに意識を持っていく余裕がないほど、頭がふわふわとしたようで気持ち悪い。ゆっくりと床に向かって寝そべると、幾分か楽になった。
そういえば、昨日の夜は疎か、今日の朝も昼も何も食べていない。それに水も飲んでいなかった。
さっきまで大丈夫だったのは緊張の糸が張っていたからかもしれない。
軽い熱中症かな…。
ぼんやりとそんなことを思っていると、芭月が私の頭を自分の膝に乗せて優亮になにか話していた。芭月の顔がよく見えて少し安心する。
「は、づ…」
「大丈夫、喋らないでいいよ。今優亮に水買いに行かせたから」
もうちょっと待っててね、と優しく話しかけてくる芭月になんとなく原因がわかってるんだと驚く。
「琥晴、今日なにか食べた?」
「食べて、ない。夜も、なにも…」
芭月は少し口元を引きつらせ、すぐにスマホを取り出して少し操作した。
「ご飯、ちゃんと食べなきゃだめでしょ?」
「はい…」
しっかり怒られてしまった。ただ、もっともな叱られ方なので何も言い返せない。ぐうの音すら出ない。
―ごめんね…。
そう言おうとしたが、声が掠れて出なかった。さっきまですごく楽しい、いい雰囲気だったのに。私のせいで、こんなことになっちゃって…。
「謝らないでね」
「…!」
「琥晴ってば、申し訳無さそうな顔し過ぎ」
一瞬、心を読まれたのかと思った。けれど、それは違ったらしく、顔に出てたらしい。額に優しく手をのせられて、ふふっ、と小さく笑い声を上げる姿に、固まりかけた心がほぐれるのがわかった。
さっきと比べると、あんなにもひどかっためまいは少しだけ落ち着いたような気がする。ゆっくり息を吐き出すと、さっきより楽になっているのがよくわかった。
ゆっくり呼吸を繰り返していると、遠くからドタバタと足音が聞こえてきた。それはだんだんこの教室に近づいてきて、入口のあたりで一瞬止まった。
「はづきっ!!」
慌てたような声が聞こえて首を動かさないように、視線だけで見たが誰が来たのかよく見えなかった。けれど、声から考えるに多分、優亮だろう。私のために、わざわざ。走ってきてくれたんだ。
「はいはい、ありがとさん。てかあんたやっぱ私のこと、無理して橘って呼んでたんじゃない」
「えっは、いやそんなこと」
直接見ることはできないけれど、なんだか面白そうな話をしている。見てみたくて顔を上げようとしたが、頭が鈍く痛んだから諦める他なかった。
「ま、今はそんなことどうでもいいから、早くちょうだい。琥晴がこれ以上ぐったりしちゃ困るでしょ」
「あ、あぁ」
それもそうだといった様子で、近づいて、私達のすぐ側にしゃがんだ。両手にそれぞれ、スポドリと、携帯食料を持っているのが見えた。
本当に、わざわざ買ってきてくれたんだ。
ちょっと嬉しくなって口元を緩ませる。
起き上がろうと頭を持ち上げると、一瞬ぐらっ、と揺れるような感覚があったが、無視して起き上がった。
「ちょっ、大丈夫?」
一瞬顔をしかめたのがバレてしまったのか、優亮が荷物を床において顔を覗き込んでくる。大丈夫だ、とアピールしたくて笑ってみせる。が、その前に芭月が後ろから抱きつくように支えてくれて、思わずそちらにもたれかかってしまう。ちゃんと体を起こそうとしたが、芭月が肩を掴んで、自ら背もたれになってくれた。
「ありがと」
少し自分が情けなく感じて笑ってしまう。
「はい、これ。無理しないでいいからね」
優亮からスポドリを受け取った。手のひらから伝わる少しひんやりとした感覚に、少し気分が良くなった気がする。
ぱきっ、とキャップの小さな乾いた音を聞いたあと、ゆっくり中身を飲み込む。本当に久しぶりの水分のように感じて、一瞬吐き気を覚えたがそれも一緒に飲み込んだ。
一度水分を飲むと、どんどんと欲しくなって、あっという間に半分ほど飲み干した。
「琥晴ってば、どんだけ水飲んでなかったの」
後ろから呆れたような声が聞こえて、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。芭月に笑われながら、はい、と手渡された携帯食料の包みを開けたときに、はたと思い当たる。
「これ、普通にもらっちゃってるけど、お金って…」
「いーのいーの。病人はそんなこと気にしないでいいの」
「で、でも」
「じゃあ、私達に迷惑かけたんだから黙って受け取っといてよね」
少しだけ勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、きつい言葉を投げかけてきた芭月に一瞬だけ息が詰まった。そんなふうに言われてしまっては、何も言い返すことができなくて手のひらで包んだ携帯食料に視線を落とす。
「ほんと、気にしなくて大丈夫だよ。体調悪いときは食べるに限るよ! 栄養取らないと!」
買ってきてくれた優亮にそう言われて、ようやく甘えてしまおうと思えて、頬がゆるむのがわかった。
深く考えずにそのまま言葉を受け取れば、芭月の言葉は私が遠慮する逃げ道を経つためのものだったのか、とも思えた。
「あ、りがとう。じゃあ、えっとお言葉に甘えて…」
背中越しに、少し楽しそうに笑う芭月の気配を感じながら、携帯食料を口に入れた。
なんでかはわからないが、パサパサとしたそれは、ほんのり優しい味がした気がした。