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夏を嘲笑う  作者: 春樹蒼空
終わりへの始まり
2/9

 私がフェンスを乗り越えて屋上にしっかりと立つまで、芭月は私の手を握ってくれた。

 一度振り払われたと思っていたその手から伝わって、また心に何かが溜まった気がした。

「琥晴は、なんで死のうと思ったの?」

 屋上の隅で夏の暑さなんて知らないように、二人で身を寄せ合い手を繋ぐ。そこから互いの体温が伝わり合って、嬉しくて静かに息を吐いたときに、静かにそう訊かれた。

 そんなに気乗りする質問じゃなかったけれど、芭月の質問だからと、自然と答えていた。

「みんなが、私を見てくれないから」

 ちょっとつぶやいただけなのに、今までそうじゃないと思い込んでいたのに、口にしてしまったら心にストンと落ちてしまって、鼻の奥がツンとした。

「みんなって、誰?」

 静かに刺すような眼差しを向けられ、思わず怖気づく。その言葉に怒気が込められているような気がして、視界が揺らいだ。

「琥晴の言う『みんな』の中に私は、橘芭月は入ってるの?」

 一瞬よく分からなかった。けれど、まっすぐ私を見つめてくるその瞳に吸い込まれそうな、少し恥ずかしいような気がして、目をそらす。

 それを質問に対する肯定と受け取ったのか、芭月は私に顔を近づけて、小さく息を漏らした。息が鼻に当たって少しくすぐったかった。

「私は、琥晴のこと見てないの? 今、まっすぐに君を見つめているのに? 君がいつも頑張っていることを知ってる。誰も見ていない花壇でも、鉢が倒れていたら直しているのも知っている。人を傷つけないように無理をしてしまっているのも知っている。人が嫌がることも率先してやっているのも知っているよ」

 間近にある芭月の顔に、恥ずかしくなったが今度は目をそらせなかった。ずっと、私が欲しかった言葉をくれた。

「こんなにも頑張っている琥晴をたくさん知っているけど、それでも私は『みんな』と同じように琥晴のことを見ていないの?」

 見て、くれていたんだ。芭月は他のみんなとは違うんだ。違ったんだ。それに気づけていなかったことが悔しくて、教えてもらえて嬉しくて、感情がぐちゃぐちゃに混ざった涙が流れた。

「芭月は、見ててくれてた。見ててくれてたんだぁ…」

 少し口を開いただけで嗚咽が漏れ、涙がこぼれた。それをきっかけに私はそのまま泣き声を上げて芭月に抱きついた。

 今まで誰にも見てもらえてないと思っていて、そうでなかったことへの安心感と、幸福感が満ちて、涙が溢れて止まらないのは自然なことでもあった。

 やっと、私がこの世界に存在しているような気がした。言い方を変えれば、誰にも見てもらえていないと思っていた頃は、自分は空気のような存在だと信じて疑っていなかった。

 私が泣き続けている間、芭月は優しく頭を撫でて、抱きしめてくれた。

 あったかい。

 何も感じることのできなかった心が少しずつ、あたたかい感情を感じることができるように思った。

 私がひとしきり泣くと、先程のような込み上げて溢れ出した嬉しさは少し落ち着いた。それに気づいた芭月が、私を抱きしめながらぽつりとつぶやいた。

「ねぇ、琥晴は今まで『誰か』を、じゃなくて『自分』を大事にしてあげようと思ったことある?」

 柔らかい声音で、静かに質問してきたその声は、私の鼓膜をやわらかく振動させた。けれど、私の頭は聞き取った音の意味をあまり理解することができなくて、思わず首を傾げる。

 すると芭月は私から少し離れて、仕方がなさそうに笑った。そして、少し雑に私の頭を撫でた。

「分かんないなんて、琥晴は悪い子だぁ」

「えっ…と、ごめんなさい」

「ああぁーごめん!そういう意味じゃなくてさ」

 謝らせるつもりはなかったよ、と続けた芭月は私を安心させるように、柔らかく微笑んだ。肩より短いその髪が風に吹かれて、サラサラと揺れるのを見た。

「みんなはね、自分を大事にできてる人を見るんだよ。だから、みんなが見ないのは、琥晴が自分を大事にできてないからだよ」

 他の人には少し厳しいような言葉だった。けれど、私は自分を大事にできてないという言葉が、あまりにも自然に、ストンッ、と心のなかに落ちてきた。

「自分、を、大事…?」

 そんな考えなんてなかった。だからだろう。だから私はさっきの芭月の言葉を理解することができなかったんだ。けれど、未だにそんな考えがあるなんて飲み込めなくて、首を左右にかしげることしかできなかった。そんな私を見て、芭月はまた仕方がなさそうに笑って、今度は私を柔らかく優しく抱きしめてくれた。

「琥晴、よく聞いてね。誰かに、見てほしいって嘆くなら、嘆く前にまず、自分をよく見てみない? 自分を見れてない人は、誰からも見てもらえない…。自分が自分の存在を見ていないのと一緒だと思うからさ、見つけてもらえないんだよ」

 私には痛い言葉だった。今まで自分を大事にすることすら知らなかった私は、自分を見ることすらもしていなかったのかもしれない。

 じゃあ、これから自分を見れば『みんな』は―両親は私を見てくれ、る?

 ふと浮かんだ考えを打ち消すために、頭を振る。

 そんなことあるわけない。私は、誰かに見てほしいだけだから。私が私を見たところで、何も、変わらない。だから私は、私は…。

「琥晴」

 私が私を見ても、誰かが見てくれることなんて―

「私は見てるよ」

 ありえない。

「…え、っ」

 思考の海に潜っていて、一瞬反応に遅れた。名前も呼ばれていた気がする。

 …そんなのおかしいじゃん。言ってることが矛盾してる。

 それに気づいたことが、なんだか悔しくて、また涙が滲み始めた。

 ほんとは見てくれてるのが嬉しいのに、私がやろうとしたことが否定された気がして、悔しくて、虚しくなって…。

 やっぱり私って、

「無意味なのか、な」

「…!! っ無意味なんかじゃない! 琥晴は、私が生きる意味だ!」

 は、い…?

 少し大きな声で驚いたけれど、芭月が私の言った『無意味』の意味を瞬時に理解して、否定してくれたのは分かった。けれど、そんな私が生きている意味が、芭月の生きる意味? よく、分からない。私は、誰にも必要とされていなかったのに…。

 考え込んで下を向いていた視線を上に向けると、顔から首筋にかけて、よく見れば湯気が見えそうなほど、芭月の肌が赤くなっていた。

「芭月…?」

「あ、いや、ね! あの〜、……っはぁ。やっぱだめだぁ〜、あははっ」

 顔を赤くしたまま、降参と言いたげに両手を上げて恥ずかしそうに笑い始めた。ひとしきり笑った後、笑い疲れた様子で私の方にこつんと、頭を乗せてきた。

「えっと…っふ、ふふっ」

 少し戸惑ってどうしようか悩んでいたが、芭月が頭を擦ってきて、彼女の短い髪の毛が首筋に当たって、くすぐったくて笑ってしまった。

 あまりにくすぐったいので、笑いを少しこらえながら芭月に視線を向けた。少し意地悪な目をした芭月と視線が交差する。

「くらえ〜!」

「ひゃっ、ちょっと芭月!? ふっ、ぁは…ひ、っくすぐったいよぉ〜」

 ずっと楽しそうに頭をこすり続けてくる芭月から、逃げたかったけれど今身を引いたら芭月がそのまま前に倒れるような気がして、離れるのを躊躇した。

 ただ、沈んでいて、空っぽで、満たされることがないと思っていた心は、いつの間にか、浮き上がってあたたかいもので満たされているような感覚があった。

 首筋から頬にかけてずっと血液が勢いよく登っているような感覚もあるが…。

 ずっとこすられ続けて、だんだん首筋の感覚がおかしくなってくる。首筋に熱が集まって、体中が熱くなっている気もする。

 そろそろ、やばいかもしれない。

 そう思い、そっと芭月の肩を軽く叩くとタイミングよく飽きてくれたのか、楽しそうな様子で離れてくれた。

「とーにーかーくっ! これからずーっと一緒だよ!」

 にこっと歯を見せて楽しそうに芭月は笑った。

 たった一人の存在のお陰で、私はまだ生きていられる。でも、まだ私はこのまま生きていようとか、自分を大事に、とかは考えられない。けれど、芭月がいるならどこにでも行けるような気がした。

 そう、例えばフェンスのすぐ向こう側、とか。

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